国歌国旗問題 2004/05/06


社説比較から

 昨日、産経新聞にて興味深い記事を読みました。

【社説検証】国歌国旗
http://www.sankei.co.jp/news/040505/sei025.htm

 故小渕首相のときに国歌国旗法が制定されたときから、すでに5年の歳月が経ちます。あの時は、「これはとんでもないことになった。」と思ったものです。当時、国会答弁では政府は、「強制はしない」と答えていました。そして確かに、国歌国旗法は、君が代が国歌、日の丸が国旗という規定の他以外何も書かれておらず、強制力は持っていません。(ここのサイトを参照)けれども、東京都教育委員会が今年の三月終わりに、都立教職員を合計二百名処分したというニュースが流れました。(FPCニュース参照)明らかに強制力が働いています。

 ここで、改めて国歌国旗問題を考えてみたいと思います。クリスチャンとしての立場、そしてこの日本が抱えている問題を考えてみたいと思います。

 上の産経新聞の記事を読むと、日の丸・君が代の教育現場の実施について、もっとも強制に反対しているのは朝日新聞の社説です。毎日も反対の立場でありますが、読売と産経は明確に、教育委員会の方針を支持しています。では、キリスト者が朝日新聞の論調にそのまま同調できるかと言いますと、必ずしもそうではありません。朝日新聞を含めて、すべての日本の新聞に完全に見落とされている論点があります。それは、君が代を歌うことと日の丸に深く一礼するという行為が、いかなる根拠をもって思想・信条の自由を侵害するのか(朝日と毎日)、あるいは、いかなる根拠をもって習慣や公教育として当然行なうべきことなのか(産経と読売)、その具体的な内容が論議されていないことです。

聖書は「国」を否定しない

 聖書において、国体あるいは国のあり方が存在することについて、どのように言っているか考えてみたいと思います。創世記10章以降、言語がバベルの塔においてばらばらにされて以来、世界は国々の単位をもって存在してきました。そして、それは新約聖書時代にも続き、実に主イエスが再臨され、地上に神の国が立てられるときにも続きます。黙示録20章には、諸国の王が仕える、と書いてあり、永遠の将来にいたるまで、国という単位は存続していきます。

 これは、他の制度と同様、神が人間に与えられた自然の賜物であると考えられます。神が男と女に造られたことは、当然ながらキリスト者でなくともその性差は存在します。ですから家庭があり、また雇用関係があり、社会制度があり、国があります。これらの制度を尊重すべき前提があって、キリスト者として生きるべき指針が聖書には書かれています。ですから国のあり方を尊重することは、キリスト者の責務です。

 国はまた、キリストが再臨されるまでの間、社会が無秩序・混沌状態になるのをある程度、抑制するために神によって立てられていることも聖書に書かれています。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。(ローマ13:1-4

 これを書いた使徒パウロは、ローマ皇帝ネロによって殺されましたが、キリスト者に迫害を加えるローマ政府について、それは神から来た権威であると言っています。主ご自身も、「カエザルのものはカエザルに返しなさい。」そして、十字架刑を決定するピラトに対して、「神が与える権威でなければ、あなたは何もできない」と言われて、上の権威が神によって定められたことであることを話しています。

 したがって、聖書は「国」を否定しません。私たちが、信仰によって与えられた良心にしたがって、国や上の権威にしたがわず、抵抗するときは、神が命じているその反対のことを命じてくるときであります。けれども、抵抗することによってもたらされる結果は、それぞれの聖徒や信者は甘んじて受けることによって、権威に従います。

日本人の宗教観

 以上のことを考えると、国家を斉唱し、国旗に一礼することはキリスト者が行なわなければいけないということになり、産経新聞と読売新聞の論調と同じ意見を有することになります。けれども、実は、国にしたがうのかそうでないのかの問題以前の、日本が長いこと抱えている宗教観の問題があるのです。

 それは、一言でいえば、創造者と被造物の区別がなされていない、創造者と被造物が一体化して考えられる、という問題です。太陽を見るとき、その光があり、熱があり、それによって人間が生きる事ができているという恩恵にあずかり、そこで太陽を神としてあがめる、お天道様に感謝する、という信仰心が生まれます。しかし、これはよく考えればおかしいことで、太陽が人格を持っているのではなく、あくまでも太陽を創造した知的存在に感謝がささげられるべきです。このことをパウロが次のように論じています。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(ローマ1:20-23

 したがって、キリスト者は創造主と被造物を明確に区別します。キリスト者は、両親を敬い、墓も大切にしますが、両親が死後に仏(神々)になり、供養をしなければいけない存在とは考えません。葬儀において故人の写真を置きますが、故人の写真に向かって礼をすることはありません。棺を花で飾りますが、いわゆる“献花”は行ないません。欧米における葬儀や墓の管理を考えればすぐに理解していただけるかと思いますが、日本人にある死者の霊に仕えるという行為は、キリスト者も行なわないのです。

 しかし、創造者と被造物の区別があいまいにされている人にとって、仏壇に手を合わせない行為は、親不幸者というレッテルを貼ります。遺影に礼をしない姿は、その人と遺族への侮辱と考えます。キリスト者は家族を大切にし、両親を大切にすることが命じられており、仏壇で手を合わせること以外で、家族に愛を示す方法はいくらでもあると考える一方で、未信者の人たちには、被造物を拝む対象にしないという概念が理解できないので、自動的に、神が立ててくださった家族制度をもないがしろにしている、と考えるのです。けれども、キリスト者は親を愛して彼らのために祈りつつ、神から与えられた良心をきよく保っていこうとするのです。

 そこで、国歌・国旗問題に戻ってみたいと思います。君が代の「君」とは何であるか、についての定義が必要です。敗戦までは、「君」は天皇とされていました。そして敗戦後、天皇は人間宣言をして、現日本国憲法では、天皇が国民統合の象徴と定義されました。けれども、それでは本当に天皇が人間の地位にまで下げられたのか、というと実際は不確かです。キリスト者にとって、みなが人間であると分かっている人の遺影に深々と礼をするのが偶像礼拝であると考えるように、宣言や憲法の一文によって、実際的に天皇が人間の中だけで尊重されているか、というとかなり否定的にならざるを得ないのです。

 一部の人たちは、「君」は国民を統合するものであると言いますが、それでも天皇がその統合の象徴であるかぎり、君が代が天皇の永遠の統治を讃美しているという解釈がされてもおかしくありません。君が代の歌詞はさらに、ダニエル書にあるメシヤ(キリスト)の預言に似ています。

あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。(2:34-35

 一つの石が大きな山となって全土に満ちる、というのは、キリストが来られて、世界に神の国を立て、とこしえに統べ治めるという意味ですが、君が代の歌詞も「細石の巌となりて」という箇所と酷似しています。ここのサイトを参照)

 したがって、私たちが王の王であり、主の主であると告白しているキリストと、その永遠の統治とすり替えられているとも解釈することができ、その可能性があるうちは、どうしても君が代を歌うことには控え目にならざるを得ないのです。

 君が代と同じように、王をたたえている歌はあります。それは、英国、豪、ニュージーランドで採用されている、God Save the Queenです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E9%99%9B%E4%B8%8B%E4%B8%87%E6%AD%B3

 けれども、ここでは女王が創造主である神の下にいることが明記されており、王位の神格化がなされないよう明確に制御されています。このような区別がなされていない限り、君が代やいわゆる天皇制を、キリスト者にはそのまま受容できないのです。

 私は天皇陛下が宣言通り人間であり、英国のように人間国王としての機能的役割を担うのであれば、最大限尊重したいと思います。しかし、このことをはっきりと述べると、日本人の中には猛烈に反発する人たちがいます。それは、ある人がいうように、天皇は単なる機能的役割を果たしているだけでなく、日本人の神道と仏教の信仰が根底にあるからです。

 したがって、産経や読売のような論調では、ここまでの君が代の真意を探る根拠が示されておらず、キリスト者にとっては、自分の信仰と異なる宗教行為を、公の場でのマナー習得であるとか、愛国心を涵養するという理由で押し付けられる、ということになります。公を大切にすること、愛国心を身につけることは、キリスト者にとって不徳であると考えていないにも関わらず、です。

日の丸は、深く一礼が問題

 では日章旗の問題性を検討しましょう。日章旗は「日の出」を表すかもしれないし、ある人は天照大神を表す、とも言います。けれども、このことを根拠として日章旗を否定するならば、「日本」という言葉そのものも神道神話と無関係ではないので、この言葉も否定しなければいけなくなります。時代を経て、元来の意味で使われなくなったものならば、キリスト者はそこに偶像性を見出すことはありません。

 けれども日章旗の問題は、卒業式、入学式などにおける掲揚のされ方にあります。壇上に大きく掲げられ、そして壇上に行くときに、だれもいないところで、日章旗に深く一礼する行為が問題になります。そこにはだれもいないのに、ではだれに礼をしているのか?という疑問です。

 これは先ほど礼に出した、遺影の問題と同じです。戦時中、天皇のご真影に礼をしなければいけないことになっていました。日本統治下の朝鮮において、朝鮮人キリスト者がそれはできないと言って拒みました。天皇陛下に対する不敬であると指弾されましたが、彼はこう弁明しました。「もし天皇陛下に直接お会いするのであれば、私はこの方に深々と一礼します。しかし、写真に対してはできないのです。」この態度は、キリスト者としての立場を非常によく表しています。人間に対して、尊敬を込めて礼をする行為はキリスト者にとっても美徳であります。けれども、写真に対して行なうところに、偶像性が出てくるのです。

 私は、オリンピックで日本人選手を応援するときには、他の人たちとともに日の丸の旗を振ることでしょう。けれども、この布切れにしかすぎないものに、礼をすることは到底できないのです。

今回の処分の背景

 以上が、日の丸・君が代についてのキリスト者としての立場表明でありましたが、それでは今回の教師処分を行なわせた、東京都教育委員会の方針はどこにあるのでしょうか?ニュースだけを読むと、教育委員会のみが悪であり、教職員がその被害を一方的に被っているように聞こえますが、東京都側の意見も聞いてみたいと思います。

 次のサイトをご覧ください。ある都議会議員が、強力に教職員処分を推進しようとしている姿をみることができます。

東京都予算委員会質疑
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/yotoku/2004/d6114412.htm

 この質疑を読むかぎりにおいては、かなり組織的な反対運動を教職員らが展開している、ということになります。つまり、自然発生的に国歌・国旗に拒否反応を示しているのではなく、児童、生徒らに、日の丸・君が代の否定的要素を予め教えているのだ、という主張です。

 これが本当かどうか分かりませんが、実際に反対運動が展開されていることは確かでしょう。そして、そうした反対運動をしているのは、日教組の人たちであり、日本共産党に参位している、あるいは同調している人たちであります。そして、そうした反対運動への対抗としての教育委員会の締め付けということであれば、この中でキリスト者が反対運動に参画するなら、キリスト者の証しではなく、他の反対運動をしている人たちと同類項に見られるでしょう。

 左翼思想やマルクス主義には、権力闘争という大きな使命があります。これは、国や権力に対峙し闘うことによって、それがさらに止揚し、より高度の社会体制になると考えます。究極的には「国」という単位がなくなり、理想のユートピア、平等と至福の社会ができる、と考えます。先ほど説明した、聖書から見た権威の考え方とは真っ向から対立します。

 その具体例を挙げてみましょう。同じマルクス主義の人たちが、教育の場で展開させている性教育があります。性行為の露骨な説明を教室の場で行なっているということですが、その理由が、男女の違いは後天的であり、この不平等を是正しなければいけない、と考えるからです。次のリンク先をお読みください。

ジェンダーフリー突出国日本、「性差は後天的」受入れ

 この中に出てくる、キリスト教的価値観とマルクス主義を対比している図があるので、よく理解できると思います。既存の制度をなくしていくことに自由があると考えますが、聖書では、性差や家庭などの制度は神が与えられた賜物であり、それを喜んで受け入れることを教えています。

 つまり、結果的には日の丸と君が代に反対しているけれども、その目指すところが正反対の人たちと共に運動していると見られることになります。部外者から見れば、その反対表明がキリスト者の証しではなく左翼運動の表明にしか見られないのですから、私たちが単純に、既存の反対運動に参加すればよい、ということではありません。

キリスト者の一貫性は?

 このことを証明するかのように、産経や読売新聞は、首相による靖国参拝の違憲判決に異義を唱えています。

【社説検証】首相の靖国参拝
http://www.sankei.co.jp/news/040505/sei026.htm

 産経と読売の異義の根拠は、次のとおりです。「福岡地裁の違憲判断を推し進めていくと、歴代首相が毎年初めに行っている恒例の伊勢神宮参拝も憲法違反に問われることになる。」今回の違憲判決の原告側にはキリスト教関係者がいましたが、伊勢神宮参拝について、違憲であると訴えているキリスト者たちはいるでしょうか?

 なぜ伊勢神宮参拝反対運動がキリスト者の中から出ないかと言いますと、おそらくは、既存の反対運動が日本にないからでしょう。左派による靖国神社反対運動は、キリスト者が考える偶像崇拝が根拠なのではなく、アジア諸国との連帯が理由です。彼らは偶像礼拝に反対しているわけではないので、伊勢神宮には反対しないのです。けれどもキリスト者が靖国だけで伊勢神宮参拝に反対しないのであれば、部外者から見れば、確実に左派活動家と同類項で見られるのです。

 私はしばしば考えさせられることは、キリスト者として神の前における祈りと、悔い改めの中から、にじみ出てくる思いと願いから政治的問題に関わっているのか、それとも既存の政治運動が初めにあって、そして霊的黙想を深く持つことなくキリスト教的装いをしてその働きに関わっているのか、どちらのか?という疑問です。表向きは同じ政治運動であっても、キリスト者の祈りとみことばの学びの中から出てきたものでなければ、左派運動に参加しているだけにすぎない、神の前には意味がなくなる、ということになりはしないでしょうか?

もっと根本的なところに問題

 私は、日本におけるこのような政治・教育問題は、もっと根本的なところにあると考えます。国のあり方を真剣に考える保守派にしても、権力による人権侵害に注目する人々にしても、そこに、まことの生ける神の所在を認めることをしていない、という問題です。国のあり方や人間の尊厳のすべてを規定しておられる、その源なる存在を認めないで議論しているわけですから、悲劇的と言わざるを得ません。大多数の神を認めない論議の中で、キリスト者らの真剣な論議、探求の声はかき消されてしまいます

 日本はこれからも、失敗の歴史をたどらなければいけないのか、と暗澹とした気持ち、悲観的にならざるを得なくなります。日本の歴史を見るにつけ、やはり、江戸時代初期の、キリスト教を念頭に入れた鎖国政策と明治維新以降の皇国思想が、日本の精神と文化を貧困にしたと言わざるを得ません。当時の世界勢力の一つであったカトリックが、日本に宣教に来るときに、その発達した文明に感動し、従来の武力制圧による改宗ではなく、対等の立場で布教する方針を取った、あの戦国時代までの日本があります。神に与えられた賜物が日本にもあるわけです。しかし、福音を拒めば神の祝福はありませんから、日本という国が良い方向に進むはずがありません。

世の光、地の塩として

 個々人のクリスチャンは、現場の中で大きな試練に置かれているでしょう。教育現場におられるキリスト者教師はもちろんのこと、会社の中で働いているキリスト者、また学生にも、この世の価値観との戦いがあります。以上述べてきたように、キリスト者としての証を明確なかたちで人々に見せることができない状況があります。けれども、一歩一歩少しずつ、聖霊による導きの中で、「この人の中にはキリストがいる」と認める人が出てくることを願いつつ、祈っていく必要があるでしょう。霊的には大きく後退している、後進国日本でありますが、それでも、「実に独り子をお与えになったほどに世を愛された」と言われた神が、この日本をも愛してくださっています。滅びから免れる人が少しでも多く出てくることを、祈り求めていきたいです。


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