“いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?

 キリスト教会には、主が来られ、空中にまで天から降りてこられ、教会の者たちが引き上げられること(携挙)について、また、神が御怒りを災いによって地上に表される患難が襲う前に引き上げられることについて、いろいろな批判があります。その一方で、この患難前の携挙説の正しさを強く主張しているグループもあり、両極に別れている感じです。

 私は、神が、世の終わりに、これまでの積み上げられた地上の悪に対して、御怒りを現わす時が定められていると信じています。そして、キリスト者は神の御怒りから救われることが約束されており、また、いつ主が来られても、思いもよらない時に来られる切迫したものだということから、患難期の前の携挙を信じています。

 しかし、ここで大事なのは、いつ携挙が来るのか?ということに焦点を合わせるのではなく、「なぜ主が教会にために戻って来られるのか?」ということを考えたいと思います。

御怒りからの救い

 一つに神の、ご自身の御怒りからの救いがあるでしょう。世からの患難は、悪魔から来ています。キリスト者は、その患難や困難の中に置かれて生きています。しかし、いつまでもそのままにはしておかれません、主は悪に対して悪で報いる公正な方です。テサロニケ第二1章を見れば、苦しむ者に対して、苦しみを与える目的で、神ご自身が下す患難があり、主が地上に戻られる時には、福音に従わない者たちに対する裁きがあることを宣べています。 続きを読む “いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?