ワクチンは666の布石!? ~  終わりの日に生きるキリスト者とは?

 カルバリーチャペル国分寺の牧者、知主夫さんが、インターネット情報で悩んでいる、新しくクリスチャンになった人に答えています。

 アメリカの大統領選の不正選挙疑惑の時から反ワクチン情報まで、私も、こうした情報に距離を置きました。マスクやワクチンに関することも同じです。このことで、私のフェイスブックの友達関係も切ってきた方々が何人かいる、ということに気づいていました。

 同じように主イエスが地上に再び来られると信じ、同じように、その前に獣の国が来ると、聖書預言により信じていても、そのように信じている人々の中から、不正選挙疑惑や反ワクチンのことと、その終わりの日の生き方を説いていることに、強い違和感を抱いています。

 理由は、知主夫さんが明確に二つ答えています。 続きを読む ワクチンは666の布石!? ~  終わりの日に生きるキリスト者とは?

米国福音派教会から見る、分裂、背教の時代

 僕は米国の教会で育てられ、今も深い関係を持ち、そこが霊的故郷だと思っています。そこには、一人ひとりの兄弟が、御言葉を大事にし、そこから霊の糧を得て生きている姿を見ます。その純粋な姿に倣っていきたいし、受け継いでいきたいと願っています。

 それと同時に、余計なこともあります。これは日本の教会も例外ではなく、米国に限ったことではないのですが、米国の福音派の教会にある悪い傾向を日本に持ち込んでいるという意味で、深刻です。イエス・キリストに対する信仰の一致において一つになっているのに、意見の違い、見方の違いをまるで異端であるかのところまで引き上げ、分裂していく問題です。

 米国の場合は、西欧の思考、思想にある、二元論的な考え方、理念的なところでの分裂と言っていいでしょう、日本の場合は、自分の立場や他者の目が気になるような自己保身から来ている分裂、自分に不安があるために他者を排除するような分裂、村社会的な分裂です。

 米国のほうでは、分裂の次に見えてくる、終わりの兆しがあります。 続きを読む 米国福音派教会から見る、分裂、背教の時代

終わりの日:「だれも知りません」とは「いつ来てもおかしくない」

「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。」という御言葉は、「いつ来るか分からないから気にしなくていいや!」ではなく、「いつ来てもおかしくないから、いつも準備を!」ということ

(フェイスブック投稿からの転載)

 終わりの時について、しばしば、「20年前も、30年前も、同じことを話していて、何も起こっていないではないか?」という意見をしばしば耳にします。私は、そこに一つの時間の捉え方の誤りがあるのではないかと思います。その一方で、一昨日(2月13日夜)のような大きな地震が起こると、そういった時だけ、世の終わりが近いと盛り上がる傾向もあります。

 時間的な計測で終わりが近いかどうかを測るのは、ちょうど、自分が崖っぷちにどれだけ近づいているのか?という見方だと思います。聖書の「終わりの時」は、そうではなく、崖っぷちに並行で歩いていて、「いつでも終わりが来る」という切迫感の中で私たちが生きるように命じられているのではないでしょうか?

 だから、主が来られてからも「終わりの時」(ヘブル1:2)であるし、使徒たちも自分たちの生きている時に終わりが来ることを前提に教えていたし、私たちも今が終わりの時だとして生きるのだと思います。「終わりの時」という、永遠の神によって定められた時を、私たちは「並行して歩いている」と理解しています。

 実に、「終わりの日」という言葉が始めに出て来るのは、初めの書、創世記なのです。ヤコブが臨終のときに、12人の息子に対して、それぞれの部族に起こることを語りました(49:1)。この時からすでに、神を信じる者たちは、終わりを意識して生きるように命じられていました。 続きを読む 終わりの日:「だれも知りません」とは「いつ来てもおかしくない」