カルバリーチャペル牧者修養会@奥多摩

11月7-9日に、日本のカルバリーチャペルの牧者またスタッフが会して、奥多摩の氷川キャンプ場で、修養会を開きました。私は初めてですが、おそらく既に五回は開催されていると思います。カルバリーチャペル所沢のトラビスさんが、ハワイのカルバリーチャペルの牧師を説教者に招いています。今回は40人強の人が来ました。賛美と御言葉の時間以外は、ある人たちは(私も含めて!)子供みたいにはしゃいだり、温泉に行ったり、鍾乳洞を見に行ったり、マラソンに行ったりと、自由に思いのまま時間を過ごしていました。

今回は、三人の牧師がいらっしゃいました。CCホノルルのビル・ストーンブレーカー(Bill Stonebraker)さんとは、四月初めの第一回東北救援旅行で一緒でしたので、再会をとても喜びました。CCウィンドワードのティム・ニューマン(Tim Newman)さんとは、日本で何度かお会いしています。彼も日本やアジアへの宣教の思いをずっと持っている人です。そしてもう一人は、私たちがCCコスタメサに通っていた時の宣教担当の牧師で、ボブ・ヘーグ(Bob Haag)さんです。十年以上ぶりの再会でした!

今回のテーマは、”Simply Grace”(単純に恵み)です。「恵み」という言葉は教会の中では使い古された言葉であるし、またカルバリーチャペルの特徴の一つでもあるのですが、今回の五回の説教で、いかに神の恵みが私たちの理解を超えたすぐれたものであるかを知り、圧倒されました。ロゴス・ミニストリーのサイト内に音声ファイルを掲載しましたのでぜひお聞きください。通訳付きです!

第一回:
「恵みを宣べ伝えるために召された」”The Call to Preach Grace”
ガラテヤ書1章1-10節  ビル・ストーンブレーカー

第二回:
「アブラハム:並外れた恵みの手本」”Abraham: An Extraordinary Example of Grace”
創世記20章 ティム・ニューマン

第三回:
「神様の真の恵み」”The True Grace of God”
ペテロ第一5章12節 ボブ・ヘーグ

第四回:
「パウロ: 最高級の恵みの手本」”Paul: An Example of Super Grace”
テモテ第一1章12-17節 ティム・ニューマン

第五回:
「与える恵み」”The Grace of Giving”
コリント第二8章1-5節 ビル・ストーンブレーカー

11月12,13日のLCFの活動場所(一部変更)

みなさんはお元気ですか?私は月から水まで無事に奥多摩でのカルバリーチャペル牧師修養会に出席しました。主題は「単純に恵み」で、ハワイから来た牧師三人がとっても深く、わかりやすく、恵みの真理を分かち合ってくださいました。近いうちに音声(通訳付き)で聞けると思います。(記事と写真 Pastor’s Retreat at Okutama

ところで、次の土日のLCFの活動場所が一部変更となります。

11月12日(土)
14:00 聖書の学び会 足立区の自宅
17:45 祈り会 OCC307
19:00 第一礼拝 OCC307

11月13日(日)
13:30 第二礼拝 足立区 勤労福祉会館

自宅の詳しい行き方については、メール(info @logos-ministries.org)でお問い合わせください。

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(11月9日)

みなさんお元気ですか?

この頃、いろいろな方々による祈りによって確実に主が戦っておられることを感じます。

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせをします。

日時:11月9日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇132篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

次回は11月30日です。

みなさんのご参加をお待ちしています!

主に感謝。

先走った判断 (Don’t judge too quickly.)

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4:5)」

上の御言葉に関して、超面白いYoutubeビデオを観ました。

Don’t judge too quickly. We won’t

https://youtu.be/uNdapXryZ98

アメリカの会社のCMみたいですが、本当に面白い。

ちょうど、悪いタイミングで、いくつかの出来事が重なって、見ている相手が完全に誤解してしまうって、意外にありますね?聖書の中でも、危なくイスラエル十二部族で内戦が勃発しようとした出来事があります。ヨシュア記22章にある、ルベン、ガド、マナセ半部族がヨルダン川岸に祭壇を造った出来事です。解説が下にあります。

ヨシュア記22章

「セカンドチャンス」は本当にあるのか

先週末、この冊子を購入し、ざっと読み終えました。


「セカンドチャンス」は本当にあるのか
●未信者の死後の救いをめぐって
ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社

ここで言っている「セカンドチャンス」は、人生で失敗した人がキリストの福音にとってやり直しができるという二度目のチャンス、という意味ではなく、副題のとおり「生前に福音を信じていなくても、死後にそれを聞いて信じ、救われる機会がある」という意味です。そして本書は、その論に対する反証を聖書から行なっています。

日本の伝道の現場では、極めて重要な問題です。このことに関連する記事を後日詳しく書けたらと思いますが、一読後の感想をここで述べます。

第一に、この議論は日本に始まったことではなく、既に米国に存在しているものです。「神の忍耐論(Divine Perseverance)」と呼ばれるそうです。セカンドチャンス論者は、西洋的キリスト教の対抗軸を作り出していますが、それよりも私は、この世界の底流が普遍的救済の方向であると感じています。

そして私の経験では、西洋との対立軸とも無関係であるように感じます。他の東洋の兄弟姉妹の国も同じように先祖供養が盛んですが、死んだ後の人の救いについて日本人のように悩むことはありません。家族の間でさえ、宗教に関しては「あなたはあなた、私は私」という区別ができています。

その他に、「包括主義論(Inclusivism)」というものがあります。これは、「仮に人がキリストについて知る機会がなかったとしても、自然界を通して与えられる光に応答し、造り主なる神を信じれば、その信仰のゆえに義とされる」とするものです。これは前回のエッセイ(教会から分離する人々)と前々回のエッセイ(神道を摂取する宣教)の中にも触れた議論にも関連することで、非常に興味を持ちました。福音という真理の体系を通さずして救われることの可能性を探る向きがあります。

その他「万民救済論」がありますが、これは信仰がなくても十字架の功績のゆえに救われるという教えです。

第二に、著者は本物にある輝きと力に触れています。輝きについては、自分たちが金だと思って集めた川底にあった光る物体を、町の宝石店に持って行ったら、そこにある金を見て、その輝きの圧倒的な違いに驚いた、という例話を書いています。

また力については、「福音の力が現れるのは、それが誤りなく伝えられた時です」と述べています。これには感動しました。私自身が、このことを信仰と伝道の努力の中で体験してきたからです。両親に対して、彼らが福音を受け入れなければ地獄に行くという考えは苦しみ悶えるほど辛いことでした。けれども、「福音の真理からぶれてはいけない、私が曲げて伝えたところで、私の知恵や力など、どうしようもなく陳腐なものだ」と思って、伝え続けました。二人は今、福音の真理からまったくぶれることなく、信仰生活を送ることができています。もし、私がその苦しみから脱却すべく異なる内容を伝えていたら、今頃どうなっていたであろうか?と思います。

また、日本に帰国後すぐ昨年末から新しく信仰を与えられた人々に対しても、心の中では涙を流しながら、それでも「福音を受け入れることなくして死んだのであれば、天に入ることはない」という教えを伝えました。けれども、それぞれの方が課題を克服して、生ける神の栄光と恵みの中に浴しておられます。ここでも、もし私が少しでも歪めて語っていたらどうなっていたことだろうと、思います。

どんなに自分が辛かろうが、自分ではなく純粋に「福音にのみ力」があるのだということを少しずつですが実感しています。

そして混ぜ物なしの福音こそが輝いています。創世記から黙示録まで順番に、飛ばすことなく読み進めると、そこに流れる神の栄光に浴するには、膨大に啓示されている、神に対する申し開き、そして死後における裁きという定め、ゆえにそこから救おうとする神の熱情と涙、その熾烈な愛を私たちは感じ取っています。セカンドチャンス論や包括主義論に流れる「日本人に救いを」という情熱は凄いですが、そこにある火は主からのものとは異なったものを感じます。

第三に、私は最後に著者が触れておられる、宣教師の話には男涙を流しました。未開の地で、たった一人の物売り少年にしか福音を伝える機会がなかった。そして娘が生まれたが妻はマラリヤで死んだ。そして本人は、その娘をもう一組の宣教師夫婦に託して、自分は神を呪い帰国しました。ところが、五十年も経ったときに、その娘が、その未開地には立派な学校が建てられ、600名はみなクリスチャン、村長もクリスチャンになり、自分の教団を作り、十万人の信者がいる、という記事を読みました。その創立者をキリストに導いたのは、自分の生みの母親だったのです。

そのことを伝えに、生みの父を探しにいきました。彼はすでに再婚し子供たちもいましたが、「神の名をこの家では決して発してはならない」という掟を作っていたそうです。けれども彼女は、この話を伝えました。彼女が神の名を出すと彼の体は硬直しましたが、続けてその知らせを告げると、「その堅くなっていた体はだんだんほぐれてきました。彼は五十年ぶりに、神に対して心を開き、悔い改めました。そして、その数週間後に、天に召されたのです。」

五十年も堅く心を閉ざしていたこの男に、神は十万人の信者という知らせをもって、憐れみを示し、悔い改めに導いてくださったのです。私も、この宣教師と同じようになってもおかしくない愚かな者だと思っています。けれども、神はこれほどまでに真実な方なのです!

私は今の時代の人々は、「自分の悟り(理解) 対 神の摂理と主権」という相克の中に生きていると思います。どちらに流されるのか、という問いかけが私たちに迫ってきます。

神道を摂取する宣教?

昨日は、カリフォルニアから日本に訪問されている、カルバリーチャペル・コスタメサに長年通っておられる旧知のご夫婦が恵比寿バイブルスタディにいらっしゃいました。他のメンバーと一緒に、有意義な語り合いの時を持つことができました。日本に来るたびに感じるのは、霊的土壌の堅さだそうです。それがどのようにして砕かれるのかは、全ての人が抱いている課題であり疑問でしょう。

そこでその方策として、一般の日本人に受け入れられやすい宣教を考えてのことでしょう、神道の儀式の中で福音を伝えようとする記事を見ました。神道にユダヤ教やキリスト教のルーツがある、という探求はキリスト教会で流行になっているので、その危険性をエッセイにしたためました。興味のある方は一読ください。

神道を摂取する宣教?

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その2

その1からの続き)

そもそも、今回のように、外交的手段で影響力を行使するという考え自体が、聖書にあるキリストの体には存在していないのです。使徒ヨハネは、神の子どもについて、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)」と言いました。神のみが、その人の霊に対して行われる働きによって教会は構成されるのです。「人の意欲」つまり、人間の恣意的行為によってその人が教会の中に入ったと認知することはできないのです。

カトリックは第二バチカン会議にて、これまでの閉鎖的な教会の改革を行ない始めたと言いますが、上の点で、「ローマ・カトリック」という組織そのものがその始まりから間違っているのです。

ローマ帝国の中でご聖霊が誕生せしめた教会は、歴代のローマ皇帝の中で激しい迫害を受けました。ところが、その迫害に関わらず、反対に信仰者は増え続けました。ついに、皇帝自身が信仰を言い表しました。コンスタンティヌス帝です。彼は信教の自由の勅令を出しましたが、テオドシウス帝はキリスト教を国教化したのです。ローマの住民がある日を境に一夜にしてみなキリスト教徒になったのです!これがローマ・カトリックの始まりです。

「国教」にしたといっても、実際はその反対です。教会がローマを支配したのではなく、ローマ帝国が教会を支配したのです。主イエスは、ピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と言われました。まさに、ローマ・カトリックはキリストの国をこの世のものにしようとする試みです。

そして国教化したために、あらゆる異教徒を取り込まなければいけませんでした。ローマ帝国の軍事的精神がそのまま採用されることになり、テオドシウスは強制的に偶像崇拝を禁じました。あるいは、改宗は異教徒をそのまま包摂することによって行なわれました。ローマの宗教にそのまま「キリスト」という名前を付け足しただけでした。

初代教会の礼拝は簡素なものであったのに、手の込んだ堂々としたものになり、他の異教と同じようなものになりました。祭司制度は、キリスト者一人ひとりが担ったという神の奥義が新約聖書で啓示されたにも関わらず、仏教や神道にもある仲介者としての司祭を作りました。イエスの母マリヤも崇拝対象となりました。それは、異教の中に女神崇拝があるからです。バビロンのイシュタル、エジプトのイシス、カナンのアシュタロテ、そしてギリシヤのアフロディテ、そしてローマのビーナスの延長です。

今日のバチカンは、「宣教」という言葉を使わず「新しい福音化」という言葉を使います。それは、キリスト教の教義を信じ、告白すべく働きかけるのではなく、生活や社会、教会一致運動などによって福音の影響力を広めるという趣旨です。その延長に、今回の世界中央銀行という提案もあります。

しかし、真に御霊によって支配を受けていない人々に対して、神ご本人が各人を聖霊によって新生せしめる福音の言葉を語らずに影響力を及ぼそうとしている点において、すでに「世」に組み込まれています。「教会がローマを征服したのではなく、ローマが教会を征服した」ことの繰り返しなのです。それゆえダニエルが預言した「第四の国」の一端を担い、さらに宗教という名のもので経済や政治に介入していることで、使徒ヨハネの見た「大淫婦」となっているのです。

私たちも気をつけるべき

ローマ・カトリックについて、すべてを否定する訳では決してありません。彼らが公会議において固辞した聖書の正典化、三位一体等の根本教理は、神の摂理の中で行なわれたと信じています。その他の数々の聖書釈義や信仰告白も、カトリックの中で発展しました。イエス様は、「天の御国の奥義」の中で御国は、毒麦の種が蒔かれた良い麦の畑であると言われました。毒麦もあるのですが良い麦もある、というのが今日の組織としての教会の姿です。

ルターが腐敗したカトリックに対して抗議したことによって、「宗教改革」が起こりましたが、改革はその時だけでなく、今も行なわねばなりません。例えば、会社の社長さんがクリスチャンで、従業員に礼拝に出ることを奨励したりすることがありますが、キリストの霊的権威のみで回心するという純粋性から逸脱しないように、強制にならぬよう気をつけなければいけません。

また、最近キリスト教団体の中で、「神道はキリスト教をルーツとしている」と称して、神道の儀式の中にキリスト教を見出してもらおうという動きがありますが、そのような方々は、すでにローマ・カトリックで大失敗していることを思い出してもらいたい。パウロは、異教に取り込ませることで福音を宣べ伝えませんでした。むしろ、「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている(使徒14:15)」「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(17:24)」と、異教の神々と対比させて、まことの神、主を宣べ伝えました。異教を取り込んで語っている「福音」は、すでに性質を変えた「異なった福音」になっていることを知ってください。

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1

世界中に広がる経済・金融不安に対して、バチカンが金融規制をする世界中央銀行の設立を訴えています。

「ウォール街を占拠せよ」デモ、バチカン枢機卿が支持-金融規制要望」

Vatican Calls for ‘Central World Bank’ to Be Set Up

皆さんは、今の日本また世界中で起こっている経済格差デモについてどうお感じでしょうか?私は、日本で生活保護が戦後最多になったことも含めて、今の日本と世界がどうなってしまったのだろう?と思っていました。

しかし、これを世界的に管理する金融機関を創設することによって解決するのか?というと、私はその考えに空恐ろしさを感じます。忘れてはならないことは、現在の金融制度や経済制度に代わる制度も、同じ人間が管理するということです。理想を高く掲げれば掲げるほど、現実との乖離の中でその欺瞞の中で人間は今よりも何重にも苦しめられることでしょう。

さらに、この記事は唯一の公同のキリスト教会と称するバチカンが発言しているものです。世界の政治指導者に対する彼らの外交は良く知られていますが、国々の金の動きにも支配を広げようとしています。

以前、「世界統一通貨」の記事を書きました。世界が統一化されていく動きは、すでに紀元前六世紀に生きていたダニエルに対して神が、啓示として与えられていました。「第四の国は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。(7:23)」それに呼応するかのように、カトリック教会は二十世紀以降、一つになった世界をふまえてその影響力を行使しつづけています。

黙示録17章には、世界の諸国の王が不品行をしている、世界帝国の上に座っている大淫婦の姿を描いています。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(2-4節)」

次の新書はぜひ、手にして読んでみたいと思っています。なぜこうも、世界で政治や経済の中心的人物がバチカンに謁見するのか、日本の元バチカン大使が書いた本です。

「『バチカンの聖と俗』 - 日本大使の1400日」 上野景文著 かまくら春秋社

次に、ローマ・カトリックの問題点を述べたいと思います。 (その2に続く)