一神教否定の改憲 − とうとう来た、日本の危機 2004/07/15


 これまで、国家国旗法、たえこの部屋での「国民の歴史」、また戦前の日本の教会、また右翼・左翼の話題、またイラク戦などの世界情勢としてなどなど、いろいろなトピックで扱ってきて、そこに共通する話題であった「クリスチャンへの迫害」が、ここ日本において、具体的に手元にまでやって来ました。

 次のニュースをまずご一読ください。

「創憲」提案で「一神教」批判
http://csd-news.gospeljapan.com/d_base/news/news2004/0407180101.html

 憲法は第九条の、戦争放棄の条項の改正が大きな話題となっていますが、第二十条の信教の自由について、左派政党である民主党が、キリスト教などの一神教を批判しています。自民党は、戦前の国家神道に基づく国づくりの回復を目指していますから、神道は国家儀礼であり無宗教にするという意図があり、それは以前から明らかでしたが、民主党は、「平和」「環境」「自然と人間の共生」といった心地良い言葉を散りばめつつ、一神教を非寛容とするところで、事実上、キリスト教の信仰そのものの否定を行なっています。(記事で言及している中間報告の全文はこちら。)

 私は、キリストの再臨が近い、今が終わりの時であることを、きよきよの部屋を中心にずっと語ってきました。それには、二つの大きな特徴があります。一つは、キリスト者への迫害がさらにひどくなること。もう一つは、一見矛盾するようですが、これまで閉ざされていた福音の戸が開けて、ますます宣教の機会が増えていくことです。


右派の極端化を促進しつづけた左派

 従来の日本のキリスト教会は、政治的には左よりの路線を踏襲していました。人権重視、平和志向、アジアや他の価値観との共生、天皇制・靖国反対など、いわゆる左派政党の主張をそのまま取り入れて来ました。そして、その枠組みの中で、二度と軍国主義政策に同調した戦時中のキリスト教会に習わないという反省としていました。

 しかし、左翼思想は、右翼思想と同じくらい、いや、しばしば、もっとひどい体制を作り出してしまうことを、きよきよの部屋で訴えてきました。日本ではいびつに戦後民主主義によって、どの国にも神の自然の恩恵によって与えられている、自分の国を愛し、そのあり方を考えていく必要性が看過され、それで、あるべき国民の姿を表すことができない一人一人が、鬱積している感情が変なかたちで噴出し、戦時中と同じような過ちを容易に犯しかねない、というのが現在の状態です。左派の罪悪は、右派のしていることに反対しているようで、実は右傾化を極端に促進するための後押しをしていることです。


迫害の後押しをするクリスチャン

 なぜこのようなことが起こるのか、その理由は実に単純です。それは、個人レベルだけでなく、国のことを考えるときも、主の前でのへりくだり、悔い改めがないなら、必ずその結果はある、ということです。どんな形であれ、いや、一見、良さそうに見えるもの、好ましく聞こえるものの中に危険がつきまといます。

 かつて、聖書にある歴史観に基づき、原爆は神のさばきの一部であることを書き、その裏付けとして、長崎のカトリックの被爆者が、これは神のさばきであり、かつ神の摂理、恵みであるという受け止め方をしていることを書かせていただきました。そうしたら、文脈の前後関係を外して、ひどい荒らしが、ある掲示板で起こりました。また、こうした意見を好まない論調が、キリスト教関係の新聞にも触れられていました。しかし、神はしばしば、悪によって我々のしている悪をさばくことをなされます。イスラエルの歴史がまさに、その連続でした。周囲の民や国がイスラエルを攻めることによって、主はイスラエルに懲らしめを与えられたのと同じように、この日本も、主が愛しておられるその愛のゆえに、そのような悲惨を許されたのです。

 こうした批判や中傷は、日本人が本当は触れられたくない屈辱的な出来事に触れているため、その部分を主にあって処理できていないから起こる反応であると、私は思いました。けれども、やはり戦前の日本と同じことを今の日本が繰り返しているのです。まことの神を神とせず、そしてまことの神への信仰を悪とする動きが過去にもあり、それゆえに神がさばかれたのに、今、同じことが起こりそうになっています。

 美濃ミッション事件についても、きよきよの部屋で多く触れています。この事件の特徴は、このミッションの子弟の一部が、神社参拝拒否したことにたいして、極度に過敏な中傷運動になったのがきっかけです。全国的に広がり、その役目を買ったのがマスコミです。そして、キリスト教会までもが、この動きに加担して、美濃ミッションを批判、また無視してきました。これは、日本で起こる迫害の特徴です。しばしば宣教において文脈化がもてはやされていますが、迫害においても文脈化があることを、ある牧師が指摘されていました。まさにその通りで、真綿で首をしめる国の動きがあり、それに気づかず、自分の身の回りのことのみしか気にしないクリスチャンがいて、いったん大きな出来事や事件が起こると、結果的に、クリスチャンがクリスチャンを迫害することが日本での特徴です。

 これらのことはすべて、神の真理に立った見方と、日本的に善とされているもの、美とされているものの対立です。「交わり」「愛」「牧会的配慮」「人格的形成」「日本に合った伝道」などのキリスト教用語のオブラートが、しばしば真理を踏みにじることがあります。


批判される対テロ戦

 イスラエルのこと、イラク戦についてのアメリカのことも、きよきよの部屋では触れてきました。イスラエルのためのイスラエル支持ではなく、聖書預言の時計としてのイスラエルを見るように主張しました。特に、ホロコーストと現代の反イスラエル主義は地続きであり、将来の大迫害に通じるものであることを主張しました。また、アメリカが何をしているかに焦点をあわせるのではなく、どんなことが起こっても惑わされずに、主のみことばが実現しつつあることを見据える必要性があることを唱えました。それは、先ほど話した福音の戸が開かれていることです。

 これまでの世界の激動の中で、福音が語られていきました。必ずしも最善であったかは分からないが、けれども西洋の宣教師らは、帝国主義的なその国々の方針の中にいて、その機会をも用いて、福音が伝えられていない諸国に福音をたずさえていきました。江戸時代の鎖国政策を終わらせたのは米国であり、また第二次世界大戦後、占領統治をしたのも米国でしたが、その行動のすべてが正当化できるものではありません。しかしそれがなければ、今の私は、クリスチャンになっていなかったかもしれないし、日本にいるクリスチャンはほとんどみなそうでしょう。

 また、朝鮮半島はどうでしょうか?朝鮮や韓国に触れたことがある人は、お世辞にもその国のあり方や民族意識をほめることはできません。特に北朝鮮はめちゃくちゃです。けれども、やはりそのような酷いことが起こっている中で、不思議にクリスチャンがその中心的役割の中に入れられ、クリスチャンになる人がどんどん起こされています。それは、そのような苦しみや悲惨の中にいてこそ、初めて知る人間の根源と神の関わりを知ることが容易だからです。(例えば、横田早紀江さんはこのテーマを扱っているヨブ記から、キリスト者になりました。)

 そのような視点から現在の世界情勢を見れば、ブッシュ大統領が開始した対テロ戦によって、もちろん本国イラクに福音の門戸が大きく開かれました。(アッシリア人クリスチャンを祖父母に持つ、日本で育った米国人クリスチャンは、日本人の人にもどんどん福音を伝えに来てください、とお願いしていました。)もしかしたらお隣北朝鮮も、その悪の三枢軸ドクトリンによって、その門戸を開かなければいけなくなる時が近づいているかもしれません。その他にも、いろいろな動きがこれからどんどん起こることでしょう。日頃のマスコミの報道に翻弄されて感情的になるのではなく、イエスさまが言われた、世界中に福音が伝えられるという約束がどのように実現していくのかを凝視し、そしてその徴を決して見逃すことなく、しっかりとその機会を掴まなければいけないでしょう。今は悪い時代なのだから、賢く、時を用いなさいとパウロは勧めました(エペソ5章)。


イエスさまの姿勢

 イエスさまは、表面的な悪を見てそれに怒られていたでしょうか?いいえ、ローマがしていたことには不正や不義が多かったのですが、主も、また使徒たちも、そのことには多く触れていません。むしろ、そのような権力者を立てているのは神ご自身であることを認めて、それでその権威に服しながら、なおかつ神のみこころを行なっていきました。キリストの十字架がその真髄です。群衆が暴動になるのを恐れて、あなたを殺すことも生かすこともできるのはこの私だとピラトがイエスさまに言ったら、神からの権威でなければあなたは決して十字架刑に処することはできない、とお答えになり、それで主は十字架の苦しみを自ら負われたのです。

 私が話しているのは、あの騒動と混乱の最中に、主がご自分の使命から目を離すことはなかった、心には父のみこころが置かれていたという事実です。これを現代の世界情勢、国内情勢、身の回りのことに当てはめてみてはいかがでしょうか?神のみとこばに、すべて、私たちが目を留めなければいけない必要なことが書かれています。一つ一つの事象に振り回されるのではなく、主の約束、命令が何なのかを決して見失わないことです。


「寛容」という名の非寛容

 先に挙げたクリスチャン新聞の記事の一部をここに引用します。

「だが、そこには、日本社会が「寛容」だとする多神教的伝統・文化を一律に国民に押し付け、それに異を唱えるキリスト者の生き方を「非寛容」だとして排斥する「非寛容」さを根強くもっている、という矛盾があることを見抜かなければならない。」

 この矛盾は、日本だけでなく世界中で起こっています。まことの神は唯一であり、しかもイエスが神の独り子であり、この名以外には救いはないとするキリスト者の主張が、まさに世界の平和を破壊する分子にされつつあります。ブッシュ、ネオコン、キリスト教原理主義を批判している間に、自らの信仰の根幹を否定する動きが、その批判勢力から出ています。そして日本では二大政党の左派とされている民主党から出てきたのです。

 法治国家である日本に住む私たちに、この憲法問題は直接的に影響します。目をさまして、祈っていきましょう!



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