以前、「和平プロセスの真実」という記事で、イスラエル外務副長官のダニー・アヤロン氏による明快で簡潔な説明のビデオを紹介しました。今回は、同氏によるヨルダン川西岸の真実についてのビデオを紹介します。前回と同じく、日本語の字幕が出ます。画面下のCCを押せば日本語(Japanese)を選択することができます。
既に潜行する中東戦争
ジョエル・ローゼンバーク氏のブログ記事の紹介です。
COVERT WAR HEATS UP IN IRAN AND MIDEAST: Will it be enough to neutralize nuclear threat, or will Israel launch preemptive strikes in 2012?
(隠れた戦争がイランと中東で過熱化している。核脅威を無力化するに十分なのか、それともイスラエルが2012年に先制攻撃を始めるのか?)
記事をざっと翻訳しました。
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2012年、本格的な戦争(注:イスラエルの対イラン先制攻撃から始まる本格中東戦争)が中東で起こるかもしれないですが、イラン国内と中東で積極的な「隠れた戦争」は既に戦われている証拠が積みあがっています。その目標は、まさにテヘランの核兵器と弾道ミサイル計画を遅すぎる前に無力化することであります。不可解な爆発が(注:イランの革命防衛隊の基地で)起こっています。イランの科学者が失踪しています。極秘の米国ステレス無人偵察機が使用されており、今や、一機はイランに撃墜を受け、捕獲されています。イスラエルのモサドが、これらの作戦の一つに関わっていることの疑いはほとんどないでしょう。疑問は、CIAや他の西側の諜報機関がどれだけ深く関わっているかです。私の新作の政治スリラー「テヘランの先制(The Tehran Initiative)」の主人公、デービッド・シラジはCIAの諜報員でイラン深部に浸透し、イスラエルが先制攻撃をする前に、イランの核脅威に照準を合わせ、それを中断、妨害しようとします。CIAがそれだけ積極的になっていることを願うばかりですが、ホワイトハウスと国務省が、テヘランの悪の政権に対して宥和政策を追及し続けています。先週上院を百対零で通過した新しいイラン制裁法案を、オバマ政権は骨抜きにさえしているのです。なぜなんでしょうか?そのような行動は愚かで、向こう見ずであり、イスラエルによる第一撃の可能性をさらに高くするこそあれ、低くすることはありません。祈り続けましょう。辛抱強く耐え忍ばねばならぬ一年が、待ち構えているかもしれません。
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そして、多くの記事リンクがありますが、すべて英語なので、ここでは日本語の関連記事を紹介します。
新しいタイプの攻撃「Stuxnet(スタックスネット)」って何だ
そして、昨日は日本が真珠湾攻撃をした日でありアメリカでは記念式典など行われましたが、その教訓からイランの脅威を軽視することは全面戦争への可能性を高めるだけだという主張をしている人は多いです。次期大統領共和党予備選に出馬した一人、リック・サントラム氏はイラン核脅威を的確に把握し、米国の政策に具体的提案をしてきた人して、ジョエル・ローゼンバーグ氏は評価しています。下は、彼が共和党ユダヤ連合(Republican Jewish Coalition)で講演した時の動画です。
All who prayed for us – Thank you!
Anyone who has prayed for Japan “must” watch this video. The tsunami victims would like to express their thanks to you. Please continue to pray they come to know the enternal hope of salvation!
被災者の人々が救援してくださる方々に「ありがとう」という言葉を返しています。ぜひ見てください。そして被災者の方々がイエス様の救いを受け入れることができるよう、お祈りください。
北朝鮮人権侵害問題啓発週間
電車に乗ると、車内での吊り広告に次のようなものがありました。
北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに,国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し,その抑止を図ることを目的として,平成18年6月に、「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」が施行され,国及び地方公共団体の責務等が定められるとともに,毎年12月10日から同月16日までを「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」とすることとされました。
拉致問題は,我が国の喫緊の国民的課題であり,この解決を始めとする北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が,国際社会を挙げて取り組むべき課題とされる中,この問題についての関心と認識を深めていくことが大切です。
ロゴス・ミニストリーのブログにおいて政治的になるのはあまりよくないとは思いますが、私は上の人権意識に対する啓発には、全面的な支持を与えたいと思います。
同じように、クリスマス前の人権週間ということで、ある牧師さんが以下の意見を述べておられます。
北朝鮮による拉致は批判されて当然でしょうが、まるで自国がそのようなことをしたことがないかのような、認識で批判することがあってはならないでしょう。
強制連行の有無とは関係なく、朝鮮半島から来た人々や被差別部落出身者、アイヌ民族などが、炭鉱やトンネル工事等で、奴隷労働を強いられ、死ねばその場に埋められていくような現実があったのです。こうした目を被いたくなるような罪や悪の現実を認めることから、本当の意味での人権尊重や国際交流が始まるのだろうと思います。
http://blog.chiisana.org/?eid=1408134
この方の純粋な思い、過去に悲惨な目に遭い、日本がその加害者だったことに対する悔恨の思いからお書きになったことは、十分に理解できます。けれども、私はそこに「北朝鮮政府による拉致」を、過去の日本が行ったことに当てはめながら語る、その論理に対しては断固として反対します。
日本が確かに、朝鮮半島の多くの人々に対して酷い扱いを過去に行ってきました。けれども、現在の北朝鮮の政権が、朝鮮民族を代表しているのでしょうか?ここが一番問題です。私は、過去に日本が行った過ちがあるからこそ、北朝鮮政権が行っているあらゆる人権侵害行為に強硬に対抗しなければならないと考えます。
北朝鮮の人権侵害は、日本国民のみならず、その国の中にいる北朝鮮の人々を被害者としているのです。そして過去に日本が犯したことについては、私たちはその過去を変えることはできません。けれどもその政権は現在進行形で、かつて日本が行ったこと以上の、言語に絶するおぞましい虐待・虐殺を行っているのです。
かつてユダヤ人に対して行ったナチス、そして自国民に対して行ったスターリンと同じことを、彼らは行っています。
これを傍観していることこそが、まさに無反省の態度であり、消極的にその人権侵害に加担していることに他ならないのです!
日本国民の中には、拉致被害者のみならず「帰国者」がいるのです。それは戦後、北朝鮮に帰国する運動を日本政府が推進し、そしてマスコミは朝日から産経まで、政党は共産党から自民党まで、みながそれを支援しました。その背後には、「日本が戦時中に朝鮮の人々に悪いことをした」という贖罪意識があったことは言うまでもありません。そして、日本において戦後も苦しんでいた在日朝鮮人でありますが、そのキャンペーンによって日本人妻らとともに北朝鮮に移りました。そこで見たのは楽園ではなく地獄だったのです!これが犯罪加担でなくて、何なのでしょうか。
その、「日本が過去に行ったことによって、今の北朝鮮の人権侵害への批判の手を緩める」あらゆる行為に対して、私は、数多く北朝鮮内で苦しみ、死んでいった在日朝鮮人の方々、日本人妻の方々、そしてその子息のことを思って断固として反対します!(参照ページ)
朝鮮民族を代表する機関は、北朝鮮政権や総連だけではありません。韓国政府そして民団があるのです。韓国政府は今でも、昨年起こった延坪島への砲撃にあるように、北朝鮮の冒険主義に対峙しています。民団は当時、かつて帰国事業に孤独の反対運動を展開し、今でも北朝鮮の蛮行に対して闘っています。私は韓国政府や民団の行っていることをすべて支持しているものは決してありませんが、北朝鮮政府が、朝鮮民族全体を決して代表しているのではない、ということをお話しています。
そして北朝鮮政府の犯罪を良く知っている人であれば、北朝鮮の人々とその政権をきちんと区別しています。めぐみさんを待っている横田早紀江さんは、めぐみさんが帰ってくることを祈っていると同時に、北朝鮮の人々のためにも祈っておられるのです。
上のブログ記事の牧師さんは、プロライフ(中絶反対)の活動をされている方です。日本人を拉致した北朝鮮政府が、現在どのようなことを行っているかを読んでいただけたらと思います。拉致をするとき「人を人と思わない」その考えは、胎の中の幼子をも物質にしか思っていない考えと同じなのです。
北韓人権情報センター報告 人権事件レポート 19歳妊娠女性殴打で死亡
ここまで述べましたが、あくまでも私の人権意識と政治的な見方であることを最後に付記いたしたいと思います。私は、総連の方々にもぜひイエス様を知ってほしいと願っている者の一人です。以上のような強い意見や主張を私は持っていますが、それとは関係なく、総連の方々も神に愛され、キリストがその罪のために十字架で死んでくださったことを、お知らせしたいと思います。
恵比寿バイブルスタディのお知らせ(12月7日)
みなさんへ
こんばんは。
次回の学びのお知らせをします。
日時:12月7日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇144-150篇
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。
ついに「詩篇」が完読します!次回から、サムエル記を学ぼうかと思っています。詩篇を書いていたダビデの生涯を具体的に見ていくことができます。
次々回は12日21日ですが、その時は皆で食事をしたいと思います。
仕えるリーダーシップ・カンファレンス
私たちの土曜晩の第一礼拝では、マイケル・スナイダーという宣教師が賛美を導いてくれています。彼は普段はカルバリー所沢で奉仕しているのですが、御茶ノ水まで来てくれています。
今、日本のカルバリーチャペルには、20-30代前半の若い世代の奉仕者がたくさんいます。その多くがカルバリーチャペル聖書学校の沖縄分校で勉強や奉仕をした人たちです。その彼らがカルバリーチャペル府中で「仕えるリーダーシップ・カンファレンス」を開きます。信仰を持っている人で、「教会で仕える」ことについて知りたい人はぜひおいでください。(下の画像をクリックすれば、大きく見ることができます。)
自由主義神学(リベラル)について
このブログ、また教会に来られている兄弟姉妹は、「福音派」という言葉を私の口から聞かれていることでしょう。英語ですとevangelicalであり、「キリストの福音」を聖書に書かれている通り、強く信じている信仰です。
けれども、そのように信じていない人たちもいるというのが、キリスト教の世界全体を見回すとかなりの割合で存在するというのも実情です。先にカトリックについて述べましたが、聖書の最高権威においてかなり違った見方をしています。「教会の伝承の中に聖書がある」という見方です。だから、伝承でマリヤ様が神の母とされているから、聖書ではマリヤが一人の信仰者にすぎないことが書かれていても、彼女を讃えています。
そして、もう一つ「自由主義神学」という言葉も私の口から聞かれたことがあるかもしれません。それは、「聖書に書かれてあることは自分の心の中のこと」で、それが客観的な真理でなくとも良いとする立場です。理性で把握できるものだけを受け入れ、科学において一般に受け入れられているものはそのまま受け入れて、聖書が書かれていることをそのまま信じることはない、とする立場です。
これが実は、「プロテスタントの主流派」と呼ばれている人々の立場です。そして、「聖書に書かれてある全てが神の息吹きによる言葉であり、誤りがない」とする福音派は、「諸派」の中に数えられています。
私は信仰がまだ浅い時に、ウィリアム・バークレーという有名な聖書注解者の第二ペテロの手紙の注解書を読みました。(彼は自由主義神学を全面的に信奉していたわけではありませんが、福音主義でもありませんでした。)そこには、「ペテロが書いた手紙ではなく、紀元二・三世紀の弟子によって書かれた」というようなことが書かれていました。それで何気なく私が教会の兄弟にそれを話すと、彼は黙って「聖書を開いてご覧」と言ってくれました。そこに書いてあるのは、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから(ペテロ第二1:1)」とあります。私は唖然としました。こんな明白なことをどうして私は見逃していたのだろうかと、自分が悔しくなりました。けれども、一度入ってしまったその情報は、聖書を読むたびになかなか離れることがなく、ひどく苦労したのを覚えています。
進化論的な天地創造の解釈、心理学の教会への導入、地獄はないとする考え、キリスト再臨の過小評価、カトリックとの対話など、少しずつ福音派と呼ばれている諸教会の中にもじわじわとその影響が入り込んできています。いろいろな形でやってきます。特に頭の良い人々がいろいろな知識をもって説明するので、「自分は単純だから、まだ知らないことがあるのでは・・・」と悪い意味で内省的になり、それを受け入れてしまう危険があるのです。教えの風(エペソ4:14)や人の哲学(コロサイ2:8)はしばしば吹き荒れますが、カルバリーチャペルから最近出版される本にも、その種類のものが増えています。(例:“New Evangelicalism: The New World Order” by Paul Smith)
次のブログは、自由主義神学の嵐の中で、福音的な聖書信仰を堅持し、教会を牧会しておられる牧師さんによる記事です。特に、上の話で小難しさを感じられた方は、ぜひ一読してください。とても分かり易く説明しておられます。証しなので、文章はかなり長いですが、全部読む価値ありです。
益川敏英氏の「積極的無宗教」
先の「科学はキリスト教を否定する?」の記事で参照した本の一冊が、「 『大発見』の思考法」でした。山中伸弥氏と益川敏英氏の対談です。私の記事の一番下に、お二人が交わした進化論についての話題を引用していますが、どちらも進化論を信じていません。iPS細胞の第一人者である山中氏においては、「そのうち、ダーウィンの進化論は間違いだった、ということになるかもしれない」とまで言い切っています。
他の対談の内容の中でも、科学理論というのは徹底的な批判精神をもって検証するものであって、信じ込んではいけないという姿勢が見られ、やはり科学者のほうが、一般人よりも科学の限界というものを知っているんだな、と感心しました。私も高校時代に、化学の先生が教科書に載っている公式を「こうじゃないかもしれないからね」という紹介をしてくれた時に、科学とは何ぞや、というものを垣間見た気がしました。
けれども、益川氏は興味深いことを話しています。山中氏は生物学を専門にしていますから、「これは神様にしかできない、と思うようなことがたくさんある。」と告白していて、益川氏も呼応して、こう言っています。「医学系の先生の中には、ここ二十年ぐらいの間にクリスチャンになっている方がけっこう多い。子供の頃からクリスチャンというのではなく、五十歳前後になってから洗礼を受けられているんです。(183-184頁)」とのこと。これはすごい!お医者さんの中で小さなリバイバルが起こっているんですね、と思いました。
けれども、益川氏は「積極的無宗教」と自称して、それは「信じない」のではなく、「信じている人をやめさせる」ほうだと仰っておられます。
「神」というのが、自然法則を説明する時によく出てくる。例えば雪の結晶には一つとして同じものがなく、実に不思議だ。」と誰かが言った時に、「神様がお作りになったのだ。」と神様を引き合いに出して説明するのが、いちばん手っ取り早い、とのことです。
こうすれば、とりあえず問題は解決したように見えるけれども、近代科学は、せっかちに答えを求めることなく、「答えがわからなければ、わからないままにしておけ」という態度だ、ということです。山中氏が「一つの理論を証明するには、これ以上疑えないというところまで徹底的に突き詰めて検討するのが科学の常道」と言っている通りで、徹底的な批判精神が大事だということです。
私も、確かに雪の結晶がすべて独特であることについて、科学者に「神がなさったのだ」と言ってもらいたくはありません。(笑)それは信仰者また私のような聖書教師が伝えるべき職分であり、科学者の方には、まだ解明できていない自然法則に果敢に立ち向かってほしいと願います。
けれども益川氏は、「宗教」ことに「キリスト教」の性質について勘違いしておられると思います。ご自身は科学者の職分として、安易に神の帰することをやってはいけないという強い戒めの表れでしょう。けれども、その科学者として生きていくのみが果たして人生の全てなのでしょうか?山中氏は、ご自身の宗教について「苦しい時の神頼みはします。(笑)」とこぼしておられますが、仕事において、また家庭生活において、そして「死後」という、科学では絶対に検証不可能な、けれども百%明らかな「事実」に対して未解答であることこそ、「人間としては不全の状態、宙ぶらりんの状態」とは言えないでしょうか?
日本男にしばしばありがちな、「何ふりかまわず仕事だけやっていて、後は何も残っていない」ということにはならないでしょうか?
そして益川氏は、「宗教は嘘」だとして、その理由は「入信させるという『結果』が宗教において重要視されるのであって、『論理の過程』は必要とされない点で近代科学の考え方に真っ向から反する」と言っています。それで信じさせるためには、いくら嘘をついても良い、と言っています。
実に面白い論理です。けれども、これもキリスト教の性質の勘違いから来ている言葉です。
もし人が小難しい論理なしに、純粋に単純に神に信頼すれば、それにこしたことはありません。けれども神が、人が信じるに値する真実な方であることを示すために、いろいろな事象や論理を提供しています。これは神に対する態度のみならず、対人関係でも同じではないでしょうか?すべての実証を済ませて、ある人に信頼を置くのでしょうか?違いますよね、その人を信じるに至るには、すべての知識がなくても、どこかで信頼するという過程を踏んでいます。まさか、あらゆる人に益田氏は疑い深くなっているわけでもないでしょう。キリスト教は、俗にいう「入信」が目的ではなく、人と同じように人格を持っておられる「神」を知ることが目的です。
そして、嘘があることの例として、創世記5章にあるアダムからノアに至るまでの系図を益田氏は取り上げています。「アダムとイブの子孫の誰々は何百歳まで生きてから子を産んだという記述もあるけれども、それはとうてい信じられないので、人の寿命を百年として計算してみました」と言われていますが、なぜ現代の寿命と昔の寿命が同じだと言う前提に立つのでしょうか?科学者らしからぬ非論理性ですね。昔の環境と今のとでは同じなのでしょうか?もし違っていたら、長寿もあった可能性も十分にあり得るわけです。
そして人類の歴史を計算すると聖書では、「せいぜい六千年かそこらしかならなかった」と言って、「それよりももっと昔から人類がこの世に存在したことは、すでにいろいろな事象により明らかになっている」と言っていますが、そもそも計算を勝手に寿命百年にして勝手に本文を歪めているところに問題があります。自然現象に謎があるからといって、分かり易くするために検証された事実を歪めたら、それは捏造というもので、科学者としては犯罪です。嘘つきは宗教のほうではなく、聖書の謎めいた部分を自分の理解の中で勝手に解釈する方です。
聖書を解釈するときにも、「分からないものは分からない」にしておくという鉄則があります。そして、分からない箇所があっても文脈から、また聖書全体に流れているものから、それが書かれたであろう目的を見出すことができます。そうした聖書釈義という学問があり、それには近代科学に類似しているものがたくさん存在しているのです。下手にキリスト教が人間の歴史の中で存在していたのではありません。前述のように、近代科学の父祖たちは、聖書に立脚したキリスト教の中で、秩序、絶対の真理、一定の法則というものがあるに違いないという信仰によって、数々の発見をしてきたのです。
「科学者とキリスト教」
今、科学とキリスト教、また進化論と聖書の内容について、未信者・求道者向けの文章を書きました。
個人的には悩みながら書きました。私は理系肌では全然なく、できればこの問題は避けたいとの思いがあるのですが、けれども人々が気にしている話題である以上、取り組まなければいけません。それで、何冊かの本を読みましたが、下もその一冊です。
私たちは大抵、近代・現代科学はキリスト教のような宗教とは無関係のもの、いや対立するものと考えていますが、今の自然科学における基本になっている理論が、キリスト教の世界観によって構築されていったことを鮮やかに見ることができます。欧州の科学者にキリスト者が多かったという偶然的なものでは決してなく、むしろキリスト教信仰を支えにして、自然と宇宙の中にある秩序を発見しようという、信仰的情熱に支えられていました。
進化論は救いの教理を否定する
この書物では、途中で進化論を容認するような発言もあります。ご本人はおそらくキリスト教信仰を持っているように見受けられますが。このことについてちょっと論じたいと思います。
確かに、進化論の説くところは伝統的なキリスト教の世界観および人間観とは相容れないものがある。進化論は、『聖書』の記述とも合致しないところが少なくないのである。それでは私たちは、その一方をとって他方を棄てるべきだろうか。そういう気持ちに駆られることもないわけではないが、それは結局、科学への誤解と『聖書』の読み方についての誤解ということになってしまうのではあるまいか。ここでも私たちは、地動説をめぐる『聖書』と科学の問題に対してガリレイがとった態度を見習うべきではないかと思われる。(172頁)
そういって、本書の最初で取り上げたガリレイの述べたことを再び引用して、こう言っています。
『聖書』はもっぱら魂の救いについて教えているのであって、科学や天文学を教えようとしているのではないと述べ、『聖書』が私たちに教えようとしていることは、”how to go to heaven”「どのよいにして天国へ行くか」であって、”how the heavens go”「どのように天が動くか」ではない、と述べたのであるが、私たちもこれにならって、『聖書』と進化論の問題についても、『聖書』が私たちに教えようとしていることは、「人間はどのようにして天国にまで進むか」であって、「人間はどのように進化してきたか」という類の問題ではない、と答えることができるのではあるまいか。(同頁)
ガリレイの言葉から、進化論にまで引き延ばして同じことを言うことはできません。なぜなら、ガリレイの説く地動説によって、「救い」の教理は曲げられることは全然ありません。けれども進化論においては、救いの教理に極めて深刻な挑戦を与える思惟を持っています。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。 (ローマ5:12)」
人間の創造の後、初めの人が罪を犯したことによって初めて死が世界に入りました。そしてこの地上も呪いを受けたのであり、それでローマ8章18-23節において、「神の子の現われを待ち望んで被造物全体がうめいている」と言っているのです。進化論によれば、人類の出現までに無数の死が存在していたのであり、「死」が「罪から来る報酬」という、救いの教理の根幹を否定する構図になっています。
そして、「すべての被造物を支配しなさい」という神が人に命じられた、上のローマ8章にもあるような万物の長、「神のかたち」としての人間存在も、「アメーバ―から始まり、そして植物、動物と進化し、その延長線上に人間がある」という構図によって否定されてしまいます。
初めが否定すると、終わりも否定することになります。神の子どもの現われ、つまり人の救いの完成によって被造物も回復させ、キリストを長子として人に万物を治めさせるというのが終わりの日の神のご計画です。人の堕落の逆算を神は回復において行なわれます。
ですから、単なる聖書記述や解釈の違い、という問題では済まされないのです。神の救済史の全体像に対抗する全体像を進化論は内包しているのです。
・・・とは言っても、本書は、「進化論によって懐疑の中で絶望の淵に陥ったテスニン」、「日本に来た進化論者で宣教師でもあったギュリックが、従来の進化論を修正したものとなっている」こと、また「日本に進化論が導入された時は、あまりにも無批判に取り入れられ、危険な思想である社会進化論がはやったが、少数のキリスト者が進化論に反対の立場を取った」など、科学の歴史を有体に順序立てて述べていることには好感が持てました。
参考になるブログ記事
「天動説と進化論」
「有神的進化論反対の理由」
後記: ダーウィン進化論を否定し、生物の主体的進化を提唱している今西錦司教授は有名ですが、彼のホームページには唯物論に対する批判論が展開されています。神や精神界が堂々と論じられており、唯物的な科学論ばかりが横行する日本においては新鮮な空気を感じます。「今西錦司の世界」
究極のプロ・ライフ(生命尊重)
今、明日の恵比寿バイブルスタディのために詩篇の学びの準備をしていますが、本当に詩篇139篇は心に深い安息と慰めを与えます。一度、10分でも20分でも、この詩篇の箇所を読んで思い巡らす時間を持たれると良いと思います。
米国の大統領選において、しばしば争点として挙げられるのが中絶の合法化問題です。日本の人は、なぜこれが政治の争点になるのか分からない、と思われるかもしれません。けれども、これは社会を構成するあらゆる分野に集約される大切なことです。
なぜ中絶をするのか?望まぬ妊娠をするからです。なぜ妊娠をするのでしょうか?大抵の場合、婚前交渉または婚外交渉をするからです。つまり、中絶の是非を問うことは、性そのものに対する価値観を問うことに他なりません。性の悦びは結婚においてこそ絶頂に達するという真実に目を向けるかどうかに関わります。性病やエイズも中絶と共に、性の捉え方の歪みによって出てくる問題です。
そして中絶問題を取り扱うことは、その後に生まれた子をしっかりと育てるという責任が問われており、家族の価値観が問われています。健全な家族こそが、健全な社会を形成し、そして国そのものの基盤となっています。
そして中絶問題を取り扱うことは、生命そのものの価値観を問うことです。人の選択によって人の命を取ることが、果たして許されることなのかどうか。障害者、老齢者、その他の弱者がなぜその生命が尊ばれなければいけなのか?動物の命と人間の命にはどんな違いがあるのか。中絶問題を取り組むことによって、真剣に生命そのものの価値観に気づくことができます。
前置きが長くなりましたが、詩篇139篇には次の言葉があります。
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(13-16節)」
この御言葉に、神が私たちをどれほど気にかけてくださっているのか、実に胎児の時にすべての思いを前もって定めておられるという究極の生命尊重を見ることができます。下のビデオをご覧ください。私はこれを見て、いかに現代社会が性を商品化しているのか、その愚かさと魔術性を痛感しました(黙示録18:13;23参照、13節の「奴隷」は肉体のこと)。そして夫婦間の性行為がいかに高尚で、神聖な営みなのかを実感しました。
生命の価値観についてもっとお知りになりたい方は次のサイトをおすすめします。「小さないのちを守る会」