マラナタ

マラナタ 2000/11/27
終末論 2000/12/25
終末に生きるキリスト者 2000/12/31


マラナタ 2000/11/27

僕が好きな、ワーシップがあります。

1. It is my desire to love You, Lord. (×3)
You put this desire deep into my heart,
I desire to love You, Lord.

I desire to love You Lord (×3)
For You will come again. You will come again.

2. “love You Lord”のところが、”know Your word”
3. “love You Lord”のところが“see Your face”

マラナサ・ミュージック」という会社があるのを、多くの方はご存知だと思います。
その名は、初代クリスチャンが、挨拶に、「主よ、来たりませ(マラナタ)」と言って、迫害の中にいる自分たちを互いに励ましあった、というところから来ています。イエスさまが来られる前夜、賛美と感謝をもって、互いに励まし合う願いが、そこがするプロデュースする音楽には吹き込まれています。

僕は、ただただ、イエスさまを愛して、みことばをもっともっと知っていき、そしてイエスさまの御顔をぜひ見たい。イエスさま、あなたは間もなく来られるからです、…という思いで、この日本の中で、この時を生きていきたい。

イエスさまが戻ってこられます。
そのときは、神の国が、正義と平和が支配する国が立てられます。
すべての労苦は、そこで報われます。
悲しみが笑いに変えられます。
イエスさまの御顔を、いつも見ることができます。
イエスさま、あなたを愛します!


終末論  2000/12/25

下に主の再臨について触れましたが、その用語をかいつまんで説明します。

まず主の再臨ですが、正統派キリスト教は、十字架につけられ、肉体をもってよみがえられたイエスさまご自身が、この地上に戻って来られる、と信じています。心の中に戻って来られるとか、目に見えないかたちで戻ってくるとか、あるいは、だれか日本人や韓国人の姿をしてすでに戻ってきているとか、そのようなことは信じていません。それらは異端であります。

しかし、正統派キリスト教の中でも、「千年王国」の考え方の違いによって三つの考えに分かれています。(「千年王国」とは、黙示録20:1-6に記されている、悪魔が底知れぬところで縛られ、聖徒たちがキリストともにこの地上を支配する、至福の千年期のことです。)
1.無千年王国説
千年王国というのは比喩的な表現であり、文字通りではない。神がイスラエルに与えられた約束はみな教会に渡され、神の国は、信者の心の中に実現している。キリストが地上で支配されることはなく、キリストが戻られるときには、天地は滅び、最後の審判があり、新天新地が再創造される。
2.後千年王国説
キリストが十字架につけられ、よみがえられてから、千年王国は始まった。キリストは天においてだけではなく地においても権威をもっており、キリストの弟子たちがその権威を行使することによって、御国が広がって行く。大ぜいのものが福音を信じ、また、この世界もキリスト教化されたときに、キリストが再臨される。
3.前千年王国説
受難を描くメシヤの預言は300以上あり、それらはみな成就したが、栄光と力に輝くメシヤについての預言は1500以上あり、まだその成就を見ていない。また、イスラエルに対する神の約束も有効である。イエス・キリストは、ダニエル書に記されている第70週目の7年間の大患難の最後に戻って来られ、イスラエルを物理的にも霊的にも救われ、諸国の民をさばき、そして、この地上で、エルサレムから全世界を統治する。黙示録20章の千年間は、この預言が完成されたときのことを話しており、したがって、千年王国の前に主が地上に来られると信じている。

そして、3番目の前千年王国説の中では、キリストが教会のために戻って来られる空中再臨、すなわち携挙の時期について、三つの意見に分かれています。
1.患難後携挙説
ダニエルの第七十週目が終わろうとしているときに、キリストが教会のために戻って来られる。
2.患難中携挙説
第七十週は最初の三年半と後半の三年半に分かれ、後半の三年半は反キリストが暴れ出す時であると預言されているが、それらから免れるため主が教会を空中に引き上げてくださる。
3.患難前携挙説
主は、今すぐにでも戻って来られる、という真理を信じている。第七十週が始まる前に主が教会を引き上げられ、来る神の怒りから救い出される。

無千年王国説と後千年王国説がどのように携挙を考えているかは、勉強不足のため分かりません。


終わりの時に生きるキリスト者 2000/12/31

明日、新年の挨拶をすると思いますが、今年最後に、「終わりの時」についてのエッセイで締めたいと思います。実は、これから友人の教会でダニエル書のメッセージをしにいこうとして準備していますが、年の変わり目に、私たちが今、終わりの時に生きていることを思い出すのは、とても大切なことだと思っています。

終わりの時について、私が常日頃感じていることを書いて見たいと思います。終わりの日とは…

1.キリストの栄光が見えなくなる時です。
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(2コリント4:4)
悪魔は、クリスチャンが何とかして、キリストの栄光を見ないようにさせようと躍起になっています。キリストの福音が語られるのではなく、自分自身のこと、教会のこと、神学のこと、文化のことなど、キリストの栄光に取って変わるものを話題にさせようとします。私たちは目を覚まして、自分たちではなく、キリストを見上げるように心がけなければいけません。

2.神の恵みから離れる時です。
これは二つの形をとって現われます。一つは、神のいつくしみにとどまらず自分自身を誇ること、自分の行ないによって義と認められようとする動きが、教会の中に忍び込みます(ローマ11:22)。もう一つは、罪を犯しているのに、「あなたはそのままのままでよい。」という、恵みを放縦に変えるような教えが入ってきます(ユダ4)。「なぜカインが退かれたのか」のエッセイにも書かせていただきましたが、私たちは、自分たちではなく、神が見ておられるように見ていく視点を養わなければいけません。

3.国がキリストに反抗する時です。
地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。 (詩篇2:2)
油注がれた者とは、メシヤ、キリストのことです。国がおごり高ぶって、キリストに逆らうようになるのが終わりの時です。私は個人的に、日本では天皇制が反キリストの霊によって動かされていると信じています。「幸いな人」2001年2月号の、坂本兵部師の「『昭和の宗教弾圧』について」が、よくまとまっており、私が感じていたこととほぼ一致していました。最後の段落で、彼がこう書いています。「日本人である私たちがイエスを信じるということは、『国家』が私たちの霊的純潔を汚す可能性に常にさらされているということ、いざというときには殉教の地を流すことで、聖書の神が『国家』よりも優位であることを証しする覚悟をしておかなければならないということです。」

4.世界がイスラエルに集まる時です。
その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。(ゼカリヤ12:3)」イスラエルはよく、「世界の日時計」と呼ばれています。世界の歴史の流れを知るのなら、イスラエルに何が起こっているかを見るといい、ということですが、これはまさに聖書で示されていることです。そして、終わりの時には、世界がますます反イスラエル的になり、世界の勢力がイスラエルを抑圧する力が働きます。今はそのときです。世界は、ホロコーストのときと今は何ら変わりなく、いやむしろ悪化しているのではないか、というのが私の個人的な見方です。

目をさまし、用心していなさい。」この、イエスさまの御言葉に耳を傾けたいです。



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