日本宣教と天皇制  2002/03/18

 去年の12月、いのちのことば社から、「日本宣教と天皇制」というブックレットが出版されました。この本の紹介が、クリスチャン新聞の記事にありますので、こちらをご覧ください。また、本の販売は、いのちのことば社のサイトからも出来ます。

 はじめ「日本宣教と天皇制」の本の書評を書こうと思いましたが、ずっと書かない状態でいました。けれども、この本から得たこと、また、自分が日本宣教と天皇制について考えていることを、徒然なるままに書き記したいと思います。



内なる天皇制

 私が、天皇制について問題意識を持つようになったのは、政治体としての天皇制よりも、福音の働きを妨げるところの、日本人全般が持っている天皇制意識でした。これを以前、リバイバル新聞にてTCUの櫻井教授が「内なる天皇制」という題名で提言していましたが、最近も、クリスチャン新聞にて、中川氏が、このことについての論評を書いています。まずご一読ください。

なぜ今、天皇制を論じるのか」− 自立したキリスト者を目指して −
クリスチャン新聞 2002年 3月10日号より 中川健一

 その中で目に留まったのは、次のことばです。「カルト化する責任は、指導者にだけあるのではなく、その教会を形成するすべての信徒にもある。「霊的判断の丸投げ」、「甘え」、「思考停止」などの傾向が日本の教会にある限り、この国でのキリスト教会の健全な発展など望みようもない。」

 この「霊的判断の丸投げ」「甘え」「思考停止」という特徴には、「神の前に立つ自分」という意識がありません。「すべてが一つ」という全体主義、集団主義的な意識があり、それを統合する一つの象徴的なもの、あるいはイメージが存在します。

 ロゴス・ミニストリーの掲示板において、在米のある方と、「聖書の学びの助けになる書物が日本では売られていない」という問題を指摘したことがあります。アメリカには、ギリシヤ語辞典では、Zodhiates、コンコルダンスはStrongs、聖書のキーワードをまとめているものでは、Nave's Topical Bible Studyなどものがあり、自分自身で、みことばを掘り起こし、学ぶことのできる道具的書物があります。けれども、このような書物を日本語に訳しても、いわゆる教職者しか購入しないという現実があり、なかなか翻訳・出版されません。あるいは、そういった書物を書く人もいません。

 そこで、聖書について自分で読むのではなく、他のだれかの教会指導者、牧師、聖書教師の解釈や、言葉を信じていきます。「いろいろな解釈があるけれども、どれを信じればよいか分からない。」と言った意見は、実は、自分自身でみことばに取り組んでいないことの現われなのです。「霊的判断の丸投げ」「思考停止」を行っているのです。

 このような状態が存在すると、自主的に、主体的に、みことばを学び、キリストを礼拝する人々の集まりを持つことができなくなります。もし集まるとすれば、そうした霊的判断、思考作業、また神の愛を代替する、牧師を中心に集まっています。この時点で、牧師は、万人祭司である信徒たちが、責任あるキリスト者として建て上げられるのを助けるのではなく、カトリックの神父のように、その人と神を仲介する、旧約の祭司的存在になります。牧師が同じキリストにある兄弟ではなく、自分たちの理想を投影する、一つのイメージになるのです。

 実は、これがまさに天皇制の構図なのです。天皇が何をしているかが大事なのではなく、そこにいるという「存在」が大事になります。それがイメージであり、まさに「偶像」であり、日本国憲法に定められている国民統合の「シンボル(象徴)」なのです。

 そして、牧師は、キリストによって集まる人々の教会の牧会ではなく、自分によって人々が集まってくるシンボル的働きをすることになります。彼は、その集まりを機能させるために、本質的ではないことに取り組ませることができます。○×リバイバル集会、伝道用映画プロジェクト、売れている本など、いろいろな活動に取り組ませることによって、国体ならず、教会体を保っていこうとします。しかし、もちろん、これらの活動に深く関わっている信徒たちは、霊的に枯渇してき、自分たちが何のためにこのようなことを行なっているのか分からないという、目的意識を見失った状態に陥ります。

 そのような中で、牧師は何をしていても、問いただされるようなことはない、という状態が出来上がります。いわゆる「甘い汁」を吸うことができます。ある牧師は、教会のお金を横領したり、またある牧師は教会員の女性信徒と性的関係を持ったり、他には、自分の名を上げ、影響力を持たせるための活動を行なうこともあります。ここで問題は、このようなスキャンダルそのものではありません。牧師が罪を犯したのであれば、教会の中で、悲しみと痛みをもって、この牧師をさばき、彼には牧会の職を退いていただき、悔い改めと神の赦しの機会を提供することができます。そうして、牧師はふたたび立ち上がって、もしかしたら再び奉仕に立つことができるかもしれません。しかし、問題は、牧師がそのようなことを行なっているのにも関わらず、なんと、教会員たちが、「牧師がかわいそうだから」とか、「牧師をさばいてはいけない」とか、「牧師は人を殴りつけるが、それは愛情の現われ」であるとか、教会員が自分たちを貶めている牧師をかばうような関係が出来上がっていることさえあります。まさに「カルト状態」です。

 このように、信徒が牧師に霊的甘えを行ない、牧師が信徒を利用していくという関係は、まさに天皇制そのものであり、天皇制は外だけではなく、「内」に根深く存在しているというのが現状です。ここから脱却する第一歩は、神の前に単独者として立つ、という決断です。中川氏が言うように、「キリスト者市民」となる必要があります。


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