昨晩、久しぶりに恵比寿バイブルスタディを再開することができました。合計7名いて、同じく仙台出身のI兄弟も東京にいらして、出席することができました。終わりに、バーガーキングで交わりの時間も持つことが出来ました。
学びの後に、とても良い質問が出てきました。「権威」についてです。ローマ13章1節には、すべての権威は神から来ている、というところから、「人間の歴史の中には革命のようなものもあった。それはどう受け止めればよいのだろうか。」また、「ブッシュ大統領は神の名によってイラク戦争を正当化したが、そのような権威をどのように受け止めればよいのだろうか。」という質問です。
1)神の主権から漏れる権威はない
私の答えは、「ブッシュ大統領の権威も神から来たものであるし、イラクのフセイン大統領の権威も神から来たものである。」というものです。そしてダニエル2章にある、「神は王を立て、また倒す」という言葉を引用して、すべての指導者や王の営みは全て神の主権の中にあることを述べました。
そして、今回、オサマ・ビン・ラディンが殺害されたことにも触れ、「このような大きな人物が死ぬと、ヒトラーもそうであったが、必ず陰謀論のようなものも出てくるが、所詮、軍事機密などによって私たちには知り尽くすことのできない領域である。ある程度、状況を知ることは大事だが、残りは主に任せるべきだ。」と話しました。
2)深入りしない
そこで、横田めぐみさんのお母さん早紀江さんが信仰の支えとしている御言葉である、詩篇131篇を言及しました。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1節)」市井の主婦が、北朝鮮の謀略の真っ只中に引き込まれたのですが、「なぜか?」という問いかけをするのではなく、主に委ねるところにある力が早紀江さんを支えています。
私たちが、米国の対テロ戦などで、他国の主権を逸脱した行為云々で批判をしている中で、実は私たち自身が知りもしないことに深入りし、自分を裁き主の立場においていることが多々あります。けれども、むしろその出来事をも神が支配されており、ご自分の栄光のために動かしておられることを観るべきです。
そして、知らないことに深入りするのではなく、すでに知っている神の御心を行なうべきです。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:26-27)」論評や原因探しをしていると、必ず「舌」が達者になります。けれどもキリスト者は、慈善行為や福音宣教等の「実践」によって事態に対応することで忙しくなるべきです。
3)神の栄光という目的を知る
ヨハネ9章にある、「生まれつきの盲人」がそうなったことの原因をイエス様が語られず、むしろ「神のわざが現れるため」という目的を語られました。そしてそのわざは、単に目が開いたということだけでなく、イエスを神の御子キリストであると信じ、拝すことでありました。
今回の災害についても、なぜ津波が起こったのか、地震が起こったのか、原発は誰が悪いのか・・・という原因探しではなく、これらは神の主権の中で起こったことであり、必ず神の栄光が現れるために起こっていることに心を留めるべきです。
イラク戦争ではっきりしている神の栄光の一つは、「これによって宣教師がイラクに入り、福音を伝えることができるようになった。」ということです。ブッシュ大統領が行なったことが正しいか、間違っているかではなく、この出来事をも主は用いられ、魂の救いにおいて栄光を現しておられることは、明確な神の御心です。それは、東日本大震災でも同じであり、普通なら東京で五年ぐらいかかる福音伝道が、被災地では数週間で行なわれているという事実からでも明らかです。
このようにして、「権威」が神から来ていることを認めます。
4)迫害者にも憐れみと敬意を向ける
そして、国の権威が、例えばかつて天皇崇拝を強要するようなことの場合は、「人に従うのではなく、神に従う」という姿勢が必要になるのですが、それであっても、自分が権威に逆らっていることへの結果は責任をもって受けることによって、その権威に従います。
それで一つ目の質問である革命などについては、「キリスト者の良心的抵抗と共産主義者などの抵抗には、前者は迫害する人に対しても、一定の敬意を持ち、自らの抵抗の結果を甘んじて受けているのに対して、後者はただ闘争するだけだ。」と答えました。例えば、迫害国で投獄を受けているクリスチャンは、看守にでさえ憐れみの心を持つことが出来る証しを聞きます。なぜなら、そこに入っているのが神の御心であるという主権を認めているからです。
5)「感謝」がキリスト者の特徴
最後に、権威について、それを神から来たものだと認めれば、自ずと「感謝」の心が生まれます。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2:1)」私たちは政府に対して、行政に対して、そして企業に対して、いろいろな分野で権限が与えられている人々に感謝しているでしょうか?そして、祈っているでしょうか?また「すべての人のために」とありますから、普段からいろいろな人に感謝の思いを言い表しているでしょうか?
そして興味深いことに、続けて読むと、「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(2-4節)」とあります。感謝を受けるべき人たちに、素直に感謝を表明することが、究極的には霊を救いに導いています。
私たちは、あまりにも否定的に人や物事を見て、その人や対象のために祈れない、とまでなっていたらこの御言葉に反することになります。祈り、願い、執り成しができるような感謝の心を保っていましょう。
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