昔の人たちの知恵

今日(昨日?)は、久しぶりにプールに行って泳いできました。そして、ブログで個人的にコメントをしてきてくださった方と有意義な対話をすることができました。

それで、いろいろ原発に関わるいろいろな意見をネットで読みましたが、今日気付いたのは、「日本も北朝鮮と変わらないじゃないか。」ということです。北朝鮮では、「将軍様マンセー」というお題目を必ず自分の意見を発表する時に付けるのですが、日本は「菅政権はどうしようもない」と、どんな問題のことを話していても、出てくるのです!何の関係があるんだ?と思ってしまいます。これは反原発の人たちだけでなく、推進していたり、保守層の人々の口からも連呼のように出てきます。

そんな中で、実にうならされる良い記事を見つけました。

「最悪時」前提に設計見直せ 原発事故に学ぶ  畑村洋一郎 東京大学名誉教授

(上は日経の記事で登録会員にならないと読めないので、この記事を全文引用した福島県民の方のブログをリンクします。事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【1】  事故調トップ・畑村氏の「原発失敗学」【2】)

また産経にも同氏に対するインタビュー記事があり、内容は似ています。

原発事故考(上)失敗学会理事長・畑村洋太郎

こうして感心して読んでいたら、なんと、福島第一原発を巡る政府の「事故調査・検証委員会」の委員長になった方なんですね、驚きました。

初めの日経のサイトの記事ですが、そこには宮古市の防潮堤についての話です。

 被災地を回って気付かされることは多い。岩手県宮古市田老地区では、新しい防潮堤は津波で破壊されたが、昭和8年(1933年)の大津波直後に設計された防潮堤は原形をとどめている。
 どういうことか。地形を見てみると分かる。新しい堤防は湾口に対して直角に、真正面を向いて建設されている。だから津波の勢いをまともに受けて破壊された。これに対し、古い堤防は湾口に対して斜めを向いている。津波の圧力を真正面から受け止めるのではなく、山の方向へ逃がす設計になっているのだ。
 昭和8年には高さ15メートルの大津波が田老地区を襲った。先人はどれだけ巨大な防潮堤を建設したところで、津波を完全に押し返すことはできないと悟ったのだろう。水が入ってきたとしても、退避のための時間稼ぎができればいいという発想だ。古い防潮堤の内側は高台から放射線状に道が延びるなど町全体が高台に逃げやすいようにできている。
・・・
 今回の復興でも高台に町を移転するというだけでいいのか。すぐに逃げられない高齢者は高台に住むとしても、むしろ防潮堤はあまり高くせず、いつでも逃げられるように適度な警戒感を持って生活した方がいいのではないか。

昔の人たちの方が、今の科学万能主義の考えよりもはるかに知恵を持っていたのです。「自然の驚異に対して人間の力が対抗できるわけがない、だからその勢いをある程度受け、それをかわすようにする」という発想です。そして「適度な警戒感を持って生活する」ほうが、よっぽど健全で理にかなっています。そして極めつけは次です。

 もう一つ、田老地区の古い防潮堤の水門の事例を紹介しよう。筆者が1996年ごろに訪れた際、手動で水門を開閉していることに興味を持った。「なぜ手動なのか」「電動では、電気が来なくなると閉められないでしょう」。案内人は答えた。今回再度訪れたところ、津波が来る前に水門は閉められ、被害を小さくするのに役立ったという。

あまりにも当たり前ですね!電気がなくなるのは。でも、これは頭脳明晰な東電の人たちも「想定」していなかったすぐれた知恵です。

私も常々思うのですが、昔の人たちのほうが今の私たちよりも明晰であったのではないかと思います。キリスト教の中でも言えるのですが、比較的昔の人々の言葉のほうがずっと残ります。「もっと改良しなければならない。」と考える最近の人たちの話のほうが、かえって洗練されておらず、瓦解することが多いです。

東電を責めない

そしてこの方の議論で優れているのは、これを「東電を責める」ことにしていないことです。

しかし最悪の事態を想定しなかったとして、東電ばかりを責めるのはどうかと思う。「あいつが悪い」と指摘するのは「別の人ならばうまくできた」という問題のすり替えにつながり、物事の本質を分からなくしてしまう。

その物事の本質とは何かと言いますと、「日本的企業の体質」であると言います。国の基準を守っているから問題ないという東電の考え方は、緊急事態では機能しない。」とのことです。けれども、これは企業に限らず、個々人の私たちがそういう体質を持っており、災害対策で重要なこととして、「(1)自分の目で見る(2)自分で考える(3)自分で決める(4)自分で行動する。この4つが重要で、第三者が決めたことに従って失敗すると、「自分は悪くない」と言い訳をする。」とのこと。

そう、つまり東電の問題だけでなく、私たち自身が問題なのです。何か問題が起こるとすぐに政府のせいにする、行政のせいにする、学校でも会社でも少しでも不都合なことが起こるとすぐに文句を言う、という「問題の摩り替え」を行っているのです。自分自身が、物事に果敢に対処する、頭を使って状況判断をする、クリスチャンであればそれが「御霊に導かれる」ことである、ということです。

続けて三陸海岸の話をしておられます。

三陸海岸では小学校で津波に対する教育や訓練を日ごろから実施していた。しかし、あらかじめ町や村が決めた避難所に逃げたのに津波にのみ込まれてしまった惨事がある一方で、決められた避難所よりもっと高い場所に逃げないと危険だと自分たちで早く判断して逃げて助かった小学校もあった。

私たちがしばしば行く東松島の被災地においても、仙石線で石巻と仙台を結ぶ列車がそれぞれ上り、下りの二つが走っていて、片方は地震後、マニュアルに沿って避難してその避難所が津波で流されたのに対し、もう片方は車掌らが避難所に誘導しようとしたところ、地元の人がとっさに、「ここは高台だから車内にいた方が安全だ」と叫び、皆、その言葉に従ったそうです。そしたら、津波がまさにその列車の周りに襲って、その高台だけが冠水しなかったとのこと。(運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 JR仙石線野蒜駅

この咄嗟の状況判断が、東電はまるでできていなかったこと、けれども当人たちは「真面目に」現行通りのシナリオで動こうとしていたのです。(それでも例えば、現場の吉田所長が官邸や本部の指示ではなく、一時間注入をし続けたという面もあります。)

御霊に従うのは「もどかしい」

ぜひ、使徒の働き27章を読んでください。そこにローマに向かう船の中に、パウロを含む囚人が乗っている場面が出てきます。パウロは人々に注意して、「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。(10節)」と言いました。けれども、「百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。(11節)」とあります。パウロは状況を見て御霊によって語ったのに対して、百人隊長はいわば「マニュアル」を信じたのです。

けれども嵐の中で死ぬ思いをしていた彼らは、パウロが次に神から語られた言葉はようやく聞く耳をもって、彼の指示に一つ一つ従いました。それで一人も命を失う者はありませんでした。

この前のローマ人への学びは8章前半で、「御霊に従う」ことでした。これが、捉えどころがなく難しいという感想が出てきましたが、その通りで御霊の導きはまさに「捉えどころ」がありません。マニュアル化できないのです。他の人が行っていると言って、それを行ってもうまくいかないのです。そしてある時にうまくいったことも、次にうまくいくかわからないのです。そして、パウロのように信用されなかったりすることもあるし、批判されることもあります。けれども、「これだ」と御霊に示されたことを果敢に行っていくことが必要なのです。

神の御声を聞くことは、たった独りでしかすることができません。他の人が代わりにすることができないのです。けれども、これを行わない限り信仰が芽生えません。これはもどかしいです、けれども聞き従った時に、これまで体験しなかった、不思議で新鮮な御霊の働きを体験できるようになります。

恵比寿バイブルスタディ6月8日のお知らせ

お元気に過ごしておられますか?

私は、前回の東北救援旅行からもう二週間経ち、少し体の疲れを取ることができています。そして2005年の今頃はもう韓国にいたので、日本の梅雨は7年ぶりになります。すべてのことが感謝で、雨が降っている時もそのしっとり感が心地よく、今日のように晴れて涼しくなるのも、とても爽やかで気持ち良いです。

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせです。

日時:6月8日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第二会議室
聖書箇所:詩篇92篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

ぜひいらしてください。

原発危機と日本

昨日、午後の第二礼拝の後、その疲れを取るようにチェンネルサーフィンをしていたところ、次の番組に釘づけになりました。

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NHKスペシャル シリーズ 原発危機 第1回 事故はなぜ深刻化したのか

いまだに危機的な状況が続き予断を許さない原発事故。当初の想定を超え、水素爆発やメルトダウンなどが進行し、後手後手の対応の中で、汚染は拡大していった。
なぜ、ここまで事故は深刻化したのか。事故対応にあたった官邸、保安院、原子力安全委員会、そして東京電力はどう動いたのか。
当事者たちの証言と内部資料をもとに徹底検証する。
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非常に衝撃的な内容でした。先日の記事「政府や東電を信用するな?」に書きましたが、私は、「いわゆる意図的な隠蔽工作はしていないだろうが、それぞれが目の前にある問題に対処するのに精いっぱいで、全体像を見ていないために、その実直さが裏目に出たのだろう」と思っていましたが、まさにその通り、いやそれ以上でした。

詳しいことはぜひこの番組を見ていただきたいのですが、再放送が「6月13日(月)午前1時30分~2時28分 総合 (12日深夜) ※近畿ブロックは午前1時43分~2時41分)」にあります。

情報の錯乱と連絡系統の破綻

東電は、予備電源不能、ベントなど「もうこれで終わりだ」という絶望に近い声を上げ、保安院そして官邸までの連携が取れず、官邸では各党の党首と会う菅首相が会っているので待っている状態。原子力委員会は「水素爆発は起こらない」と判断したこと。あまりにも情報が官邸に上がってこず、官邸と保安院と原子力委員会の連携が破綻したため、菅首相は有識者らの集まりを別に設定、そこで「二号機も爆発する」と言った人がいたにも関わらず、それが知らされず自衛隊が出動し、ちょうど到着して車両のドアを開けた時爆発し、自衛隊員が被爆したこと、避難民への指示も「マスクを口に当てて」ということしか言っておらず、そして風向きの情報が官邸にあったにもかかわらず、その指示を出さず風向きに避難してしまったなど・・・情報錯乱と混乱の連続の姿を見ることができました。

けれども同時に、分刻みの記録は東電も保安院も克明に記しています。官邸も、届いた情報に基づき、国権で全力挙げて東電を手助けしている様子も伺え、菅首相も与えられた情報と混乱収拾のために、常識ある行動をしていたことも見ることができます。

しかし、「不確かな情報を流すことはできない(官邸)」「官邸はどう見ているのだろう(保安院)」など、慎重さと相手への配慮(?)が大きな仇となりました。また、東電の現場を指揮する吉田所長は下請けの作業員に被害を負わせてはいけないと判断し「撤退」と言った言葉が、東電社員は残っているにも関わらず、官邸の首相を激昂させ、東電本社に乗り込み、「撤退は絶対に許されない」という怒号を上げたことなど、それぞれが真剣であるがゆえに、その混乱も拡大されていった様子も伺うこともできます。

問題は現政府にあるのではない

ところで、私はちなみに、原発推進論者でないことを前もって言っておきます。けれども、「想定外という東電の言い分は間違っている」というのは、はたしてその通りなのでしょうか?反原発の人たちは、今回の未曾有の津波を想定したのでしょうか?けれども、核分裂というとてつもない危険な作業をしている発電所は、あらゆるシナリオを想定しなければならず、千年に一度と言われる地震が完全に予想できなかったわけではないことも踏まえると当然責任はあり、このような混乱をもたらした危機管理の不備は菅政権にその責任を問われてしかるべきだと思います。

しかし菅首相を退陣させることによって、問題は解決するのでしょうか?菅直人という個人の判断ミスというよりも、むしろその危機体制を整備していないことこそが問題であり、今後誰が首相の座に就こうとも、全く同じ問題が起こると思っています。これは、小泉政権以後、次々と首相が変わる日本全体がおかしくなっていることにも関わっています。

私がいつも思い出すのは、アッシリヤによって滅びる前の北イスラエルの後期の姿です。新たに王が立てられるや、その家臣が引きずりおろし、自らが王となり、それが繰り返されてころころ変わっていく姿です。

「彼の侍従、レマルヤの子ペカは、彼に対して謀反を企て、サマリヤの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエとを打ち殺した。ペカには五十人のギルアデ人が加わっていた。ペカは彼を殺し、彼に代わって王となった。(2列王記15:25)」
「そのとき、エラの子ホセアは、レマルヤの子ペカに対して謀反を企て、彼を打って、彼を殺し、ウジヤの子ヨタムの第二十年に、彼に代わって王となった。(同30節)」

北イスラエルは、「主の目の前に悪を行った」という根っこの問題があったために、王を摩り替えてもアッシリヤに滅ぼされたと同じように、日本にも現政権よりももっと深い、根っこにある問題があるように思われます。

太平洋戦争の教訓

私は東電・保安部・官邸にある意思決定のありさまを見るにつけ、太平洋戦争を決定せしめた指導部の意思決定を思い出しました。同じくNHKスペシャルがかつて、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」というシリーズで、「第4回 開戦・リーダーたちの迷走」という題名で取材をしています。

日本の国策決定の場は、全ての組織の代表者が対等な権限を持つ集団指導体制で、全会一致が建前。常に、曖昧で、玉虫色の決定が繰り返された。各組織のリーダーたちは、戦争に勝ち目がないことを知りつつも、戦争できないと言うことが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。海軍、企画院、陸軍、首相、それぞれが互いに責任を押しつけ合い、重大案件は先送りとなっていく。しかし、日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見通しがみえない中、首脳部は、国力判断、すなわち国家の生産力・戦争遂行能力のデータを総動員して、譲歩か、戦争かの合議を行う。結論は、各組織の自壊を招く「戦争回避」より、3年間の時間を稼ぐことのできる「開戦」の方に運命を賭ける。
日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110306.html

彼らは、冒険主義ではありませんでした。それぞれの組織の中で誠実であり、むしろ慎重な姿勢を貫きました。しかし、だれもが「責任」いいかえると「指導権」を取ることを避けました。そして、彼らが最も気にしていたのは、実は「国民」でした。「戦争できないということが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。」がそれです。

これは第4回ですが、第3回には、「”熱狂”はこうして作られた」という題で、こう要約しています。

日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。
時には政府や軍以上に対外強硬論に染まり、戦争への道を進む主役の一つとなった日本を覆った“空気”の正体とは何だったのだろうか。日本人はなぜ戦争へと向かったのか、の大きな要素と言われてきたメディアと庶民の知られざる側面を、新たな研究と新資料に基づいて探っていく。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110227.html

実はファシズムと言われていた戦時中の日本と今の日本は同じであり、指導層は、マスコミによって煽られた人々の空気に縛られていました。小泉以後の自民党政権にしろ、現民主党政権にしろ、いや日本だけでなく、実はブッシュ大統領以後の米国の政権にも見ます。

要は、「相手が気になる」「全体を調整しなければいけない」という、実際は「リーダーシップの回避」という問題があります。「実直さ」「慎重さ」によってさらに増幅されて、制御できない原子炉のように全体がどんでもない方向に突入していくのです。

大局のない人々

とどのつまり、これは私たち一人一人の課題です。それは大局から計画し行動する、ということです。政府や東電を批判する前に、私自身それができているのか?と思うことがあります。

今回、被災地に行き、特に初動段階では、リーダーシップの必要性を切実に思いました。先がどうなっているのか情報が入ってきません。ですから、常識で考えたらすべてが「やらないほうがいい」ということになります。けれども、祈りつつ、「これではないか」と感じることを次々と自分で判断して、決定して行わなければいけません。それを行なうと、自分がもっとそのことに時間と労力を費やさないといけません。その過程で、批判や誤解が生じても、勇気をもって行動に移す時に、事が進んでいきました。

それを別の言い方をすると、「御霊に導かれる」ことです。御霊に導かれるときには、相手がどう思うかとか、全体の調整を見て判断することはできず、ただ自分の意志を独りで働かせることしかできません。指導者とは、つまり全体に与えられている姿を見て、信仰者であれば神から示された幻として受け止めて、それに信仰をもって反応し、行動に移すことです。「この人はどう思うだろうか。」「これをやったら、自分が労苦しなければいけない」などの懸念を振り払って行っていきます。

以前、「ロゴス・ミニストリーと日本の教会」という論考を書かせていただきましたが、そこに「内から外へ向く御力」という部分がありますが、神が与えてくださるのは大局なのです。そして小さな事柄は、その大局に付いてくるものです。小事を調整するあまり、大きな方向性が誤ったところに向いていることに気づかないのです。

私の住んでいるマンションの総会に妻が参加しましたが、ほとんどの人が発言を控えていました。一人だけが延々と話していたとのことです。けれども、これが太平洋戦争前の日本の縮図であり、原発事故の危機管理の縮図でもあります。「どうしようもないな菅政権」と人差し指を差している時、三本の指は自分自身に向いているのです。リーダーシップを取ろうとしない姿、全体の和を崩したくない姿、自分の生活を乱したくない姿、すべてを静かに丸く収めようとする姿、それゆえ何が実際に起こっているのか真相をつかめない姿、けれども、文句だけは人一倍言っている姿です。

6月以降のLCF活動のお知らせ

みなさん、こんにちは。

6月以降のLCF活動のお知らせを致します。先ほど教会案内のカレンダーを修正しましたが、こちらにも簡単に記したいと思います。

毎週土曜日
14:00からの「ローマ人への手紙の学び」は続けて、「足立区こども家庭支援センター」別館にて行います。そのあと活発な質問と話し合いの場となっており、カウンセリング的な雰囲気もあります。ぜひおいでください。

17:45-18:30に「祈り会」をOCC307号室で行います。17:30から部屋を空けていますので、どうぞお入りください。

そして「第一礼拝」を同じく307号室で行います。時間は変わらず19:00-20:30です。ぜひ礼拝にご参加ください!

毎週日曜日
第二礼拝のみとなります。6月は続けて足立区綾瀬の自宅にて、詳しい住所はinfo@logos-ministries.orgにお尋ねください。

そして7月以降は基本的に、「足立区こども家庭支援センター」別館にて行います。(予約の取れない場合は足立区綾瀬の自宅にて行います。)これまで人家での礼拝にはとまどいを感じておられた方も、ぜひ、おいてください!

※ 7月16日(土)ローマ人への学びと、7月17日(日)の第二礼拝は、私が不在のためLCFはお休みになります。16日の祈り会は行い、また第一礼拝は他の者が説教をするので続行します。

「政府や東電を信頼するな?」

数日前、福島原発で実はメルトダウンが起こっていたというニュースが流れて、なおいっそうのこと「政府や東電を信頼するな」「彼らは嘘をついている」という言葉が多くなりました。そして、「風評被害」に対しても実際なのではないかという疑いを言う人たちが多くなってきたと思います。このことに関する私の困惑の思いを分かち合わせていただきます。

日本は良い国

私はアメリカに二年半、韓国にも三ヶ月、そしてまた別の国に五年ぐらい住んでいました。そして日本に再び定住する生活を送っているのですが、日本のことが本当に好きになりました。日本では当たり前にされている制度や習慣、態度が、他の国々では存在しておらず、当たり前に思っていたことが実は尊い遺産であり財産なのだと知るに至ったからです。

さらに、東日本大震災において被災地に何度か赴き、同じ体験をしています。当たり前に与えられていた安全や豊かさが取られた今、そこに残されたのは真の生きる意味でした。これまで安全や豊かさがあったがゆえに、人々が置き忘れていたものがそこにはあります。それがまことの神とキリストに出会う機会になってくれればと願ってやみません。

この前置きを言った後で極私的な意見を言わせていただきますと、政府や東電はずいぶん頑張っていると思います。誠実に国民に対して説明開示をしようと努力しています。「えっ?何を言っているんですか?!」と反発される人々も多いかと思います。けれども、日本在住の外国人たちがなぜ海外に逃げてしまったのかは、彼らにとって政府や企業はそれだけの存在だからです。自国の政府が隠し、また社会の中でも互いに騙しあうことが頻繁にあるために、災害のような危機に面する時は、全体で動くのではなく我が身の安全を守ることを優先するのです。

むしろ、今回政府や東電が犯してしまっている過ちは、過剰な慎重さにあります。科学的に正確でなければならないことだけに注目し(東電)、また後に国民から批判を受けないように言葉を慎重に選び(政府)、かえってその過剰な実直さから結果的に誤報を流しているのではないか、と感じています。そしてもちろん、目前の問題への対処に明け暮れた挙句、全体像を見ていなかった結果、問題解決する速度がいつも遅れているとも感じています。

政府は信頼できない???

そして本題に入りますが、私が驚いたのは「信頼できない」という言葉に含まれる、「過去は信用していた」という前提です。そもそも政府というのは信頼したり、頼ったりする対象なのか?ということです。

かつて鳩山首相がオバマ大統領に”Trust me.”と言ってみたり、ドラマでは頻繁に「それでも私はその人たちを信じます。」という台詞が美徳となっています。しかし人や政府、その他の事柄をそのまま信じていくということ自体が、実は「すべてを支配されている神」に信頼していないことを表れなのです。

東電についても、「東電はこれまで安全だと言っていたのに」と言っていますが、安全などもともと存在しないのです。むしろ、主の憐れみによってこれまで安全を保っていることができたのだ、というのが正解なのです。今も、放射線物質は原発から漏れていますが、主が憐れみ、守ってくださっているかぎり、絶対に安心なのです。もしそうでないなら、それでも御心の中で起こっているのですから平安です。

つまり、頼るべきお方は神のみであり、私たちの安全は主に属します。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。 (詩篇20:7)

これは国の軍事力により頼むのではなく、主ご自身に安全をより頼もうということで、日本について言えば災害に対して誰に拠り頼むのか、それは政府ではなく主の御名なのだ、ということになります。

そして詩篇91篇全体をお読みください。その一部だけを引用しますが、

主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(3-5節)

疫病や恐怖は、まさに今、そのまま「放射能汚染の恐怖」に当てはめることができるでしょう。神を信頼している者は、基本的にそれらのものを恐れないのです。恐怖というのは、私たち人間にとっての敵です。神はイスラエルに戦いの勝利を与えられるとき、敵陣に恐怖を植えつけられました。それで例えば、300人のギデオンの軍が13万5千人のミデヤン人に勝利できたのは、彼らが恐れて同士討ちを行なったからです。恐怖は人間を破局的な行動に駆り立てる力となってしまいます。

けれども、恐れないのは無防備になることではありません。マルコ16章において、福音宣教に対する約束として、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、病院に手を置けば病人はいやされます。(18節)」とあります。この聖句を使って、蛇をつかむ集会を持ったりする極端なグループがいた話を聞きます。また無理やり病院に行かせず、適切な治療が受けられなかった信者が死んでしまった話も聞いたことがあります。それはすべて「主を試す」という罪であります。

けれども、福音宣教のように、主の御心を行なおうとするときに、やむを得ず生じる危険に対して、主が必ず守ってくださるし、また医療の手段がなければ超自然的に癒しも行なってくださる、という約束です。ですから無防備になれ、ということではなく、「注意を払うが、思い煩う必要はない。主が守ってくださる。」という立場なのです。ですから、私は毎日ニュース記事を読んでいるし、しばしば大気中の放射線量サイトも開いています。けれども恐れません。東北地方に行くのも、20キロ圏外であれば福島に行くのもためらわず行ないます。

むしろ、不安になったりするのは、本当の危険が迫っているからではなく、余裕があるからなのです。安全圏に自分がある程度いるので、思い煩っているために起こっています。風評についてこのような記事がありました。

まず、風評というのは危険が切迫しているから起きるのではないということがあります。むしろ、その時点での危険は「遠い存在」であること、そして危険回避行動について「選択の自由がある」という条件があって初めて「蔓延」するのです。まず「遠い存在」であることから、実態が良くわからないという状況になります。分からないから不安であるし、政府やマスコミは何かを隠しているのではないか、そんな疑心暗鬼も生むわけです。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/04/post-282.php

そしてあるツイッター記事では、「東京の人々は放射性物質が自分に降りかかる事ばかり考えている。津波の被害を受けて大変な人たちの事もっと考えたらどうか。被災地で原発の話している人は殆どいないと思う。東京より福島原発に近いのに。」という内容がありました。今でこそ少し安定して、テレビでニュースを見る余裕もあるので、被災地では放射能の話をしておられる人々もいますが、基本的にこれは事実です。

思い煩いというのは、「自分で支配・制御できなくなった」ところから来る不安であり、罪です。自分を支配しておられるのは神なのです。私たちはこれまで、自分たちで守るという、自存心、相互への依頼心によって生きていました。だから、政府や行政、その他の機関が機能していないと不安になるのです。けれども、神は機能しておられます!むしろ、頼るべきものが取られたとき、神が支配しておられることを知ることができて幸いなのです。

私の実家も、いろいろなものが神にあって取られました。それで、「すっきりした。これまで思い悩んでいたものが、はっきりと取られて、神の御心をはっきり知ることができた。」と両親は言っています。ある教会の牧師は、「教会堂がなくなってしまって、かえってすっきりした。」という大声ではいえない(?)感想も漏らしています。

主が避難所なのです。「わが避け所。わがとりで。私の信頼するわが神。(詩篇91:2)」・・・興味深い話を聞いたことがありますが、1980年代、老夫婦が核戦争の危機に対処するために、地球上にある住居地をくまなく、細かく調べたそうです。世界中でどこが核戦争の危険を回避できるか、平和と安全を確保できるかを決めようとしていました。研究と旅行をし尽くしました。クリスマスに、その老夫婦は母国の教会の牧師に、新しい住居からのクリスマスカードを送りました。フォークランド諸島です。ところがその「楽園」は、今や現代史で「フォークランド紛争」と呼ばれる、英国とアルゼンチンとの間の戦地になったのでした。

政府は神のしもべ

そして、私たちは政府に対して、また公の機関に対して(東電もある意味で公的な役割を果たしています)、どのような態度を取るべきか、見てみましょう。ペテロ第一2章13-17節です。

人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。

政府や行政は、私たちの神にその権威を与えられた、神のしもべです(ローマ13章1節)。キリストを信じる者は、これら政府などに従属していない神の子供であり、キリストにあって王であり祭司です(黙示1:5‐6)。日本政府も東電も神の御手の中で動いていることを確信することができ、ゆえに、政府を信じるとか信じないとか、まるで彼らの奴隷であるかのようにあたふたする必要はありません。

キリスト者はこのような自由と余裕を与えられているのですから、むしろ、積極的に神が置かれた権威に敬意と誠意を表していきます。善を行なっていきます。これゆえに、私は、批判しこそすれ、政府も東電も意地汚く罵ることはできません。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」とあるとおりです。そして全ての人を敬い、神を恐れ、王を尊びます。「日本人はお上の言うことに従う国民性を持っている」という人たちがいますが、私たちはお上だから従うのではなく、神の証人として従うのです。

それゆえ、私は自分の区にある災害対策室の人と話せたことを幸いに思いました。被災地で自衛隊の人たちと笑顔を交わし、挨拶をし、会話ができて幸せでした。そしてニュースで毎日見る菅首相や官邸にも、感謝しています。「菅首相、ご尽力ありがとうございます」と一言、メールにでも声をかけようかなとも思います。

そして私たちは、信仰は「議論」するものではなく、「行動に移す」ものであることを、ここで「善を行ないなさい」というところで見ることができます。政府や東電が間違った方向に進んでいると感じたのであれば、ぜひ祈ってください。神が私たちのために置いてくださった人々なのです!この日本の復興のために知恵が与えられるように、そして何よりも神の栄光が現れるように祈ってください。そして神のゆえに、彼らを敬ってください。

そして、この記事を読んでいる人で関東圏の人は、東電の恩恵を受けているから読めるのです。関東ではない人も、それぞれの電力会社が、24時間、間断なく電気を供給してくれていることを、主にあって感謝してください。私がいた所では、しょっちゅう抜き打ちの停電でした。デスクトップの人は、それまでのデータが消失することもよくあるのです。主の憐れみによって、このブログを読む電力が与えられているし、またそうした余裕も与えられているのです。主が少し思いを変えられれば、パソコンも津波で流され、火事で消失したり、何でも起こりえるのです。感謝してください。

そして私は今の日本の悲劇は、「指導力の欠如」だけでなく、「指導者が愛されていない、尊敬されていない」ことだと思っています。私たちは民主主義の国に生きている前に、神の国に生きている者たちです。表現の自由を悪口ではなく、尊敬と祈りのために費やそうではありませんか。

(さいごに)政府と東電の発表を信頼できない人へ
あのホリエモンがツイッターで面白いことを言っています。「政府や東電が信頼できないなら、民間のデータを参照すりゃあいい。これまでの膨大な研究結果もネットで閲覧できる。放射線被曝の基準も公開されているし統計的データを参照して作られた。それでも信用できないか?」ごもっとも!

6月以降のLCFの礼拝場所

こんにちは。関東地方も梅雨に入りましたが、みなさんはお元気ですか?

LCFでは、今日と明日はいつものスケジュールで活動を進めます。

今日
14:00 ロマ書の学び(7章) 足立区こども支援センターにて
18:00 祈り会 OCC307号室
17:00 第一礼拝 OCC811号室

明日
14:00 第二礼拝 足立区綾瀬

そして6月以降ですが、

1)祈り会の時間が17:45から
2)第一礼拝が811号室から307号室

に変更します。来週改めてご連絡いたします。

追記:昨日、第一礼拝用の説教原稿を印刷した直後に、私のパソコンDELLのInspironが起動不能になりました。サポートに問い合わせたところ、メモリーのせいではないかとのこと。これまでDELLは三台使っていますが、すべてメモリーの交換をそれぞれ二度以上しています。みなさんでDELLをお持ちの方で同じ問題は起こっていますか?

そのため、ホームページへのメッセージのアップが多少遅れるかもしれません、ご了承ください。

あとバックアップを取っていなかったので、ハードが壊れていないことを祈っています。

いつまでも THANK YOU LORD

下は、「第六回 東松島牛網旅行」の音楽タイムで、トラビスが歌った歌の映像です。彼は、ここの牛網避難所の人たちのことを想いながらオリジナルを作りました。僕も泣けてきました。もうこれは救援活動ではなく「絆」でしょう。そして私たちの内におられるキリストを見ていただく共同体です。

この曲は東松島市牛網の被災者のために歌いました。イエス様がどれほどこの人たちを愛してくださっているから。

~~ いつまでもTHANK YOU LORD ~~

1) ただ独りで、ここに座ってる
圧倒される気持ちを感じながら
こころは 超heavy どうすればいい? 
でもまた、気づいた

Chorus:
私のそばにいつもいるから
どれほど愛されてるか(が)わかった
だからこそあなたに言いたいのは
ただ、いつまでも Thank You Lord

2) ただ独りで, 人目を避ける
背負ってる重荷を思いながら
My heart は苦しい もうあきらめたい、
でもまた、気づいた

Bridge
いかなる嵐でも だきしめて
その大切なことを 思い出させて、

CHORUS

3) 独りでも、独と感じない
Agape愛と平安を持ってるから
なにが起こってもIn my heart 思い出す
いつもの一言

Last Chorus:
私のそばにいつもいるから
神様に愛されてると分かった
だからこそ主に言うべきことは
ただ、いつまでも Thank You Lord

私のために十字架に死んだ

ただ、いつまでも いつまでも
ただ、いつまでも Thank You Lord

第六回目 東松島牛網旅行

今回、5月23-25日まで、トラビス(CC所沢)、リッチ(CC府中)、山東さん(CC西東京)、そしてLCFに礼拝賛美の奉仕に来てくれているマイケル(CC所沢)が、東松島の牛網避難所で時間を過ごしました。そして仙台在住の武田さんも手伝いに来てくださいました。LCFが訪問したのは、合計四回ですが、避難所は六回の訪問を受けたことになります。

私は、カルバリー沖縄のリックの仙台拠点探しに別行動で仙台に行きました。CC LaHabraによる「コミティッド・リリーフ」を通して、今年の夏、米国から救援活動に来る人たちが泊まれる拠点を探す担当を担っていましたが、彼は今回の旅行でサマリタン・パースの人たちとの連携や、沖縄の米国系バプテスト教会の救援チームと行動を共にしていたため、CC那覇の大城さんと私が、拠点探しを24日に行ないました。午後4時までには望ましい所が見つかったので、それでその足で東松島まで行き、夕食とその後の音楽タイムに飛び入り参加することができました。

山東さんが早速、今回の旅行の報告をしてくれています。ぜひお読みください。

震災支援レポート-052511

大きな変化は、多くの人が仮設住宅に移っていき7月中には完了するそうだということ、です。最後の日に、千葉さんが彼らを既に仮設住宅に移り住んだ人の所と、関連のある避難所にも連れて行ってくださいました。今後は、そちらでの奉仕に移っていくものと思われます。

トラビスと山東さんが、音楽タイムの締めで軽く福音を語りましたが、山東さんが良いことを言われました。「ここには、たくさんのボランティアの人たちが行き来していますが、私たちはずっと皆さんの友達でいたいです」と。他の地域にもたくさんのボランティアの必要がある中で、私たちは同じ所に通いつめました。単に救援の手を差し伸べている以上の、彼らとの交流が私たちの目的だったからです。そして主の憐れみによって、その心の戸が開かれており、絆も結ばれています。

Facebookにある山東さんが掲載した写真の一部を、いくつか載せたいと思います。

ネタニヤフ首相の米議会演説

続けて、ネタニヤフ首相の米議会演説の話題です。ネタニヤフ氏の米議会演説を先ほど、すべて観ました。

Visit msnbc.com for breaking news, world news, and news about the economy

今、日本語のニュースサイトでこの演説の内容を調べてみると、「強硬姿勢崩さず」という言葉が多く出てきましたが、私は、clarityという言葉を思いました。つまり「明快さ」です。

私が印象に残っている点を書き記します。

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イスラエルは、中東の内で初めから民主主義と自由を固持してきました。米国が唯一、中東において民主主義と自由を輸出しなくても良い国です。北アフリカと中東の中にあるアラブ人の民主化運動は、彼らに同じ自由を享受する権利を示しているが、イスラエル系アラブ人はその自由を何十年も持っていました。

米議会は拍手と起立の渦に巻き込まれていましたが、一人の女性が抗議の声を挙げ、少し中断しましたが、ネタニヤフ氏は、「これこそ自由の印であり、反対表明を言えるのだ。」と歓迎する態度を示しました。これを現在の中東で行なうと、実力行使で押し潰されるのは、見ての通りです。

そして、かつても民主化の動きがかき消されてしまった歴史を思い出す必要があります。1979年のイラン革命、レバノンのヒズボラの台頭がその一つです。

イランの核兵器開発は長いこと行なわれていますが、2003年に一時期とまった時があり、同じ時期にカダフィもあきらめています。それは、あらゆる手段を辞さない姿勢を示したからであり、私たち、特に六百万人の同胞を失ったイスラエルは自衛権を有しています。

イスラエルは平和を渇望しています。エジプトとヨルダンとの平和条約が、それが結ばれる前の戦いを考えると、どれだけ貴重であるかをよく知っている。今はパレスチナ人との和平を望んでいます。その為には、痛みを通らなければいけません。ユダヤ人の郷土である「ユダヤ・サマリヤ地方」の一部を放棄しなければいけません。イスラエルは、その地域において外国の占領者ではなく、古来からイスラエル人の土地でした。アブラハム、ダビデ、イザヤ等、歴史の歪曲があってはなりません。

パレスチナ人も、その尊厳と主権と、経済的繁栄を享受する権利があります。それ故、パレスチナ国家が存在すべきです。事実、ここ二年間、私たちが検問所を取り外し、パレスチナの経済は10パーセントの成長を遂げました。

オスロ合意以降、歴代のイスラエル首相が、ネタニヤフ氏も含め、パレスチナ国家を推奨してきました。ところが頓挫します。その理由は明快で、「パレスチナが、その国家を認めないこと」にあります。その国家が、「ユダヤ人国家との共存」を意味することにおいてです。イスラエル・パレスチナ紛争の本質は、パレスチナ人の国家が存在できるかどうか、ではなく、ユダヤ人国家の承認でありました。47年の国連決議で、ユダヤ人の地とアラブ人の地の割譲案に対して、ユダヤ側は承認、アラブ側が拒否しました。オスロ合意以降の首相は、六日戦争でイスラエルが確保した領土のほとんどを譲歩したにも関わらず、拒みました。残念なことですが、パレスチナは子供たちにイスラエルを憎むように教育しています。

私にとって、「パレスチナ国家を承認します」というのが痛いことであるのと同じように、私はアッバス議長にも同じ痛みをしてほしいです、「ユダヤ人国家を認めます」と。

国境線引きは、実際の人口の推移を踏まえなければいけません。すでに67年以降の領土において65万のイスラエル人が住んでいます。そしてエルサレムとその近郊にも既に数多く住んでおり、その現実を踏まえなければいけません。入植地は交渉の場で決着すべきでしょう。ある入植地はイスラエル国家の領域外になってしまうかもしれません。けれども、67年以前の境界線に戻れば、イスラエルの防衛が不能状態に陥ってしまいます。

そしてパレスチナ国家が認められれば、当然ながらパレスチナ難民はその国家内に移動すべきです。ユダヤ人国家は、離散のユダヤ人と難民になったユダヤ人を吸収しました。

そして、交渉の相手は、イスラエルとの和平を望んでいる人々でなければいけません。ハマスは、その憲章でイスラエル懺滅を唱えているばかりでなく、ユダヤ人を殺せと提唱しているのです。ハマスは、パレスチナのアルカイダ版です。

そしてエルサレムは、イスラエルの主権下にあったときにだけ、三つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の自由が保持されました。エルサレムは分割してはなりません、イスラエルの首都であり続けるべきです。
(参照: イスラエル外務省の原稿の起こし
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本当に原則的な話ばかりで、難しいことは話していません。実に、「民主主義」「自由」「安全保障」を大事にした演説です。彼は非常に流暢な英語で、米議会の人々を拍手の渦に導きました。これほど友好関係を築いている二国があるものか、と感心します。

彼が話したことは、私が日頃感じていることのほとんどであり、至極当たり前だと思っていることです。けれども、聖書を信じる立場として、ジョエル・ローゼンバーグ氏は、「神の土地の割譲」と「米国への依存」においてその間違いを指摘し、イスラエルが神に立ち返ることによってのみ平和は可能であることを述べています。

けれども、私はネタニヤフ氏の「パレスチナ国家案」には驚いていません。イスラエルは、その建国当時からアラブ人との共存、二国家、二民族の立場を有しており、戦争をしても、すぐに交渉の席に着き、譲歩をしてきた歴史を読んだので、その延長線上にあると思っているからです。エルサレムをヨルダンから奪還した時も、神殿の丘の管轄をダヤン国防大臣はすぐにイスラム宗教局に譲渡してしまいました。

しかし、何かにつけてパレスチナはイスラエルの譲歩がある度にかえって態度を硬化、そして暴力手段に訴えます。そのため、イスラエルが応戦します。その結果、管理地あるいは領土が拡がります。この繰り返しでした。私は、イスラエル人当人がパレスチナ人へ土地を譲渡する姿勢があっても、神ご自身がその主権の中で、ご自分の地を守られていると感じています。

(さらに、私は戦争が起こるのを望みません。ネタニヤフ氏の原則を曲げない姿勢より、かえって、大きな譲歩を申し出た首相の時のほうが、流血が増えています。そういった意味で、二国家を提案しつつ、さまざまな条件を付ける彼の手法は非常に賢いと思います。)

さらに、パレスチナ自治政府が、周囲のアラブ諸国で起こっている民主化の痛みを通らなければいけません。デモが起こった時に、今の指導層は許すでしょうか?イスラエルは、イスラエルの国を否定する人々の意見の表明までを許していますが、パレスチナ自治政府は、イスラエル国への支持をパレスチナ人自身が発言するのを許すでしょうか?

この点で私はネタニヤフ氏の提案に無理があると思います。自治区内に、真の民主化運動が起こり、激変が起こらない限り、真実な和平相手になることは決してないと思います。一般の人々に民主的思想が根付いてこそ始めての「国家」です。

そして最後に、自治区はもちろんのこと、イスラエル国内でさえその宣教が制限されている点においては、見逃されています。イスラエル国家自体は世俗民主主義なので、信仰の自由がキリスト者にも与えられていることはネタニヤフ首相の言っている通りです。彼は特に、福音派キリスト者に対しては他の指導者以上に寛容です。

けれども、実際は建国当初からユダヤ教正統派を政府の中枢に取り入れているため、さまざまな弊害が国内で起こっています。キリスト者の宣教活動については、そうした人々による反宣教監視活動が繰り広げられているのです。もちろんそれで神の働きが起こっていないということではありません。その制限の中で、福音の戸が開かれています。

(後記)こちらに28歳の時のネタニヤフ氏の討論映像があります。もう33年を経ているのに、彼の基本姿勢は変わっていません。そして論理的・雄弁であり、討論相手に対して紳士的であることも変わっていませんね。

イスラエルが67年の境界線から撤退できない訳

こんにちは!今、仙台から新幹線で戻ってきました。月曜日の夕方に出発した短い旅行でしたが、下の記事に書きましたとおり、カルバリーチャペルが救援旅行の拠点となる住居を探すのが目的でした。けれども、主が良い所を備えてくださって夕方には時間が空いたので、東松島の避難所にも訪問しました。これまで牧師の四人衆(トラビス、リッチ、山東さん、私)が訪問していましたが、全員が集合したのは今回が初めてでした。

話は変わり、オバマ大統領がイスラエルが六日戦争以前のアラブ側との境界線に戻らなければいけないという呼びかけを行ったところ、ネタニヤフ首相が拒否したニュースはご存知だと思います。

イスラエル首相、米議会演説で「67年境界線」拒否を強調

オバマ大統領との会見後に、ネタニヤフ氏が自分の立場をオバマ氏に説明している会見をYoutubeで見ましたが、彼の主張は至極もっともで、かつ謙遜で、大統領への敬意も表れていました。

聖書的に厳密に話しますと、もちろん、イスラエルはまことの主なる神に立ち返らない限り平和はないし、神の土地の分割を意味する(ヨエル3:2)パレスチナ国家案も彼は譲歩しています。(ジョエル・ローゼンバーグ氏がこのことを指摘しています。)

しかしながら、私は個人的には、1)パレスチナ側がネタニヤフ氏の条件を飲むことは決してない。2)むしろ態度を硬化する。3)そのためイスラエルは分割案にて譲歩するどころか、その安全保障においてパレスチナを管理することになる(つまり現状維持)・・・になると思います。敵の態度の硬化でさえも、神は用いられたご自分の土地を守られていると私は感じます。

前置きが長くなりましたが、イスラエルが六日戦争以前のアラブ側との境界線に戻れない理由を、映像によって上手に説明しているYoutube動画がありました。

このCG映像を見ますと、軍事面における地勢の大切さが分かるだけではなく、イスラエルの地形を立体的に把握できるので、聖書地図理解に役立つと思います。イスラエル地図を平面図で見るだけでは、実は理解できません。ヨルダン渓谷やユダヤ・サマリヤ山地などの起伏の理解がとても大事です。さらに映像では道路の動脈についても説明しています。これもイスラエルが二つの文明(メソポタミアとエジプト)に挟まれた国際幹線道路が聖書時代から走っており、道路の重要性も忘れられません。

このごろ思うのですが、「災害や戦争における神の働き」を感じています。なぜ今回の地震・津波災害で、こんなにも神の御手を感じることができるのか、信仰によって見えてくる世界がなぜこうも広いのか、と感動している時に、自衛隊や米軍の災害支援活動も目立っていることに気づきました。戦時における態勢はそのまま自然災害に適用できるからです。そして改めて聖書を見ますと、戦争の時に主が共におられる歴史を何度も読みます。戦争を知らない世代に私は生きてきたので(団塊世代よりはずっと若いです!)、ここのところが実感できなかったのですが、このごろ立体感をもって、聖書理解と神理解ができるようになりました。