日本基督教界とシオニズム
雑誌「みるとす」2003年12月号に、非常に勉強になる、示唆に富んだ記事がありました。ミルトス社からの許可を得ましたので、下に掲載致します。この記事の終わりに、私の読後感想を書きます。
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(編集者より:最後のページの「その後」の段落の二行目、「意義」は、「異義」の間違いとのことです。)
読後の感想
この記事が良かったと思ったのは、第一に、日本キリスト教伝来史(プロテスタント)がコンパクトにまとめられているからです。「聖書ハンドブック」(ヘンリー・H・ハーレー著.聖書図書刊行会)にも尾形令二氏による日本基督教史の概観がありますが、日本への宣教を考えるとき、過去を知ると今が分かります。
そして、内村鑑三氏と中田重治氏のイスラエル観が紹介されていますが、これが意見の違いこそあれ、その健全な聖書・福音信仰から現われています。もちろん行き過ぎは両者にありました。(内村氏の場合は、一時期、社会的運動に傾倒しすぎましたし、中田氏は、日本の国体と神の国の区別を明確にしていなかったと、私は感じます。)けれども、その生涯は主に忠実にしたがおうとし、主に体当たりしながら生きた僕(しもべ)の姿であり、多くの良い実が結ばれているところに特徴があります。
さらに、この編集者が繰り返している疑問は、私自身も抱いている疑問です。それは、次の文です。「教会において一部のクリスチャンを除き、シオニズムやユダヤ問題がほとんど真剣に取り扱われてこなかった。これは米国のプロテスタント諸教派から伝道された日本としては意外な印象を受ける。」そして編集後書きにも、こう書かれています。「キリスト教はユダヤ教と縁が深いはずなのに、多くのキリスト教徒が無関心なことであった。ユダヤ人の祖国復興運動、そして再建がなったことは、二十世紀の歴史の中で大きい出来事なはず。どうも日本のキリスト教は十九世紀のドイツ神学の影響から自由になっていないのでは?」
私もこのことは強く思います。決してユダヤ的になれ、イスラエル・フリークになれ、ということではありません。良くも悪くも、聖書の舞台がイスラエルであり、神の選びの民がユダヤ人なのですから、クリスチャンにとって関心の対象になることは自然の成り行きです。けれども、編集者が言及している「ドイツ神学」は、宗教は心の中のことであり、それと周囲の世界は別物であるという二元論がその特徴です。日本人のクリスチャンの心の奥底のどこかで、カウンセリングのこと、結婚のこと、聖霊の賜物のこと、教会内のことなどには、信仰的理解を求め、その知識に飢え渇いていますが、周りの世界と自分に与えられた信仰がどう関わるかについては、聖書的考察はあまりしません。
それでも日本人は世界のことを知りたいと思いますから、戦後は左翼思想が大幅に受け入れられました。それが未だに呪縛となっており、その目に見える結果が、北朝鮮による拉致被害事件だと私は思っています。(他方で、日本の力と威厳を持ちたいという願いから、改憲や、イラクへの自衛隊派遣を推進などの動きもありますが、こうした国家主義も精神論の域を出ていません。)いずれにしても、世界を見るときの物差しとして自己完結的な内的世界を作りやすく、物事の単純化を非常にしやすいところに特徴があります。外界との摩擦が少ない日本人ですが、例えば、横田早紀江さんやメルボルン事件の方々など、その摩擦を受けている人々の中でクリスチャンになった人が多いことにも気づきます。
一度外に出て見る、ということも、もしかしたら日本人クリスチャンの信仰の刺激になるのかもしれません。内村氏と中田氏はどちらも、米国に留学しながら、なおかつ日本という地で信仰と福音宣教に励みました。彼らの働きには、欠けたところ、不完全なところも見ることができますが、それでも真剣に主を求めたところにおいて、みならっていかなきゃなあと思います。