神の計画から見た教会


1.神の歴史
2.イスラエルと教会
3.恵みのディスペンセーション
4.聖霊と教会


1.神の歴史

私はこれまで、何人かの、尊敬できる韓国人のクリスチャンに出会ってきました。等しく言えることは、病気になったり、経済的に困っていたり、その他の状況で大変な状況の中にいる人に対して、人一倍の暖かさを持っているということでした。けれども、なぜそのようなあわれみを持つことができるのかを知るきっかけとして、韓国の歴史と文化がありました。

最近、韓国旅行をする機会が与えられました。そこの民俗館と宮殿、また独立記念館に赴くことができましたが。そこから、彼らが日本などの侵略により、苦しみ続ける歴史を持っていることを知りました。苦しみとは何かを知っているので、主に対する献身と、苦しみの中にいる人を慰めることができる賜物があることを知ったのです。

このように、ある状態を見るには、その周りの環境を見なければならないときがあります。また、今だけではなく、過去をさかのぼらなければいけないことが、たくさんあります。つまり、時間の流れの中で「今」を見なければならないのです。そして、これは、キリストのからだなる「教会」にも言えることです。今回は、神の歴史から見た教会について考えてみたいと思います。

エデンにおいて

神は、アダムをエデンの園に置かれて、助け手であるエバをお与えになられました。そのときのアダムは、完全に神に拠り頼んでいた状態であり、自分の判断で独立して意思決定をすることはありませんでした。そしてエバは、アダムのわきから取られ造られた者として、アダムと一心同体になっていました。

しかし、アダムが、取って食べてはならないと主が言われた木から取って食べたので、この神とのいのちの関係から離れてしまいました。神は、このいのちの関係を、人との間に取り戻されようとされました。これが、創世記3章から始まる、神の物語です。神には、いのちから離れた人が、いのちあるものを求めるように導かなければいけません。地に属するようになった人に対して、地に属するもので、天のものを示し、導かねばなりませんでした。よく、「失敗をしなければ、成功することはできない。」と言われますが、神は、人の失敗の中に共にいてくださることによって、彼らを、ご自分のいのちの道へと導いてくださるのです。

アブラハムへの約束

人はたくさんふえ、ノアの時代に水によってさばかれ、ノアの家族から再び人がふえました。そして、そのふえた人々は、バベルの塔を築いたため、神は言葉を、ばらばらにされることによって、さばかれました。そのため、人々は、世界各地に散りばめられ、諸言語にもとづく民族を形成していったのです。

この時点で、神は、ご自分のいのちをどのように人に示せばよいのでしょうか?わたしのところに戻りなさい、と命じられても、ここまで混乱してしまった人に理解してもらうことはできないでしょう。そこで、人がご自分のいのちを求めることができるように、ご自分の民族をお造りになりました。そのためには、自然に生まれ育つのではなく、ご自分の呼び出しに答えて、ご自分と約束事を結ばれて、その契約にもとづく「民族」をお造りになることをお決めになりました。それが、「イスラエル」であります。民族を造られるにあたって、その土地と、また国も必要になります。そこで、神は、ひとりの人アブラハムを呼び出されて、土地を与える約束、国を造る約束、それから民族を祝福する約束を与えられました。

モーセの律法

そして、約束はアブラハムから、イサク、ヤコブに引き継がれ、エジプトにくだったヤコブの家族から、子孫がふえ、強くなりました。神は、エジプトからこのイスラエルを連れ出し、シナイ山のふもとに導かれました。ここで、神は、イスラエルが「民族」として成り立たせるための、戒めと定めをお与えになりました。共同体が成り立つためには、ルールが必要です。そこで律法を与えられたのです。

しかし、神は、それを究極的な目的とはされていませんでした。究極の目的は、やはり、「人がご自分のいのちに結ばれる」ことであったのです。そこで、神は、共同体を形成させるところの律法の中に、ご自分の栄光と、ご自分の性質をふんだんに取り入れられたのです。ですから、とくにレビ記には、きよめと汚れの規定など、必ずしも衛生上の理由で説明できない戒めがたくさんありますが、それは、神とのいのちの関係を象徴的に表すものでした。

まだガラテヤ書3章には、律法は彼らをキリストへ導くための養育係であった、と書いてあります。ローマには奴隷がいましたが、主人の子を家から学校へ、学校から家へ導くところの奴隷でありました。律法は、神のいのちにあずかるには、人の行ないによっては決してできないことを、完璧なまでに教えるために設けられています。

ダビデの王座

そして、モーセをとおして契約が与えられた他に、ダビデ契約というのもあります。これはサムエル記第二7章12−16節に書かれている約束で、ダビデの子が永遠に神の国の王座を占めるというものでした。これで、イスラエルが「国家」として成り立つ枠組みが備えられました。

新しい契約

こうして、アブラハムとの神の契約は、他のいろいろな契約によって敷衍されてきました。そして、最後に、モーセを通して与えられた契約に代わって、新しい契約を与える約束を、預言者エレミヤを通して与えられました。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ書31:33)」神は、イスラエルの子孫を、内実をもって祝福するようにお考えに
なりました。

こうして、神は、アダムをとおして罪が全世界にはいってしまい、死が入り込んでしまったこの地上において、ご自分の霊のいのちを人に取り戻したいという願いを、約束と契約をとおしてお示しになりました。これらの契約が与えられる前に、イスラエルが多かれ少なかれ失敗していることに気づいてください。モーセに契約が与えられたときは、約束の地ではないエジプトにイスラエルの民はいました。ダビデに契約が与えられたときは、イスラエルは異邦人と同じように、人間の王を求めました。そして、新しい契約の約束が与えられたときは、イスラエル(ユダ)は、神に背きつづけて、バビロンに捕え移されようとしていたところです。彼らが失敗したときに、高みの見物をされず、彼らのレベルにまで降りて、なおかつ神の理想の姿を彼らが理解できるように提示してくださったのです。人間がいかに鈍く、罪深いことを知ると同時に、神がいかにあわれみ深く、とことんまで人間といっしょになってくださっているかを、私たちは知ることができます。

神の奥義

そして、これらの契約に基づいて、神はキリストをこの世に遣わされました。「神の国は近づいた。悔い改めなさい。」という言葉からはじまり、キリストによって、イスラエルを中心とするご自分の御国を立てられようとしたのです。ところが、当のユダヤ人の指導者たちは、これを拒んでしまいました。そのため、イエスは十字架刑に処され、死に渡され、墓に葬られたのです。そのため、この時代において、神の国は立てられることがありませんでした。

しかし、このことは、初めから神に知られていることでありました。神は天において、また別のご計画を持っておられたのです。それが、「ご自分の御子による死によって罪の赦しを与え、また御子のよみがえりによって、いのちを与える。それから聖霊によって、御子の死といのちを信じる者たちに適用させる。」という計画です。三位一体の神が総動員して、初めに持っておられた、「ご自分のいのちを人につなぎ合わせる」という意図を、実行に移そうとお考えになっておられたのです。

イエスの十字架は、それゆえ神のご計画どおりのことでした。そして三日目によみがえり、聖霊が信じる者たちに与えられました。そうして、信者たちの間にエクレシア(教会)が誕生したのです。したがって、教会は、キリストにあって、聖霊をとおして、天におられる神と直結するところの、天的な存在であることを知ることができます。

もし、私たちが、人間が初めから教会の姿を見せられていたとしても、私たち人間は、教会が何であるかを知ることはできなかったでしょう。この地上に住む私たちが、神の奥義に達するまでに、漬物をじっくり漬け込むように、イスラエルによってご自分の証しを残しておられたのです。ですから、イスラエルに対する神の働きかけは、「本質的な救い」へ導くための「機能的な選び」と呼ぶことができます。

そして、教会には、ユダヤ人であっても異邦人であっても差別なく、キリストにあって神に大胆に近づくことができ、聖なる御霊がお住みになるところの、「地上にいながらして天につながっている存在」となったのです。これを、新約聖書においては、「奥義」あるいは「秘められた計画(新共同訳)」と呼ばれています(エペソ3:3−6)。永遠の昔から、神の懐の中で暖められていた計画であり、この時代に使徒たちに明らかにされました。

最後に

これで、今の教会にいたるまでの、神さまのご配慮に満ちた歴史を概観しました。この概観を見て、二つの反応があったかと思います。一つは「これは、すごい!」という反応です。神さまが、こんなにきめ細かく、知恵と思慮を尽くして私たち人間に関わってくださっていたのだ、という感動です。もう一つは、「今ひとつ分からない???」というものです。自分の今の信仰生活にどうかかわりがあるのか、という疑問です。前者と後者の反応の差は、自分の信仰生活が、「神」に根ざしているか、あるいは「自分の気持ちや考え」に根ざしているかの違いから来ています。

子供が親から育てられるとき、子供は、親がいろいろなことを考え、知恵と力を尽くして育てているということまでは、考えていません。目の前にある事象に満足しているだけにとどまります。けれども、成長して、中学・高校生になり、大学生のことになれば、親のほうにも目が行きます。これと、神さまのご計画について考えるのは同じです。霊的に成長するにしたがって、「自分」から「神」へと興味が移っていきます。

次に、イスラエルと教会との関わりについて述べていきたいと思います。


2.イスラエルと教会

今日、私たちクリスチャンが、イスラエル国やユダヤ人について関心を持つことは、あまりありません。旧約聖書におけるイスラエルの民については関心がありますが(それでも、かなり薄いですね)、ましてや現在や将来について、霊的な歩みのためにイスラエルのことを考えることはほとんどありません。また、関心のある人でも、たいてい興味本位であり、奇想天外な(?)理論を展開しています。

けれども、聖書は、クリスチャンが、イスラエルのことを、きちんと信仰の中で位置付けることを教えています。これは、教会がどのような位置にいるのかを知るためには、必要不可欠なことだからです。

本質的な選びと機能的な選び

旧約における本質的救い

「1.神の歴史」において、イスラエルは、「本質的な救い」に導くための「機能的な選び」であることを学びました。ここで間違ってはいけないのは、本質的な救いは突然、今の時代にのみ存在して、キリストが来られる前、(あるいは、教会が地上から取り去れた後)には存在しなかったと考えてはいけないことです。イスラエルの民は、地上において選ばれていましたが、それでも、個々人は、信仰によって、キリストによって霊的な御国の中に入らなければいけなかったのです。いや、この本質的な救いを得るためにこそ、地上において神が契約を与えて、その本質的な部分を指し示しておられたのです。

たとえば、イスラエルの民が、幕屋に牛をたずさえてやって来たとしましょう。彼らは、幕屋の入り口のところで、祭司に牛を手渡し、頭に手を置きます。そして祭司は牛をほふって、血を祭壇の回りに注ぎかけ、その牛を解体して、火で焼きます。このときに、イスラエルの民は、自分自身が、このいけにえに投影されていることを思いながら、ささげたのであり、またささげなければいけなかったのです。「なんか、牛を持っていかなければいけないから、とにかく持ってきた。血が流されているけれど、まあ祭司さんに任せとけばいいでしょ。」ではなかったのです!その牛が罪のためのいけにえであれば、手を置いたときに、「自分の罪がこの牛に転嫁され、牛が自分の代わりに罪ある者とみなされている」とみなすという、信仰の行為が必要でした。これはもちろん、私たちの主イエス・キリストを表しているのですが、このようにしてイスラエルの民も、信仰によって、キリストによって、霊の救いにあずかったのです。(注:ただし、実際に天に入ることができたのは、キリストが死なれ、よみがえられるときです。まだ贖いが完全ではなかったので、約束のものを待たねばなりませんでした。ヘブル11:39参照。)

ヘブル人への手紙11章には、天地が創造されるときから今まで、信仰によって人々が神から報いを受けてきたことが書かれています。アベルも、ノアも、アブラハムも、モーセもみな、律法でも何でもなく、信仰によって生きたのです。過去も、現在も、将来も、どの時代にあっても、キリストにあって、信仰によって救われるという真理なのです。

教会誕生以後のイスラエル

そして次に、教会が誕生したあとのイスラエルについて考えてみたいと思います。イスラエルは、本質的な救いが示されるまでの機能的な選びであったのであれば、教会が与えられた今、イスラエルは必要なくなったのではないか、と見るクリスチャンがたくさんいます。けれども、それは違います。

まず、福音書や使徒行伝において、イスラエルと異邦人とがどのように描かれているか、概観しましょう。福音書も使徒行伝も、単なる歴史的出来事の序列ではなく、明らかに意図を持って書かれています。イスラエルと異邦人について言うならば、「神の国は、イスラエルから異邦人に移された。」というものです。マタイ8章5−13節には、異邦人である百人隊長の信仰をイエスは驚かれ、「あなたがた(ユダヤ人)に言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」と言われました。マタイ22章1節から14節には、祝宴に招かれた者たち(ユダヤ人)は、その招待を断ったので、王は大通りにいる者たち(異邦人)を片っぱしから招きいれたことが書かれています。使徒行伝においては、「パウロとバルナバが、『そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。(13:46)」とあります。これらの記事だけ見ると、イスラエルは無用になった、あるいは呪われてしまった、と受けとられかねません。

このことを、詳細に、緻密に解き明かしている箇所が聖書の中にあります。ローマ書9章から11章です。ローマ書は、キリスト教信仰の要と言われていますが、なぜか9章から11章においては、避けられてしまいます。その一部に書かれている「神の予定」や「信仰告白」などについては、しばしば引用されますが、それだけです。しかし、ローマ書9−11章は、1−8章から一続きとなっており、12章になって、はじめて「こういうわけですから・・・」となって実践的な勧めの箇所に入ってくるのです。ローマ書に啓示されている、神の救いのご計画の、骨格となっている箇所であり、ここが分からなければ、「信仰による義」も、「神の恵み」も、その他の大切な教えもみな分からなくなるか、あるいは自分勝手に考えてしまうことになります。

ローマ書9−11章を、一度、一気に読み、そのテーマは何かを見つけてください。そうすると、「イスラエルの救い」であることは、一目瞭然です。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人(=イスラエル人)のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(9:3)」というパウロのうめきからはじまり、「こうしてイスラエルは救われるのです。(11:26)」という結論に至る、イスラエルの救いが、ここにおけるテーマであります。

パウロは、ローマ9章と10章で、イスラエルが福音を信じ、受け入れなかった理由について書いています。9章は神の理由(神の主権と予定)が書かれており、10章はイスラエル人の理由(律法の行ないであるかのように義を求め、信仰の義に至らなかった)が述べられています。そして、義を求めていなかった異邦人が、かえって信仰の義を得たと論じています。けれども、11章において、こう言っています。

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。(1節)」

もし神がイスラエルを退けたのであれば、神がはじめに、アブラハムに約束されたことは失敗であったということになり、あらかじめ知っており、それで選びを行なうという神のご性質に反することになります。ですから、イスラエルがまだ退けられていないことを知ることによって、はじめて私たちも選ばれ、退かれることはないことを知るのです。イスラエルは見捨てられた(=機能的選びの否定)、という人は、自分も神から見捨てられる(=本質的救いの否定)ような、気まぐれな神を信じていることになってしまいます。

そしてパウロは、自分自身のことを取り上げて、それでもイエスを信じるユダヤ人がおり、残された民がいることを教えています。そして、イスラエルは、切り倒された栽培種のオリーブ木の枝のようであるけれども、野生種のオリーブの枝が接合されたのであるから、なおさらのことたやすく、再びつぎ合わされる、とパウロは論じています。

したがって、教会が誕生した以後も、神がアブラハムに約束してくださったことはみな、今でも生きているのです。

イエスさまや使徒たちが、「神の国が異邦人に渡される」と言ったのは、あくまでも、神が長い期間手塩にかけて養い育て、キリストが来られたときに実現されようとした、「イスラエルを中心とする地上における神の国」のことであり、大ぜいの異邦人に、その国の霊的側面を提供する、という意味でおっしゃっていたことが分かります。地上における神の国には、喜びと楽しみ、平和と正義があります。目に見えるかたちで、地上にイスラエルを中心として神の国は立てられませんでしたが、その国を特徴づける霊的な実質は、神の奥義である教会において実現されていたのです。パウロが、「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)」と言ったとおりです。

そして、紀元70年にローマによってエルサレムが滅ぼされ、ユダヤ人は祖国を失い、世界を放浪する離散の民となりました。(これは、レビ記26章に書かれている、神のことばどおりです。)けれども、その離散のユダヤ人を見ても、彼らがたしかに選びの民であることを知ることができます。彼らは尋常ではない迫害や虐殺にあっても決して滅びることなく、ユダヤ人としてのアイデンティティーを保ちつづけ、子沢山に恵まれ、彼らが開墾する土地は荒地でも緑に変わり、政治・経済、学問、教育、医療など、あらゆる文化的領域で世界的に影響を及ぼしています。そして、前世紀に目を見張るような奇跡的出来事が起こりました。神がアブラハムに約束された地に、イスラエル国ができたことです。これらのことを観察しても、彼らは見捨てられた民ではなく、神は確かに、アブラハムに約束してくださったことにしたがって、彼らに関わってくださっていることを知ります。

将来のイスラエル

けれども、私たちは、イスラエルを中心にした神の国をまだ見ていません。新約聖書における神の啓示によりますと、それはキリストが再び地上に来られるときに実現されることを知ります。キリストが初めに来られたときは、イスラエル人はこの方を拒みました。しかし、神は、決してご自分の計画を断念されたのではなく、キリストが再びこの地に臨まれることによって、このことを実現されるのです。イエスさまが、十字架につけられる前、オリーブ山で、弟子たちにことことを話されました。また、使徒たちも、このことを幾度も言及しています。

つまり、キリストが再び来られたときに、イスラエルの民は、イエスが来るべきメシヤであること知り、悔い改めます。そして御霊が注がれて、新生します(新しい契約)。そして、世界中に散らばっている民がイスラエルの土地に集められ、そこを自分の所有の土地とします(アブラハム契約)。また、イエス・キリストを王とするイスラエル国が立てられます(ダビデ契約)。(モーセに対する契約は、すでにキリストが初めに来られたときに実現しました。つまり、律法の要求する死をキリストがお受けになったので、この契約はすでに実行に移されました。)ちなみに、教会の聖徒たちは、すでに天に引き上げられていましたから、再臨のときにはともにやって来ます。そして、回復したイスラエルとともに、キリストの統治のもとで、自らも統治をする務めを担います。これが、いわゆる「千年王国」です。

二つのキリスト教神学

このような、神が歴史を通じてどのように人に関わりを持たれたのか、また世界がどのように終わりを迎えるのかについて、聖書全体を概観する見方として、キリスト教会には、二つの神学がありました。一つは「契約神学」、もう一つは「ディスペンセーション神学」です。

契約神学は、聖書全体には、すべてを包括する神と人との関係、あるいは契約があるとします。一つは、「行ないの契約」です。もう一つは、「恵みの契約」です。これを平たく言うと、アダムが神から言われたことを行なう決まり事があり、けれども、それに人が違反したので、神は、イエス・キリストをとおして、信仰によって、永遠のいのちを与える恵みの契約を結ばれた、と言うものです。この二つの契約によって、聖書全体の歴史を概観します。

ディスペンセーション神学は、それでは、それぞれの時代にユニークに働かれている神の働きを見逃しているとします。たとえば、神がノアのときに関わりを持たれていたときと、モーセの時代に関わっていたときでは、その関わり方が異なっています。そこで、「契約」を聖書に書かれているとおりに分類します。すなわち、「ノアに対する契約」「アブラハムに対する契約」「モーセに対する契約」「ダビデに対する契約」そして、エレミヤに約束として与えられた「新しい契約」です。そして、教会は、これらの契約とはまた別の「神の奥義」であり、イスラエルと教会を区別します。こうして、聖書全体を概観します。(ところで、この神学の名称になっている「ディスペンセーション」については、後に、「恵みのディスペンセーション」という題の中でご説明していきますので、そのときまでお待ちください。)

このような神学が、私たちクリスチャン生活一般に関わりがないように聞こえますが、実はそうではありません。たとえば、個人伝道をするとき、四つの法則を使って、「神さまが人に与えてくださったご計画」ということで、アダムと神がいのちある関係を持っていたが、罪を犯したので切り離されてしまい、それで神がキリストを十字架につけるようにさせ、あなたが信じて永遠のいのちを持つようにされた云々というのは、契約神学と関わっています。また、「安息日はイスラエルに与えられたものなのだから、クリスチャンが日曜日に仕事をしてはいけないというのはおかしい。」という聖書の説明を聞いたときは、それはディスペンセーション神学に関わっています。どちらも、神さまが、人間に対してどのように関わって、どのような決まり事を持っているかを取り扱っており、したがって私たちの普段の信仰生活や教会生活にも深く関わっているのです。

そして、この二つの神学がキリスト教会に影響を与えているので、イスラエルと教会の位置付けにも影響しています。

契約神学は、イスラエルとか教会とかを考えないで、その上にある二つの契約(というより、法則みたいなもの)を考えています。つまり、神に支配された共同体があって、イスラエルはその原型であり、教会にあって完成したと言います。教会が新しいイスラエルであり、地上に現に存在するイスラエルは、信仰上の事柄とは関係ない、とします。

ディスペンセーション神学は、契約が与えられた各時代のことを重んじるので、旧約は、あくまでもイスラエルに与えられた契約であり、今は、神の奥義が明らかにされた「教会時代」であるとします。けれども、イスラエルに与えられた契約は無効となっておらず、それは教会が空中に引き上げられるところの「携挙」によって、再びイスラエルの時代がやって来るとします。つまり、「イスラエル」→「教会」→「イスラエル」という時代の流れを見ます。したがって、今は、神は教会をとおして働かれているのであり、イスラエルは関係ないとします。

けれども、そのような前者の「二つの契約」と、後者の「時代区分」には、聖書全体の歴史の流れを見るには不十分ではないか、と私は見ています。それは、前述させていただいた、「本質的救い」と「機能的選び」についてです。



上の図をごらんください。これは、上の部分が神のいのちに関わる領域で「天」であり、下の部分が「地」です。そして、本質的な救いを黄色であらわし、機能的な救いを青色で表しました。

本質的な救いは、先ほど説明しましたように、どの時代においても続いています。アダムのときも、ノアのときも、アブラハムのときも、モーセのときも、そして今の時代もずっと続いています。ヘブル書11章を読むと、全時代をとおして、「信仰」によって、この救いを自分のものにすることができることが教えられています。

しかし、アダムが罪を犯し、彼が地に属する者となってからは、神はこの地において、天にある救いを地上にいる者たちに示していく、神の働きがありました。これが、「機能的な救い」です。これが本質なのではないのですが、地上のもので本質を示し、本質に対する信仰を養うものです。これは、アブラハムが神に召され、イスラエルが選びの民として生きてきたところに現われています。

そして、キリストの十字架と復活のみわざ、そして聖霊の内住によって、本質的な救いが地上に降りてきました。これが、キリストのからだ、すなわち教会です。教会は、祈っていた弟子たちに聖霊が臨まれてから、キリストが戻ってこられて教会を引き上げられる「携挙」のときまで続きます。

ここで、教会時代が黄色ではなく、緑色になっていることに注目してください。本質的な救いが地上において現実のものとなっているのですが、なおかつ、機能的な救いが続いているのです。イスラエルに対する神の契約(=青色)は、教会時代にも働いており、教会に対する働き(=黄色)とイスラエルに対する働きについてのどちらをも行なわれています。つまり、今のは、黄色と青色が重ねあわされた「緑色」の時代なのです。

つまり、まとめますと、イスラエルをとおしての機能的な神のみわざと、天における本質的な神のみわざは、どの時代においても両立、並存しており、とくに今の時代は、これらを同時に見ることができる、ということです。

ここで、神の契約について、少し分別をしなければなりません。キリスト出現の前の契約は、シナイ山の上でモーセに与えられた契約だけではありませんでした。他にも、アブラハムに対して神は契約を結ばれており、ダビデに対しても結ばれていました。「律法が成就した」とか「律法が終わった」というのは、あくまでもモーセ契約についてであり、その他の約束はそのまま続いています。ですから、「今は教会時代なのだから、イスラエルは関係がない(=緑色のところを黄色だと言っている、ディスペンセーション神学の立場)」とか、「教会が新しいイスラエルなのだ(=緑色のところを青色だと考える、契約神学の立場)」ということはできないのです。

それぞれの地上における神とイスラエルとの契約について、その契約が写し出している天的側面が教会にあって実体化されています。パウロが、「神の国は、飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)」といいましたが、イスラエルへの契約全体を教会がそっくりそのまま相続したのではないのです。アブラハムには、土地の所有、国ができること、そして子孫が繁栄することが約束されていました。ガラテヤ書で、信仰による者がアブラハムの子孫であるとパウロは論じていますが、異邦人クリスチャンがイスラエルの土地を相続したりはしません。

いずれにせよ、「本質的な救い」と「機能的な選び」が区別され、さらにこの二つが共存し、相互作用しているという部分が大事な点になります。今、この教会時代にあって、本質的な救いにおいて神は世界に働きかけておられ、それゆえ私たちは福音宣教をしているのですが、機能的な選びにおいては、イスラエルを使って世界を動かしておられる、という点が大事になります。

そして、このことが、私たちが教会として、自らの位置付けをしていくのに重要になってくるのです。このことは次の、「3.恵みのディスペンセーション」で詳しく述べます。


3.恵みのディスペンセーション

私が、「神のエコノミーから見た教会」について書くきっかけとなったのは、掲示板において、教会についての議論が繰り広げられたからです。私は、これまで述べてきたことの一部を少し紹介させていただきましたが、それを読んで、何人の方が、「頭がぱんぱんになってしまいました」とおっしゃっておられました。一人の方からメールをいただき、私はこう返信させていただきました。

「掲示板のディスカッションの件ですが、僕はなんか変な気分になっております。なんて言ったらいいんでしょうか、みんなが部屋の中にいるのに、僕たちだけで天井に上がってしまい、そこで、家の屋根裏を眺めているとでもいいましょうか。がさがさ何かやっていて、天井から埃が落ちて、みなさんに迷惑をかけているのでは・・・という気分です。普通私たちは、神さまの家の中にいるので、そこでくつろいでいるわけですが、そのくつろぎは家の屋根があるからで、たまにはそこも点検しないといけないんですね。・・・」

ディスペンセーション − この意味は「家政」です。ギリシヤ語では、「オイコノミア」であり、「オイコス」が家という意味です。そこから派生して、神がご自分の家をどのように管理しておられるのか、神の、人への関わり方を定める制度を「ディスペンセーション」と言います。聖書では、エペソ1章10節や3章2節など、いろいろな箇所に登場します。(注:新改訳聖書においては、「時」とか「務め」というように訳されています。)

英語では、エコノミー(economy)という言葉が、よく使われます。英和辞典を紐解くと、economyは、「経済」のほかに、「経済制度」「(自然界などの)秩序」「【神学】摂理、経綸」とありました。

私たち人間は、どのような国家体制、経済制度を持っているかで、自分の生き方ががらっと変わってしまいます。たとえば、私がアメリカにいたとき、健康保険は日本のように国から支給されるのではなく、私的な健康保険会社の健保に加入しなければなりませんでした。保険料の月払い額が低いHMOに私と妻は加入していましたが、たとえ病気になっても
、すぐに保険でカバーするかどうか返答が来ません。こちらは、病状が悪くなって、うんぬん唸っている、のにです。そのため、私たちは、「自分たちのからだは、自分たちで何とかせんとあかん。」という発想が生まれ、(これはとても良いことでしたが)必死に祈りしました。事実、妻が指を包丁で深く切り、一向に傷口がふさがらないとき、教会の長老にオリーブ油をつけて祈ってもらいましたら、主が直してくださいました。日本にいたときは、医者に診てもらうことが空気のように感じていたのですが、このように、国家体制が異なるだけで、健康管理までもが変わってきてしまうのです。

したがって、私たちが今、どのようなディスペンセーションの中に生きているかを知ることは、とても大事になってきます。

異邦人をも救う神の恵み

パウロは、教会を神の奥義として話すとき、「神の恵みのディスペンセーション(エペソ3:2)」と言いました。神が恵みをもってご自分の家を治められる、ということです。このことを話す前にパウロは、異邦人であるエペソの信者たちが、以前どのような姿であったかを説明しています。

「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(エペソ2:11-12)」

このような状態であったにも関わらず、「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族(3:19)」になったというところに、神の恵みが現われています。

「1.神の歴史」のところで、神が、失敗をしている人間に対して、ご自分も降りてこられ、彼らと同じレベルに立ち、そしてご自分の理想をお見せになっている、ということを話させていただきました。このように神は、旧約においては、とくにイスラエルに対して、腰をかがめて、ご自分のあわれみと恵みをお示しになりつづけました。

けれども、もし、異邦人が神に近づこうとするときは、どうすればよかったのでしょうか。神は、あくまでも「イスラエル」と契約を結ばれていたのですから、その契約外で働かなくなってしまうことになります。ですから、イエスさまが地上におられたときは、「異邦人の道に行ってはなりません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。(マタイ10:5−6)」と言われ、異邦人に対する働きは行なわれないと明言されておりました。

ところが、前述したローマの百人隊長のことがありました。そして、カナン人の女がイエスのところにやって来て、「娘が、ひどく悪霊に取り付かれているのです。私をあわれんでください。」と叫んでいる場面が出てきます(以下マタイ15:21−28参照)。イエスさまは、初め、一言もお答えになりませんでした。そして、こう言われました。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」また、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われました。ところが女は、驚くべきことを言いました。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただいます。」イエスさまは、この信仰をほめられて、女の願いを聞き入れてくださいました。

主は、イスラエルに対する契約においては、異邦人への奉仕はできなかったのですが、しかし、その契約を凌駕して、ご自分のいつくしみが、流れ出たのです。主はモーセに対し、「主は、あわれみ深く、情け深い神」とご自分を紹介されましたが、あわれみに突き動かされました。

そして、この主の働きは、王子のための、祝宴のたとえの中にも鮮やかに示されています。マタイ書22章1−14節です。王(父なる神)が、王子(イエス・キリスト)のために祝宴をもうけますが、しもべたちに、招待しておいた客(ユダヤ人)を呼び出しにいかせました。けれども、彼らは来ません。王子のところには、だれもともに祝う人はいません。そこで王はなんと、招待してもいない、大通りで出会った者たちを、かたっぱしから集めてくるように命じたのです。王は、招待よりも、ご自分の王子のところにたくさんの者がいることを大事だと考えたのです。このように気前の良い王の姿が、父なる神であると、イエスさまはご説明しておられます。

この大通りにいる者たちが、私たち異邦人なのです。ユダヤ人が招待を拒んだために、神のあわれみと気前よさが、もともとの決まり事をも乗り越えて現われました。私たちは、イスラエルへの神の契約から遠く離れていたのに、神に近づけられた者となったのです。

それは、キリストの十字架によって示されました。主が十字架につけらえたときに、神殿の聖所と至聖所を仕切る垂れ幕が、上から下へと真っ二つに切れました。イスラエルと異邦人と仕切る壁、またイスラエルと祭司との間にある仕切り、そして、祭司と大祭司を仕切るこの垂れ幕が、キリストのみわざによって、切れてしまったのです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を破棄された方です。(エペソ2:14−15)」

したがって、神は究極的なかたちで、ご自分の恵みのわざを現わしてくださいました。異邦人をも、キリストにあって取り入れ、そして、キリストにあって、神の御座に大胆に近づくことができるようにしてくださったのです。

そこで、「恵みのディスペンセーション」がはじまったのです。ここには、ユダヤ人も異邦人も、男も女も、自由人も奴隷も何の差別もありません。キリストにあって一つであり、すべての者が神の家族にあって兄弟姉妹なのです。

旧約におけるディスペンセーション

旧約におけるディスペンセーションは、これとは違っていました。神の家族は、預言者モーセと、祭司アロンという仲介者によって、治められていました。神は、イスラエルの民とともにおられたのですが、モーセをとおして初めて、神のことばを聞くことができたし、アロンの祭司職をとおして初めて、神を礼拝することができたのです。一方、教会は、聖霊によって、キリストと神が私たちの「うち」におられます。ですから、聖霊ご自身が、神のことばを一人一人の信者に教え、キリストによって神に近づき、礼拝できるようになっています。

ここが、旧約と新約におけるディスペンセーションの違いなのです。

しかし、初代教会から後、キリスト教会はある一つの間違いを犯しました。それは、イスラエルに代わって教会が、神の代表者であると考えたことです。そして、この地上における機能的な働きを、イスラエルではなく、教会によって行なわれると考えました。そのため、教会の中に、新約ではなく、旧約のディスペンセーションが入り込んで来てしまいました。

カトリック教会の霊的階級制度があります。彼らがこの地上において、イエス・キリストの証しをするために、霊的権威付けをしようとしたことには意義を見出せます。しかし、司祭によって、信者は神との関わりを持つことができるとする、旧約の祭司制度を取り入れてしまったのです。儀式をとおして、霊の現実が適用されるとする考え(幼児洗礼、聖餐の化体説など)も、旧約のエコノミーを踏襲しています。

また宗教改革がありましたが、ルターは主観的に信仰義認の真理を発見しましたが、教会制度の改革は、主にカルビンによって行なわれました。しかし、「契約神学」にも見られるように、新約と旧約のディスペンセーションの違いをあまり考えることをせずに、包括的に神の契約を束ね上げてしまったため、律法主義的な教会制度を残すことになったのです。そして、プロテスタントの教会は、多かれ少なかれ、この教会制度の中にいます。信者は、個人的には、信仰による義、救いの確信を把握していますが、教会として集まるときには、その制度的枠組みと、キリストのいのちの現われのとの間に、摩擦が起こってしまいます。

だからといって、制度的な枠組みから離れて、霊のダイナミズムだけによって行なわれる運動が功を成しているとも限りません。それは、その運動の中にいる一人一人の構成員が、この新約のディスペンセーションの中にとどまりつづけられないため、あるときは分裂が起こったり、あるときは硬直化や形骸化が起こったりと、純粋なかたちで教会の姿を保ちつづけることができないのです。

すべては、私たちが、恵みのディスペンセーションをどこまで把握できるかに、かかっています。けれども、真理は、どんなにもがいても、人間の知性によっては決して理解することができないのです。そこで次に大事なポイントとなるのは、「御霊による啓示」です。それは、次の項目で詳しく話します。


4.聖霊と教会

私がアメリカにいたときに、アラブ人たちの集まりを導く牧師と交わったことがあります。彼はヨルダン国から来ました。彼は、英語はもちろんのこと、隣の国イスラエルの言葉へブル語も操ることができました。洗礼を受けたのは、ヨルダン川とのこと。まるで隣近所の川のように話していました。そして、ダビデが奏でたのと同じ「琴」を持ってきました。いわゆるハーブとは、まるで違う形をしています。彼は「それは英訳の誤り。これが本物です。」と言っていましたが、彼といっしょにいるだけで、聖書の世界が飛び上がってくるようでした。

彼はクリスチャン・ファミリーで育ちました。何代も続いているとのことで、「900百年前に、先祖がシナイ山に登って・・・・」などと話しています。私は目を丸くしました。900年?!90年の間違いでは?けれども、彼は、私にとってとてつもない長い期間を、短期間で起こったかのように話すのです。

これは本当かどうか分かりませんが、ユダヤ人の話も聞いたことがあります。ヘブル語には、現在形と未来形の区別がありません。したがって、「何々が起こるだろう・・・」と話すときも、「何々が起こる。」と言っているのと変わりなくなります。ユダヤ人が、知人と待ち合わせしていました。いつまで経っても来ません。けれども彼は待ち続けました。なぜかって?Because he comes.(現在形)だからです。彼は頭の中で、知人が来ることは現在形であり、時間の長さはさほど気にならないのです。

これが、中東に住む人たちの時間空間であることを、私は知りました。しばしばイスラエル・パレスチナ問題において、「何千年も前のことをユダヤ人は持ち出して、ここが自分たちの土地だと言っている。」と言っている意見をよく聞きますが、アラブ人だって、同じことをしています。私たちにとって、長い時間のように見えても、彼らにとっては一点に集中されているのです。

実は、これは聖書の時間空間でもあります。神は永遠の方です。永遠であるため、私たちが持っている時間空間を越えたところから、お語りになっています。そして、この時間空間を把握するためには、私たちの知性では決してできません。そこで神は、私たちにご自分の霊を与えてくださったのです。御霊によって、神に属する事柄を悟ることができます。

霊のタイムマシン

これまでしばしば言及させていただいた、「アブラハムへの神の約束」についてお話します。その約束は創世記12章1−3節にありますが、こう書いてあります。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

このアブラハムについての約束をよく見てみますと、これは彼の生涯にこの約束がすべて実現したわけではありません。いや、その後のイスラエルの歴史を見ても、この約束が完全に実現されているのを見ることはできません。なんと実は、終わりの時にならないと、この約束は実現しないのです!主は、何気なく(?)、アブラハムにこの約束をお語りになっていますが、終わりの日の姿を、初めの時にお話になっているのです。聖書、とくに旧約聖書をじっくり読んでみてください。その他にも、完成され、実現されたことが初めに述べられており、それからどのように実現しているのかを展開している流れになっています。

イザヤ書には、「わたしは終わりの事を初めから告げ、(46:10)」とあります。これが、神が私たちにお語りになる方法です。

完成されている救い

そして、これは新約聖書においても変わりません。なぜ、私たちは、「救われる」と言わずに、「救われた」と言うのでしょうか?それは、永遠の神が、永遠の救いを私たちにお与えになっているからです。私たちはまだ、自分のからだがキリストと同じ栄光の姿になっているのを見ていません。ですから、その救いをすべて見ているわけではないのです。しかし、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8:30)」とあります。私たちがキリストを信じたときに、先にあるみわざをも、すべて「今」という一点の中で経験しているので、「救われた」という完了形を使うことができます。

これは、いわゆる「聖化」においても同じことが言えます。パウロはローマ人への手紙6章において、聖潔に進む道を教えていますが、その聖化はすでに、「キリストが十字架につけらえた」時点で、罪に支配された私たちの古い人は死んでしまったのです!あの二千年前に、キリストとともに死に、キリストともによみがえらせられたのです!完了形です。ですから、「クリスチャンの歩みをして、もっと聖くなろう。さらに正しくなろう。」とするのは、まったく意味をなさないのです!

加えて言うならば、私たちはクリスチャンとなってときから、何年たっても、より正しくなったということは、まったくありません。私たちは、ただ義と「認められている」あるいは義と「みなされている」だけなのです。英語でしたら、You are declared as righteous.であり、ただ「宣言」されているにしかすぎません。正しくなるのは、キリストが教会のために再び来られるとき、携挙のときであります。

パウロは、「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3:9)」と言っていますが、なぜ「望む」と将来の出来事として話しているのでしょうか。それは、キリストが天から救い主としておいでになるとき、私たちをご自身の栄光のかただと同じ姿に変えてくださるとき(ピリピ3:20−21)のことを話しているからです。(ですから、私は、クリスチャンは、主が戻って来られるのを待たずして、日々を送ることはできないと信じています。救いの完成は、すべてこれにかかっているからです。)

信仰と御霊の導き

このようなことを話していると、何がなんだか分からなくなって来たかもしれません。「正しいと認められたのに、正しくなるのは将来なの?」「もう罪に対して死んでいるって言っているのに、でもやっぱり罪を犯してしまうよ。」そうなんです、これはすべて、完成されていることを、神が、初めのときにお話になっているからです。

したがって、私たちは、自分たちの行ないでなんとかクリスチャン生活を送ろうとすることができなくなります。もっと聖くなって、と言っても、すでにキリストにあって聖なる者とされているのです(1コリント6:11)。もっと正しくなりたい、と思っても、これ以上正しくなることのできない、完全なキリストの義を、すでに自分の身にまとっています。(これ以上、正しくなれないんですよ!)

そこで、私たちはただ、「信じる」ことだけが要求されていることを知ります。私たちにはただ、これらのキリストにあって神が行なってくださった、完成されたみわざを信じることによってのみ生きていくことができます。

私たちは、神から独立して行ないの中に生きようすることをやめ、この信仰の世界の中に入るとき、そのときに「御霊」が働いてくださいます。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8:2)」とパウロが言ったとおりです。聖霊は、霊のタイムマシンを私たちの生活の中で逆算してくださいます。キリストにあって、神がすでに行なってくださったことを、私たちに啓示してくださり、教えてくださり、そして体験することができるようにしてくださいます。

御霊の賜物

このような、神の恵みと信仰の中にとどまっているときに、神は御霊の賜物をひとりひとりに与えておられることを教えてくださいます。単純に、神の恵みの中に生き、信仰によって生きているときに、神が与える賜物を知るようになります。

あなたは、自分がクリスチャンとして当たり前のことを行っていると思っているとき、実は他の人たちには示されていないことがあります。「こんなにはっきり見えるのに、なぜ?」と言いたいけれども、他の人には見えていないものがあります。それは、神があなたに「信仰」を与えられているからです。そして、その信仰によって歩んでいるときに、御霊の賜物を用いていることになるのです。私が大学生のとき、クリスチャンのキャンプで「賜物発見」というセッションがありましたが、そのようなものは不要です。クリスチャンとしてのアイデンティティーをしっかりと持っていれば、「私はするべきことを行なったまでです。」という、しもべの言葉と同じことを言っていることに気づくでしょう。

そして、ある人には、神は信者たちを養うための賜物を与えられます。牧者や教師、伝道者などの油注ぎを神はお与えになります。これも、ただ主との歩みを淡々と行なっていればよいのです。主が必要なときに、必要な油注ぎを行なってくださるのです。按手は、まず神が行なってくださいます。そして、その按手を自分も知り、また周囲のものたちも知り、そこで初めて、人による按手式が意味を持つのです。

愛の奉仕

そして、私たちに賜物が与えられるのは、「それを使って何かができる」からではなく、ただ愛をもって主にお仕えしたい、という動機からです。使徒行伝を呼んでも、書簡を呼んでも、「あの人には、このような賜物がある」と騒いでいる箇所はあるでしょうか?いいえ、淡々と、与えられたものを忠実に行なっている姿しかありません。キリストの愛の中で、一人一人が互いに仕える中で、賜物は用いられていきます。

信仰と希望と愛 − これがキリスト教会のあるべき姿であります。パウロは、テサロニケの信者たちのことを神に感謝していたときに、「あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(Tテサロニケ1:3)」と言いました。


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