コリント人への手紙第一15章 「死者の復活」

アウトライン

1A 復活の確かさ 1−34
   1B 現われたキリスト (歴史的事実) 1−11
      1C 宣べ伝えている福音 1−2
      2C 復活の証人 3−8
      3C 神の恵み 9−11
   2B むなしい信仰 (論理的妥当性) 12−19
      1C キリストの復活の否定 12−13
      2C 虚偽と絶望 14−19
   3B キリストの再臨 (神学的帰結) 20−28
      1C ひとりの人による復活 20−23
      2C 順番 24−28
   4B 死の危険 (個人的体験) 29−34
      1C 死者のためのバプテスマ 29
      2C 死の連続 30−34
2A 復活の姿 35−58
   1B 蒔かれたからだ (死者の復活) 35−49
      1C 種から出来るからだ 35−41
         1D 異なるからだ 35−38
         2D 異なる栄光 39−41
      2C 御霊のからだ 42−49
         1D 不朽の栄光 42−44
         2D 最後のアダム 45−49
   2B 変えられるからだ (生きている者の変貌) 50−58
      1C 不死の装着 50−53
      2C 死への勝利 54−57
      3C 勧め 58

本文

 コリント人への手紙第一15章を開いてください。ここでのテーマは、「死者の復活」です。

1A 復活の確かさ 1−34
1B 現われたキリスト (歴史的事実) 1−11
1C 宣べ伝えている福音 1−2
 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

 パウロは、
15章において、死者の復活について取り扱っています。パウロは、復活を、福音の根幹であり、福音の本質であると語っています。福音というのは、まさにキリストが死者の中から復活したことを宣べ伝えることに他ならない、と教えています。コリントにある教会に、死者の復活はないという偽りの教えが入り込んで来ていたようです。パウロは、その偽りの教えからコリント人のクリスチャンを正そうとしています。
 パウロはここで、「あなたがたが受け入れ、それによって立っている福音」と言い、また、「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言っています。初めに聞いた福音を信じること、そして、信じつづけること、しっかりと自分の思いと行ないと、言葉に中に、この福音のことばが生きていること、これが大事であるとパウロは言っています。死者の復活が、私たちにとって、どれだけ自分の現実となっているか。キリストの復活が、どれだけ自分の生活の支えとなっているか。このような問いかけをしながら、この章を読んでいきたいと思います。
2C 復活の証人 3−8
 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

 
パウロが伝えたもので、最も大切なことはキリストの死と復活です。他にもいろいろな事柄を話したからもしれませんが、キリストの死と復活が一人ひとりのものになっていることが、パウロが最重要であると考えていたものです。

 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。


 パウロは、キリストの死と、埋葬、そしてよみがえりは、聖書が示すとおりのことであり、聖書に従っていたことであると論じています。パウロがここで話している聖書とはもちろん旧約聖書です。旧約聖書には、イザヤ書
53章でキリストが、私たちの罪のために死なれることが預言されています。また、同じくイザヤ書53章でキリストが葬られることも預言されています。そして、詩篇16篇には、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と書かれています(使徒231)。したがって、聖書に示されていたとおりのことが起こりました。そして、当時の教会の指導者であるペテロは、他の12人の弟子たちがイエスさまに出会う前に、初めにイエスさまに出会いました(ルカ2434)。それから、弟子たちが家の中で戸を閉めて集まっているときに、イエスさまが、彼らの間に現われてくださいました。

 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

 
12弟子だけではなく、何と同時に500人以上の兄弟たちに現われてくださっています。また、大多数の者はまだ生き残っているとパウロは言っています。つまり生き証人がまだたくさんいるのです。

 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 このヤコブは、イエスさまの半兄弟のヤコブです。イエスさまが処女マリヤからお生まれになって、それからマリヤはヨセフと結婚をし、息子や娘を生みました。イエスさまには、このような半兄弟が何人かいましたが、イエスさまが復活される前には、この方が神の御子キリストであることを信じていませんでした。物理的に目で見ているのに、それでも信じていなかったのです。多くの人は、「神が自分の目で見ることができれば、イエスが自分に現われるものなら、信じられる。」と言いますが、物理的に見えても心の目が開かれなければ、私たちは決して、イエス・キリストを信じることはできません。

 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

 パウロが、イエスさまの復活を目撃した最後の人です。彼が、ダマスコにいるクリスチャンを捕らえて、縛り上げ、牢屋に入れるために、エルサレムからダマスコに向かいました。その道の途上で、まばゆい光があたりを照らし、イエスご自身がパウロに現われてくださったのです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」とイエスさまは言われました。


3C 神の恵み 9−11
 こうして復活のイエスに出会ったことによって、自分が福音宣教者になっていると教えています。

 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

 
パウロは、神の教会を迫害するというとんでもない罪を犯しました。そこで、使徒と呼ばれる価値のない者である、と言っています。

 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。

 
これがすばらしい言葉です。パウロは、とんでもない罪を犯していたのにもかかわらず、神に罪を赦されて、イエス・キリストを宣べ伝える者とさせていただきました。今、このように自分がいるのは、みな神の恵みによるのです、と言うことができるほどになっているのです。パウロは、復活のイエスに出会い、イエスさまによって自分を変えていただき、イエスさまにあって今の自分がいる、と言うことができました。

 そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 
神の恵みをほんとうに知った人は、何もしないでいることはできなくなります。キリストの愛に駆り立てられて、多くの働きをするようになります。イエスさまは、売春婦の女についてこう言われました。「多く赦された者が、多く愛するのです。」自分が多く赦されていることをほんとうに知っている人は、自ずとその赦してくださった方を愛するようになります。


 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

 
パウロは、これらのことが、福音のことばであると確認しています。福音のことばとは、このように、歴史的事実に基づいていることです。私たちの心の中で生きている、という表現するような主観的な事柄ではなく、信じようが信じまいが存在している客観的な事実なのです。もし、人が豊臣秀吉という人が生きていたことを信じられるのであれば、同じように聖書という文献から、イエス・キリストがよみがえられた、ということを信じることはできるのです。信じることと事実は異なるのではありません。むしろ、私たちは、復活が実際に起こったことであるから、それを信じるに値することなのです。


 これは、この世の教えとは真っ向から対立することばです。もし私たちが、「私たちはキリストを信じているが、あなたがたは仏陀を信じてもよいし、モハメットを信じても良い。それぞれの心の中で生きているのだから。」と話したとしたら、この世においては、とても良い教えであると思われるでしょう。しかし私たちは、新聞で報道されている出来事のように、だれもが認めなければいけない変わらない客観的事実、歴史的事実として、「イエスは死んで、葬られて、三日目によみがえったのだ。」と伝えているわけです。ですから、キリストがよみがえったと語ること自体、人々をつまずかせてしまいます。しかし、人がもし、キリストがよみがえったことを受け入れ信じさえすれば、その人は起き上がりこぶしのように、しっかりと立つことができます。自分が倒れても、苦しめられても、泣いても、病に伏しても、どんなことがあっても、立ち直ることができます。キリストが現によみがえられ、今も生きておられるからです。そして、パウロのように、「神の恵みによって、私は今の私になりました。」と言うことができるようになるのです。

2B むなしい信仰 (論理的妥当性) 12−19
 そこでパウロは次に、もし死者の復活がなかったのなら、もしキリストの復活がなかったのならどうなるのかについて話しています。

1C キリストの復活の否定 12
 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 パウロは、ここで死者の復活がないと言っている人が、コリントの教会の一部に存在することを指摘しています。


2C 虚偽と絶望 13−19
 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

 パウロはまず、キリストの復活がなければ、宣教が実質のないものになると論じています。そのとおりですね、「イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます。」と宣べ伝えも、イエス・キリストがもうすでに死んでいるのなら、その宣教のことばは全く意味のないものになってしまいます。他の宗教では、その宗教の創始者が死んでも、問題はありません。彼らが信じているのは、宗教の教祖ではなく、教祖が説いた教えであるからです。モハメッドを信じなさい、とイスラム教は教えません。また、「仏陀を信じなさい。」と仏教は教えません。しかし、キリスト教は、イエス・キリストご自身を信じているのです。宗教の創始者自身が、信仰と礼拝の対象になっているのです。この方と個人的な関係を持つことが、キリスト教の目的なのです。ですから、キリスト教からキリストの復活をなくせば、それほどむなしいことはありません。パウロはまた、「私たちは神に偽証している。」と言っています。そうですね、嘘をついていることになります。


 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 パウロは宣教が実質のないものになる、と言っているだけでなく、信仰がむなしいものになる、と言っています。キリストが十字架につけられて、それでそのまま死んでよみがえなかったとしたら、どうなるのでしょうか。キリストが流された血は、父なる神によって受け入れられなかった、ということになります。キリストが流した血に、罪を赦す効力はなく、そのため私たちは今だ、罪の中にいることになります。キリストを信じて死んだ人は、罪が赦されていないので、永遠のいのちを持つことはできていません。滅んで、神のさばきを受けるものとなっています。私たちがこのように毎週集まって、礼拝を守ることはみな、意味のないことになります。キリストがよみがえられなれなかったとしたら、とっととみなさん、家に帰って、もっと充実した生活を営むために、楽しみを見つけてください。


 このように、キリストの復活は、私たちの生活を黒か白に分けてしまうものなのです。キリストがよみがえっておられなければ、すべての教会活動、信仰の歩みは無です。ゼロです。0×5が0であり、0×100も0であり、0×1000も0であるように、どんなになにをやっても0なのです。そこで私たちは、自分が信仰生活をし、教会生活をし、宣教活動をしている根拠がすべて、「キリストが生きておられるから」というものでなければいけません。日曜日にここに来なければ、生活のリズムが取れない、他のクリスチャンは礼拝に行っているから、自分も通っておかなければいけない、聖書の話しが面白いから行こう、などなど、いかなる理由であってもいけないのです。私たちが信仰生活を営む理由は、唯一、キリストが生きているから、でなければいけません。キリストが実に、死者の中からよみがえったから、今も生きておられるから、だからこの方に祈り、この方のことばを聖書から聞き、この方を信じているほかの人々と交わるとなっていなければいけないのです。

3B キリストの再臨 (神学的帰結) 20−28
 そこでパウロは、キリストがよみがえったことにより、今度は私たちもよみがえることにあることについて、話し始めます。

1C ひとりの人による復活 20−22
 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 
イエスさまがよみがえる前にも、行き返った人たちはいます。旧約では、日射病で死んでしまった子が預言者エリシャの祈りによって、息を吹き返しました。新約では、ヤイロの娘がイエスさまによって生き返りました。またラザロは4日間墓に葬られていたところを、イエスさまによって、「ラザロよ、出てきなさい。」と言われて、彼も生き返りました。けれども、生き返った彼らは、他の人たちと同じように、老いて、死んでいったのです。この生き返りは蘇生と呼びますが、キリストの復活は、これと違います。生き返って、二度と死なない、永遠に生きているところの復活です。この復活を経験した方は、イエスさまご自身が初めなのです。

 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

 
ここが大切な教えです。キリストが初穂としてよみがえられた。だから、キリストについている者はみな、よみがえる、という教えです。ローマ書5章の学びのときにも、このことを学びました。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:12」アダムが罪を犯したとき、アダムの後から出てくるすべての人が罪を犯したことになります。彼が、全人類のかしらとして罪を犯したのです。そのため、死もアダムひとりによって入り込み、全人類が死ぬように定められました。同じことが、キリストについても言えます。イエスさまはよみがえられました。ですから、キリストに結ばれている者、キリストのうちにある者も同じように、よみがえることになるのです。

2C 順番 23−28
 そしてパウロは次に、どのように、いつ私たちがよみがえるのかについて説明していきます。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

 よみがえりには順番があり、初めにキリストがよみがえられました。そして、イエスさまは天に昇られて、今は、神の右に着座されておられます。そして、天からキリストが、信者のために下ってこられます。テサロニケ人への第一の手紙4章によると、キリストが天から来られたとき、死んでしまったクリスチャンがよみがえります。そして、空中に引き上げられるのですが、生き残っているクリスチャンはそのときにいっしょに引き上げられます。そして空中で主と会い、いつまでも主とともにいるようになります。

 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

 
キリストは、聖徒たちとともに天から地上に来られます。それから、ご自分が王となって、エルサレムから全世界を治められます。その期間は千年です。それから地も天も逃げ去って、神の大きな白い御座だけが残ります。そこで、不信者のさばきがあり、彼らはゲヘナに投げ込まれます。それから、新しい天と地が造られます。このときにキリストは、ご自分の御国を、父なる神にお渡しになるのです。

 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。

 新しい天と地が造られるときには、死そのものが滅ぼされます。黙示録
21章4節には、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」と書かれています。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。御子であるイエスさまは、父なる神と同質であられながら、その姿に固執することをせず、父なる神に従われる姿を取られました。そして、天のエルサレムにおいては、神と小羊の栄光が輝き、人々を照らすと書かれています。

 このようにパウロは、キリストの復活を、私たち自身の復活、そして、キリストの再臨と支配にまで結びつけています。キリストが復活されたことは、死が滅びました。そして私たちキリストにある者の死も滅び、ついでこの万物にある死と呼ばれるものをすべて滅ぼされます。死は私たちを悲しませ、苦しみをもたらし、涙をもたらせます。私たち人間だけではなく、「被造物全体も今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている(ローマ8:22)」のです。しかし、キリストの復活によって、まず私たちがよみがえり、そして被造物も回復し、死を経験しなくなります。ですから、キリストの復活は、これらのことをすべてもたらす礎石となのです。私たちが、日曜日の朝に集まるとき、イエスさまのよみがえりを思って集まります。その思いには、私たち自身の復活が、そしてこの地球、宇宙全体が改まることのすべてが集約されています。

4B 死の危険 (個人的体験) 29−34
 それでは29節を読みましょう。パウロは再び、死者の復活がなかったらどうなるのか、について話しています。

1C 死者のためのバプテスマ 29
 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。

 
コリントにある教会には、変な習慣があったようです。死んで行ってしまった者のためにバプテスマをさずけるようなことをしていました。すでにイエスさまを信じた後でバプテスマを受けなかった人たちのために、代わりに受けていたのでしょうか。いずれにしても、これはイエスさまご自身は教えておられないし、使徒たちによっても実践されていません。コリント人たちが自分勝手に行なっていたものであろうと考えられます。新約聖書は一貫して、バプテスマを、生きている者が、そしてイエス・キリストを信じる本人が受けるものとされています。けれども、パウロは、彼らが行なっていたことを引き合いに出して、死者のよみがえりがなかったら、死者のゆえのバプテスマをさずけている意味がなくなると論じています。


2C 死の連続 30−34
 そしてもし、復活がなかったら、パウロが日々経験している、死の危険も無意味になってしまいます。

 また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。

 
死者の復活を信じるということは、自分のいのちを失うことでもあります。イエスさまがおっしゃられたように、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、それをわたしのために失う者はそれを救う」からです。この世のものではないのに、この世の中で生きることは、この世にあるいのちを削ることに他なりません。この世にあって、自分のいのちが削がれていきます。しかし、パウロがコリント人への第二の手紙で言っているように、内なる人は日々新たにされていくという経験をするのです。パウロは、実際に死の危険を経験していました。


 それに対し、コリントにいる人々は、死者の復活を意識しない生活を歩んでいました。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

 もし死者の復活がないのであれば、この世における生活がすべてとなります。したがって、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということなります。この世におけるいのちを十分に楽しまなければいけない、と考えるようになるのです。そこで実際に、コリントにいる人々は、悪い習慣を持っている人々の友となり、自分たちも放縦な生活をしている人がいました。

 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。

 パウロは再び、コリントにいる一部のだらしがない人々を叱っています。ですから、死者の復活を信じるということは、私たちを正しい生活へと導くのです。いのちはキリストにあって、神に隠されていることを、私たちは知ります(コロサイ
3:3)。そして、このいのちを守ろうとあえてせず、永遠のいのちのためにむしろ、失っていくことを考えるのです。

 私たちが住んでいる日本は、極端なまでの世俗主義があります。今の生活、この世における生活がすべてであり、現在の生活以上の存在を一切考えようとしない、という考えがあります。そのため、私たちは、死者の復活について実に考えずらい環境の中にいます。どうしても、この世の中で上手に暮らすことについてのテクニックを身につけようと考えてしまうのです。けれども、それでは、なぜ、イエスを自分の主であることを告白するのを止めないために、何十年も牢屋の中に入れられている、中国にいる兄弟姉妹のことが理解できません。せっかく国境を超えて助かったのに、再び自国に戻って福音を伝えようとする北朝鮮の兄弟姉妹のことが分かりません。死者の復活があることが明確であるからこそ、いのちがキリストにあって神に隠されていることが明確であるからこそ、彼らは、イエスさまの証言をすることを大胆に行なうことができるのです。クリスチャンが献身できるのは、クリスチャンがいかに神のことばを行なえるかという頑張りによるのではないのです。神が私たちに啓示してくださっている、天にあるいのちについてどれだけ確信しているかにかかっているのです。

 時間が迫っているので、今日はここまでで終わりにしたいと思います。15章の後半部分は、次回、学びたいと思います。私たちは、死者の復活が、クリスチャン生活の根幹になっていることがよく理解できたのではないかと思います。キリストの復活は、歴史的事実です。ですから私たちの信仰は、揺らぐことはありません。だれが何と言おうと、決して倒れることはない確証が与えられています。そして、キリストの復活によって、私たちは宣教や信仰生活のすべての活動に意味が与えられます。キリストが今、生きておられるから、祈り、みことばを聞き、キリストが今、生きておられるから、教会として私たちが集い、キリストが今生きておられるから、この方ご自身を信じるように勧めるのです。そして、キリストの復活によって、私たち自身の復活、万物の回復が与えられることが分かりました。死が滅ぼされます。私たちを、また被造物全体を苦しませる死そのものが、キリストが三日目によみがえられたという一つの出来事によって、消し去られてしまうのです。そして、死者の復活は、私たちのいのちがどこにあるかを教えてくれます。それは天に隠されており、それゆえ、この世にあるいのちを失うことができるのです。ですから、パウロは、「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言いました。キリストがよみがえられたこと、これをしっかりと保っていきたいと思います。


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