戦前と似ている教会 2002/07/14

 先週号(7月7日)、リバイバル新聞の記事に、「アメリカの政治と福音派」を焦点に当てて、教会がどのように政治に関わるべきかについて、問題点を指摘する論者の著書の紹介と、また講演会の記事があった。その内容とは直接関係しないが、この頃、かねてから気にかかっていた日本のキリスト教界の問題点が自分の頭の中で整理された。以下、その点についてかいつまんで書き残したいと思う。

 結論から言うと、現在のキリスト教会の流れは、戦前・戦中のそれと似ている、という点である。そして皮肉なことに、その戦前のキリスト教会の反省から行なっていることが、逆に同じ流れを汲んでいることである。


1.反米化

 戦前、キリスト教会は、ローマ13章1節に書かれている、「上からの権威は、神から来ている」のみことばを根拠に、政府が行なっていることは神が行なっていることであり、ゆえに、私たちは支持しなければならない、という立場を取っていた。そのため、日本軍が行なっていることも支持し(当時は、何を行なっていたか、その情報は入っていなかったが)、神社参拝も、愛国心を培う国民的儀礼ということでそれを行なった。

 こうした過ちの反省から、戦後の教会は、過去の否定を行ない、戦前と同じような動きを政府の中に見出すときには、それを監視し、必要ならば反対運動もするようになってきた。しかし、そのような動きは、必ずしも神のみことばによるものでもなく、また神の前での真の悔い改めではなかったように思われる。その証拠に、日本全体の政治的潮流であった「戦後民主主義」に基づき、「唯一の平和憲法を持っている日本は、その平和主義を世界に発信しなければならない。」という信条を、「日本国憲法は神からの賜物である。」という信仰的な評価を行なっているのを、ある福音派の教団が行なっているのを読んだことがある。しかし、憲法にはいかに崇高なことが書かれていようとも、そこに聖書の神を認める文が何一つないところに、決定的な落ち度がある。神あっての憲法であり、戦後思想の流れに「神」という名前をシールのように貼り付けても、まったく意味がない。

 日本人にとっての問題は、アジア諸国に対して行なったことへの悔恨よりも、自分が神の前に単独で出て行き、神のさばきを甘んじて受けることをしていない、その回避である。ダニエル書9章前半にあるダニエルの悔い改めの祈りは、一つの国がどのようにして悔い改め、立ち直ればよいのかを示す、模範的な祈りであり、指針である。イスラエルに下った数々の災いを、ダニエルは神のさばきとして認め、甘受した。それは、過去に先祖に与えられた契約を破ったからであることも告白した。そして、自分たちの正しさではなく、神のあわれみのゆえに、イスラエルの民をエルサレムに帰してください、という祈りをした。自分たちのためではなく、神の栄光のゆえにイスラエルを回復してください、と祈ったのだ。

 これを日本が行なうにはどのようにすればよいのか。日本には、いわゆる「災い」がふりかかった。江戸末期におけるペリー提督黒船来航と、太平洋戦争における米軍による空襲と爆弾投下、そして敗戦である。しかし、これらの災いを、台風が襲いかかってくるような災難としか受けとめず、日本という国がまことの生ける神と唯一の仲介者キリストを受け入れなかったことによって、もたらされたとは考えない。今、国レベルでのキリスト教化のことを話しているのではなく、過去に、キリシタンを弾圧し福音宣教の戸を閉ざしたこと、またキリスト教の代替物であり、反キリスト的な天皇制を国家基盤にし、キリストの福音を骨抜きにしたことを考えている。福音の働きを阻む者には、神のさばきがある(2テサロニケ2:15)。イスラエル国も、過去にまことの神にそむいたので、アッシリヤ、バビロンなどの帝国によって滅んでしまった。

 ペリー総督黒船来航も、原爆も、日本にとって屈辱的出来事であったこは事実だ。しかし、ダニエルは、バビロンにイスラエルが滅ぼされて、そのバビロン国にて政府役人として働いているときに、バビロンへの恨みつらみを話して、バビロンへの憎しみを抱いていただろうか?否、彼はバビロンが悪いなどという議論はいっさい行なわず、「神の契約に違反した」こと、その一点に集中して、神の御前で悔い改めた。神は、いかなる災いをも用いられて、日本に住む人々が、まことの生ける神に立ち返るよう喚起してくださっているのだ。現在の超長期不況も、神のしるしかもしれない。そのような国の危機にあるときこそ、私たちは目をさまして、神に立ち上がることができるのである。

 ローマ帝国によって支配されていたときに、ユダヤ人たちが自分たちの自治と主権を得るために、反ローマ感情を抱いていたが、その時に主は、同じように反ローマであられたのか?否、「神のものは神にかえして、カエザルのものはカエザルに」と言われた。今の日本も同じである。日本という国は独立主権国家であるが、アメリカに追随して完全な独立とはいえないという人たちがいる。そう考えると当時のローマ帝国と似ている。ユダヤ人は、自治権は認められていたが、ローマに従属しなければいけなかった。ユダヤ人がキリストを受け入れることが本質であったのに、ローマに抵抗して、反乱を起こして、ついに滅ぼされ、離散の民となった。私たちも本質を見誤ってはいけないと思う。

 現代の日本のキリスト教会の中に、かつてと同じような「反米」の動きが出てきている。去年の同時多発テロが起こってから、とくにその傾向が強くなった。私はあのときに、ある福音派指導者が書いたとされる、ブッシュ米大統領と小泉首相に対する手紙を読んで、怒り心頭した。原爆をテロと決め付け、自分たちは報復をしないという原則に立っていると豪語する。あなたがたもテロ攻撃を受けたが、「やり返さない」という原則に立ちなさいと訴える内容だ。

 これは、平和を求めている書面ではない。率直に言わせていただければ「反米」であり、米国を憎んでいることの裏返しでしかない。なぜなら、本当に平和を求めているならば、世界中で起こっている迫害と虐殺に対して反対声明をその国に出しているはずだからである。スーダンでは、クリスチャンを中心に、何百万人の人が迫害、虐殺され、女性はレイプされ、子供は奴隷に売られている。シリアでは、アンティオケ教会から続いているキリスト教徒たちがいるが、これもここ数十年間で、何十万単位で殺されている。どちらもアメリカを打った、イスラム原理主義者たちの仕業だ。調べようと思えば、いくらでもこうした不正義を探すことができる。しかも、同胞のキリスト者が死んでいるのに、彼らのために祈り、援助するのではなく、アメリカが武力行使をしたら、その時に「敵を愛せよ」と叫ぶ。そのことばをそのまま自分に当てはめて、アメリカを愛したらどうなのか、と思ってしまう。

 そして実は、このような反米意識が、戦前のキリスト者が突き動かされていた。以下は、有名な「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰(1925年)」の文面の一部である。

 「その一つは、われらの共同の敵に対する共同の戦いという運命的課題である。彼ら敵国人は白人種の優越性という聖書に悖る思想の上に立って、諸君の国と土地との収益を壟断し、口に人道と平和とを唱えつつわれらを人種差別待遇の下に繋ぎ留め、東亜の諸民族に向かって王者のごとく君臨せんと欲し、皮膚の色の差別をもって人間そのものの相違ででもあるかのように妄断し、かくしてわれら東洋人を自己の安逸と享楽とのために頤使し奴隷化せんと欲し、遂に東亜をして自国の領土的延長たらしめようとする非望をあえてした。確かに彼らはわれらよりも一日早く主イエスの福音を知ったのであり、われらも初め信仰に召されたのは彼らの福音宣教に負うものであることを率直に認むるにやぶさかではないが、その彼らが、今日あくなき貪りと支配慾との誘惑に打ち負かされ、聖なる福音から脱落してさまざまの誇りと驕慢とに陥り、いかに貪婪と偽善と不信仰とを作り出したかを眼のあたり見て、全く戦慄を覚えざるをえない。かくのごとき形態を採るにいたった敵米英のキリスト教は、自己を絶対者のごとく偶像化し、かつて使徒がまともにその攻撃に終始したユダヤ的キリスト者と同一の型にはまったのである。「汝ユダヤ人と称えられ、盲人の手引、暗黒における者の光明、愚なる者の守役、幼児の教師なりと自ら信ずる者よ。何ゆえ人を教えて己れを教えぬか。窃む勿れと宣べて自ら窃むか。姦淫する勿れと言いて姦淫するか。偶像を悪みて宮の物を奪うか」(ローマ書二・十七ー二二)。これはことごとく先進キリスト教国をもって自認する彼らの所業に当てはまってはいないであろうか。彼らがもしこのような自己の罪に目覚め、悔改めをなし、一日遅れて信じたわれらと同一線上に立って初めて信ずる者のごとく日ごとに主を告白する純真な信仰を有っていたならば、かかる反聖書的な東亜政策を採るに到らなかったであろう。彼らがもし主への真の従順と奉仕とを日ごとに決断し実行していたなら、自国の内外の政治軍事経済文化のあらゆる領域にわたってあのような敗退と混乱とを演じないですんだであろう。

 われらは聖書に基づく洞察と認識とによって彼らの現状を憐れむと共に、この不正不義を許すべからざるものとして憎まずにはいられない。」(http://isweb35.infoseek.co.jp/school/nomachi/daitouasyokan.htmlより引用)

 気づいたら、この書簡と共感してしまうような人々が、この書簡を否定している人々の中に多いのではないか?

 こうした動きが、聖書や信仰によるものではなく、日本の潮流に乗っかっているしかないのを感づいている人々もおり、そのような人々から反論が出てきた。「天皇制を認めることによって、リバイバルが起こる。」というような類の主張が行なわれた。日本のキリスト教会の問題提起までは良かったが、しかし「日本」というものにこだわりすぎているために、おかしなことになっている。

 最近、イスラエル・パレスチナ問題が混迷化しているために、ユダヤ問題も語られるようになった。そして、その中に、天皇制や神道とつなぎあわせて、イスラエルと日本を語るような動きもあり、また、ユダヤ人が世界の政治経済などを支配している、ユダヤ人が世界の問題を作っているという陰謀説も流布されるようになって来ている。一方では極端な親ユダヤ(本当に"親"であるかどうかは定かでないが。)となり、もう一方ではひどくユダヤ人を嫌うようになっている。けれども、このようなちぐはぐなイスラエル・ユダヤ論も、実は戦前にも、まったく同じようなことが行なわれていた。

 日ユ同祖論は、日本が特別な使命を帯びていると思いたい者たちに受け入れられていた。天皇はイスラエルの王という意見もあった。一方、ホーリネス教職者幹部が逮捕されたとき、その告訴状の中には、「彼らがイスラエルを支持して、フリーメーソンなど国際ユダヤ資本とつながっている、スパイである。」というものもあった。彼らは「ユダヤ」を語っているのだがそれはレトリックのみで、実際は「日本」を語っているのは明らかだ。

 過去にも、聖書的立場に立つ、健全なイスラエル観は存在していた。ちょうどユダヤ人がパレスチナへの大規模な移住が起こっており、「バルフォア宣言」が朗読されたとき、内村鑑三は、それを聖書預言成就の一部として受け入れ、喜び支持する発言をした。しかし、このような信仰的な穏健的イスラエル支持、また聖書的な親ユダヤ観は、「ユダヤ人と共鳴している」とか「アメリカに影響されている」という批判されることもある。これもまた戦前と同じである。

 そうこうしているうちに、現在世界は、ますます米国一極集中化(本当は、米国をも飲み込むグローバル化が進行しているのだが)している。米国に対する不満が鬱積しており、日本は右翼も左翼も「反米」というところで、深層的に一致している。経済的閉塞感がますます強まっている現在、過去に日本が行なったように、とんでもないことを行なってもおかしくない状況下にある。

2.リベラル化

 「聖書は神のことばである」これは、聖書自体が宣言していることである。しかし、戦前、この考えを「アメリカからの輸入品」として、主流のプロテスタント教会は否定していた。しかし彼らが信じていたのは、同じく欧米から出た「自由主義神学」であり、それも輸入品であることには気づいていなかった。

 今日、いろいろ「神学」とか、「時代の流れ」とか言われているものの中で、福音主義への反省が過剰に語られているような感じがする。昔なら考えられなかったカトリックとの対話も今、行なわれている。私はカトリックのことはよく知らないし、カトリックの人々の中にある霊想には奥深いものもある。しかし、「神の恵みによって、信仰によって救われる。」という教えは、決して曲げてはならない真理である。そして今、多元主義的な考えも入り込んでいる。イエスの御名を信じることによってのみ救われると言うと、なんと福音派といわれている人からも、批判を受けるような状態になっている。最近は、「セカンド・チャンス」つまり、死後に救いのチャンスがあるという話しが、妥当な解釈として語られるようにもなっている。私は、福音主義・根本主義が米国から来たものであっても神の真理は真理であり、どこを発祥にしているかなど関係のないことである。その過度な反省が、新しい過ちを犯す道を歩んでいないのかと、危惧している。

 そして過去、再臨信仰がほとんどなしくずしにされた。多くの者は、キリストの再臨を「霊的」なものとして受けとめ、「心の中でキリストが王となれば、それが再臨である」という解釈をした。そうすることによって、「天皇が王である」という国からの要求を受け入れることができ、「霊的なことはキリスト、世俗的なことは天皇」という二元論に堕した。文字通りキリストが王の王として、地上に戻って来られると信じていたホーリネス教団教職者は、次々と逮捕された。「天皇とキリストのどちらを選ぶのか」と問い詰められた。こうした史実が書かれているものの端々に、文字通りの再臨を信じる人々を、「アメリカの受け売り」として批判する比喩的解釈者の言葉がある。

 しかし、「国」というテーマは、聖書の中では非常に大きなものとなっており、信仰告白は心の内面のことだけではなく、国に対しても行なうものであることを、聖書全体を通して見ることができる。福音書の中でも、ローマという国が常に意識されて、主は最後までご自身のことをあかしされた。ピラトの前でのあかしが、その最も良い例である。そして、人の子が栄光の雲に乗ってこられて、それを見る諸国の民が嘆き悲しむという再臨の出来事は、国に対して自分の信仰を告白するために最も意識されていなければならないことである。その証拠に、戦前・戦中に神社参拝拒否を行なったキリスト教団体は、再臨の教義をぼやかさなかった。先にふれたホーリネス教団の他に美濃ミッションなどがあるが、彼らも同じように聖書を神のことばを信じて、教会の携挙、大患難、地上再臨、千年王国をみな文字通り信じていた。ある姉妹は、神社参拝を子弟が拒否することについて警官の脅しを受けたが、彼の前で、これら将来起こるはずの事柄を説明している。

 したがって、再臨信仰は、アメリカの受け売りでも何でもなく、聖書が明言している神の真理であり、苦難のときになお信仰と希望と愛を保っているための源泉である。ところが、最近、そうした再臨について書かれた書籍などが、「アメリカの政治右翼イデオロギーに影響された聖書解釈」と批判する人もいる。あるいは、「ユダヤ的キリスト教」として、警戒すべきもの、異端的なものであるという評価も聞いた。しかし、無千年王国説の立場を取っているローマカトリックは、国家と教会が癒着した歴史が長いこと続いている。同じように後千年王国説においても、アメリカ建国時のピューリタン神学を支えるのはこの説であり、今のアメリカ宗教右翼は、後説に基づく楽観的終末観を持っている。「アメリカ寄り」とか「ユダヤ的」という批評は止め、それぞれの説において神の真理があることを認め、聖書を丹念に調べることに費やしたらどうなのか、と思う。いずれにせよ、純粋な聖書釈義に基づくのではなく、全体の流れに沿ってころころ聖書解釈を変えているようでは、過去の日本の教会と同じようになってしまう。

3.教派統一

 日本のキリスト教の汚点として語られるものの一つに、宗教団体法によって文部省の管轄下で、教派がまとめられて、「日本基督教団」となったことである。このことが起こったときに、「これまで一致できず、ばらばらだった教派が、ようやく一つになりました。恵みでございます。」というような、教会指導者のことばも残されている。しかし今、過去をふりかえると、それは教会が国の手先に堕してしまった瞬間であった。

 現在のキリスト教会を見ても、同じように、教派の一致がスローガンのようにして語られる。たしかに、過去に互いにさばき合っていたので、赦しと和解を行なわなければいけない面は存在するであろう。しかし、「一致」が必ずしも良くない、いや、むしろ危険であるときもあるのだ。バベルの塔をつくった人たちは、みなが一つに集まって、実に一致して動いていた。しかし、それは神への反逆行為であった。新約聖書が語っている一致はむしろ、キリストの奥義を知った者たちが、御霊によって神秘的に一つにされている状態であり、これから作り上げるものではなく、すでに存在しているものである。一致よりも、むしろ、キリストご自身を知る営みのほうがずっと大切であって、キリストを知る者たちが集まるところには、表面的な違いを超えたところの一致が存在する。一致とは、それぞれがキリストにあって、神の前でへりくだるところに生まれ出てくるものであり、「教派の一致を!」ではなく、「主の前に、静まれ!」がもっと大事である。

 以上であるが、日本国の中でキリスト教会が政治的・社会的な関わりを持っているときに、戦前と戦後のそれはあまり変わらないことを、思いつくままに書かせていただいた。かなり乱暴な書き方になっているのではないとも思っているが、要は、世の流れに便乗して聖書解釈を都合の良いように変えていった過去があるのだから、今の教会も、「社会的責任」とか、いろいろ難しい神学議論をしているうちに、昔と同じようにならないでほしいという切なる願いがあるからである。本当に迫害が来たときに耐えられるのは、子供のように単純で純粋に信仰を持っている人たちであった。戦国時代は、十字架磔にされた26聖人の中に、「パライソ(パラダイス)に行ける」と単純に信じていた幼いキリシタンもいたのだ。良い意味で、クリスチャンがもっとファンダメンタルになってほしいと思う。


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