聖書の時間空間

パート1 2000/12/27
パート2 2000/12/27


聖書の時間空間  2000/12/27

私は、ずっと自分の心のうちにあって、他のクリスチャンにも分かち合いたいことをエッセイにして書いていますが、賛否両論を生むような聖書解釈の話題は、その一つでした。もう一つ、みなさんにお分かちしたい、面白い逸話があります。

それは、聖書が持っている時間空間のことです。この中でヘブル語を学ばれた方はいらっしゃるでしょうか?ヘブル語には、現在形と未来形という時制の区別がありません。したがって、未来の事柄も現在の事柄のようにして語られているそうです。そこで、次の逸話があります(本当に起こったことがどうかは、知りませんが。)

あるユダヤ人が、知人と待ち合わせしていました。時間になっても知人は来ません。私たち日本人であれば、せいぜい30分待ったら、こう来ないであろうと判断するでしょう。しかし、そのユダヤ人は待ち続けました。なぜでしょう?それは、「彼(知人)は来るから。”He comes.”」だそうです。彼は来るだろう(“He will come.”)。」という未来の区別がないので、そのユダヤ人は、知人があたかもすでに来ているかのように、未来のことを語るのだそうです。

ヘブル語の中に、すでに、永遠という概念が埋め込まれています。すなわち、一分であろうと、一時間であろうと、一年であろうと、一世紀であろうと、「今、ここに約束がある。」という時間空間を聖書は作り出しています。そして、聖書もそのような時間空間を持っています。私たちに困難があるときに、「もう五年も待っているのに…。」とつぶやきたくなりますし、私なんか、よくつぶやいています。けれども、神の御前には、すでに完成されているのです。その完成された幻を見ながら、私たちは日々の、目に見える困難を耐え忍ぶように召されており、また耐え忍ぶ力が与えられます。


聖書の時間空間 パート2 2000/12/27

もう一つ、面白い逸話があります。アメリカにいるときに、在米のヨルダン人クリスチャン牧師と交わりを持っていました。父親がプロテスタントの牧師でしたが、そこは歴代のクリスチャン・ファミリーだそうです。彼は、「私たちの家族(クリスチャン)は、900年前にシナイ山で…。」と話し始めたときには、私の開いた口が閉じませんでした。90年の間違いじゃないの?と思いましたが、あの地域の人たちは、こういう世界の中で生きています。すなわち、私たちにとって果てしない昔であるものを、今の自分と直結させているのです。

あるいは、言いかえれば、「終点からスタートする」世界と言うべきでしょう。このことは、創世記の学びをしているときに、気づきました。創世記は、天地創造、ノアの箱舟、バベルの塔などが有名な話ですが、その大部分は、イスラエルの父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの生涯を描いています。12章1-3節において、アブラハムが神の召しを受けますが、そこに書かれてある神の約束は、アブラハムの生涯はもちろんのこと、イスラエルの過去の歴史を見ても、完成されたのを見ることができません。つまり、神が最初にアブラハムに語られたとき、終わりの時のこと、完成された時のことを語られたのです。イザヤは預言しました。「わたしは終わりの事を初めから告げる。(イザヤ46:10)」この世界の諸々の歴史は、神が最初に約束されたことに向かって、一点に収束していきます。

私たちクリスチャンの生涯も、キリストがすでに、その死とよみがえりによって勝利されたという事実から出発しています。もうすでに、キリストにあって私たちは完全なのです!その言い尽くしがたい神の恵みと賜物を思うときに、心から喜びがあふれ出て、それで主にお従いしたいと願います。これがクリスチャン奉仕です。完成から出発することが、クリスチャンの歩みであります。



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