聖書は子供のために書かれた 2001/05/02

 4月30日に、私の友人が牧会している教会で、子ども礼拝の奉仕者セミナーの講師を、妻とともにさせていただきました。(彼らは教会学校を子供礼拝と呼んでいますが、これは聖書的で正しい言葉であると私も思います。子どもは、そのレベルにおいて十分に礼拝することができる存在だからです。)

 教えながら、私自身がたくさん学ぶことができました。これをこの書き込みの中に書くには、あまりにもたくさんの事柄があります。一つ書くならば、「子どもたちに主の道を教えることは、神から与えられた至上命令である。」ということです。また、「主にあって子どもを訓練することは、自分自身が主から訓練を受けることと同義語である。」ことも知りました。


 先日の子供セミナーで、ある方が、「まだ聖書を読むことのできない子どもたちには、例えば、ムーミンなどの例を用いて、聖書の話しを分かりやすくする必要はあるのか?」との質問を受けました。私は、次のように答えました。

 「私たち教師の役目は、聖書を面白くすることはではありません。聖書はもともと面白いのです。聖書がどれだけすばらしく、面白いかを知っている人は、聖書を子供に教えるのに、他にエンターテイメント性を聖書以外のところから求める必要はないのです。」

 ユダヤ人は今でも、過越の祭を守っていますが、その食事のとき、「ハガダー」という礼式に従って守ります。それは、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを思い出すように、食事を取りながら、歌をうたったり、さまざまな儀式を行ないます。(聖餐式は、ハガダーのごく一番面です。)

 この食事、かつ礼拝において、子供の果たす役割はとても大きいです。(事実、子供用のハガダーがあり、それを見ると、過越の祭の様子を適格に知ることができます。)なぜなら、その儀式の一つ一つは、子供が質問をしたくならせるようなものになっており、子どもの質問に答える親の解答によって式が進められていきます。

 出エジプト記には、こう書いてあります。「あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』(12:26-27)

 子供たちに教えるのは、過越の祭だけに限りません。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。(申命記6:6-7)

 子供に教えなさい、と命じておられるということは、主のことばは、子供たちにも理解ができるものである、ということです。子供たちが理解できるかたちで、主はイスラエルの民にご自分を現わされました。

 主が行なわれた不思議としるしを見るとき、子供たちは、「贖罪」「新生」「礼拝」などの言葉を知らずとも、その真理を理解することができます。私たちはただ、聖書を創世記から語っていけばよいのです。そうすれば、子供たちは、自分たちで、神について、キリストについて、救いについて知らなければいけないことを、身につけていきます。


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