シオニズムとクリスチャン 2002/04/19
「シオニズム」という言葉は、多くのクリスチャンが耳にしていることと思います。この言葉の定義が、イスラエル大使館のウェブサイトにて、次のように定義されています。
シオニズムは、エルサレムやエレツ・イスラエル(イスラエルの地)の伝統的な同義語である「シオン」に由来する。父祖の地イスラエルへの愛と帰還の願いは、十数世紀に及ぶディアスポラ(離散)のなかで、ユダヤ人が抱き続けてきたものである。これは離散のユダヤ史に深く根づいた夢であった。
東ヨーロッパではユダヤ人差別と迫害が続き、西ヨーロッパの民族解放もユダヤ人には適用されず、迫害は終らず多数派社会への統合もならなかった。幻滅感は広がる一方であった。政治的シオニズムはこのような環境のなかから生まれたのである。1897年、テオドール・ヘルツェルの提唱で、スイスのバーゼルにおいて第1回シオニスト会議が開催され、「シオニスト機構」が誕生した。ここに政治的シオニズム運動が正式に始動したのである。
この運動は、エレツ・イスラエルへの帰還を促進支援し、社会、経済、文化そして政治上で民族の再興をはかり、国際社会が認め、そして法的にも保証された郷土を父祖の地に建設することを目指していた。つまり、ユダヤ人が迫害されず、自己の生活とアイデンティティーを確保し発展していける郷土の建設が、その目的であった。
http://www.israelembassy-tokyo.com/about/history/01.html
そして、聖書的には、クリスチャンでユダヤ人である聖書教師アーノルド・フルクテンバウムが次のように定義しています。
しかし、数多くのクリスチャンは、次のことを知りたがっていることだろう。『シオニズムは聖書的なのか?』この質問に答えるためには、聖書を文字通り、また真剣に受け止める信者であれば、『そのとおり』と答えなければならない。
典型的にシオニズムを示す聖書個所は、詩篇137篇1−6節に見出される。
バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。
バビロンで捕囚の民となったユダヤ人が、イスラエルに戻りたいと待ち焦がれているのは、シオニズムを言い表わしていることである。「シオン」という言葉がここで2回使われているが、「エルサレム」と同義語として使われている。シオンは思い出されるべきものであり(1節)、その歌も思い出されるべきものである。(3節)エルサレムは、忘れてはならないものであり(5節)、最上の喜びにもまさって好まれるものである。(6節)詩篇137篇の著者ほどのシオニストにはなることはできないだろう。
他にもシオニストがいたが、預言者イザヤがそうであった。イザヤ書62章11節でこう書いている。
見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。』と。
http://www.ariel.org/ffzionf.html
このように、シオニズムは、紀元70年以上の離散の歴史に裏打ちされた、祖国エレツ・イスラエルに対する強烈な思慕が、その背景にあり、それは預言者たちによって、表現されています。
そうした理由から、アーノルド氏は、クリスチャンがシオニズムを支持すべきであると結論づけて、イスラエルとともに立たなければいけないことを明言していますが、私は少し、聖書預言的な視点から、シオニズムについて論じたいと思います。(注)
神のご計画は、神ご自身の主権によって、すべての事象が動いています。けれども、そこでは人間の営みがロボットのように操作されているのではなく、人々の自由意志による行為が絡み合いながら、神はそれらの人間の営みをも用いられながら、ご自分と知恵と思慮によって、すべてのことをご自分の栄光へと動かされます。
ユダヤ人がパレスチナの地に帰還したことは、神の明らかな目的があります。アブラハムに与えられたその土地を、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちが所有するためです。しかし、アブラハムへ与えられた神の約束は、土地を所有するだけではなく「祝福」があります。イスラエルが、その子孫から出てくるメシヤ・イエスを信じて、その御名によって救われなければいけません。
しかし、彼らには問題があり、それは、「律法の行ないによって義を追い求める」ことがありました。彼らは神によって、また自分自身によって心をかたくなにし、今も福音に敵対しています。
そうした不信仰の状態によって、19世紀後半以降、パレスチナの地に帰還しました。イスラエル大使館のウェブサイトの説明にあるように、政治的シオニズムは、彼らが離散していることによって、その生存権が危ぶまれていることろから脱却するために、生存への解決法としてパレスチナ帰還とイスラエル建国を計画しました。このような人間的な作為があるために、ある一部の超正統派ユダヤ教の団体は、シオニズムに反対しているほどです。「メシヤが来ないかぎり、イスラエルの地への帰還は許されない。」という立場を取っているからです。
神は、彼らが約束の地に帰還することをご自分の意図としておられますが、と同時に、彼らが、霊的に祝福されることも望まれています。そこで神は、彼らが帰還した後に、異邦の諸国が彼らを攻めることをお許しになります。「ヤコブの苦難」とも呼ばれる、彼らにとっての、最後の試練の時が定められています。そこで彼らは、神を求めて、メシヤの御名を呼び求めるか、あるいは心をかたくななままにして、偽預言者にだまされて、滅んでしまうかの選択肢が与えられます。残された民は、天から地上に来られる、イエスの御顔を見て、自分たちが突き刺したこの方がメシヤであることを知り、嘆き、悔い改め、罪をきよめていただきます。
したがって、現在のシオニズムと、また現在のイスラエル国家は、二つの意味があります。それは、イスラエルの国を回復させるためと、もう一つは、その回復の前に、イスラエルを患難にあわせるという意味があります。世界と異邦の諸国が、反シオニズムの立場を取っているのは、これも、神がお許しになっていることで起こっていることです。
そして、イスラエルに反対して、イスラエルを攻め入る異邦の諸国は、ユダヤ人をなぶったその悪のゆえに、主によってことごとくさばかれます。反シオニズムは「悪」でありますが、神はこの悪をさえ用いられて、イスラエルがご自分に立ち返る機会としてくださり、ご自分の栄光を現わすようにされているのです。
したがって、シオニズムは聖書的です。しかし、彼らのかたくなさは、砕かれなければいけません。こうした二重性を持っている状態であることを認識しつつ、必要ならばイスラエルの立場を擁護する時もあるでしょう。
そして、クリスチャンは、これらの出来事を世の終わりのしるしと受け止めなければいけません。これらの出来事に、イスラエルが悪いのか、パレスチナが悪いのかの人間的な判断を下すのではなく、キリストが間もなく来られることを思い、日々の生活を歩むことです。「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。(ヨハネの手紙第一2:28)」愛と信仰に満たされて、神の福音の中に生き、またそれを宣べ伝える証し人として、最後まで主に対して忠実であることが、私たちに問われています。その評価は、携挙のときに行なわれます。
注:アーノルド氏は、他の著作において、大患難を、イスラエルのかたくなさが砕かれる時と意義付けています。ですから、結果として同じ立場を彼も取っています。