クリスチャンのマスコミ 2002/05/19
かつてアメリカに滞在し、かつ今でもインターネットなどを通して海外の情報を得ていると、日本全般のこと、またキリスト教会の様子を、ある程度客観的に見ることができる。もちろん、自分の興味の範囲や、理解の範囲に限っているが、ある一定した傾向を観察することができる。それは、「実に多様性のある動きの一つが、ある人物やグループによって日本に紹介されて、その動きが日本全体、あるいは日本のキリスト教会全体をおおっている。」というものだ。
例えば、先日、日本における、中東情勢の報道についてエッセイやコメントを書かせていただいた。ユダヤ系アメリカ人はその多くがリベラル派であり、時にパレスチナ寄りの政治的意見さえ持っている、ということは、日本ではまず伝えられていない。ユダヤ人というのは、二人集まったら、その意見がいくつも出てくるとよく言われるように、その多様性に特徴があるのであり、一枚岩で語ることはできないことがその特徴にさえなっている。しかし、アメリカにはユダヤ人をよく思わない、白人至上主義者や極右がごく少数存在し、彼らは、黒人もユダヤ人も白色人種以外によるアメリカの支配を決して許さないので、ヒトラーがかつて唱えたことを反復して、ユダヤ人がアメリカと世界を牛耳っているというパラノイア的な主張をしている。そしてそれがなぜか日本で流布されて、日本人のユダヤ人観を形成さえしている、ということを話させていただいた。
ユダヤ人だけではなく、アメリカ全体についても言える。この前、ある牧師たちの集まりに参加したが、ある方から、「アメリカは中国に敵対しているのでしょう。朝日新聞にそう書いてありました。」と尋ねて来られた。私は、中国をアメリカが牽制するのは、共和党の外交戦略の一部にしかすぎず、概してアメリカは、中国との関係を、善しにつけ悪しきにつけ、関心度が高いことを説明させていただいた。つまり東洋の大国として「ライバル」視しており、クリントン政権の外交では、アメリカと中国が急接近した。アメリカ=共和党ではなく、むしろ、リンカーン大統領から共和党が始まったのだから、民主党の基盤がとても強く、リベラル派の政治思想がかなりアメリカの外交姿勢を形成している。アメリカも、多様的な価値観を持つ国であり、どの価値観が前面に出るかによって、世界に発信されるアメリカ像も変わってくることを説明した。
しかし、朝日新聞は概して「中国寄り」であり、文化大革命が起こっていたときはこれを礼賛したことがあるとさえ聞く。そこで、アメリカの素顔を紹介するよりも、自分たちの考えに沿った事件や発言を再構成して、それを日本全国に発信しているというのが、事実である。けれども、こうした新聞社によって作りあげられたアメリカ像を、一般の読者が「これがアメリカだ」と思ってしまわせているという現状がある、と話した。(他にも卑近な例を出すと、アメリカは「捕鯨反対」の国であると多くの日本人は思っているだろうが、アメリカにいる私たちの友人は、「鯨が絶滅したって構わない。なぜそんなに種の保存に躍起になるのだ。天地は過ぎ去るのだ。」と言っていた。そして彼は、「アメリカには、いろいろな考えの人がいる。」と言った。)
ユダヤ人の場合にしても、アメリカの場合にしても、「日本に流れている情報は、確かに一部の意見としてならばその通りだが、その一部が全体を占めるようになっている。」と言えるだろう。
そして、日本のキリスト教会についても、同じことが言える。日本において、影響力のある牧師や指導者が、世界のどこかで起こっている動きを日本で導入しようとする。中には純粋な動機でされている方もおられると思うが、けれども、マスコミや出版界がそれを必要以上に報道していることが、しばしばである。例えば、かつて、「プロミス・キーパーズ」が、日本に持ち込まれた。これは、アメリカにてクリスチャン男性が、家庭における父権の回復のために、悔い改めて、互いにアカンタビリティー(責任ある関係)を持ち、主にあって切磋琢磨する運動だ。アメリカにおいて、かなり大きな広がりを持っていたのを、95年から97年までアメリカにいた私は覚えている。この動きの是非はともあれ、男性の役割の回復を求める背景には、聖書が言っていることは、家庭の崩壊を100パーセント男性にあるという、男性の自己否定に基づく認識からスタートしている。だから女性から主導権を奪還するような類いのものでは決してない。しかし、このようなアメリカにある背景を伝えずに、ただその表面だけを紹介されていたのを思い出す。
そして現在気になるものの一つが、「ホームスクーリング運動」である。この詳細はすでに、たえこが論じているので、ここでは細かいことは言わない。ただ、実際に子弟をホームスクールングによって教育し、血を流すような努力と犠牲を払っておられる人たちがおられることは、容易に想像できる。しかし、なぜか、このような一部の人たちの動きを、大きく紙面を割いて紹介しているところに、私は不自然さを感じる。日本人クリスチャンの霊的状態や国情、また聖書的・神学的な検証がされないまま、イベントのみが表面的に報道されているのを見て、私はこれがキリスト教会を建て上げるのに貢献するような報道になっているのだろうかと疑問に思うことが、しばしばである。
アメリカでは、クリスチャンの間では、これが一つの教育法の選択肢としてすでに定着している感じであったので、ある意味で「空気」のような存在であった。けれども、日本にはそれ以前の大きなハードルがあるので、まさかこれをパッケージとして日本に輸入されるとは思わなかった。やはり、「一部のものであるはずなのに、日本では全体を覆っている」という感を否めない。
もう一つ気になっているのが、「メシアニック運動」だ。メシアニック運動とは、ユダヤ人が、その民族性を捨てることなく、イエスをメシヤとして信じることの運動である。歴史的には、「クリスチャン」という言葉は、欧米にある共同体の中に入っている名称であり、ユダヤ人はその仲間に入るためには、自分の民族性を捨てなければいけなかった。そのためユダヤ人は、「クリスチャン」になることは、「ユダヤ人を捨てる」ことと等しいと考えている。けれども、メシアニック運動に関わる人は、ユダヤ人がイエスを信じることは、ユダヤ人を捨てることではなく、むしろユダヤ人のためにメシヤが来られたのだから、「ユダヤ人として完成する」とみなす。簡単に言えば、「ユダヤ人がイエスさまを信じて、救われて、神の国に入れられる」ことを強調する運動だ。
私は、この運動については、アメリカで聞いた。学校で使っていた教科書が、今はよく来日されている、アーノルド・フルクテンバウムによるものであったことと、また、過越の祭の食事が、近所のメシアニック・コングリゲーションで行なわれるから、という知らせを聞いて、「体験だから」と参加したことで知るようになった。けれども、それだけの体験であり、メシアニック運動について、それほど意識していなかった。それよりも、聖書の学びをとおして、イスラエルのことを知ることは聖書理解のために非常に重要であることが関心事であった。そのコングリゲーションの礼拝にも一度だけ参加したが、やはり、「自分は異邦人だから、ユダヤ的なものでは礼拝生活は難しいな」という感想であった。ちょうど、「黒人教会」と言われているところに、白人やアジア人が参加するような感触を持った。
また、その運動には弱さもあることに気づいていた。牧師チャックもときどき言及するが、「ユダヤ人未信者よりも、もっと律法的になっている」という指摘だ。例えば、ユダヤ教正統派が多い地域で、ユダヤ色がある集会を持つことは、宣教的な視点から見ると必要なことであると思うが、世俗化したユダヤ人が圧倒的に多いアメリカにおいて、ユダヤ教的側面をその会衆に持ちこむのはどうか、という疑問がある。しかし、これは、メシアニック指導者の中からも指摘されている問題であり、下のサイトには、かなり厳しい評価がされている。
イスラエルにおけるユダヤ人教会
また、上記のフルクテンバウム師も、その著書"Israelology"(イスラエル学)の中で、「ユダヤ性」として、聖書的、あるいは文化的に中庸なものだけではなく、非聖書的なユダヤ教の伝統や儀式までも持ち込んでいる場合が多いことを指摘している。つまり、この運動の弱さを、その運動の中にいる人々が気づいているのである。
ところが、日本における報道を見ると、このような背景を伝えずに、ただ表面的なことを伝えている場合が多いことに気づく。あるいは、ユダヤ人教師が言うことは神託であるかのように受け入れ、その運動によってキリスト教会の活性化を狙っているのかという疑問さえ抱かせる場合がある。私はこの運動は、その弱さがあることは知りつつも、キリストのからだの中における一部であり学ぶところは大きいと認識していたが、日本では必要以上にもてはやされている節もある。
そこで私が問題視しているのは、実際にその運動の中で従事し、労苦されている兄弟姉妹のことではなく、マスコミ全般の風潮であり、その風潮を作り出しているクリスチャンの世論(?)である。キリストのからだの一部として、主にあって奉仕している兄弟たちが、必要以上に持ち上げられているのではないか、と心配するときがある。事実、私もこれまで、いくつかの出版社に依頼されて、記事を執筆させていただいたが、今、この地域で主に召されていることから目を離して、いわゆるキリスト教界に起こっていることによって振り回されてしまう力を感じるので、気をつけている。私にとって自然なことは「聖書を教える」ことである。具体的には、少人数でも良いから、みことばに飢え渇いている兄弟姉妹とともに聖書を淡々と学び、霊的成長の手助けをすることである。そしてそのメッセージを、テープで聞いたり、その原稿を活用されていることを知ることも、喜びの一つになっている。
つい最近、近くでホームレスの人たちに伝道している牧師さんが、「○×新聞が、取材に来るけれども、本当は来てほしくない。」と言われていた。つまり、この牧師は、ホームレスの人たちは見世物ではないことを言いたかったのだ。本当の意味で主にあって奉仕している人は、自分のしていることが他の人に目に留まることを求めておらず、自分が、みことばによって養っている羊たちのことを気にするであろう。私も、自分たちの英会話教室に仮に新聞社の取材依頼が来たら、きっぱりと断るかもしれない。
そして私が危惧するのは、こうした、主にあって地道に活動しているその運動を、必要以上に高く持ち上げた後に、今度は、その運動そのものを批判する動きが出ることである。むろん、その運動や活動には、弱さがある。だから、その弱さを突けば、もちろん弱点が出てくる。すると、それまで表面的なことしか伝えられていない読者たちは、今度は運動そのものを否定したり、批判したりすることになるかもしれない。その運動が、地道に、それぞれが与えられた場で主にあって継続することが、キリストのからだを建て上げることなのに、その運動を実体以上のものに描き上げ、それから実体とともに引き下げるということをすれば、では「クリスチャンマスコミ」の意義はいったいどこにあるのであるのか、という疑問が出てくる。
しかし、結論として、これをマスコミ批判として終始したくない。というのは、マスコミは、その論調を形成する読者の質が問われているからだ。マスコミを見る目が厳しければ、それだけマスコミは報道の質を上げなければいけないと迫られる。例えば、アメリカのニューズウィーク誌の、読者の欄に、「このような論調のニューズウェーク誌を、購読するのを止めました。」という投稿を読んだことがあるが、これには驚いた。その投稿を掲載したのは、それだけ表現の自由を誇っていることを見せることにつながるからだろう、と考えているからだろうが、こうした認識をマスコミに持たせるほどの読者を抱えているからこそ、できることである。もし日本でそのようなことをすれば、読者が、その雑誌そのものに対する信頼を失って購読しなくなると出版社は考えるだろうし、また読者自身もそう思うことだろう。
だから、これは、クリスチャン一人一人に与えられた課題だと思う。報道されていること、宣伝されていることを、トレンドや流行のように鵜呑みにすることなく(もともと、神の真理を柱とし土台とするキリスト教に、流行などというものは存在しないのだ)、客観的な目を持って眺める訓練が必要である。大事なのは、基本的なクリスチャン生活である。日々の祈り、聖書の学び、礼拝、御霊による伝道、信者との交わりなど、普段行なっていることを行なっていることが、クリスチャン生活のAからZだ。その上で、クリスチャンの健徳につながる情報をマスコミが流すというのが理想であり、マスコミが形成するキリスト教ブームに、クリスチャンが追随することではない。マスコミの質を上げるのは、結局読者一人一人にかかっているのである。