反キリストの霊  2001/08/13

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。 (ヨハネの手紙第一2:18)」

 聖書の中には、神とキリストに対抗する霊的存在について、明かしています。それは、悪魔とかサタンとか呼ばれていますが、使徒ヨハネは、手紙を書いたときに、「反キリスト」がいることを書いています。多くの者が、キリストを否定し、キリストに代わるものを信じ、言い広めていました。彼らの背後に働いていたのは反キリストの霊です。これから、反キリストの霊の特徴について、述べていきたいと思います。

バビロン

 聖書の初めに、反キリストの霊を見ることができるのは、バベルの塔においてです。

「そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』(創世記11:4)」

 主なる神はノアに、「生めよ。ふえよ。地に満たせ。(創世記9:1)」と命じておられました。このノアから多くの子孫が出てきましたが、人々は、シヌアルの地に平地を見つけて、そこで定住しました。そして、れんがを作り、アスファルトを用いて建物をたて始めました。それから、上の言葉を語りました。それは、神の命令である「地を満たせ」と、真っ向から対立する試みであり、人々が地上に満ちて、それぞれの持ち場で神を敬い、へりくだって生きるのではなく、一つのところに集まって、自らを高く引き上げようとしたのです。

 このように、各人が神とキリストのうちにとどまり、慎み深く生きるのではなく、集まって神の役割を果たそうとし、神のようになろうとする動きが、反キリストであります。

 詩篇2篇には、こう書いてあります。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者(キリスト)とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』

 2篇を読み進めると、この預言はキリストが地上で御国を立てられるときの前に起こる出来事であることが分かります。そしてヨエル書3章には、ヨシャパテの谷に、諸国の民が戦争をするために集まってくることが分かり、ゼカリヤ書14章にも、すべての国々がエルサレムを攻めてくることが書かれています。そして、黙示録には、「ハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(16:16)」とあるように、終わりの時に、諸国の民が一つになって集まり、神とキリストに対抗することが預言されているのです。しかし、これはキリストが地上に再臨される直前の出来事だけではなく、初代教会の聖徒たちが祈りの中で引用したように(使徒4:25-28)、反キリストの霊は、キリストの初臨のときにも働いており、全人類は過去・現在・未来に関わらず、このような動きを見ることができます。

 一つに集まると言っても、単純に、諸国が一つに団結して神とキリストと戦うのではありません。互いに挑み合いながら、戦いを交えながら、結果的に一つになって反抗します。ダニエル書11章を読むと、ギリシヤ帝国を中心にして起こることが詳細に預言されています。「北の王」と「南の王」がおり、あるときには接近し、あるときには戦いを交え、そしてその中から、「荒らす忌むべき者」が現われて、イスラエルの土地を荒らします。エゼキエル書においては、北から攻めてくること、黙示録においては、東から大軍がやってくることが書かれており、反キリストを交えての世界大戦が展開することが預言されており、互いのいがみ合いの中で一つになってキリストに逆らいます。

 そして、この霊的存在についての、鮮明な描写がイザヤ書14章に書いてあります。シヌアルの平地に塔を建てたその場所は、バビロンとも呼ばれますが、ここの国に対する預言において、反キリストの存在が描かれています。

 「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。(14:9)」

 地上の諸国の王たちを揺り動かして、彼らが神とキリストに逆らうように仕向けた、この人物は、最後によみに投げ込まれます。彼は、「獣」と呼ばれている人物であり、黙示録19章20節では火と硫黄の池に投げ込まれることが預言されています。この預言の後に、イザヤは、あの有名な「ルシファー」についての預言をしており(14:12-15)、悪魔が反キリストとともに働き、また反キリストを動かしていることを知ります。

 このように見ていくと、私たちの身近なところで、確かに反キリストの霊が働いていることを知ることができます。世界は確かに、互いに協力して世界平和と秩序を築くべきであるという潮流の中にいます。むろん、それは私利私欲の中で結びついているにしか過ぎません。日本も、自衛隊の海外派兵など、その流れの中に便乗しようとする意図を見せています。国連という機関もまた、一歩間違うと、反キリストのご用達機関になる可能性を十分に持っています。本来、それぞれの国が、神から与えられた持ち場にとどまるべきであるのに、そこから離れて何かを作り上げようとする姿は、反キリストです。


世界帝国

 反キリストの霊は、一つに集まり、神とキリストに反抗させるだけではありません。全世界を支配する動きを持ちます。

 ダニエル書における、幻と預言がこのことについて明らかにしています。ダニエルが生きていた紀元前6世紀ごろには、すでにアッシリヤ帝国、そしてバビロン帝国が台頭していました。諸国が小競り合いをしつつも並存していたのではなく、諸国を従属させるところの世界支配が始まっていたのです。その姿は、ネブカデネザル王が見た夢にある人の像のようであり、また、獰猛な獣のようでもありました。

 人の像において興味深いのは、頭から足のつま先まで、いろいろな金属によって成っており、金から銀、銀から青銅、青銅から鉄、そして鉄と粘土が混じり合ったものへと、劣った金属になっていることであります。金から銀へと移ったことに注目してみますと、金が表していたバビロン帝国のネブカデネザル王は、自ら話したことが法律になるような絶対君主でありましたが、銀を表していたメディヤ・ペルシャ帝国は、王でさえも変えられない法令がありました。このように、権力の吸引力がしだいに分散していることが分かります。最後の、鉄と粘土においては、結びつきがありながらも決して混じり合わないという、連合国のような様相を呈しており、混沌状態です。

 しかしながら、このような権力の吸引力が分散している中から、一気に、絶対的な世界支配を行なう人物が現われると、ダニエル書は預言しています。「第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。(7:23)

 私たちは今、混沌とした社会に住んでいます。共通の価値観を持たず、それぞれが感じていることが真理であるという、孤立化、分離化が起こっています。その中で、孤立した集合体を支配、管理しようとする者たちが現われています。いまや、インターネットによってその管理社会は十分に可能となっています。日本の教育においてさえ、同じ兆候を見ます。かつては、世界の工場になるべく、子供たちを受験戦争の中に送り込みましたが、いまは「ゆとり教育」と称した、私に言わせれば「無教育」を施そうとしています。ある人がこう言いましたが、そうかもしれません。「日本はこれから、大勢の人を馬鹿にして、一部の者たちだけで支配するエリート社会を作ろうとしているのだ。」


反ユダヤ主義

 聖書に貫かれている真理は、権威は神からのものである、というものです(ローマ13:1)。どのような権力のある支配者であっても、彼は神の操り人形にしかすぎません。ダニエルは、神をほめたたえ、「神は、王を廃し、王を立てられる。(2:21)」と言いました。しかし、支配者たちは、自分が神によって支配されていることを認めたくはありません。自分こそが神であり、自分の王国が永遠に続くと願いたいのです。

 そこで、彼らは、神が直接統治され、神ご自身がともにおられる民族とその国に脅威を抱きます。ユダヤ民族とイスラエル国です。ユダヤ人たちは、その民族誕生のとき(出エジプト1章)から、その神の選びのゆえに、恐れられ、ねたまれ、憎まれ、迫害を受けました。

 ネブカデネザルは、神が与えてくださった権威の中にとどまろうとせずに、全身金の像を作りました(ダニエル書2章)。神が与えておられたのは、あくまでも「金の頭」です。彼の王国は永遠に続くのではありません。けれども、彼は全身を金にし、自分の王国の永続性を顕示し、諸国の民にそれを拝ませるようにしむけました。

 その礼拝を拒んだのは、あの、ダニエルの三人の友人です。彼らは、ヤハウェなる神のゆえに、像の前にひれ伏すのを拒みました。これがネブカデネザルの怒りを買い、三人は燃える炉の中に投げ込まれたのです。それは、彼らの民族の神である、主を信じる信仰のゆえです。

 ユダヤ人は、このように悪魔の攻撃の的になっています。黙示録12章においては、イスラエルが悪魔に食い尽くされそうになっている場面を読むことができます。これは大患難時代に起こることであり、終わりの時には、ユダヤ人に対する迫害がきわみに達します(マルコ13:19-20)。

 反キリストの霊は、歴史の中にも働きました。キリスト教会でさえもが、自分たちが神の恵みによって救われた存在であることを忘れ、自らをイスラエルであるとし、ユダヤ人たちを迫害する先駆者となりました。(こうして、キリストの御名が汚されて、悪魔の思う壺となったのです。)とくに、ヨーロッパのイスラエル国への対応を観察しますと、反ユダヤ主義の長い歴史が反映されているのを見ます。ヨーロッパは同時に、キリスト教が形骸化し、むしろ反キリストの雰囲気がただよっているとも言われますから、これは当然の結果です。キリスト教だけではなく、イスラム教、右翼、左翼など、あらゆる思想や宗教が、ユダヤ人を憎み、排斥しようとしています。

 しかし、聖霊をいただいているキリスト者は、決してユダヤ人を憎めないはずです。むしろ、彼らを愛するはずでしょう。コーリー・テン・ブームの「わたしの隠れ場」を読みますと、オランダ改革派教会に通うコーリーの家族が、隣人のユダヤ人を選ばれた民と認め、彼らを助け、かくまっている姿を見ることができます。

 先日、新宿御苑で、ドイツから来たユダヤ人の旅行者らが私と友人に声をかけました。私が"ISRAEL"というロゴの帽子と、"JERUSALEM"というロゴのTシャツを着ていたからです。私たちが、ユダヤ人に会えたことを喜び、イスラエルを愛していることを告げると、彼らはとても喜んでいました。なぜなら、普通、人はイスラエルが嫌いだからです。好きな人に会うのは、彼らにとっては稀なのです。反ユダヤ主義に対抗できるのは、私たちのうちにおられるご聖霊のみであります。


キリストの代替物

 反キリストというのは、厳密には「キリストに反対する」という意味ではありません。ギリシヤ語のantiという言葉は、「反対」ではなくむしろ「〜に代わって」という意味が強いです。英語ですと、instead of~になります。したがって、反キリストとは、「キリストに代わるもの」あるいは、「キリストの代替物」ということになります。

 テサロニケ人への手紙を読むと、反キリストは、自分こそが神であると言って、神の宮の中に座を設けるようになると、預言されています。その前に、彼は、あらゆる偽りの力、しるし、不思議を行なうと預言されています(以上2テサロニケ2章参照)。また、彼は、打ち倒されたかと思われたけれども、その致命的な傷が治ってしまったとあり、世界がそれゆえに彼を拝みます(黙示13:3)。このように、キリストのみわざと似たようなことを行ない、キリストではないほかのものを拝ませるということで、彼は反キリストなのです。

 このような代替物は、世界の宗教、政治、あらゆるところで現われました。日本も例外ではありません。天皇制と言われているものがそれです。明治維新政府は、欧米列強に対抗するために、天皇を中心として、神道による祭政一致の国家を作りあげようとしました。そこで参考にしたのが、西洋のキリスト教です。国の絶対者をキリストであるとように、天皇を元首とする。キリストが天から来られた方、神が人となられた方であるように、天皇を現人神としました。そして、この慈悲深い天皇によって、日本が支配され、また天皇に支配された日本が世界を支配して、太平を築くようにしたのです。これは、キリストの下でイスラエルが支配され、キリストに支配されたイスラエルを中心にして、世界に平和が築かれるという、神の国の代替物であります。国と国が敵対しするという、終末の様相を見始めたときに、このような国家像を築いたのは偶然ではなく、反キリストの霊が強く働いていることの現われであります。

 共産主義しかり、イスラム教しかり、それぞれがキリストに代わる代替物をこしらえ、そして世界制覇をもくろみます。かつての天皇国日本は、海軍を東南アジアからさらに、中東に一代侵攻艦隊を送り込もうとした記録があります(「今は亡き大いなる地球」ハル・リンゼイ著参照)。そして、イスラエルに東から大軍がやってくることも預言されています。

 このように、キリストに反対している勢力というよりも、キリストによってしかもたらされないものを、他のもので満たそうとする動き、あるいは「摩り替え」が、反キリストが行なうしわざです。


創造的破壊

 こうして、反キリストの霊がどのように世界に働いているかを見てきましたが、神は反キリストに対し、どのように対処されるのでしょうか。それは、「既存の古いものを破壊して、新しいものを創造する。」という方法によってであります。「天地は過ぎ去るが、わたしのことばは決して過ぎ去らない。」と主が仰せになったとおりです。

 その古典的例が、ノアの箱舟であります。神は、ご自分が造られたものが、悪いものにのみ傾いているのを見て、悔やみ、それらを水で滅ぼすことをお決めになりました。主は、彼らを良くしよう、改善させようとはされず、まず滅ぼして、そして新しい民をふやすことをお考えになったのです。「創造するために、破壊する」とでも言いましょうか。この点については、あるカルト宗教の教祖が言ったとおりであります。

 しかし、この神のみむねに、人々は反発します。「私たちが、ましてやキリスト者が、破壊を望むとは何事か!キリスト者は、この社会が改善することを望むのではないか。」いいえ、神は、人がご自分に立ち返るために、警告を与えますが、この世界を永続させようとは決して思っておられません。むしろ、この世界を永続させようと仕向けるのは、悪魔の仕業であります。悪魔は、何とかして、人々をだまして、今の世界がそのまま続くように望ませ、神の国が訪れるのを拒ませようとするのです。

 ある人が、次のようなたとえを言いました。「あなたが為政者であるとします。ある建物に病原菌が蔓延し、どぶねずみがはびこっています。あなたは、もう一つの新しい建物を建造させます。そしてそこの住民に言います。『この建物は間もなくダイナマイトで破壊します。その代わりに、新しい建物を用意しておきましたので、どうぞそちらに移動してください。賃料はただです。』もう病原菌で汚染されてしまった建物を壊し、そこの住民のために無料で新しい住居を与えるということは、為政者であるあなたが行なうこととして、非常に理にかなったことであり、公平な判断です。しかし、多くの住民がそこに居着き、ついにダイナマイトで建物が破壊されたとき、ともに滅んでしまったとしても、あなたには非はありません。これと、神がこの世に対して行なわれるのは同じことなのです。」


初代教会の姿勢は、現在の姿勢

 こうして、反キリストの霊について述べさせていただきましたが、初めに引用したヨハネの手紙の聖書個所にあるように、ヨハネが地上に生きていたときから、すでにこの霊は働いてました。しかし、この霊が完全な姿で現われるのは、まだ起こっていません。終末の絵巻に現われるところの反キリストなる「人物」を、私たちはまだ見ていない、あるいは判別できていません。それでは、使徒パウロによれば、「引き止めるもの」があるからです。

「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。(テサロニケ人への手紙第二2:7)」

 この引き止めるものとは、この地上におられるご聖霊であるに違いありません。ご聖霊がキリストを信じる者たちの中に住まわれ、信者たちの間に現われてくださっていますが、聖霊のご臨在が、反キリストが完全な姿で現われるのを引き止めているのです。教会である私たちが、「地の塩」とも呼ばれています。

 初代教会においても、この反キリストを感知していました。ローマ帝国をとおして、それは際立って現われていました。そして、その時代の中で、反キリストが現われることも意識しつつ、「マラナ・タ(主よ、来てください)」という挨拶を交わしていたのです。状況は、今の教会も同じです。反キリストは今もいます。そして、いつでも完全な姿で現われ得るのです。教会がキリストの証しを終え、主がお定めになっている時が来て、空中にまで引き上げられてから、引き止めるものがなくなった反キリストは最後の活動を開始します。

 私たちは、終わりの時に生きています。悪魔が、私たちを食い尽くそうと獅子のように歩き回っています。私たちは神の武器をもって、立ち上げるのみです。私たちはキリストの兵士なのです。霊の戦場にいます。目をさまして、しっかりと立って、キリストの贖いを待ち望まなければいけません。そして、光の子どもとして、果敢に敵の陣地に攻め入るのです。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(ヨハネの手紙第一4:4)」

(あとがき)この聖書の話が、具体的に日本においてどのように適用されるのかお知りになりたいかたは、妻が書いたエッセイ「国民の歴史」をご参照ください。純粋に歴史学の立場から書いたエッセイですが、その推測が聖書預言の絵巻に合致しています。


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