コリント人への手紙第一16章 「最後のあいさつ」

アウトライン

1A 助言 1−12
  1B 献金の集め方 1−4
  2B 将来の旅程 5−12
    1C パウロ 5−9
    2C テモテとアポロ 10−12
2A 結びのことば 13−24
  1B 勧め 13−18
    1C 主の働き 13−14
    2C 服従 15−18
  2B 最後のあいさつ 19−24
    1C 互いの交わり 19−20
    2C 主の来臨 21−24

本文

1A 助言 1−12
1B 献金の集め方 1−4
 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。

 パウロは、聖徒たちのための献金について話し始めています。この聖徒たちとは、エルサレムにいる聖徒のことです。エルサレムにある教会は、経済的に困窮していました。そこで、パウロは、小アジアとヨーロッパにある諸教会から献金を集めて、それをエルサレムにある教会に持っていこうとしていました。パウロは、ユダヤ人が主体のエルサレム教会に、異邦人からのキリストの愛を示したかったのです。ユダヤ人が主体の教会と、異邦人のそれとは、文化的な違い、宗教的な背景の違いによって、互いに距離を持っていました。しかし、それではキリストのからだが一つであることを現わすことになりません。パウロは、具体的にキリストの愛を示すために、このようにして異邦人の教会からの献金を募っていました。


 ところで、パウロは15章において、死者の復活について話していました。キリストの復活により、私たちすべても復活します。キリストが来られるとき、私たちは一瞬にして変えられて、朽ちない栄光ある天からのからだを身につけることになります。そこで死は滅ぼされます。「死は勝利にのまれた。」とのイザヤの預言を引用します。このように勝利を高らかに宣言したあと、パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから。」と結んだのです。パウロは、この主のわざの一部として、聖徒たちのための献金があることを教えているのです。

 私たちはとかく、死者の復活とか、キリストの再臨とかいう話しをするときに、それらの教えが自分たちの日々の生活に関わりはないと考えてしまいます。それは、キリスト教の大事な教理であるけれども、毎日接している家族との関係、職場での関係、そして教会における具体的な運営などについて、そうした教えはとくに関係ないと思ってしまうのです。けれども、パウロにとって、聖徒のために献金するということは、主のわざであり、主のわざを行なうのであれば、そこには報いがあると信じ、そして報いとは死者の復活の中に隠されていると結びついていたのです。私たちがそれだけ、毎日の生活に、キリストについての教えが浸透していなければいけません。死者の復活、キリストの再臨について思いを巡らし、今、自分の前にある問題、課題にどのような見方の変化を与えるのかを、じっくりと考えてみなければいけません。

 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

 
パウロは、自分がコリントに行ったときに、慌てて献金を集めるようなことがないように、と戒めています。週の初めの日に、収入に応じて、手もとにたくわえておきなさい、と命じています。計画的に、自分の収入のことをよく考えた上で、生活を始める始めにたくわえておきます。これが、献金の良きスタイルです。「ああ、そうだ献金のことがあった!」と、慌てて自分の財布にある紙幣を取って、それを献金するのは良くありません。祈り深くし、自分の収入と対話して、主におささげするという気持ちをもって献金するのが、神が喜ばれる献金です。コリント人への第二の手紙で、パウロは、「神は喜んで与える人を愛してくださいます。(
9:7」と言いました。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。こうしてパウロは、自分がコリントに行ったときに、しなければいけないことを具体的に指示しました。

2B 将来の旅程 5−12
 次にパウロは、これからの具体的な旅程について話し始めます。

1C パウロ 5−9
 私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。

 パウロが今、エペソにいることを思い出してください。エペソからマケドニヤを通り、それからギリシヤの方面に向かい、コリントの町に行きます。パウロが、マケドニヤを通るのをなぜ確認しているのかと言いますと、そこには彼の奉仕によって建てられた教会があるからです。パウロは、アンテオケの教会から遣わされて、小アジヤでの宣教を行ないました。再びアンテオケに戻り、それからまた小アジヤでの宣教をしていましたが、ある時、御霊がパウロをアジヤの地域を巡るのを禁じられました。そのようなことが二回あって、ある夜、マケドニヤ人が幻の中でパウロに現われて、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願しました。それから、マケドニヤへの旅が始まったのです。パウロは、ピリピ、テサロニケの町へと赴き、そこに教会が建て上げられました。パウロは、その諸教会を訪問します。


 私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。

 パウロがこれまで述べてきた、マケドニヤを通って、コリントにおいてしばらく滞在するという旅程は、あくまでも「主がお許しになるなら」という条件つきのものでした。計画は立てているのですが、主がいつでも介入されて、いつでも変更可能のようにしていたのです。ここがとても大切です。私たちはとかく、自分で計画を立てたものを決して変えたくない、と思います。その頑固さによって、主があるところに私たちを導かれようとしても、なかなかそこに行かないと思います。パウロが御霊によって小アジヤでの宣教を拒まれたこともそうです。彼はもしかしたら、病気にかかって動けなくなったのかもしれません。いずれにしても、神は、私たちをご自分の御手によって導いておられます。


 ヤコブの手紙には、主のみこころのままに動くことの必要性を、このように言っています。「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(4:13-15」私たちは、自分がしたいこと、計画していることが阻まれたように見えるときに、がっかりするのではなく、むしろみこころのままに、と祈る姿勢が必要なのです。いや、朝ごとに、「主のみこころのままに行なってください。」という祈りをもって生活を始めるべきです。計画は立てるのですが、主のみこころによって成り立ちます。

 しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。

 パウロは、コリントへ向かうことを計画しながらも、今はエペソにとどまると言っています。それは、働きのための広い門が私たちのために開かれているからだ、と言います。思い出してください、使徒の働き
19章において、パウロをとおして、驚くべき奇蹟が行なわれました。パウロの手ぬぐいを病人に当てるといやされ、悪霊も出て行きました。そこでみことばを2年以上も教え続けたので、アジヤ中にみことばが広がっていきました。働きのための広い門が開かれていたのです。けれども、反対者も大ぜいいるとパウロは言っていますね。大ぜいの人が反対しているということは、パウロにとって神の御霊が働いておられる証拠であると思っていたのです。それだけ、地域に対して影響力を持っていたと言いかえることができます。私たちも、地域に対して影響力を持つような主の働きを期待して、祈っていきたいものです。

2C テモテとアポロ 10−12
 そしてパウロは、自分だけではなく、他の奉仕者であるテモテとアポロの旅程についても言及します。テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

 
パウロは、自分の手紙をテモテに持たせようとしているようです。そして、テモテがコリントに行ったとき、「心配なく過ごせるように心を配ってください。」とお願いし、また、「だれも彼を軽んじてはいけません。」と命じています。コリントの教会は、分裂・分派がある教会でした。自分たちが賢いとうぬぼれている高慢な人たちがいる教会でした。テモテは、若く、そして、おとなしい性格の人です。そこで、テモテを恐がらせたり、プレッシャーをかけたりする人たちがいるのではないか、とパウロは察して、「心を配ってください」「軽んじてはいけません」と言っています。その理由は、「彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。」とあります。パウロはテモテのことを、テモテのように私と同じ心になっている人はいない、ということを、話したことがあります(ピリピ
2:20)。見た目ではなく、ほんとうに主にあって労しているとこで、人を判断する必要があるわけです。

 次にアポロについてのこれからの旅程です。兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。

 アポロは今、パウロとともにエペソにいます。アポロとパウロは、それぞれ独立したミニストリーを持っていましたが、それでもここエペソにおいて、兄弟として交わりをし、ともに働いていたことを伺うことができます。思い出してください、コリントの教会では、「私はアポロにつく。」「私はパウロにつく。」と言って、仲間割れをしていたのです。けれども当人たちは、キリストにあって一つでありました。


 ここで興味深いのは、パウロがアポロに強く勧めたのに、アポロが全然その気になっていない、というところです。パウロが、アポロが自分の勧めに応じないからと言って、腹を立てたりしていないというところです。パウロは、コリントにいる教会の人たちには、使徒としての権威をもって、とても強い姿勢で望んでいますが、アポロに対して同じような姿勢で臨んでいません。また、パウロがエルサレムにある教会にて、彼が取った行為を思い出してください。彼は、ヤコブが聖霊によって決断した、異邦人に対する規定に同意し、同意しただけではなく、その規定を異邦人の諸教会に伝え、守らせようとしました。そしてパウロは、アンテオケの教会から遣わされ、またそこに戻り、宣教について報告をしました。このように、パウロは、自分は大きなキリストのからだの中に属しており、その枠組みの中で、権威の下で動いている、という認識を持っていたのです。自分がキリストから啓示が与えられたから、キリストがかしらとなっているのだから、示されるままに動く、ではなくて、キリストのからだの中の一部として、権威の下に自分を置いていたのです。

 したがって、私たちも、自分がどのような権威の下にいるのかを知る必要があります。自分と神さまという個人的な関係だけではなく、キリストのからだの中における自分を知ることはとても大切であります。そして、このパウロのように神に用いられる器となっていくのです。

2A 結びのことば 13−24
1B 勧め 13−18
 パウロは次に、短い勧めをいくつか与えます。

1C 主の働き 13−14
 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

 まず、「目を覚ましていなさい。」です。コリントにある教会には、死者の復活はないという偽りの教えが入っていました。また、他にもさまざまな肉の行ないが教会の中にありました。イエスさまがペテロに言われたような、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マタイ
26:41」という状態だったのです。自分たちは、今、どのような状況の中にあるかに目覚めていなかったのです。それゆえ、イエスさまがペテロに、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」と言われたように、コリントのクリスチャンたちにもパウロは、「目を覚ましていなさい。」と勧めています。

 次に、「堅く信仰に立ちなさい。」と勧めています。これは、パウロが15章の冒頭で話した、福音のことばに堅く立っているということです。私たちがキリストの上にしっかりと立っていないと、コリントの教会のように、偽りの教えや肉の行ないに流されてしまいます。しっかりと立たなければいけません。そして、パウロは、「男らしく、強くありなさい。」と勧めています。コリントにいる人々は、「キリストにある幼子」でした。もっと考え方において大人にならなければいけませんでした。言葉においては強がっていましたが、実質がなかったので、パウロから叱咤を受ければ縮こまるような臆病者でした。ですから、「男らしく、強くありなさい。」と勧めています。

 この三つ、目を覚ましていること、堅く信仰に立つこと、そして男らしく強くあることは、クリスチャンとして、とても大切な特質です。けれどもパウロは、「いっさいのことを愛をもって行ないなさい。」と言っています。これら三つのものの上に、愛を身に着けなさい、と言っても良いかもしれません。信仰と希望と愛、この三つでもっともすぐれたものは愛です、とパウロは言いましたが、愛がいつも私たちを突き動かす動機となっていなければいけません。そこで、目を覚まし、堅く信仰に立ち、それで男らしくする、という徳が意味を持つのです。

2C 服従 15−18
 パウロは続けて勧めを行なっています。兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。

 パウロは、ステパナの家族のような人たちに服従しなさい、と勧めています。ステパナの家族は、アカヤの地域において、初めて主を信じた人たちでありました。アカヤとはギリシヤなどを含む地域です。パウロは、この人たちにバプテスマを授けています。けれども、もちろんアカヤの初穂だからこの人たちに服従しなさい、と言っているのではなく、聖徒たちのために熱心に奉仕し、ともに働き、労しているから服従しなさい、と言っています。やはり、主のわざに労している人に対して、服従するという原則があるようです。教会に何年も来ているからとか、年上だからとか、牧師とか宣教師とかいうタイトルがあるからとか、そのようなものによって、だれに服従するか決めるのではありません。やはり、自分が関わっているところで、だれがもっとも労して、骨を折っているかによって決めなければいけません。


 ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。

 ステパナとポルトナトとアカイコが来て、パウロのことろにコリントの状況を伝えました。


2B 最後のあいさつ 19−24
 そして最後のあいさつをします。

1C 互いの交わり 19−20
 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。

 パウロは今、エペソにいますから、アジヤの教会がよろしくと言っています、と言っています。また、アクラとプリスカがパウロのところにいました。この夫婦は、コリントにてパウロと出会いました。ともに天幕作りの同業者でしたが、パウロがエペソに行くときにともにエペソに行き、パウロはエルサレムにそのまま向かいましたが、二人はとどまりました。そして二人は、アポロが説教しているのを見て、彼にもっと正しく主の道を教えました。二人は家を開放して聖書を教え、後にローマに行って、同じように家の教会を持ちました。この二人がよろしく、と言っています。

 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。


 聖なる口づけをもって、あいさつを交わしなさい、と言っていますが、これは当時は親愛を示す表現であり、恋愛感情は何もありませんでした。初代教会ではこの習慣があったようですが、後に同性の人たちのみで交わすようにと習慣が変わり、そして、聖職者と信徒たちとの間の口づけのあいさつもなくなりました。しだいに、いろいろな違いによって互いに距離を持ち始めたのです。アメリカにいたとき、ある牧師が話していましたが、ある日本の神学校を訪問したそうです。そのとき神学生は、「牧師先生たちは別のところで交わります。」と言って、信徒たちは信徒たちだけ、牧師たちは牧師だけのグループに分けて交わりをするようにさせたのだそうです。それで非常に頭にきていましたが、そうなんですね、このような隔ての壁を私たちはいつのまにか、互いに作ってしまいます。けれども、初代教会では、互いに聖なる口づけをもって交わっていたのです。


2C 主の来臨 21−24
 パウロが、自分の手であいさつを書きます。

 
ここからパウロ自身の手で書きます。ここまでは、口頭筆記を他の人が行なっていました。パウロは、目の病気を持っていたのではないかと言われています。ガラテヤ人への手紙において、「もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。(
4:15」と言いました。そして、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。(6:11」とも言いました。あまり目が見えず、自分の手で書いているパウロの姿を思い浮かべてください。

 そして、こう書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。

 のろわれよ、アナテマです。パウロはストレートに語りました。主を愛していない者、クリスチャンと称しながらその実を否定している者、主イエス・キリストとの交わりの中に入っていない者は、のろわれよ、と言っています。今日の教会では、「主はあなたを愛していますよ。」という優しいメッセージが多くて、このようなパウロのことばはなじまないでしょう。そうなんです、主は私たちをこよなく愛してくださっています。この愛を思うとき、罪赦された、イエスの御足に涙を注ぎ、髪でぬぐったあの女のように、多く愛するのです。この深い主への愛が、主の愛を知っているもののしるしであります。しかし、「主はあなたを愛しています。」というメッセージに反応せず、無頓着であり、かたくなになっている人たちが大ぜいいます。私たちはどうでしょうか。私たちに主への愛がなくなったとき、それは、主の愛を自分自身で拒んだときです。主の愛を受け入れている者は、みな主を愛しています。主への愛、これはとても大切な要素です。そして、主よ、来てください。と言っています。マラナタです。これは、初代教会において、クリスチャンたちの挨拶になっていました。激しい迫害の中で、彼らは、主が来てくださるとの希望によって互いに慰めていたのです。これは私たちも同じです。キリストが来られることを、いつも意識していることは、私たちのうちに愛と希望と喜びを与えてくれます。


 ですから、パウロは次のように書いています。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。

 恵みと愛です。主の恵みは、主よ来てくださいという願いの中にあります。主が私たちのために死んでくださり、主がよみがえってくださり、そして主がまた来られる。私たちの救いはみな、主がなしたもうみわざによりかかっているのです。そこに主の恵みが流れるのであり、私たちはこれら主のみわざの中に浴さなければいけません。そして、パウロは、コリントにいる人々を愛していました。まだ行ったこともないローマへの手紙とは異なり、パウロはコリントにいる人々をよく知っていました。これだけの問題があったのに、パウロはますますキリストに愛に駆り立てられて、叱ったり、憤ったり、また優しく声をかけたり、とにかく彼らの益になることだけを考えてここまで書いてきました。これも、主よ来たりませ、という願いの中にある愛です。



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