「ハマスの息子」(Son of Hamas)ついに出た日本語訳!!

このブログで何度となく紹介させてもらったモサブ・ハッサン・ユーセフ氏ですが、彼の著書Son of Hamasがついに邦訳されました!

ハマスの息子(アマゾン)


これは、1)イスラエルとパレスチナの相克、そして2)この問題におけるキリストの愛の所在を知りたければ、必読本です。

上のアマゾンのサイトに本の紹介がある他に、拙ブログの記事と菊池一徳さんのブログを紹介します。

SON OF HAMAS(ハマスの子)

SON oF HAMAS(ハマスの子)その2

All About ガザ ガザ支援船拿捕事件の真相 エゼキエル38章の中東戦争の預言成就 ハマスの息子の救い(ページの一番下から読みます)

恵比寿バイブルスタディのお知らせ 6月29日(水)

お元気ですか?

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせを致します。

日時:6月29日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇95篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

お気軽においでください。平日のお仕事の半ばに、御言葉による安らぎの時が与えられればと願っています。ぜひご利用ください。

次々回は、7月6日(水)を予定しています。

トラビスの牛網・下二郷・月浜旅行記(6月20-22日)

今回は、主に三つのチームが三つの避難所で代わる代わる奉仕をしていたので、お互いのことを知らずに行っていました。トラビスが旅行記を書きました。英文ですが、宜しくお願いします。(時間があったら、訳すかな?)

Latest update on our trip up to Higashi Matsushima- 6/20-6/22


(トラビスが月浜海岸で泳ぎました)

第七回目 月浜・牛網旅行 6月22日

三日目の朝は、魯先生と私の妻が牛網に行き、水餃子の具の準備をしに行きました。そして残りの男性たちは、月浜海岸に向かいました。この日は晴天で、神様に感謝しました!

そしてなんと、他の二つのチーム全員がこちら月浜海岸に向かっているとのことです!そして着き浜地区長の小野さんもいらして、私たちの午前中の活動にいっしょにおられました。後でジュースも用意してくださいました。

私は今回の旅行は人数が多いので、正直、困っていましたが、海岸の掃除のような時には人海戦術が最適です。なんと残りの三分の二が、きれいに片付きました!ハレルヤ!!

さすがハワイ人、彼らはなんと服を着たまま海に入って、泳いでしまいました!トラビスによると、まだ水は冷たいとのこと。私は、この夏にバプテスマ式をここでやったら良いのでは、という祈りをし始めています。

それから私たちは、牛網に向かいました。水餃子の準備はできており、数人の避難民の方が皮包みに参加してくださいました。その中に斎藤さんがおられます。チャックの奥さんの由美さんから聞いたのですが、宜野湾の人たちは、牛網に住んでいる斎藤さんの家の改装を手伝ったとのこと。

彼女が第一回目の私たちの旅行のとき、トラビスが津波の瓦礫から拾ったピアノを弾いているのを見て、涙を流し、私が祈らせていただき、そして「これを一回だけにしないでほしい。」と懇願された方です。彼女から「もう牛網避難所の住人になってもいいですね。」という、本当にうれしいおほめの言葉をいただきました。

水餃子も食べ終わり、すべてのチームが牛網でお昼をゆっくり過ごしました。山東さんが残りものでスパゲッティと醤油チキンを作ってくださいました。宜野湾のチームは、これからさらに数日、東松島に残っておられます。どのような活動をすればよいかをみなさんと私で話し合いました。月浜避難所担当の小野さんの連絡先を渡し、また木村さんもさらに数日いらっしゃるので、ぜひ月浜避難所での活動を勧めました。

今日、木村さんから連絡が入りましたが、彼らが避難所でスパムおにぎりを提供し、清掃など他の活動もしたかったのですが、雨だったので、室内で避難所の人たちの話を聞いたりして時間をすごしたとのことでした!ハレルヤ!

宜野湾とCCBCの人たちは、この夏、チームを交替させながら東松島を中心に東北救援旅行に来られる計画です。その第一弾がチャック・由美ご夫婦率いるチームです。どうか、続けて彼らのためにもお祈りください。

私たちは、魯先生のリクエストで、松島で温泉に入って、それから塩崎さん、私たち二人が車に乗って東京に戻ってきました。

私が救援旅行で魅力を感じるのは、伝道の機会が至る所に生じること、そして仕えるクリスチャンの麗しい姿です。不平をもらさず、小さなことでも喜びと感謝を感じ、そして一度手伝ったところにまた行きたいと願うクリスチャン。それが、被災者の方々に大きな光となっています。さらに、私たち奉仕者の間でも、その喜びを味わっている人々の間には麗しい御霊の一致があり、主をほめたたえています。

次回はぜひ、再びLCFの人たちを連れて行きたいです。何人かは既に参加していて、そのすばらしい御霊の働きを見ることができました。教会のためにもこの活動は必要と感じています。

第七回目 月浜・牛網旅行 6月21日

20日の夜、私は仲間に五時半起床、六時朝食を告げました。早いのにびっくりしていた人がいましたが、私は、「避難所の人々は通常五時前に起きて、六時には活動を開始していている。就寝が八時だ。彼らの活動に合わせないといけない。」と話しました。

朝、前々回と同じように、宿の部屋で自炊をして、それからデボーションをしました。私は、先週土曜日に説教した出エジプト記2章から、モーセが神の民の苦しみを共にして、エジプトの富や地位を捨て、永遠の報いを求めたことを話しました。救援活動によって、私たちの快適な生活は犠牲を負いますが、けれども、苦しみを共にすることが神の報いの道であることを離しました。

それから、チームを二つに分けました。女性と、運転手の魯先生は昼食の水餃子の具とフルーツの準備を、男性は月浜海岸に向かいました。

水餃子は手軽に作れる料理であり、また皮を包むときに避難所の人たちと一緒にできるという利点があります。そしてフルーツは、前日、避難所の女性たちから、「スイカが食べたい」という声が上がったからです。つまり、水気のある果物(スイカ、メロン、ブドウ等)や野菜(トマト等)に飢えていたみたいです。それで私の妻と魯先生が前日、スーパーマーケットまで車を走らせて買い物をしたのです。

もう一つ、メニューの中に「水キムチ」があります。綾瀬東部教会が作ってくださいました。これは日本の人たちにはあまり知られていませんが、冷たい汁の中に漬物があるという感じのキムチで辛くなく、さっぱりしています。暑くなってきたので、いいんじゃないかと思ったのです。

私たち男性陣が月浜海岸に到着し、そして牛網に宿泊しているカルバリー・ホノルルのマッチョの四人と、宜野湾のチャックさんが到着しました。大木など、砂浜に漂着しているごみをどんどん片付けて行きました。私は、細かいごみを拾い始めました。まだキャップの空いていない炭酸水のペットボトルがたくさん流れ着いていたのに、一本ずつ開けて中身を出したりもしました。

すると二時間ぐらいで、見事に三分の一ぐらいがきれいになりました。私はこの夏いっぱい、ここの海岸の掃除がかかるかなと思っていたので、本当に驚きました。兄弟たちも、「ぜひ残りの部分も終わらせたい。」とやる気満々でした。

11時に月浜避難所に戻り、水餃子の準備をしました。包む作業を避難されている方々にお願いしたら、女性たちがエプロンをして次々と包んでいきます!担当の小野さんが教えてくれましたが、それもそのはず、彼女たちの多くが民宿を経営していた人たちです。宮戸島の人々は民宿と漁業で生計を立てています。私も幼い頃と大人になってから二回、月浜海岸に来ています。

水餃子、水キムチ、フルーツを食べた後に、そこを片付けて、同じテーブルで見城さんと望月さんが同じくカントリー&ゴスペル・コンサートをしてくださいました。そして、さらに木村さんが自宅の掃除に来た女性のボランティアのグループも招いておられました。

私たちが二度に渡って木村宅から刀や着物を取り出した後、木村さんは、残っているものを東松島市を通してボランティアに取り出してもらっていたみたいです。一度、男性のボランティアに来てもらったら整理が雑だったので女性たちを要請したとのこと。そして木村さんは見城さんの音楽がとても気に入っていたので、昼食もゴスペル・コンサートも全部参加させたのです。

私と塩崎さんは、続けてホノルルの人たちと月浜海岸で掃除をしに行こうとしましたが、あいにく雨が降り出しました。それで再び避難所に戻りましたが、見城さんたちによると、じっくり福音を語ったとこと、神に感謝です。そして、私たちはトラビスの要請を受けて牛網避難所に移動しました。

牛網避難所には、カルバリー所沢のマイケルとチャックが醤油チキンを作っていました。山東さんが大まかなのを作り、それから下二郷でも食事を作りに行ったそうです。そして、他の人たちは20日に牛網で奉仕をしていたので、下二郷に移動し、そこで夕食とコンサートをしに行きました。料理だけ作って、私たちがそれを避難所の人たちに出します。

千葉さんが顔を見せてくれましたが、いつもと違って笑顔がありませんでした。ぜひ彼のためにお祈りください!避難所生活がすでに三ヶ月を越しています。多くの避難所で、人々が長い避難生活でいろいろな意味で疲れを覚えています。

けれども、魯先生と私は、塩崎さんと木村さんと、神の救いについての質問応答の時間を過ごし、就寝が午前1時近くになってしまいました!

第七回目 月浜・下二郷・牛網旅行 6月20日

無事に昨夜、東松島から帰ってきました。これで、LCFとしては第六回目、全体としては第七回目の旅行の報告をさせていただきます。

19日の正午は、奥松島の木村さんと福島富岡町の植田さんを交えて、昼食を取りました。新井さんが、大きな消しゴムを彫って文字のスタンプを木村さんに作りました。そして二時から礼拝です。私は、新しい人々が来ることを意識して聖書箇所を少なくしましたが、それでもたっぷり一時間かかった説教を興味深く聞いておられました。その後も濃密なお話しの時を持つことができました。

そしてそのまま木村さんは私たちの家に宿泊です。そして次の日、7時半には綾瀬東部教会の魯牧師と、ボランティアの塩崎さんが到着しました。

塩崎さんはこのブログ記事では初めての方ですが、実は、この方がおられなかったら私たちの救援旅行は全然違っていたと言っても良い重要な人です。塩崎さんは針灸をされている方ですが、武道館内でボランティア活動ができないとのことで、その場所を探していた時に魯先生と出会うことによって、その教会の中で活動場所ができるようになりました。それで武道館に避難されている人々が教会に来るようになった、という経緯です。そして、私が4月10日にその教会で説教の奉仕をしたその夕方に、その避難者の一人である木村さんに出会いました。

20日は、罹災者証明書を持っている人は高速道路が無料になる開始日でしたが、私は首都高も無料になると思っていたところ、東北道だけであったことが分かりました。車二台で行ったのですが、結局、災害救援車両許可書を取っていた魯先生の自動車は全行程が無料、木村さんの車が首都高の分だけ料金を払いました。

私たちは前々回の旅と同じく、宮城県の菅生PAで静岡チームと落ち合い、そこから宿泊する松島の湯の原温泉に向かい、荷物を降ろして、そして奥松島の宮戸島にある月浜避難所に向かいました。そこで、すでに数度、牛網などでお手伝いに来てくださっている仙台在住の武田さんと合流しました。月浜避難所で明日の予定について担当の小野さんと話し合った後、私たちは下二郷の避難所で人が足りないとの知らせをトラビスから受けたので、明日、掃除する予定の月浜海岸を見学したあと、そこに向かいました。

そこは、東松島市の北隣にある遠田郡美里町にありますが、牛網の隣町の浜市住民が避難しています。私は担当の熊谷さんと話ながら、私たちの牛網での救援活動や、浜市小学校を見ながら家の掃除をしていたことなどをお話しました。中を覗くと、かなり若い人々がいます。子供たちも多いです。

そして台所では、カルバリー西東京の山東さんと、沖縄宜野湾からチャック・ロブさん、そしてCC Bible College卒業生の松原さん、在校生の中村さんが夕食の準備をしていました。ハワイ風醤油チキンです。牛網の千葉さんがトラビスにこれを作ったら良いと勧めていたそうです。

そして静岡教会の牧師、見城さんとスケットの望月さんが、イブニング・コンサートの準備をしました。塩崎さんは針灸の奉仕をされました。

食事は、初めあまり人が来なかったのですが、一度、醤油チキンを味わった人が「おいしい!」との声を上げると、取りに行く人々が出てきました。そして台所の隣の部屋で行ったイブニング・コンサートにも、人々が入り始めました。

見城さんと望月さんは、前々回と同じように、ギターでしっとりとした歌を奏でました。望月さんは自分が引きこもりの状態から主に出会った体験を詩にして歌いましたが、みんな感動しました。そして、その部屋に聖書やトラクトも机に置いて帰りに取っていってもらうようにしました。

そして私たちは牛網避難所に向かいました。そこで、牛網で奉仕していたハワイのチームやトラビスたちがいました。なんと、彼らは避難所の駐車場に大きなテントを張っています!山東さんが、「ホノルルからのメンバーに、マッチョがいて、力仕事をしたがっているから、ぜひ月浜海岸の掃除をさせたらいい。」と教えてくださったので、私はトラビスに男たちを月浜に送ってくれるよう頼みました。

宿に帰ったら午後10時を過ぎていました。

次の東北救援旅行(6月20-22日)

次の東北救援旅行についてのお知らせです。

先週の月曜日、奥松島の木村さんと連絡が取れました。奥松島の月浜海岸では彼の半壊の家から所持品を取り出す作業を行ったのですが、現地にいる彼に避難所の人たちが私たちボランティアのことを覚えていて、「来てくんねえがなー」と仰っていたそうです。それで、私たちは元々20-22日に東松島救援旅行を計画していたので、では行きますと申し上げました。

東松島の牛網避難所には、現在、カルバリー所沢のトラビスの家族が訪問しています。家族旅行と来週の旅行のための前準備のために行きました。次回は、奉仕する新しい避難所が二つ与えられました。

下二郷地区コミュニティーセンター

場所は東松島市の北隣の「遠田郡美里町」という所ですが、これは東松島市牛網の隣町である「浜市」の住民がおられます。そこは牛網よりさらに海岸沿いにあるため、家は土台だけの全壊状態です。したがって、家の掃除や修理のために自分の家に戻る必要がなく、遠くの避難所に住んでおられる、とのことです。人数は40人ぐらいとのこと。

避難所を訪れて・・・

上は、六月上旬にあるボランティア団体が下二郷コミュニティーセンターを訪れた日記です。トラビス・リッチ・山東さん・マイケルが訪れた時と同じ建物の入り口の写真も掲載されています。


そして、もう一つの月浜住民の避難所は、大きいのと小さいのに分かれます。大きいのは奥松島縄文村歴史博物館の隣にある「漁協宮戸西部支所」で、もう一つは月浜海岸の高台にある「民宿かみの家」です。活動は、主に月浜海岸の瓦礫除去と、炊き出しとゴスペル・コンサートです。この二箇所にお知らせの紙を貼りたいとの要請がありましたので、作成し、郵送しました!

「水餃子」の炊き出し(?)は、静岡教会からの見城さんチームに今回は在米の台湾人の方が来られるとのことで、皆で一緒に皮を包んで親睦を深められる中国式をやってもらおうということになりました。

こちらに掃除する月浜海岸の津波前のブログ記事がありました。そして、ここは「宮戸島」の中にありますが、現地の人が被災と救援の状況を克明に記録しているブログがあります。

東松島市 地震 津波 宮戸 野蒜 現地情報

今回は、カルバリーチャペル・ホノルルからチームが、そして沖縄のカルバリー宜野湾からのチームも来るという事で合計20名強になります。「こんなに人数が多くてどうしよう・・・」と思っていたところの新しい奉仕先です、主に感謝します。そして宜野湾のチームは交替でこの夏、チームを送り続ける予定にしています。

お祈りください。

「想定外」は私たち皆

昨夜、恵比寿バイブルスタディの帰りに兄弟たちと少し交わりましたが、みなが救援活動をしているので、少し福島の話題になりました。単に天災である地震と津波はある意味ですっきりしています。けれども原発事故は「人災」の要素もあるので、以前も記事に書きましたが非常に複雑です。放射性物質の数値さえ、専門家によって変わってしまうという状況で、福島県民の方々はいったいどういう思いをされているのかな、という話をしました。

ところで政府や東電が行っている一つ一つの挙動を、鬼の首をつかんだかのように怒り、責める姿に正直、辟易しています。私は東電に対するイメージは単純に「お役所みたいなところ」ということでした。巧妙な隠蔽工作などできる暇がなかっただろうし、東電の方々には申し訳ありませんが、そんな悪魔的に(?)頭脳明晰な人はそこにはいないと思います。

役所であれば、今の被災地でも本当に機能していない姿を見てきました。また個々の避難所においてでさえ、そこのリーダーの手腕によってまるで状況が変わってくるのです。

「なぜ、今頃メルトダウンが分かったのか?」という怒りの声はもちろん理解できますが、そのような杜撰な姿は、皆さんの身近な所でもこれまでいくらでも起こってきたと思うのです。役所のようなところに行けば、きちんと対応してくださる職員の方も大勢おられますが、2-3分で終わるような手続きで1時間ぐらいかかったり、相手に非があるのにこちらが悪いと逆に責めてくるとか・・・。小さなレベルでは沢山あるのです。

私たちも同罪

はたして私たちは今回の地震は「想定」していたでしょうか?また地震の事前防災はされていたでしょうか?水、食糧、避難場所がどこにあるかなど、分かっていた方はどれだけいたでしょうか?あれだけ買いだめしたのは、今回の地震が「想定外」だったからではないのでしょうか?

(私も、3月11日の二日前、沖縄カルバリーチャペルの水曜礼拝で説教の奉仕でした。ある方が、「仙台で震度4だったって。」と仰っていましたが、私は、「いつもの事だから。」と言って親に連絡しようとはしませんでした。だから、地震が起こって通信不能になった時に後悔しました。)

私たちでさえ混乱したのですから、人間の集まりである東電という企業もまた政府も混乱し、収拾がつかなくなったというのは容易に想像できます。

そして津波で死んだ方について言いますと、死んだ人々に鞭打つことになってしまいますが、被災地で生き残った方々の声を聞くと、多くの場合「そんな大きな津波ではないだろう」と思って、自分の家に戻ったり、混雑した道路にずっと止まっていたり、つまり「想定」していなかったからなのです。

そして、「福島県民のことを考えろ!」という怒号も聞こえます。けれども、福島県民こそ、長いこと原発推進の歴史をたどってきた人々であり、実に東電やその下請けで働いている人たちが大勢いるのです。県民の方のブログにはこう書いてあります。

原発事故の被害を受けている福島の人々は、「こんな被害を受けているのに、それでも原発をとめたくないという人は、私たちの気持ちがわからない」という気持ちでいっぱいのことだと思います。
しかし、私は、原因究明なしには、それを言える段階にはありません。確かに、自然とは共存しえないものだということは人間としてはわかるのですが、どうして想定外のことが、地球に何基もあるのにわざわざこの福島で起きてしまったのかということを知らなければ、これまで福島県が原発を誘致してきた意味がなくなってしまいます。今、原発とともに福島が歩んできたのがなぜか、わからなくなってしまいます。世の中で今、言われているように、「安全だから」という思考停止に陥ってしまったから、受け入れてきたというだけなのでしょうか。私にはなんとなく、そうは思えないのです。それを知らない以上、原発反対に足を踏み入れることはできません。
私が一番腹が立つのは、被害を受けていない人で、いきなり原発反対に目覚めた人たちです。微量たる放射性物質被害を受けているからそう感じているのか、それとも福島県民に同情せんがためにそう感じているのかは定かではありませんが、真に福島のことを思うのならば、そのように安易に原発反対に舵を切れることはないはずです。これこそ、思考停止の最たるものであり、私はそういう方々を軽蔑します。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare/35372712.html

ここで言われているように、津波の被災者が「これだけの津波がなぜ三陸に、そしてこの時に起こったのか?」と言っているのと同様、「地球に原発が何基もあるのに、わざわざこの福島で起きてしまったのか」が大きな疑問であり、これはまさに霊的困惑である「神がおられるなら、なぜ・・・」という問いなのです。こちらに私たちキリスト者はもっともっと、心を使って祈っていくべきであり、その答えを聖書の神は持っておられることを、心を砕いて伝えていくべきではないかと思います。

そして反原発運動の中でも、誠実な心から行っている人々はいます。(私は反原発に反対しているのではなく、一連のブログ記事で、「恐れ」「混乱」「裁き」「怒り」などの霊的問題を取り扱っています。)例えば、次の記事を見つけました。

反原発のキャンドル・ジュン、意外な言葉「原発を推進した人を責めないでください」東京電力の職員を思いやる

やはり私は、今回の大震災で思わされているのは、「神が憐れみによって、このことが起こるのを許してくださった。ヨブと同じように、全てがそがれた後で、それでも残る「命」そのものへの根本的問いを人々がすることができるようになるためだ。」ということです。そして、原発事故のことで必要以上に不安になる、混乱する、怒る、責め立てるなどの反応は、まだ、「旧態依然の安定した、物にあふれて、どこかが病んでいる日本の姿」のままでいるからだな、と感じるのです。

曾野綾子氏の過激発言

カトリックの小説家、曽野綾子氏がかなり叩かれているようですが、以下のような発言をしています。

瓦礫を薪にして暖を取れ

曽野 「原発や被災者支援などに対するマスコミの質問もおかしかったですよ。「明日はどうなるんですか」「物資は公平に配られていますか」ですって。もうやめてもらいたいですね。この非常時に、予定どおりの明日がくるなんて誰にも分からない。
 そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。もっとひどいのは、「その委員会はいつ立ち上げたんですか」。緊急の時に過去のことなんか聞くな、でしたね。
 私は報道に関しては、あれだけの地震や津波の映像をきっちり記録してすぐに国民に知らせたり、原子力保安員や東電がきちんとぺーパーをつくって毎日現状報告をしていることは、すばらしいことだと思う。」

(中略)

曽野 「私は、未だに答えのない疑問を持っているんです。「避難所が寒くて凍えそうだ」「低体温症で体調を崩している」「温かいものが食べられない」という報道がありましたが、あれはなぜ? そこらじゅうにあんなに薪があるじゃないですか。瓦礫の処理が大変だと言っていますが、どうして木片は燃やさないんですか。
 同じ高さの石を三つ積めば竈(かまど)ができるんです。そこに、あれだけ燃やすものがあるんだから、あとはどこからか鍋を拾ってくればいい。私だったら、あそこで薪を集めて食事をつくります。」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20110518/p1

 こうした一連の発言に対して激しい非難がありますが、コメントの中にはいくつか「一理ある」としてこういう意見を言っています。

「曽野綾子の念頭にあるのはアフリカとかの日々の食事もままならない所の話。これまでの取材の経験などから最悪の想定が常人とは少し違う。だから日本のこれまでのモノにあふれた日常が甘っちょろいのであって…と言う話。」

「電気がとまれば民主主義が停止する、は『アラブの心』という著作で言及されています。「瓦礫を薪に」というのもおそらく日本財団の関係で訪問した発展途上国で見た風景を二重写しにされているものと推測します。」

実は私もこれに同感なのです。まだ批判・非難が出来ているということは、本当に被災していないのです。本当に被災した人々は、ただ黙って動いています。

被災地を含めた今回の震災の日本と私が以前いたところでは、まだ前者の方が状況は良いのです。私も分刻みの東電や保安院の報告には驚かされました。国によっては、職員や労働者はすぐに逃げて放射能は垂れ流し、政府も一年後ぐらいに、どうしようもない報告を出すだけに留まるでしょう。(そうした発展途上国が今、ドイツのような先進国とは裏腹にどんどん原発を設置しようとしています。)

そういう所にいる人々は、どんなに政府が腐敗していようが、行政が全く機能しないであろうが、不平など言えないし、言ったところで変わらないし、下手をすると投獄されます。だから、ひらすら生きるだけです。ゆえに、たくましい。

だから、私も曽野さんのように「最悪の想定」がもっと違う変な日本人(?)かもしれません。「車が流された?まあ、わが奥さんも一時間ぐらいかけて、リュック背負って泥まみれになって買い出しに行ったしな。」停電も、「えっ計画?抜き打ちじゃないようにしてくれているんだ、すごい!」と驚いたし、放射能汚染の東京の水道水も「ものすごい厳格な基準値だね!この水のほうが、他の多くの国の通常の水より、ずっときれいじゃん。」と真面目に感じてしまいました。

ですから、私はこの基準の高い日本を神に感謝しているし、同時に、その感謝を忘れているから、不安とかストレスとか、怒りが生じて、日本人を精神的にそして霊的に摩耗させているのではないか、と感じます。

「六日戦争」は1967年6月5-10日 その2

日々、入ってくる中東情勢ニュースのために、また私たちが生きている時代を知るためには、どうしても複雑極まりない中東事情を知る努力が必要です。1948年のイスラエル建国に伴う独立戦争、そしてエルサレム主権がイスラエルに移った1967年の六日戦争の把握は非常に重要です。

以下のサイトがおすすめです。

イスラエルの歴史 - 現代イスラエル(ミルトス)

第三次中東戦争(ウィキペディア)

五分でわかる戦史 第三次中東戦争

そして英文の分かる方は、ぜひ次の本をお読みください。

Six Days of War by Michael Oren

本書について、すでにブログ記事を書いています。
Six Days of War(戦争の六日間)」

六日戦争という非常に重要な出来事を包括的に説明している本が、なぜか和書あるいは邦訳本で実に少ないです。お奨めする本としては、「エルサレムに朝日が昇る」ウジ・ナルキス著「中東戦争全史」山崎雅弘著「イスラエル全史」マーチン・ギルバート等があります。

けれども、この第一流の六日戦争史であるSix Days of Warを紹介したく、Amazon.comにある書評を意訳してみました。(dougrhon “dougrhon”という人のレビューが原文です。)

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1967年6月の出来事は詳細に記述されてきたが、六日戦争そのものの記録のみならず、それに至る要因を記録したものは無かった。マイケル・オレン氏は、この紛争のすべての側面を包括的に回想している。

オレン氏は、この歴史を軍事・外交・政治・文化面で描き、公文書、公的報道、回顧録、まだ生存している当人たちへのインタビューなど、徹底的な調査を通して、イスラエル人からの見方のみならず、エジプト人、シリア人、ヨルダン人、そしてアメリカとソ連からの見地から、主要人物の役割を詳細に説明している。

オレン氏は、ナセルの一連の誤算が、彼が意図したよりも数年早まってエジプトを戦争に引き込んだことを描いている。シリアの好戦姿勢、また、パレスチナ・テロリストがイスラエル北部への襲撃したことを支持、また情緒不安定なアメル将軍に突かれたことが相まって、ナセルは国連を非武装地帯になっていたシナイ半島から追い出し、イスラエル船のチラン海峡封鎖を違法に行ない、事実上の宣戦布告を行った。オレン氏がはっきりと示しているように、エジプトとの戦争は、海峡が閉じられた瞬間に決定的なものとなったのだ。いかなる主権国も、航行の封鎖は座視することはできない。

さらに、イスラエルの政治指導者が、米国とソ連に対して、エジプトの挑発に対応する適切な軍事行動の許可を求める苦闘も記録している。エジプトによる明らかな戦争行為にも関わらず、時のジョンソン政権は、ベトナム戦争によって足枷をはめられており、またソ連との対立を恐れ、イスラエルに抑制を求めた。米国を疎遠にすることなく先制攻撃をどのように決定すればよいか、エシュコル首相とイスラエル政府の苦悩も描いている。あの有名な、アッバ・エバン外相とジョンソン大統領の会合にて、ジョンソン大統領は事実、第一撃を受けるよう促したのだ。あの忌まわしきシャルル・ド・ゴールが、あからさまにそれ要求したのだ。イスラエルの軍事ドクトリンによれば、敵の空軍を先制破壊することが必要だった。この緊張によって、ラビンは一時的に神経衰弱に陥り、エシュコルの寿命も何年か縮めたことだろう。

イスラエルはエジプト空軍に対する電撃攻撃を開始するや、続けてヨルダンが引き込まれ、それからシリアとイスラエルの軍事目標がしきりに変わっていく軌跡になっていく。事実、イスラエルは、直接、実際に迫っていた脅威を除去するという事以外に、特定の政治的目標は有していなかったのだ。イスラエルは、西岸に対して何ら具体的な計画を持っておらず、エルサレム旧市街でさえそうであった。皮肉にも、エルサレム旧市街を制圧する決定は、最後の最後まで、既に西岸がイスラエルの手に渡った後でさえ下されていなかったのだ。

アラブ側から、この戦争がなぜ災厄へと変わったのかも描いている。エジプト軍は、統一した司令系統の装いさえもきちんと取っていなかった。ナセルの将校らは、真実を彼に語るのを恐れていた。軍が全面撤退している時に、空軍が破壊した残骸が横たわっている時に、エジプトは、テルアビブに進軍しているという、実に浅ましいプロパガンダを流した。その間、フセイン(ヨルダン国王)は、ナセルとシリアの急進派に恐れをなし、エルサレムでイスラエルを攻撃するという罠に陥ったのだ。

さらに面白いのは、政治的・外交的配慮が、軍事戦略に影響を及ぼし、イスラエル側の被害を増加させたことである。例えば、エシュコルは、ゴラン高原を奪取する決定をあまりにも長く引き伸ばしたので、IDF(イスラエル国防軍)が、火砲砲撃、空爆、夜間攻撃などの適切な予防的措置を取ることができなかった。その代わりに、勇敢なIDFの兵士らが、殺人的なシリア軍の砲火の中に進んでいったのだ。エルサレム作戦においても、同じであった。

とどのつまり、本書の価値は、この戦争の文脈を提示したことにある。歴史修正主義者らは、イスラエルのゴラン高原と西岸の征服は必要ではなかったと言う。オレン氏は、エルサレムの場合を除き、イスラエルの攻勢はイスラエルの領土拡大が目的ではなく、純粋に地政学・外交的目的であったことを示している。一度、戦うことを強いられたら、イスラエルは、1948年の防衛不可能な休戦ラインに留まることを強いられないように決意した。イスラエルの戦争における基本的な目的は、敵側の攻勢能力を排除し、相手を交渉の席に着かせることであったことは疑いがない。不幸にも、その時のアラブの政権が平和的解決を不可能にさせ、さらなる流血をもたらしたのだ。

オレン氏は、エジプトとシリアの全体主義的政体と、イスラエルの耳障りな民主制を対比させている。イスラエルでは、あの有名な「穴(地下室)」にて、基本的戦略の決定が総意の下で採用された。将軍は、エシュコルの(ソ連とアメリカを敵に回すことへの恐れから生まれた)抑制に失望し、あからさまに嫌悪感を表したにも関わらず、一度たりとも首相の命令を軽視することはなかった。真の民主主義の特徴は、軍部が文民の司令に従属することである。これに対しナセルは、絶えず軍事クーデターを恐れていた。

オレン氏の私情を入れない分析によって、このドラマに出てくる主演者の肯定的・消極的役割を明らかにした。機知に富むモーシェ・ダヤンは、一般的に良く評価されるようには出てこない。彼の不可解な気質は、1973年(ヨム・キプール戦争)でイスラエルを危険に晒した。エシュコルはその責任が全く追及されていない。事実、全貌が明らかにされたら、無数の競合する懸案事項を取り組むのに相応しいイスラエルの指導者は、彼以外には見つけるのが難しいだろう。ナセルは、悪者というよりも、惑わされ、打ちのめされた者として出てくる。フセインは、自分で制御できない勢力の被害者のようだ。本書は、まさに「第一級作品」になる運命を持っている。「おお!エルサレム」が独立戦争の名作であれば、本書は六日戦争の名作だ。イスラエル史に興味をお持ちの方は、これは必須図書である。
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「六日戦争」は1967年6月5-10日 その1

今日は、土曜日と日曜日の説教の準備をしていました。それで、合間に息抜きをしている時にふと、「そういえば、6月5日から10日までは、1967年の六日戦争ではなかったか。」と思い出しました。

今のイスラエルと周辺状況を報告します。先日、オバマ大統領がイ・パ和平交渉として「67年への境界線まで」と話して、ネタニヤフ首相が拒否した話をしました。(「イスラエルが67年の境界線から撤退できない訳」「ネタニヤフ首相の米議会演説」)これは、もちろんオバマ大統領がビン・ラディン殺害の成功の勢いとして、それを中東安定につながったのだから・・・という思惑で行っていました(ハーベストタイム)。

そして、中東全域で起こっているデモとその鎮圧があります(産経記事・解説)。シリアでは、自政府から目をそらさせるために、この6月5日に政府は、一人につき千ドルを与え、数百人のパレスチナ人をゴラン高原でイスラエル領に侵入させ、デモ隊とイスラエル国防軍が衝突しました(debka)。

シリアはレバノンの保護者であり、そしてそのさらなる保護者にはイランがいます。イランは、シリアに対してさらなる「デモ」による挑発をするよう圧力をかけています(WND)。そのイランが、二か月で核保有できるとの不穏なニュースも入っています(ynet news)。

そして、アフマディネジャドは、第12イマーム(イスラムシーア派版メシヤの到来を、これまで以上に声を上げています(pajamasmedia)。以前もお話ししたように、核開発と彼の狂信は一体になっています。

(ちなみにシリアは、既にイスラエルが原子炉を空爆したことによって、北朝鮮が協力した核開発は頓挫していますが、IAEAがその計画の可能性が大であると明らかにしました(産経記事)。

さらにイランは、紅海に潜水艦を派遣しました(ラジオイラン)。

そして、目をパレスチナ自治政府に移しますと、こともあろうに2000年の第二次インティファーダ(民衆蜂起?)のように、ファタハがシリア、レバノン国境、ガザ地区で起こった蜂起を利用してその規模を拡大させようと画策しています(WND)。

(私が2000年に、このインティファーダのことを書きました時(「きよきよの部屋」)、当時は掲示板を持っていたのですが、板に荒らし投稿が続きました。何かちょうど、イラク反戦や今の反原発の雰囲気と似ていまして、「平和」「不正義」と唱える人々がむしろ攻撃的であり陰湿でした。けれども、ハマス創始者の息子のモサブ氏が明かしているように、パレスチナ指導部で意図的に作り出されたものであることが確認されています。)

これが、六日戦争の記念日を起点にした中東情勢です。詩篇83篇をお読みください。ここには4-5節を引用します。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。