主の名について 2001/03/21

ある方が使徒行伝2−3章を読み、「イエスの名」が中心に語られていることに気づた、とおしゃっていました。イエスの名によって、病人がいやされたり、罪人が救われたりしています。けれども、私たちは、「名」とは何であるのか、以外によく分からないものです。

聖書では、神の「名」が繰り返し出て来て、しかも最も重要なものとして現われます。
「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。(詩篇8:1)」
「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2:9)」
などなど。

聖書で出てくる「名」は、私たちが日常生活で用いる「名前」とは異なる意味で使われています。主の御名は、主ご自身そのもの、主の本性であると言ってよいでしょう。上の聖句でも、「あなたの御名は全地にわたり」というところに、「あなたは全地にわたり」と言いかえることもできます。けれども、単なる「あなたは」よりも、さらに神のご性質が表されているとき、「あなたの御名」というように呼ばれます。私たちは主を、目で見ることはできず、そのかたちを見ることはありませんが、「御名」によって、その本質を知ることができるのです。

主が「名」によって、ご自分をお現わしになられたのは、モーセの時でした。「私は“主”である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、“主”という名では、わたしを彼らに知らせなかった。(出エジプト6:3)」ここで“”のしるしを付けたのは、これが単なる主ではない、神の名であるからです。原語ではYWVHであり、通常ヤハウェと発音されます。そして、この意味は、”Becoming One”(〜になる)です。どのようなものであっても、私たちの必要になってくださる、という意味です。神が遠くから私たちを眺めているのではなく、近づいてくださり、個人的な事柄に関わって下さり、そして必要を満たされます。これが、ヤハウェの意味です。

そして、主は、モーセに対して、「わたしは、『わたしはある。』という者である。(出エジプト3:14)」と言われました。英語にするともっと明瞭ですが、”I AM”というものです。「わたしは〜である。」ということですから、その〜には、さまざまな人間の必要が入ります。

創世記には(創世記は、モーセによって書かれました)、アブラハムが独り子イサクを携えて、モリヤという山まで上って行きました。そこでイサクを全焼のいけにえとしてささげなさい、と主は命じられていました。アブラハムはそれに従い、イサクをほふろうとしましたが、主の使いがそれを止め、代わりの雄羊を備えていました。そこで、アブラハムはその場所を、「ヤハウェ・イルエ」=「主は備えなり。」と呼びました。


その500年弱後に、イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを出て行きました。荒野の旅を始めましたが、むろんそこには水がありません。ようやく見つけた水は苦くて飲むことができませんでしたが、主はモーセに、「一本の木を入れてみなさい。」と命じられました。モーセが従うと、その水はおいしくなりました。そこで主はモーセに、「あなたがたがわたしの命令を守るならば、私がエジプトで下したような病気を何一つあなたの上のくださない。」と言われました(出エジプト15:26)。そして、「わたしはいやす者である。」と言われました。ヤハウェ・ラファです。主は、アブラハムに対して備えとなってくださっただけではなく、イスラエルの民に対して癒しとなってくださいました。

そして荒野の旅を続けると、彼らはアマレク人から攻撃を受けます。モーセは山に上り、イスラエルがアマレク人と戦っているときに、手を上げていました。そして、ついに勝利したときに、「主はわが旗」ヤハウェ・ニシと呼びました。

イスラエルが約束の地に入り、そこに定住するようになると、彼らはミデヤン人から襲われました。イスラエル人はミデヤン人を恐れていましたが、あるとき、ギデオンに主が現われました。主の使いは、「勇士よ。主はあなたといっしょにおられる。」と言いました。けれども、ギデオンはそれを信じることはできませんでした。なぜ自分が、イスラエルを救うことができるのか分かりませんでした。しかし、主はギデオンがささげた肉とパンを火で焼き尽くし、そしてこう仰せになりました。「ヤハウェ・シャローム」主は平和なり、という意味です。不安なときに、主ご自身が平安となってくださったのです。

イスラエルに王国時代が始まりましたが、主に背き続けて、ついにバビロンに捕え移されることになりました。その前に、バビロンに服従せよ、との主のことばをたずさえた預言者エレミヤがいました。彼は、その預言のゆえに、獄屋に投げ込まれました。このような不正を受けているエレミヤに対して、主はメシヤについての預言を与えられました。「その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。(エレミヤ23:6)」ヤハウェ・ツェデクです。

そして、この少し前に、預言者イザヤはこう預言しています。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。(12:2)」主が救いとなられるときが来ます。


主は救い − これはヘブル語でヤホシュアであり、その短縮形がヨシュアです。これがギリシヤ語ではイエスース、つまり「イエス」であります。

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:21)」

私たち人間は罪から救われる必要を持っています。神はその必要になってくださり、御子にあって、全人類の救いとなられたのです。したがって、この名を呼び求めるときその人は救われます。

イエスは、何度も、かつてモーセに現われになったとき明らかにされた、”I AM”というご自分の御名を使われました。ヨハネの福音書を見ると、それがたくさん出てきます。「わたしがいのちのパンです。(6:35)」「わたしは世の光です。(8:12)」「わたしは、よみがえりです。いのちです。(10:25)」「わたしが、道であり、真理であり、命なのです。(14:6)」などです。ですから、私たちは、イエスの名にあって、すべての霊的必要が満たされるのです。

そして、この御名をそのまま使われたことがありました。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる(I AM)のです。」また、イエスが、捕えられる直前に、その御名を使われたときは、捕えに来た者たちが後ずさりして、倒れてしまいました(18:6)。

そして、十字架にかけられる直前、弟子たちにこう言われました。「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。(16:24)」

そして弟子たちは、イエスの名によって求めました。その記録が使徒行伝です。イエスの御名によって人を立ちあがらせ、イエスの名によって罪の赦しを宣言しました。この御名が、私たちにも与えられています。イエスの御名によって大胆に神のあわれみの御座に近づき、私たちの求めるものを願うことができるのです。



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