聖霊とモーセ 2001/05/15
(このエッセイは、質問への返答になっています。)
質問1:きよきよさん、こんにちは。 実は、今朝、子供からされた質問があるのですが、きよきよさんにおたずねしてもよろしいですか?
「どうして、旧約聖書のひとたちは、あんなに長生きだったの? 体がすごおく丈夫だったからなの? モーセが120歳まで生きたってホントなの?」
という質問なんですけど・・・よろしければ答えていただいてもよろしいでしょうか?
返答1:「ホントだよ。神さまはねえ、この地球をとってもすばらしく造ってくださったから、昔の人たちは長生きできたんだよ。空気もきれいだったし、食べるものにも悪いものがなかったんだよ。
そしてね、旧約聖書のひとたちは、神さまのお仕事をしていたんだ。だから、神さまが必要だって思うときまで、ずっと生かしてくださったんだよ。モーセさんは、イスラエルの人たちを、約束してくださったところにまで連れていったときまで、生きていなければいけなかったんだ。」
…でしょうか。ただ、モーセさんのことなら、機会があったら、もっとちょっと大まかなことを話してあげても、よいかも。
「120歳というのは、40年を3で掛けた年だよね。(ここでさりげなく、掛け算の勉強をさせる)
モーセさんは、イスラエルの人を救いたいって思うまで、40年かかりました。(最初の40年間)
でもね、自分でできないことが分かるまで、40年かかりました。(次の40年間)
それから、イスラエルの人たちが神さまの救いのことが分かるまで、40年かかりました。(最後の40年間)
モーセさんも、イスラエルの人たちも、神さまの救いが分かるまでに40たす40たす40で、120年もかかったんだよ。でもね、今は、神さまは、聖霊を送ってくださっているから、今すぐにイエスさまの救いがわかるようにしてくださっているんだよ。すごいでしょ!」
質問2:きよきよ先生、本当にわかりやすくて面白いお答え、ありがとうございました。
子供に説明したところ、もう一つ質問がでてきました。
「じゃあ、何故、モーセの時代に聖霊が働かなかったの? モーセは、あんなにたくさんの人を助けようとしたのに、聖霊はあの時代にはいなかったの?」という質問です。これは、きよきよさんでしたらどういうふうに説明されますか?
返答2:的を射たすばらしい質問です!だから、僕は子どもが大好きです。大人は、細部や周辺的な事柄にこだわりすぎて、本質を見失った議論をよくしてしまいますが、子どもはそのまま、霊の心臓部分へと直進します。まずは大人が理解していないといけないので、大人篇を書きます。
<大人篇>
旧約において、聖霊は働いておられたし、もちろん存在されていました。聖霊はイスラエルの民やモーセとともにおられました。いや、永遠の昔から聖霊はおられて、天地創造のときには、うごめいている神の霊として登場されています。
これはキリストにも言えることです。永遠の昔から父なる神とともにおられて、そして旧約の時代にも、働いておられました。イエスさまのことは新約にしか書かれていないというのは間違いであり、「主の使い」と呼ばれる方として現われています。(これを神学用語では、“preincarnate
state of Christ”と言います。つまり、受肉前のキリストの姿です。)さらに、さまざまな出来事や人物をとおして、型としてお現われになっています。
キリストが旧約の時代にもおられて、旧約の聖徒たちにも働きかけられていましたが、あくまでも、彼らがその実体を待ち望むというスタンスの中で働いておられました。しかし、終わりの時に、神は肉体を持たれて現われました。今まで、律法と預言の中で「示されていた」方が、実体として「現われて」くださったのです。そして、十字架において、律法の要求が完全に満たされました。
これは、とてつもない大変革でした。全宇宙の霊の力学が大きく変わってしまったような出来事でした。これまでのイスラエルの民は、あくまでも、自分自身で生きていました。神がその周りに取り囲むようにしていてくださり、さまざまな戒めと定めを与えられ、「わたしは、このようなものだよ。」と教えてくださっているにしかすぎませんでした。しかし、イスラエルの民は罪深い人間であり、そのような戒めが与えられても、何ら自分たちを変革させることはできず、むしろ、閉じ込められたような状態になっていきました。時代を経るごとに、来るべき贖い主メシヤを切に待ち望むようにされました。(ガラテヤ書3章19−24節参照)
しかし、今や、神ご自身が人間のうちに介入されました。
まず、福音書において、ナザレ人イエスが来るべきイエスであることの証明がされました。十字架にて律法が完成し、復活によってそれが公に示されました。しかし、神の側では、完全に模様替えをされたのですが、弟子たちはまだ、それを受けとっていなかったのです。いや、人間には、そのような真理を受け取ることは到底できないのです。まさに、コリント書第一2章にある、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことがないもの、心に思い浮かんだこともないもの」の世界です。
そこで神は、その理解を与えるために、ご自分が人間のうちに入り込むという働きをなされました。つまり聖霊の内住です。(聖霊の内住については、いつ行なわれたかが意見が分かれています。復活されたイエスさまが、「聖霊を受けなさい」と弟子たちに息を吹きかけられたときだという人と、使徒行伝2章の聖霊降臨のときと言う人がいます。)これまでは、イスラエルの民は、神の栄光を見るために神殿に行きましたが、今や、信者たち自身が神の宮となってしまったのです!
これまでは、周りで取り囲み、優しく養い、見守っておられた神が、今や、人間の霊の中に入り込まれました。天にある神の御座は、キリストにあって、今私たちの霊と直結しているのです!だから、これまで何千年の歴史を、私たちは瞬時にして体得というか、神秘的に体験することができます。
だから、「“今”は恵みの時、“今”は救いの日」なのです。モーセの時代、120年もかかって示された救いの真理は、今すぐに啓示によって私たちに理解され得るのです。ここが、旧約における聖霊の働きと、現在の聖霊の働きの違いです。
補足
また、聖霊と人間との関係について付け足しますと、詩篇51:11「聖霊を取り去らないでください」が鍵になると思います。ここが旧約時代の聖霊と聖徒たちとの関わりと、新約の聖徒たちと聖霊との関係の違いであろうと思われます。エペソ1章13-14節にあるように、ご聖霊は、私たちから取り去られるどころか、贖いの保証として証印になってくださっています。
<子供篇>
聖霊は、あの時代にもおられたし、モーセの時代にも働かれていたよ。
モーセさんが赤ちゃんのとき、ナイル川でモーセさんを見つけたのは、パロの娘だったよね。聖霊さまが、パロの娘を、モーセさんのところまで導いてくださったんだよ。
でも、モーセさんは、そのことを神さまがしてくださったって、本当に分かっていたかな?もし、赤ちゃんのとき救ってくださったのが神さまなら、イスラエルの人たちをエジプトから救ってくださるのも、神さまだってことがわからないといけないよね。でも、モーセさんは、40歳のとき、イスラエル人をいじめているエジプト人を、自分で救おうとしました。エジプト人を打ったら、その人は死んでしまいました。同じイスラエル人の人からも嫌われてしまいました。パロさんはモーセさんを死刑にしようとしましたが、モーセさんは逃げました。
モーセさんは、結局、一人も救えなかったね。聖霊さまが教えてくれないと、救うのは神さまなんだっていうことが、絶対に分からないんだよ。
でもね、40年経ってから、モーセさんが、燃える柴のところで、そこから神さまに声をかけられたよね。そのとき、モーセさんは、「私なんかに、イスラエル人をエジプトから連れ出すことなんて、できません。」と言ったんだよ。自分には救えないって、分かっていたんだね。そして神さまは、「わたしがともにいる。わたしが、しるしを与える。だから、行きなさい。」と言われて、モーセさんは行きました。だから、聖霊さまに導かれたんだね。そうしたら、イスラエルの人がモーセさんを信用してくれたんです。おまけに、モーセさんをとおして、エジプトに10の災いが下って、それで200〜300万人のイスラエル人の人たちを、エジプトから連れ出すことができたんだよ。
けれども、イスラエルの人たちが、神さまの救いのことがわかるまで、40年もかかってしまいました。紅海が分かれて、エジプト人が海の中で死んだでしょ。これはみな、聖霊さまが働いてくださったからなんです。でも、イスラエルの人たちは、救ってくださったのは神さまなんだ、ということが分からなかったんだね。だから、飲み物がない、食べ物がないって言って、ぶつぶつ言っていたよね。周りで聖霊さまが働いてくださっていたけれども、救ってくださるのは神さまだっていうことが分からなかったんです。
だからね、救ってくれるのは神さまなんだ、ということを知るのは、聖霊さまが周りで動いてくれるだけでは足りないんだ。僕たちのうちに入ってきてくださらないと分からないんだよ。
二千年前、お弟子さんたちは、イエスさまから、「聖霊を受けなさい」と言われて、イエスさまから息を吹きかけられました。そのときから、お弟子さんたちに、聖霊が住んでくださいました。そして、お祈りしているときに、聖霊が下ってきてくださいました。それで、お弟子さんたちが、いろいろな人にイエスさまのことをお話ししはじめました。そのことを聞いて、イエスさまを信じた人たちにも、聖霊さまが中に入ってきてくださいました。だから、みんな、救ってくださるのは、イエスさまだけなんだ、神さまだけなんだ、ということが本当に分かるようになったのです。