教会での負の経験

 多かれ少なかれ、多くのクリスチャンは「それぞれに負の経験があって、それへの反発がある。」のかもしれません。

 例を出せば、献金を過度に強調された教会生活を強いられた人は、献金についての教えを語られた時点で、「献金は律法ではない」という強い反応をしてしまいます。振り子が大きく振れてしまうと、元に戻そうとする反発があります。

 そこで思わされるのは、「神の恵み」です。「あなたがこれをしていないから、こうなっているのだ。」「これをしさえすれば、状況は良くなる。」というメッセージを、どんな話題にしろ受け取ってしまった時に、右から左、また左から右に揺れ動いてしまうのでしょう。

 そうではなく、「神がこれほどのことをしておられる。主は、あなたを呼んでおられる。」という、一方的な、強制ではない、神の呼びかけに応える時に、献身、献金、その他、犠牲を払うということが健全にできるのだと思います。

「Ⅰコリ15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。