ヨハネの手紙第一4章 「神は愛なり」

アウトライン

1A 霊をためす 1−6
   1B イエス・キリストの受肉 1−3
   2B 勝利した者 4−6
2A 兄弟を愛する 7−21
   1B 神を知ることにおいて 7−11
   2B 神を見ることにおいて 12−16
   3B 完全な愛 17−21

本文

 ヨハネの手紙第一4章を開いてください。ここでのテーマは「神は愛なり」です。

1A 霊をためす 1−6
1B イエス・キリストの受肉 1−3
 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

 私たちは前回、神が与えてくださった御霊によって、神が私たちのうちにいてくださることがわかると、3章の最後の節で学びました。そこでヨハネは、霊について話しています。霊だからと言って、それがみな神からのものだと信じてはいけない。神からのものかどうかためしなさい、と言っています。なぜなら、偽預言者も、霊の現象を引き起こすことができるからだ、ということです。

 今日、数多く、奇跡や不思議が起こっているという話をクリスチャンの間で聞きます。この人がいやされた、あの人の目が直った。また、こんなにすばらしい預言が与えられた、北海道からリバイバルが来る、とかです。もちろん、主は、ご自分のみことばをあかしされるために徴を伴わせられる方ですが、ヨハネは霊的現象があるからと言って、それをみな信じるな、と言っています。試す、あるいは検証する必要があります。実際に、キリスト教界の中で起こっている霊的現象を検証する人々がいますが、そのような人は多くの場合、さばかれたり、脅されたりします。「あなたは、神のわざをおとしめるようなことを言ったり、行なったりしている。あなたは、二週間後に死ぬだろう。」とか、「あなたは、神のしもべをさばくのですか?大変なことになりますよ。」とか言ってくる人がいます。

 イエスさまは、山上の垂訓にて、「にせ預言者たちに気をつけなさい。(マタイ7:15)」と言われました。そしてこう言われています。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』(8:22)」しかし、イエスさまは、「わたしはあなたがたを全然知らない。・・・わたしから離れて行け。(23節)」と答えられます。悪霊を追い出して、イエスの御名によって預言をしても、それでも天国に入らず、イエスさまから「全然知らない」と言われる人々がたくさん出てくるのです。イエスの名が使われているから、また、奇蹟や預言がなされているからという理由で、私たちはそれらをみな信じてはいけないのです。

 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

 神から来た霊なのか、それともそうでないかは、イエス・キリストがどのような方なのかにすべてがかかっています。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」とありますが、これは肉において来たイエス・キリスト、ということです。ことばは神であった、とヨハネは福音書に書いていますが、1章14節で、「ことばは肉となり、私たちの間に宿られた」と言いました。受肉です。神のふところにおられる独り子としての神が、肉体を取られて私たちの間に住まわれた、というあかしです。これを告白する霊は神からのものであり、そうでなければ反キリストからのものです。

 当時、初代教会の時代に浸透していた異端に、グノーシス主義がありました。「グノーシス」というのは、「知識」という意味です。彼らは、イエスが肉体を取って現われたことを否定していました。グノーシス主義者にとって、物質の世界は悪とされました。物質、目に見えるもの、肉体は悪であり、神は物質世界から隔絶されている存在であると考えます。ですから、イエスが地上におられたとき、それは幻影にしかすぎなく、人間の肉体を持っていたのではなかったと考えました。この異端に対抗するため、ヨハネは注意深く、「じっと見、また手でさわったもの」と手紙を書き始めて、イエスを手で触ることができ、イエスが肉体を持っていたことをあかししているのです。そして、グノーシス主義者は、肉体が悪であると考えるので、肉体活動、例えば結婚内の性的関係まで禁じる禁欲主義を教えます。その一方、肉体がもともと悪なので、肉体で行なうことは何でも良いとする、無律法主義を教えます。不品行を犯しても、それは肉体に対するものであり、神との関係には影響しない、とするのです。

 このような異端に対抗していた使徒たちは、手紙を教会に送ることによって、聖徒たちを守っていたのですが、ヨハネは、イエスが人となって来られたことを否定するところにおいて、偽りが真理かの見分けを行なっていました。

 神の受肉というのは、人間の理解においては、受け入れがたいものです。人間の頭では、神は神、人は人でなければいけません。無限の神は無限であり、人間とは隔絶されたものでなければいけません。ですから、世界の宗教は、神が人間の姿を取られたことを受け入れません。イスラム教は、イエスは偉大な預言者であるが神のひとり子ではないと言います。エホバの証人は、イエスは大天使であり、神によって造られた方であるが、神ではないといいます。神であって人、ということは考えられないのです。けれども、神の受肉という神秘があって、私たちは、ヨハネがこの手紙で強調している、「神を知る」ことを体験できるのです。ヨブは言いました。「神は私のように人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう。』と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはない。(9:32−33)」けれども、神が人となられて現われてくださったことによって、ふたりの上に手を置く仲裁者が与えられたのです。

2B 勝利した者 4−6
 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

 この世において反キリストの霊がすでに働いており、多くの偽預言者が現われています。悪の力が世を支配しているのですが、ヨハネは、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。」と読者たちを励ましています。悪魔がいかに強くとも、私たちのうちにおられるキリストは、悪魔よりもさらに力を持っておられます。このことを知ることはとても大切です。私たちは、キリストにあってすでに勝利しています。このことを知れば、いかに悪魔の暗やみの力が強くとも、主にあってしっかりと立っていることができます。

 彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。

 ヨハネは、「彼ら」と「私たち」というように二つに分けています。彼らはこの世のことを語り、世が彼らの言うことを聞くが、私たちが話すのは、神を知っている者たちが耳を傾けるものである、とうことです。このことは、神を知っている者にしか分からないでしょう。使徒たちに与えられたイエス・キリストの啓示は、人に押し付けられて受け入れているものではなく、直感的に「これだ」と分かっているものです。直感的に分かっている者たちが、神についての事柄を話し、また神についての事柄を聞きます。

 彼らがこの世のことばを語ることについて、エホバの証人の人たちとの会話を思い出します。アメリカでのことですが、訪問してきた人は、聖書の言葉を見せて得意げに、自分たちの信じていることを披露していました。けれども、よくよく聞いてみると、以前は、両親がクリスチャンで、監督派に属していた教会に通っていた、だからクリスチャンだ、と言うのです。そこで私は、「なるほど、彼らは非常に聖書を知っているようだが、実は、求道者のままなのだ。」と悟りました。何か真剣に求められるもの、やりがいのあるものを求めて、エホバの証人になったのであり、神によって生まれたのではないのです。

2A 兄弟を愛する 7−21
1B 神を知ることにおいて 7−1
 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

 ヨハネはこの手紙全体において、兄弟を愛することの勧めを行なっています。前回は、兄弟を愛することは義を行なうことであって、義を行なうのは神から生まれているからだ、という理由でした。今回は、愛が神から出ているから、という理由になっています。

 ここでの「」は、アガペーというものです。肉体的な愛であるエロス、精神的な愛であるフィレオと異なります。霊的な愛であり、与える愛です。この愛をもって人を愛するのは、神から生まれた者であり、神を知っている者でなければできません。なぜなら、その愛は神のみから出ているからです。私たち人間には備わっていないものです。

 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

 神は愛である、という有名な言葉です。神は愛を持っている、ということではなく、神は愛です。1章にて、神は光である、という部分を学びました。神の本質が光であり、聖であるということです。同じように、神はその本質において愛です。神は、全知全能、主権者、遍在される方、創造主、いのちを持つ方、義なる方など、いろいろなご性質を持っておられます。これらの性質、またみわざは、神が愛というところから決して切り離されるものではありません。神は愛という動機によって、すべてのことを行なわれています。愛から離れて何かをすることは、一切ありません。たとえ、怒りをもってさばきを行なわれていても、愛から離れることはありません。地獄においても、愛から離れることはありません。神は愛だからです。私たちは、神についてのあらゆる面において、その深いところにある愛を知っていく必要があります。

 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 この9節と10節において、ヨハネは、愛とは何であるか、その愛がどのように示されたかをここで教えています。神にはひとり子なる神がおられて、ひとり子をこの世に送ってきてくださいました。それが先ほどの、人となって来られた、受肉されたという部分です。そしてキリストの御名によって、永遠のいのちを得ることができるようになりました。ここに愛があります。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 神の愛は無条件の愛です。私たちが神を愛したから神に愛されているのではなく、神が私たちを愛してくださいました。私たちは、人に気に入られるために、人に愛されるために一生懸命になることがありますが、神に対しても同じことをしてしまいます。神に気に入られるために、神に愛されるために、神を喜ばせたいと思ってしまいます。しかし、神は、愛されるべき理由がない、むしろ憎まれるべき理由をたくさん持っている自分に対して、神は愛してくださいました。罪のための、なだめの供え物とは、2章前半を学んだときに学びましたが、契約の箱の上にある贖いのふた、神の怒りを満足させるものであります。その供え物となるために、ご自分のひとり子を犠牲とされました。それほど神は、私たちを愛してくださっています。これは私たちが神を愛するから愛されるという次元の問題ではなく、無条件の愛です。

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 神がこれほどまでに愛してくださったことを知る者だからこそ、この神の愛にとどまっている者だからこそ、互いに愛し合うことができます。

2B 神を見ることにおいて 12−16
 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 神は霊ですから、神を見ることはできません。旧約聖書のいくつかの箇所に、神を見た、という表現が出てきますが、それは神についての栄光、幻など、神についての事柄であって、神ご自身ではありません。神は霊ですから、見ることはできないのです。

 けれども、見えないのに私たちは神が自分のうちにおられることを知ることができるのです。それは、互いに愛することにおいてです。兄弟が互いに愛し合っているのを見れば、そこに神がおられるのを知り、また神の愛があるのを知ることができます。目に見えない神を、互いに愛し合っていることによって、そこにおられることを確認することができるのです。

 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 互いに愛することの他に、神がおられることを確認させてくださるのは御霊です。なぜ見えない神がおられるのを知ることができるのか、それは御霊によってです。他の人に、「神がいることを証明しろ」と言われても、本当の意味では証明できません。ただ御霊によって、「神が私たちのうちにおり、私たちも神のうちにいる。」としか言えないのです。

 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

 私たち、すなわち、使徒たちは、御子が御父によって、世の救い主として遣わされたことを証ししました。そして、そのあかしを受け入れる人、イエスが神の御子であることを心に受け入れ、また告白する人は、自分のうちに神がおられ、神の中に自分もいると認めることができます。

 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 神がうちにおられて、また自分も神のうちにおられることを知るのを確認するのは、自分が愛のうちにいるかどうかです。自分に対する神の愛を知り、また信じています。神が愛ですから、神のうちにとどまるのは、神の愛のうちにとどまることです。ですから、自ずと自分は愛のうちにいる者となります。愛のうちにいないのであれば、神は愛ですから、神のうちにもいません。「愛」が、神のうちにいるかどうかの指標となるのです。

3B 完全な愛 17−21
 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

 ここで語られていることは、私たちが神の愛によって、キリストにあって生きていく者とされた、ということです。神のなだめの供え物によって、私たちの罪が取り除かれ、私たちはキリストのうちにいる者とされました。ですから、罪を犯していない義人としてみなされて、聖なる者とみなされています。ここに愛が完全なものとされています。ですから、さばきの日、白いさばきの御座において、私たちは大胆になることができます。さばきを受けて、罰せられる恐れがないのです。

 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

 自分が神にさばかれるのではないか、罰せられるのではないかと思っている人には、愛が完全にされていません。恐れがあるときには、愛がありません。私たちは、完全な愛を知っているでしょうか?神の愛を知り、その完全な愛を知るときに、罰せられるのではないかという恐れが締め出されます。

 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 神がまず私たちを愛してくださり、その愛にとどまっているので、私たちは兄弟を愛します。そしてヨハネはここで、非常に分かりやすい事を述べています。神を愛する、愛すると言いながら、目に見える兄弟さえ愛せないなら、なぜ目に見えない神を愛していると言えようか、ということです。実に明解です。目に見えるものを愛することのほうが、目に見えないものを愛するよりも、はるかに容易だからです。

 覚えていますか、「もし〜と言うなら」という表現をヨハネはしばしば使っています。クリスチャンがしばしば、言っていることと行なっていることがちぐはぐになることがあります。「神を愛している」と私たちはよく言いますが、隣の兄弟を憎んでいたら、それは矛盾したことを行なっているということです。うそつき、とヨハネは言っています。

 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 ヨハネは再び、兄弟を愛することがキリストから受けている命令であることを言っています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という命令です。

 こうして4章全体を読みましたが、ここでのキーワードは、「神のひとり子」です。神のひとり子が人となったことにより神の愛が分かりました。ひとり子を否定するのが反キリストでありますが、それは、ひとり子の犠牲によって、神の愛が私たちに示されたからです。


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