ロゴス・ミニストリー主催イスラエル旅行(暫定見積もり)

記事「ロゴス・ミニストリー主催イスラエル旅行」の続きです。先ほど関係者の方々に送信したメールの一部をここにも掲載いたします。興味のある方はぜひご連絡ください。(当記事への投稿も可能です。)

続けて、先日お知らせした「イスラエル旅行」の企画について、その進捗状況をお知らせします。 改めて、イスラエル旅行を企画している経緯をお分かちします。これまで三度、アメリカの団体が企画したイスラエル旅行を経験しています。

イスラエル旅行記 

そこで心に強く思わされていることがあり、祈りの中で暖めていました。旅行記を読んでいただければお分かりになりますが、内容の密度がかなり濃いものです。後世に建てられたカトリック等の教会巡りをするのではなく、イスラエルの地を舐めるようにして巡り、その地形と聖書時代の歴史、そして現代イスラエルにある聖書的意義にまで突っ込んだ旅行でした。こうした類のものは、アメリカ等の英語圏では当たり前のように提供されていますが、日本ではごく少ないことに気づきました。そして、観光以上の「研修旅行」に近いものを日本語で提供できないものかと強く願っていました。

私の知人で、キリスト教関連の旅行社に勤めていた方からの紹介で、在イスラエルの日本人ガイドさんの存在を知りました。その知人が知っている日本人ガイドの中で、イスラエルの地やユダヤ文化のことを彼女ほど詳しく知っている人はいないとのことです。その方が属している現地旅行社を通して旅行を企画しています。参加者には旅行前からしっかりと聖書を始めとする前勉強をしていただき、旅行中も夕食後に復習・予習時間を設けたいと思っています。さらに御心であれば、イスラエルで福音の働きをしている友人・知人を招いて証しをしていただくことも念頭に入れています。

日本側の窓口には、教会の聖地旅行を企画している熟練の旅行社の方と交渉しています。こうした意図と目的をもって、旅行の企画を進めています。そして具体的な暫定見積もりが出ましたので、お知らせします。

「ロゴス・ミニストリー 2013年イスラエル旅行」
日程: 2013年2月19-3月1日
    大韓航空利用(主に成田空港・関西空港から出発)
旅程: 下を参照

15名の場合: 338,000円
20名の場合: 318,000円
25名の場合: 308,000円
一人部屋追加料金:69000円
(海外在住の方は現地集合も可です。ここから10万円程度差し引いた料金になります。)

1) 料金に含まれるもの
航空運賃、バス等の乗り物料金、ホテル代、入場料、全食事、ガイドとバス運転手に対するチップ
2) 料金に含まれないもの
 ①燃油税等 約55,000円(2012年1月現在)
 ②海外旅行障害保険(加入者のみ)
3) ホテルは四つ星

以上はあくまでも暫定的な料金です。旅行社の方から「これ以上、料金が上がることはないと思う。」と言われています。ここから料金を減らすには、1)ホテルのランクを下げる、2)昼食や夕食の一部を含めない、等が考えられますので、その方向で進めていきたいと思っています。また、大きく値段を下げるもう一つの方法は、「航空会社に、具体的に旅行する人の名前を入れて前もって予約を入れる」ことです。そうすると、安く団体予約が確保できるのだそうです。

それで、お祈りとお願いがあります。まず、ぜひお祈りください。昨日も自分の教会の仲間には、「今、たとえ仕事や経済的理由で行けない状況があっても、行きたいという願いがあるならば祈ってみてください。」と勧めました。イスラエル旅行には、ある程度の決心が必要になります。表面的な状況の変化や日本の忙しい仕事状況があっても、そうした人間的な障壁を超えた所にある主からの促しと導きが必要です。

もう一つは、「料金を見計らって、それから申し込もう」と思っていただきたくない、ということです。普通はそうするのでしょうが、初めから前もって行くと決めている人が多ければ多いほど、航空運賃、ホテル代等で、値段が安くなっていきます。そして上の見積もりでもお分かりのように、人数が多ければそれだけ、ガイドとバス運転手への一定額のチップを、多人数で分担できるようになります。けれども25名以上になると、それほど値段は下がることはない、とのことです。私も25名程度が理想だと思っています。

それで、現時点で行くことを決めておられる方はぜひ、なるべく早く私のほうにお伝えいただければ幸いです。もちろん正式な申込は後になりますが、その分具体的に旅行を企画しやすくなります。

牧師や教会奉仕者の方には、改めて別途にメールを差し上げます。そしてご連絡も個別に差し上げたいと願っています。教会が合同で旅行する、また教会としてでなくとも、教会の方々にこの旅行を薦めていただければ幸いと存じております。

以上です、何卒よろしくお願いいたします。
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聖地イスラエル 11日間の旅 日程表

2月19日(火)
成田(関西)空港 韓国仁川国際空港 テルアビブ空港到着 【テルアビブ泊】

2月20日(水)
テルアビブ、カイザリヤ、メギド、カルメル山、ナザレ等 【ティベリヤ泊】

2月21日(木)
ガリラヤ湖遊覧、クルシ、ベツサイダ、カペナウム、コラジン、タブカ、イエスの舟博物館など 【ティベリヤ泊】

2月22日(金)
ゴラン高原、ベンダル山、ピリポ・カイザリヤ、テル・ダンなど 【ティベリヤ泊】

2月23日(土)
ハロデの泉、ベテ・シャン、エン・ゲディ、クムラン、マサダ等 【死海泊】

2月24日(日)
死海、ティムナ(荒野の幕屋)、エイラット(紅海)、ネゲブ砂漠 【ベエル・シェバ泊】

2月25日(月)
ベエル・シェバ、シェフェラ(ラキシュ、ベテ・シェメシュ、エラの谷)等 【エルサレム泊】

2月26日(火)
オリーブ山、ゲッセマネの園、城壁周囲、神殿の丘、ベテスダの池、ヴィア・ドロローサ、聖墳墓教会、園の墓など 【エルサレム泊】

2月27日(水)
旧市街ユダヤ人地区(嘆きの壁、西壁トンネル、南壁考古学博物館、カルド、神殿再建協会など) 【エルサレム泊】

2月28日(木)
ベツレヘム、ダビデの町、イスラエル博物館、ヤド・バシェム等
テルアビブ空港 【機中泊】

3月1日(金)
仁川国際空港 → 日本各地の空港着

バレンタインなので夫婦で中華料理食べます

またもや、過激というか、訳の分からない題名を付けてしまいました。昨日はすばらしい礼拝を持つことができました。いつも、LCFを自分の教会だと思っている兄弟姉妹がみな集まった、という感じです。礼拝を始めたのが去年の二月初め、主に感謝しています。

昨日のメッセージ民数記26-31章(原稿音声)の中で、30章の中に「女性が誓いを立てること」について書いてあるところがありました。古い世代もシナイ山から旅を始める直前に主が、夫婦関係について教えられ(5章)、ここでも新しい世代が約束の地に入る直前に教えられています。それだけイスラエル共同体について、男女関係や夫婦関係が土台になっているということ。イスラエルの国の存亡に関わる事柄と言っても過言ではありません。キリスト教会においては、夫と妻はまさにキリストと教会を表す、神がこの世に立てられた制度。これほど神聖なものはありません。

その男女関係が、何だか訳の分からない「恋愛」と称するもので埋もれている世間を見ますと実に嘆かわしいという、ちょっと過激な発言をしてしまいました。

明日バレンタインなのですが、私は日本のバレンタインの習慣が好きではありません。女の人がチョコレートを男の人にあげる?義理まであって、実に煩わしいのではないでしょうか?そしてホワイトデーを作り、韓国では両日に外れてしまった人のためのブラックデーまで存在するとか。アメリカにおいては、結婚前だけでなく、むしろ夫婦が互いの愛を確認するために時間を取って、レストランに行ったりプレゼントを買ったりするのが習慣です。教会でもこの時期に、夫婦のための集会が持たれたりします。

私たちはアメリカ型バレンタインの方が好きで、そしてちょっと高級な中華料理を結婚記念日にも食べたので、今回もランチメニューですが中華にしようということになりました。

元々のバレンタイン、これはローマ皇帝が兵士に対して士気が下がらないようにという目的で結婚を禁じていたけれども、聖バレンタインがそれでも兵士のために結婚式を執り行ったところ、処刑されたというものです。神が立てられた結婚の重要性を知っていたために、殉教したというのが由来です。

以前、来日して好評を博した”I Kissed Dating Goodbye”(僕はデートにさよならのキスをした)の著者が、次のような内容を述べているそうです。

ジョシュアがデートをやめた理由には、他に以下のものがある。

 ・肉体的な関係と愛とを勘違いする
 ・デートに夢中の二人は、自分たち以外の人間関係を大切にしない
 ・将来への備えから心がそれ、今の楽しみに夢中になる
 ・相手を正しく評価できない不自然な状況を作り出す
 ・結婚ではなく、恋愛そのものが目的となりやすい

 では、結婚に備えるには、何が必要なのか? 創世記24章に出てくるリベカが一つの模範だ。彼女はラクダに水を与えるという目の前の責任を忠実に果たしていたので、神が与えようとしていた特別な選びに応じることができた。
 現代の若者にとって「水を与えるべきラクダ」とは何か? それは家族同士の親密なコミュニケーションであり、神との交わりであり、貯金や献金の実践であり、弟妹の面倒を見ることであり、教会での奉仕、家の買い物、献立作り、炊事、洗濯などの家事を、親に教えられながらやってみることだ。
 結婚を真剣に目指す、きよい交わりを「コートシップ」と呼ぶ。著者が自分の信念通り安易な恋愛関係を断ち切ってから5年目に、今の奥さんシャノンと出会い、愛を確かめて結婚した。
http://www.ffj.gr.jp/new/bookspdf/renai.pdfから引用)

すばらしいコメントです。どうか恋愛を第一に求めて大切な人生を無駄にしないでください!(ちなみに、この著書は「聖書が教える恋愛講座」の邦訳で出版されていますし、日本でのご本人による講座をCGNTVでビデオで鑑賞することもできます。)

その他、聖書と恋愛について良いサイトを紹介します。

ブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」の「聖書的恋愛論」のカテゴリー

Mark & Maki with Jesus(国際結婚の夫婦のブログ)

LCFの活動予定(2月11,12日)

次回の教会の活動場所のお知らせです。

2月11日(土)場所: 足立区こども家庭支援センター別館3階
 14:00 聖書の学び(使徒の働き22章)
 16:00 祈り会

2月12日(日)場所: 足立区こども家庭支援センター別館3階
 11:00 午前礼拝 民数記27章1-11節 「女たちの相続地」
 14:00 午後礼拝 民数記26-31章

明日、明後日は同じ場所になります。
まだいらっしゃったことのない方もぜひいらしてください!

男よ、お前が悪いのだよ! その2

その1からの続き)

では解決への道は何でしょうか?フェミニズムのように、女性を社会構造的な弱者として見て、その構造を変革することが必要なのでしょうか?もちろん制度上の精力的な変革の努力は必要でしょう、けれども福音信仰に立つ者は、それが根本解決ではないことを知っています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1-5)

終わりの日の困難さは、第一に「自分を愛する」ところから出てきます。自己愛、これこそが問題の根源です。自分の上に権威がないのです。自分が一番であり、自分が神なのです。そして現代は他の社会的規範などで抑えられていた権威が取り除かれ、自我が制御されることなく漏出することによって、諸問題が噴出しているのです。

私はダビデが大好きです。ヨナタンがなぜダビデを愛していたのかがよく分かります。その反面、サウルが嫌いです。いや、サウルに自分の醜さを見る、と言ったら良いでしょう。彼はまさに、今の言葉で言えば「パワー・ハラスメント」の男でした。彼は元々おとなしい人でした。臆病でさえありました。けれども一度、権力の座につくとたちまち高慢になりました。最後まで自分の非を認めることができませんでした。言い訳を言い続けました。認めたようにふるまってもすぐに態度を翻しました。そして、自分が認められていないと被害意識を抱きながら、祭司を虐殺するという攻撃性を表しました。

それに対してダビデは真の男です。ダビデが息子ソロモンに、「強く、男らしくありなさい。(2列王2:2)」と言いましたが、男らしい、とはどういうことでしょうか?彼は知っていました。彼も自分の権力によって、姦淫の罪を犯した女の夫を殺すという重罪を犯しました。けれども、彼はこう告白したのです。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:4)」

サウルが神の前に出ると言う経験がなかったのと対照的に、ダビデは初めから神との交わりが中心となった生活を送っていました。そして自分が犯した過ちも神の前で告白しました。神の前に崩れ落ち、泣き悲しみ、悔いる心、この砕かれた魂こそが、男らしいのです。サウルはそれが最後までできませんでしたが、ダビデは行なったのです。神の裁きを甘んじて受け、けれどもその裁きよりもさらに根源にある神の憐れみを信じて、神の前に出ました。責任をただ自分にあることを認め、自分が子供のように小さくなりました。

このように自分の弱さを認めるのです。弱さと罪を認めることは、ものすごい勇気の要ることです。その勇気こそが、「万物をあなたに支配させる」という意図で神が創造された、その全責任を自らが担うという人間本来の姿、または男本来の姿に回帰することなのです。ダビデも、罪を告白した後の姿は弱くなりました。その家に、彼がかつて犯した罪(姦淫と殺人)が蔓延しました。全然格好良くありません。でも、これこそが神の前では格好良いのです。自分が弱くなること、これこそがキリストの恵みが完全に現れ、その力が働く時です。

他人のせいにしない。そして果敢に神の前に出て行き、自分の心をすべて明け渡し、泣きじゃくってもいいから祈る。そして神によって心を柔らかにしていただく。その柔和さで、弱い人の弱さを担います。

そして友が必要です。先の性暴力事件の加害者が属していた教団の検証を読みますと、教団に対する批判的な態度、主任牧師に従えない、自分のしていることには誰も干渉させない、というような問題がずっと前からあったようです。神学校時代や信徒の時代からの友がいることが大切、という話も書かれています。

特に牧師として生涯を全うするためには、「△△教会の○○牧師」といった付加価値抜きの、素の自分を見せられる相手、一人の人として自分を見、意見してくれる存在が不可欠である。できることなら、こうした肩書や、成果を求められる状況が生じる以前、信徒、修養生時代にそのような相手を得られることが望ましい。と同時に、継続した訓練が必要である。

ですから男たちに問いたい、「あなたに友はいますか?」私自身も恐れるのは、交わりを失うことです。他者や自分の属しているグループなどに問題を感じたとしても、その関係を断つことは致命的であると考えています。そんな批判ができるほど自分が優っているのか?という、自己のうぬぼれに対する警戒も必要です。「交わる」ことは、直、へりくだりにつながります。

記事の題名は、実はフェミニストの人が書いた性暴力についての本「あなたが悪いのではない」をもじったものです。女の人が、自分が悪いと思ってしまうことについて「そうではないのだよ」と断言している言葉でしょう。けれども私はさらに一歩踏み込んで聖書的立場から、「男よ、お前が悪いのだ」という見解で書かせていただきました。

男よ、お前が悪いのだよ! その1

ものすごく過激に聞こえる題名ですが、今横たわっている虐待にまつわる問題のことを考える時、また結婚などの男女関係にかかわる問題を考える時に、結論はこれだと思いました。これから、この女性と男性の間にある支配関係のことを書いてみたいと思います。これまで、家庭内暴力や性暴力、そして何と教会の牧師がそのような犯罪に加担しているというニュースも見聞きして、その中で深く考えさせられることは、男と女の違いであります。

あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」これが、エバが蛇に惑わされたために神から受けた呪いの一つです。女性は、相手に拠り頼み、信頼を寄せることに全神経を使いますが、その女の依頼を男が自らの支配欲によって利用するという醜い関係が描かれています。

家庭内暴力の問題を抱えている方が自分の悩みを打ち明けてくださったり、または人づてで話を聞いたことがありますが、どちらも「自分が耐え忍べば、夫は変わってくれるかもしれない。」という期待をかける場合でした。私がいつも思うことは、「本当に相手を愛しているのであれば、警察に彼を連れ出さなければいけない。」ということです。彼が自分のしていることの結果を刈り取ることによって、彼が改悛する可能性が出てくる、と私は思っています。けれども、その点が女性の理解しにくいところであり、どうしても自分に原因があると思ってしまうのです。

男というものを考えてみましょう。聖書の言葉を、フェミニズム(女性同権論者)の人も封建的な人も、いやクリスチャン自身も曲解していることがありますが、それは「男は女のかしらである」という言葉です。このことによって、女は男に従わなければいけない、という従属関係を教えていると話します。また男はこれを梃子にして「女が自分に従っていない」と嘆きます。とんでもない話です。この「かしら」というのは、女が男に従うということ以上に「男が女のことについて全責任を負う」という、人間的に乱暴に言えば、ものすごく男に不利な(?)宣言であります。

アダムが罪を犯しました。エバが罪を犯した、とは聖書には書かれていません。蛇に惑わされた、とだけ書いてあります。もちろんエバも人間として罪を犯したのですが、神は人の救済史において、アダムが神の声を直接聞き、そしてそれに反することを行なったので、彼によって全世界に罪が入った、としています。これが「かしら」の始まりであり、男女において男は第一に責任を取らなければいけない、という意味です。

そして、第二のアダムとなられたキリストは、ご自分がすべての人の罪をご自分になすりつけるということを行われたことによって、信じる者たちに対する「かしら」となられたのです。男はこの方にあって初めて、女に対するかしらの務めを果たすことができます。

現代になって、「男たちに男らしさがなくなってきた」と言われるようになりましたが、それと共に男が女性を精神的・物理的に蹂躙する事件が増えています。(母親が幼児虐待する事件も増えていますが、それも結論から話しますと問題の根っこは同じです。)これは一見矛盾しているようで、実は一つなのです。男が、勇気を出して神の前でへりくだることができなくなっているので、その責任のなすりつけを女や他の弱いと見える人に対して、暴力やその他の攻撃性を示すことによって表現しています。

こちらのブログ記事で、牧師による性暴力の事件が取り扱われていますが、その被害者女性(自殺によって他界)の母親が実名を出して小冊子を出しています。インターネット上でもその概略をご本人が書いたものが掲載されています。その一部を引用します。

- 性暴力の加害者はあくまでも、力や地位や権力や脅しを利用できる状況をしっかり「選択」し、容易周到に準備していることがほとんどです。「性欲」による「反応」が加害であるとは言えません。
- 加害者が利用できる状況をしっかり「選択」し、用意周到な準備をして被害者に接触することがほとんどです。宮本の知る限りでは宗教界での事件の多くが加害者は高度なテクニックを使います。
- 性暴力加害者に共通するのは「自身の弱さ」です。弱いからこそ、持った「地位、権力」を確認するために、あるいは持っている以上の力を誇示しようとするために、自分より弱い者を被害者にする、あるいは、自身の男としての力「こうあるべきとの思い込み」の確認もあります。
- 力関係の中での性的行為で、自分が絶対的な力を持っている場合、その行為は、他のセックスよりもより刺激的になります。(妻や特定の女性がいても同じです) 加害者はエスカレートしていきます。何度もくり返したくなる最も強い誘因は、セックスの刺激と力を感じることであり、一度これを手に入れると、やめられなくなります。

ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。

ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。

その2に続く)

改めて放射線情報

もう、いろいろな方が原発事故に伴う放射能漏れ事故についてたくさんの情報を集めておられると思います。アメリカでは友人の方からたくさん「日本で放射能汚染はどうなっているのか」という質問、またこの前の日曜日は除染奉仕活動に行く誘いを受けたけれども、状況はどうだと思うか、という質問を受けました。

なので、私自身が依拠していた情報源をここに分かち合わせていただきます。

東大・中川氏 正しい放射線・放射能・被ばくに関する対応とは

上の講演ビデオは、とても分かりやすく説明してくださっておりますので、改めて知識を整理したいという方は有用だと思います。

ちなみに私は去年3月末から、この教授が導いている放射線チームのブログを読んでいました。

http://tnakagawa.exblog.jp/

講演の中では、ご自身が放射線による癌治療の臨床経験を通して、また日本人の癌発生率が二人に一人という現実の中で「人は死ぬものである」という意識がとても強いことを分かち合っておられます。けれども、どこかで、隣の二人が見つめ合ったとしたら「癌になるのは相手で自分ではない」という、「ゼロリスク社会」という意識があることを指摘しておられます。クリスチャンではないと思いますが、日本人の死生観や命への姿勢に触れる部分であることを話しておられます。

以上です、参考情報としてここに掲載しておきます。

クリスチャンの政治家

先ほど明日の恵比寿バイブルスタディの学びの準備が終わり、ちょっとネットサーフィンで遊んでいました。フェイスブックで「柴橋正直」という民主党議員の方がリンクされていたので、思わず彼のブログを熟読してしまいました。プロテスタントの教会の牧師の息子さんで、そして彼の政治姿勢には非常に共感できるものが数多く、その考えの背後に聖書的価値観が横たわっていることが明言されています。例えば・・・、

TPPに関連して、世界統一の流れは反キリストであると明言

パレスチナ問題について、「パレスチナ問題について、領土問題は当事者同士の話し合いで決めること、エルサレムをパレスチナの首都と認めることは聖書に反すること、イスラエルの安全保障を確保し、イスラエルを孤立化させないことを、総理に提言しました。パレスチナ問題は、旧約聖書の時代から流れている全世界史的課題であり、背景をおさえた上で、欧米や中東諸国と国連で協議してほしいとの思いです。」・・・すごい!

聖書の観点から不信任案を斬る」という題名で、姦淫の現場で捕えられた女の話を取り出し、「東日本大震災を前にして、神の前にも人の前にも100点満点の議員がいるでしょうか?」とのこと。

その他、聖書に関するコメントが多数あり、実際の国会の審議においても質疑において聖書に基づいた個人的信条を語っておられます。(ビデオ

しかし、非常に気になることがありました。神社などの習俗行事に積極的に参加し、実際の儀式にも関わっている記事がかなり多くあったことです。

政治家と宗教行事

実は日本の政治界(実は経済界にも)には、カトリックを含むキリスト教徒は多くいると言われています。「小さな命を守る会」のブログ記事の「この方もクリスチャン」には有名人でクリスチャンだと言われている人たちが登場しますが、保守政党にも革新政党にも議員は結構いますし、実は首相を務めた方にもキリスト教徒は何人かいます。

ここから私が思うことを書きたいと思います。

第一に、この世におけるキリスト者の働きを見るときに、単にその人がクリスチャンだからと言って無条件に支持をしたり、援助すべきではない、ということです。政治家に限らずあらゆる職業にいえることですが、「クリスチャン」だということで「暗黙の甘え」が生じる傾向をこれまで見てきました。

例えば、教会運営のラジオ番組のコマーシャルで聞いた不動産屋さんにお世話になったら騙された、という話を聞きました。私はその人にこう答えました。「世においてきちんとした経営ができないから、クリスチャン相手に行なうのは本末転倒。世における厳しい環境においても、なおのこと実績を持っていることが世の光となる。だから私は、クリスチャンの会社だからという理由でお願いすることはない。未信者でもプロ意識をもってしっかり業務をこなす不動産にお願いしている。」

そして第二に、政治などでその信条や思想はある程度、信仰とは切り離すべきであると私は考えています。同じキリスト者であっても保守と革新がいますし、私は聖書が明言していない事柄については多様な意見があって当然であると考えています。そして、その領域において意見を対立させても、それはキリスト者の分裂であるとか裁き合うという罪にはならないと思っています。むしろ、個々が主にある堅い礼拝と信仰を守っているならば、アウグスチヌスが「神を愛し、そして自分の願うように行ないなさい」と言ったように、恣意的に聖書的世界観を構築しなくても、自然な形でキリストの香りが放たれると信じています。

ですから、あるブログで「日本では保守系政治家とキリスト者は相容れない」と書いていましたが、それはとんでもない話で、自分の政治信条と信仰基準を同列においている僭越的発言だと思っています。

しかし第三に、信仰に関する事柄が直接、政治の領域に触れることがあります。例えば、先に挙げたパレスチナ問題は、単に政治信条に留まらず、個々の信仰者の聖書理解、その神学の深みに関わる問題です。この部分において意見を異にする政治家、経済人、企業家、教育者、その他の職業人がいるならば、それは懸念事項になり、その人を支持するかどうかを決める重要な要素になります。

神社は公式行事なのか?

私がいつも残念に思うのは、「信条や思想」と「信仰」の区別が明白になっていないために、一つの政治信条をクリスチャンはもてないという空気を教会やキリスト教界で造り上げてしまうことです。例えば、改憲がいかにキリスト者として悪しきことか、という空気を作り上げて果たして良いのでしょうか?聖書に軍隊放棄が明確に書かれていることなのでしょうか?そして、自衛隊など国防に関わっている人がそのような意見を聞いたときに、心を痛めるのでは?という余裕は持たないのでしょうか?私たちはキリストのゆえに、自分の信条に思っていることさえ横に置くことを命じられています。

しかし、政治家に関わらず「神道などの宗教行事に公の人が関わる」ということが、革新的な考えを持っている人が「政教分離違反」として批判する前に、キリスト者としていかがなものか?ということを真剣に考えなければいけないと思います。

聖書はこの領域において、具体的に立ち入った模範を置いています。ダニエルとその友人三人です。彼らは公人でした。友人三人は、権力集中のためにネブカデネザルが造り上げた金の像を拝むことを拒みました。ダニエル自身は、メディヤの王ダリヨス以外に祈願する者は獅子の穴に投げ込まれるという勅令を知りながら、いつもと同じようにエルサレムに向かっている窓を開けて、感謝をささげ、願いを立てていました。

彼らが異教の国バビロンやメディヤで、反抗的な態度を取っていたかというとその正反対であり、極めて忠実な僕であり、非の打ち所がないほどだったことが知られています。単に「政教分離」の問題で反対運動することがキリスト者の態度では決してなく、むしろ指導者に対して敬意を払い、あらゆる事柄で指導者を支えていたのです。

けれども、自らの信仰と公の部分が触れる時が来ます。その時は信仰の良心を優先させます。そしてダニエル書には偶像礼拝との関わりが述べられており、日本の伝統や文化を守るという題目で神道的・仏教的儀式に関わることがいかに深刻な問題であるかはぜひ考えていただきたいものです。

私はこのことで正直悩んでいます。なぜこうも妥協してしまう公人が多いのだろう?ということで悩みます。かつてブッシュ大統領が明治神宮参拝をした時に、私は国務省やアメリカ大使館に懸念表明の手紙を書いてくれとアメリカのクリスチャンに要請したところ、逆に批判をする人々がいました。しかしその後にどんどん明らかになってきたのは、ブッシュ大統領は「イスラム教も、キリスト教も同じ神を礼拝している。」「私は聖書を文字通り信じている者ではない。」というような発言が出てきて、彼はマスコミや日本のキリスト教会で信じられてきたような「原理主義キリスト教徒(?)」とはかけ離れていた信仰を持っていたことが明らかにされています。

その時にこうした行為を正当化するために、見事に同じ箇所を引用するのですが、ナアマンが回心した後にエリシャに尋ねた言葉です。

主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。(2列王記5:18)

興味深いのは、エリシャはそれを認めた訳ではないことです。ただ「安心して行きなさい。」と言ったのみです。そして彼の主君のアラムの王は家臣ハザエルによって殺されているのです(2列王8章)。つまり、その儀式に関わらなくてもよい状況を主が備えてくださった、という見方のほうが可能性としては大きいのです。(信仰を持ったばかりのナアマンのことを取り上げてキリスト者政治家の異教儀式への参加を正当化すること自体、私はけしからんと思いますが。)
 
公の空間に働いている圧力というのは、私の想像を超えてはるかに大きいのだと思います。ですから、私もその人々を強く指差せば、姦淫の現場の女を裁こうとしたパリサイ派の人たちと同じ過ちを犯すことになります。といっても、同時に軽々しい妥協は、神社参拝などの儀式にキリスト者としての良心のゆえに投獄された、また殉教したという過去のキリスト者が流した血を踏みにじる行為であり、決して看過できぬことであります。

参考記事:
何を予期すべきか?」(美濃ミッション事件:子弟の神社参拝拒否が全国紙の一面で取り上げられ、一般人による排撃運動に発展しました。)
靖国神社参拝について その3」(ホーリネス弾圧事件を取り扱っています。)
このくにで主に従う」(「日本的なもの」と「キリストの福音」の衝突を詳述する良書)

この頃、「神道」が「宗教」ではなく「文化や伝統」という中に押し込められていくこと、さらには「キリスト教が源流」という“埋没”へと向かっていく流れを、私は不気味に感じ取っています。福音の真理に妥協しない覚悟が必要です。

jesusnetjapan

先ほど、すばらしい福音宣教サイトを見つけました。

KnowingGod.jp

非常にシンプルかつ、はっきりと福音を伝えています。イエス様だけを伝えているのが良いですね。そして同じ運営者が作成した震災に関連する希望のメッセージのサイトも充実しています。

HopeForLiving.net

そのどちらのサイトにも登場する、資生堂キャンペーンモデルだったヨハンナさんの証しが心に沁みました。一度お会いしたことがあるのですが、彼女自身についてはあまり知らなかったのですが、「こういう証しを持っていたのだ」と関心しました。

Ioanna Sillavan – A Story of Hope (modeling) from Gottkennen.ch on Vimeo.

モデルというのは自分の身体そのものが「商品」であり、自分を取り囲む有名で影響力のある人々にある空しさを感じたという内容の部分を聞いて、次の黙示録18章の箇所を思い出しました。

商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのち(直訳=肉体)です。(12-13節)」
ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(23節)」

人の身体でさえ商品とさせる世界、そしてそれはビジネスの中で作られた世界であり、そうした商業主義は実体がないものに実体があるように見せかける「魔術」であると思ったのです。

この二つのサイトを運営している人のブログがこちらです。

jesusnetjapan

WhyJesus.netというサイトの準備もしているそうで、求道者に歴史上のイエスを質問に答える形で説明していくようにしていくものだそうです。楽しみです。

「イスラエル建国の歴史物語」

昨夜と今日一日で、次の書物を完読しました。

「イスラエル建国の歴史物語」河合一充著 ミルトス社出版

ブログ記事「初めから物語る歴史 その5」で参照図書にしていましたが、実はまだ読んでいませんでした。ハーベストタイムに連載されている「イスラエル建国史」の紹介で、人物像に焦点を当てている本ということで推薦していたので、これは専門的、無味乾燥になりがちなイスラエルの近代史を知るには、良書かもしれないと思いました。そしていま読み終えて「その通りだった」と確認しました。

内容は、私個人は「イスラエル全史」に多くが既出でしたが、やはり平易な文体で各章が短くまとめられているので心に残ると思います。そして著者の見方の特徴は、シオン帰還運動を神の一代叙詩(詩篇121)と捉えていることです。これは、信仰者にとって益になることだと思います。

個人的に気に入ったのは、シオニズム運動におけるキリスト者の働きに一章が割かれていることです。当時は米国ではなく英国の中で存在していました。そして、リクード党の初の首相になったベギン氏の歴史的再評価はすばらしかったです。(彼は先の投稿の、バビロン作戦を指示・決定した時の首相でもあります。)歴史というのは、その国の権力者の目で捉えられていることを踏まえて、テロリストであるかのように見られているイルグンの活動にも、新鮮な視点を与えてくれています。その反面、一般的なイスラエル建国史の中心人物であるベングリオン初代首相が中心になっていないことが面白いのですが、やはり彼が中心であったことは他の書物によって補完すべきでしょう。

さらに最期に補足として「ある過激アラブ民族主義者の生涯 ――ハジ・アミン・アル・フセイニーについて」という章を追記しています。これは、誤った中東近代史が常識化している今、必ず知らなければいけない人物でしょう。確かにアラブ人の中に、大量のユダヤ人の帰還民流入によって反感は出てきましたが、彼が扇動して対立を造り上げたと言ってよいでしょう。彼は亡命先でもナチスと手を組んでユダヤ人撲滅の運動を展開していました。その甥が、あのヤセル・アラファトであることも付記されています。

今だから考えたい「バビロン作戦」

イランの核兵器製造疑惑に関して、イスラエルのイラン先制攻撃が日増しに現実味を帯びています。米国防長官が「今年春に攻撃をするであろう、なぜなら核施設をイランが地下に埋めるなら、もはや攻撃不可能になるから、というイスラエルの見解があるからだ。」という旨のことを話しました。そしてイランは、最高指導者も大統領もイスラエルと同盟国を残滅する説教や演説をこれまでになく激しく行っています。

こうしたニュースは決して真新しいものではなく、イランの核兵器開発は1990年代からイスラエル指導層でも懸念材料になってきたものであり、長く続いてきたものです。現在進行中のイスラエルとイランにおける攻防戦は実際は水面下で行なわれており、断片的な情報しか浮上してきませんが、この時期に、私たちはかなり多くのことが公開されている歴史から多くを学ぶことができます。イスラエルは過去に二度、原子炉爆破を行なっています。

一つはイラクの原子炉を空軍機によって爆破させた「バビロン作戦」であり、もう一つはシリアの原子力施設爆破であります。前者は、世界からの非難を大いに浴びたと同時に、イスラエルとアメリカの軍事同盟をかえって生み出し、自衛のための大量破壊兵器に対する先制攻撃するという、イラク戦争において話題となった考えがこの時から始まりました。イスラエルは、ホロコーストという前代未聞の虐殺を経験している分、その安全保障に対する執念は世界の第一人者となっています。

概略としてはウィキペディアが良いでしょう。「イラク原子炉爆撃事件

そして、かつてNHKが特集を組んでいます。かなり良質で、しっかりとした作りになっています。

NHKハイビジョン特集「オシラク・オプション~イスラエル イラク原子炉攻撃の全貌~」

そして、図書館の返却期限が来てしまって途中までしか読んでいない本がありますが、おそらく下がバビロン作戦を包括的に、かつ最も詳細に描いているものだろうと思われます。

イラク原子炉攻撃!ロジャー・クレイア著

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聖書信仰者は、ここから何を知らなければいけないでしょうか?もちろん、「目を覚ましなさい、用心しなさい。」というイエス様の弟子たちに対する言葉です。ユダヤ人は諸国における虐げを受けた後で、神に立ち返り、そしてメシヤが来られるという新旧どちらにも記されている神の約束が近づいていることを証明しています。イスラエルが建国し、そして周辺アラブ諸国が攻撃をし、それでもその国は守られています。しかし、それら中東戦争の中でじわじわとロシアがイスラエルに接近しています。そして今までは何でもない国であったペルシヤが一気に、イスラム革命によって台頭しているという状態です。

アラブの春の中でこれまでの独裁制が崩れていますが、それは自由民主主義を信じている改革派ではなく、むしろイスラム原理主義派が台頭する結果となりました。(アラブではありませんが、イランのイスラム革命がその先駆的存在です。)それら当該国はほとんど全て、聖書の中で神が詳細にこれからの行く末を宣言されている対象です。

そして、昨日、バラムについての学びを礼拝の中で行いましたが、そこで得た最も大きな教訓は、「聖書知識が正確でも、それに応答する主への献身がなければ、人々につまずきを与える偽教師に成り果てる。」ということです。「表向きは敬虔でも、その実を否定する」という、パウロがテモテ第二の手紙で警告したとおりのことが起こります。聖書預言も知識だけなら、私たちは無益どころか有害にさえなりえます。愛をもって応答していくよう、神から召されています。よろしければ、下の聖書講解もお聞きください。

民数記23章10節 「正しい者の死」 原稿 ・ 音声
民数記22-25章 「バラムの迷い」 原稿 ・ 音声