教会から分離する人々 2011/10/28

常々、私が心を痛めているのは、「教会から分離する」人々が多いということです。すでに「教会に通っていない人へ」のエッセイで個人的に教会から離れる人々について書いておりますが、一つの強い考えをもって既存の教会から分離し、新たに集まりを作っている人たちがいます。

教会の分離主義というものは歴史を通じてありました。英国の国教からの分離を唱え、アメリカ大陸に移民した清教徒もその一つです。そして、「プリマス・ブレザレン」という人たちも、既存の硬直した教会組織から離れて、自主的な家庭集会を基調とした教会を形成していきました。その運動から、数々の説教者、聖書翻訳者、宣教師が起こされ、彼らの働きは教会全体に多大な貢献をしました。


キリストの体から出ようとする体の一部

けれども、最近起こっている現象は、上記の運動にある聖い御霊の流れではなく、むしろ逆の流れになっています。既存の教会に対する過度な批判、対抗意識、そして攻撃性もあります。エホバの証人のような異端と同じように、既存の教会をバビロン(背教の教会)のようにみなしている人たちもいます。

その中で、私が感じている二つの空気があります。一つは、「霊的窒息状態」です。確かに教会には問題があります。けれども、自分自身が、その批判している信者と共にキリストの体の一部である、という真理を忘れています。

イエス様が定められた教会の姿には、人々が具体的に集まり、主に礼拝を捧げる「目に見える教会」があり、そして実際に、御霊によって新生した人々が呼ばれた「目に見えない教会」あるいは「キリストの体」があります。「目に見える教会」には、必ずしもキリストの体に属していない、まだ信仰を持っていない人たちも存在します。

けれども、主はその目に見える教会を許容されているのです。天の御国の奥義の例えとして、「良い麦と毒麦」があります。

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24-30

良い麦の畑にある毒麦に対して、主は、毒麦を抜き集めているうちに、麦も一緒に取るかもしれないからそのままにしておきなさい、と命じられています。そして、毒麦と良い麦が一目で区別できる収穫の時期にそれを取り集めなさい、と命じておられます。

分離主義的な考えの人たちは、ここの「抜き集める」という行為を今から、しかも自分の手でしてしまっているところに誤りがあります。主イエスの再臨の前には、毒麦は必ずあるのです。けれども、それを抜き集めれば、真のキリストの体に属している人たちまでを傷つけ、つまずきを与えているのです。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。 (1コリント4:5

確かに問題が教会にはあります。けれども、その問題ある教会の中で、キリスト者が互いに愛するところに「神の愛」があります。互いに愛し、互いに仕え、互いに励ますという、キリストの体の欠けた部分を補う務めがあるのです。これが、各キリスト者に与えられている召命であり、問題があるからこそキリストの忍耐をもって受け入れ、御霊の一致を保つよう私たちは命じられています。

もしこの真理を拒否するならば、体の一部を引きちぎって生きようとする極めて苦しく、窒息しそうな状態を自ら作ることになります。ホルマリン漬けにされた体の器官のように、「生きているように見えて、細胞は死んでしまっている」状態になってしまうのです。

「キリスト教」 = 「キリスト」

私が感じているもう一つの空気は「世俗化」です。この人たちは、「主イエスはこの世に来られたのに、キリスト教会は、世俗社会におられるイエスを紹介していない。「教会」という宗教性をもって、失われている人々を締めだしてしまっている。」というように考えています。

このことは確かに的を射ています。一般社会の中に確かに主がおられ、この人々を罪から救うためにキリストは来られました。教会がその召命にきちんと応答していないというのはその通りです。けれども、なぜそんなに既存の教会に対抗意識を持つのでしょうか?問題を持っているけれども、それでも真のキリスト者の間にある交わりが教会には存在するのに、なぜそこに入ろうとしないのでしょうか?自分自身が、実は世的になっているということはないでしょうか?

次のような発言を聞いたことがあります。

「イエスはすばらしいが、キリスト教は嫌だ。」
「信じていけば仏教とかキリスト教とか、そのようなものとは関係なく救われる。」
「クリスチャンでない人には良心が自分の律法であり、『クリスチャンは全て天国に行くけれども、そうでない人はみな地獄』という単純公式で語られるべき問題ではない。」

何がおかしいのでしょうか?ここの問題は、文化や社会で認められている組織としての「キリスト教」あるいは「クリスチャン」と、真にキリストの教えに従った「クリスチャン」またはその教えである「キリスト教」を混同していることです。人は確かに、教会によって救われるのではありません。これまで一度も教会に通ったことのない人でも、ありのままの姿でキリストを自分の救い主として受け入れて、救われます。キリストの十字架の横に共につけられていた罪人は、パラダイスに行きました。

では、「良心が自分の律法」になっている「クリスチャンでない人」が「天国」に行く可能性があるのでしょうか?使徒パウロに従えば、その良心の律法によってその人たちも同じように神に裁かれます(ローマ2:16)。けれどもキリストが罪の裁きを代わりに受けてくだり、この方を信じれば誰一人として滅びることなく、永遠の命を得るのです。この真理の教えに服したという意味での「クリスチャン」であれば、「クリスチャンは全て天国に行く」のであり、この定義の「クリスチャン」でなければ「みな地獄」なのです。

上の発言はちょうどマハトマ・ガンジーのキリスト教発言と似ています。

「私はあなたのキリストは好きだが、あなたたちクリスチャンは嫌いだ。あなたたちクリスチャンは、実にあなたたちのキリストらしくない。神には宗教はないのだ。」
(あなたはヒンズー教徒ですかと尋ねられて)「ええ、そうです。私はクリスチャンでもある。ムスリム、仏教徒、ユダヤ教徒だ。」

ガンジーはキリスト教徒にある宗教臭さや偽善を嫌いましたが、そのため、それぞれの宗教にある教えを十把一絡げにして話すことのできる軽率さと無頓着さを持っていました(参照ページ)。彼は「あなたのキリストは好きだ」と言いましたが、決して「私のキリスト」と言えなかったのです。

「キリスト教」と言うとき、そこには単に組織としての意味だけでなく、真理の体系である「教え」の意味もあるのです。その意味で「イエスは好きだが、キリスト教は嫌い」とは言えないのです。イエスを真に愛するためには、キリストについての教えを学び、聞き、それに服従する必要があるからです。「キリスト教」と「キリストご自身」は切り離せないのです。

一般の人々、これまで教会に足を踏み入れたことのない人に届きたいという気持ちはよく分かります。けれども、自分自身は既に一般の人々から別たれ、聖なる者とされています。そして一つになれるのは唯一、同じように真理によって聖め別たれたキリストの弟子たちなのです。

また、世の人々に届きたいと思って、既存の教会から分離することまで私たちは主から命じられていません。そうではなく世からの分離を命じられています(2コリント6:17)。もちろん不信者の人たちと付き合うなということではなく、付き合っても、そこには区別があり、聖さがあるのです。そして、それを保つことのできるのは、やはり教会の人々との交わりであり、もし教会から離れているのであれば、その思考や行動は、世の人と変わらなくなってしまいます。


神を愛する → 兄弟を愛する ← キリストの命令

最後に、私たちの愛する主、イエス・キリストが教えておられることで締めくくりたいと思います。

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(1ヨハネ2:9-11
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。(同3:14
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。(同4:20)」
「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(同21節)」

どうか、私たち教会から離れないで、愛への一歩を踏み出してください。


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