携挙の捉え方

携挙の意味  2001/01/31
携挙と神の恵み 2001/02/06


携挙の意味 2001/01/31

(以下のコメントに対するレスポンスです。)
>英語の「Rapture」も何だか意味不明ですよね。「携挙(けいきょ)」の方が、まだmake sense するような・・・ そもそも聖書の中には出てこない言葉だし。クリスチャンの間でも携挙に関する信仰はさまざまのようですね。

英語のRaptureですが、この意味はとっても簡単です。テサロニケ第一4章17節に、「引き上げられ」という言葉がありますが、これのラテン語がrapioというもので、その英語の派生語がraptureというわけです。そういえば、日本語でも有名になった「ミレニアム」も聖書に出てきませんが、これも「千年王国」のラテン語が英語に派生したらしいですからね。

携挙についての学びの書は、ダラス神学校のWalvoordの"Rapture Question"がいいと聞いています。また、Dwight Pentecostの"Things to Come"は、終末論の百科事典みたいな存在で、私は重宝しています。

そうですね、クリスチャンの間で、携挙についていろいろな意見がありますよね。それは、「携挙」が何のためにあるのか、また大患難とは何のためにあるのか、その意義について意見が分かれているからだろうと思います。

僕は、携挙が、イエスさまを信じて「救われる」ことの中に含まれていると信じています。イエスさまを信じれば、その流された血によって、罪赦され、その信仰のゆえに正しい者と認められ、天の御国の中に入ることができるようにされます。この天の御国にどのように入るのか、ということですが、それが「主が戻ってこられて、私たちが天に引き上げられる。」によってもたらされる、と思っているからです(ローマ5:9-10)。もちろん、キリストのうちにある者が死を迎えれば、そのまま天国の中に入るのですが、聖書では、そのことがさほど強調されておらず、かえって、自分たちが生きているうちに、主が戻って来られ、それで自分のからだが変えられて、新しい復活のからだを持ち、主にお会いする、というのが前面に打ち出されているように感じます。だから、どの時代に生きているクリスチャンも、自分が生きている時代にイエスさまが再び来られることを期待して生きるように、主が意図されているのではないかなあと思っています。

そして、大患難についてですが、旧約聖書で多く語られている「主の日」、新約聖書では「大患難」とも表現されている時期については、「神が御怒りをこの地上に下される時」と理解しています。確かに、イエスさまが、「この世においては患難があります。」と言われました。けれども、それはこの世から受ける患難であり、その背後にいる悪魔から受ける患難であります。一方、「大患難」と呼ばれているものは、悪魔ではなく、神ご自身が、不義と不正に対して下されるところの患難です。私たちが、「神の怒りから救われる」と約束されているのですから、この患難からも救い出されると考えています。

だから、テサロニケの信者たちにパウロが携挙について語ったとき、「患難時代に入らないように、身を引き締めて、気をつけていなさい。」ではなく、「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と勧めているのではないか、と思っています。

これは私の信じ方なので、他の方々の、携挙の捉えかたも聞いてみたいです。そうやって、ますます神の真理を知って、互いに徳が高まれば幸いです。

参考図書:“The Tribulation and the Church” by Chuck Smith
http://www.calvarychapel.com/library/smith-chuck/books/ttatc.htm


携挙と神の恵み 2001/02/06

(以下のコメントに対するレスポンス)
>携挙を待つだけのクリスチャンでは、せっかくタラントを神から与えられ、そこを支配しなさいと言われた言葉に背いてしまいますよね。

本当に、そのとおりです。
私たちが心から愛するイエスさまに、もしかしたら今日会えるかもしれないこと。このことを思い巡らすと、私たちの心から喜びが湧き出ます。主が来られることは、私たちの今までの労苦が報われる日、涙を拭い取ってくださる日、イエスさまの御胸の中に飛び込んで、堅く抱きしめられる時です。だから、これは、クリスチャンにとって、恐ろしいようなものでは決してなく、逆に、とてつもない大きな慰めと希望なのです。

主は、「一日の労苦は一日にして足れり」と言われました。主が今日、来られるかもしれないことを知るときに、私たちは、今日、主に任されたことを、喜んで精いっぱい成し遂げたいと願うようになります。

主が再び来られて、私たちが一瞬のうちにして引き上げられる出来事は、完全に主がなされる御業であり、私たちのほうで、何も付け加えることはできません。自分の行ないではなく、神の行ないに拠り頼むこと ― これが恵みであり、私たちは、この恵みによって主のわざを行なっていくことができます。

「自分が引き上げられるために、自分をきよめて、一生懸命、伝道して奉仕して頑張ろう」では、いつか疲れて、くたくたになることでしょう。けれども、「主が来られて、今日、引き上げられるかもしれない。」と思うときに、私たちではなく、私たちのうちにおられるキリストが、私たちを愛のわざへと突き動かしてくださるのです。

私たちの行ないは、神を喜ばせることはありません。しかし、神がキリストにおいて行なってくださったことを私たちが信じるとき、神は喜ばれます。そして、この恵みを知るときに、私たちは、自分たちでは決してできない、キリストの律法を全うすることができるのです。


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