ペテロの手紙第一1章 「生ける希望」

アウトライン

1A 新生 1−12
   1B 選ばれた人々 1−2
   2B 終わりの時に現われる救い 3−12
      1C 朽ちない資産 (将来) 3−5
      2C 信仰の試練 (現在) 6−9
      3C 預言者による啓示 (過去) 10−12
2A 聖なる生活 13−25
   1B 恐れかしこむ生活 13−21
      1C 聖なる方 13−16
      2C キリストの血による贖い 17−21
   2B 熱い兄弟愛 22−25

本文

 ペテロの第一の手紙1章を学びます。ここでのテーマは、「生ける望み」です。

 ペテロがこの手紙を書いたのは、紀元65年と言われています。ローマ皇帝がネロの時に、クリスチャンに対する大迫害が始まりましたが、その時にペテロが、小アジヤのほうにいるクリスチャンたちに、励ましと勧めの言葉を語るために書いた手紙です。この手紙の中で、「苦しみ」という言葉が、16回出てきます。苦しみは、もちろんだれでも避けたいものですが、けれどもペテロは、この手紙をとおして、苦しみの中における創造者のみこころを教えています。 

1A 新生 1−12
1B 選ばれた人々 1−2
 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、

 ペテロは言うまでもなく12使徒の一人であり、教会が誕生してから、教会を指導してきた人物です。パウロからは、教会の柱とみなされている人であり、また割礼を受けた者への使徒とも呼ばれています。

 そして、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤ」とありますが、これは、現在のトルコである小アジヤの、南海岸を除いた全地域です。「散って寄留している」と言っていますが、これは言い換えると、「ディアスポラ」であり、エルサレムとユダヤ地方に住んでいないユダヤ人たちのことを指す言葉です。バビロン捕囚からエルサレムに帰還したユダヤ人は少数であり、多くは世界中に散らばっていました。ですから、ペテロは、ユダヤ人に手紙を書いたものと思われます。けれども、また、ディアスポラは、天に故郷があり、この世での生活が仮住まいであることを言い表しているようでもあります。小アジヤに住む、ユダヤ人と異邦人のクリスチャンたちに書き送った手紙でしょう。

 選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。

 選ばれた人々」です。私たちは、この言葉を、たくさんいる人々の中から、だれかが選ばれるというときに使います。私たちは、父なる神に選ばれました。世界中にたくさんの人たちが住んで生きているのに、私たちはその中から選ばれたのです。何に対して選ばれたかと言うと、「イエス・キリストに従うように」、また、「その血の注ぎかけを受けるように」選ばれました。自分が、特別な使命を持った存在であることを知ります。

 そして、この選びは「父なる神の予知」に従ったものです。神は、とこしえの昔から、終わりの時までのすべてのことを、知っておられます。そして、「御霊の聖め」によって選ばれました。後で、「新たに生まれる」という言葉が出てきますが、御霊によって新たに生まれたことによって、聖なる者とされました。聖い生活は、自分の意欲や努力によっては決して成し遂げられるものではなく、神が新たに生まれさせてくださり、新しい神の性質をいただくことによって、成し遂げられます。

 どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

 パウロも使った、あいさつの言葉です。恵みはギリシヤ人が使ったあいさつであり、平安はヘブル人が使ったあいさつです。これが、ますます豊かにされるように、とペテロは祈っています。

2B 終わりの時に現われる救い 3−12
1C 朽ちない資産 (将来) 3−5
 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。ペテロは、神への賛美から手紙を書きはじめています。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

 父なる神は、私たちを新しく生まれさせてくださいました。罪によって死んでいた私たちを、キリストとともによみがえらせてくださいました。そして、これが「ご自分の大きなあわれみのゆえに」行なわれました。私たちには、救われるべき理由が何一つありません。罪と肉にあって死んでいた者であり、神に敵対し、神の怒りを受けるのにふさわしい者たちでした。けれども、神は大きく、私たちをあわれんでくださって、お救いになってくださったのです。これだけでも、「ハレルヤ!」と叫ばざるを得ません。

 そして、「新たに生まれ」るとありますが、私たちの肉体がこの世に誕生したときに、この世に対して生まれました。この地上で生活するために生まれましたが、では、新たに神によって生まれるときに、私たちは何に対して生まれるのでしょうか?それは、「生ける望み」に対してです。希望が与えられます。永遠のいのちの希望、神の国の到来の希望が与えられています。そしてそれは、単なる気休めのための希望ではなく、「生ける希望」です。生き生きとした希望です。かなえられるかどうか分からないというものではなく、確かなものです。心の中で想像したりした創作物ではなく、現実のものです。私たちが新たに生まれたのは、生き生きとした希望の中に満ち溢れるためです。

 そして、どうして「生ける希望」なのかと言いますと、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられた」からですね。イエスさまが、事実、死者の中からよみがえられました。みなさんもご存知かと思いますが、「ジーザス」という映画が、世界中の宣教団体で用いられて、その映画によって多くの人がイエスさまを信じているということですが、私は初めて見たのは、大学生のとき、大学祭で、留学生グループの人々が、おそらく伝道のためにジーザスを上映させたときでした。映画が終わったとき、僕はたった一人、涙をぼろぼろ流して座っていたのですが、それは、復活の場面を見たからです。主がよみがえられたことによって、罪と死の原理がぶちこわされて、人間を生き生きとさせなくさせてしまう、すべての要因がそこで根こそぎ抜き取られました。また、イエスさまが、「わたしが生きるので、あなたがたも生きます。(ヨハネ14:19)」と言われたように、キリストのうちにある者は、キリストがよみがえらえたので、自分も死者の中からよみがえります。

 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

 今、地上において、苦しみを受けている人によって、この言葉が非常に大きな慰めとなります。もちろん、実際に天に資産が用意されています。地上での財産は、朽ちて、よごれて、また消えて行くものですが、天における財産は決してそのようなことはありません。イエスさまの、山上の垂訓におけることばを思い出します。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6:19−20)

 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

 ここの「守られている」という言葉は、戦争において、町の中にある要塞で守られている、という意味があります。どんなに敵からの激しい砲撃があっても守られている、ということです。そして、それはまず、「信仰」によって守られています。信仰は、非常に重要な要素です。天における資産も、新たに生まれたことも、イエス・キリストの死者からの復活も、みな信仰によって、それを実質化させていることができています。神のみことばへの信仰がなければ、すべてが崩壊してしまいます。けれども、それだけではありません。「神の御力」によって守られています。自分の信心深さによって、天にある資産を守っているのではなく、神の御力によって、私たちの信仰も保たれ、健全でいることができます。

 そして、「終わりのときに現わされるように用意されている救い」というのは、主イエス・キリストの再臨です。主が空中にまで来られることによって、私たちのからだが贖われます。また、主が地上に再臨してくださることによって、この世界の贖いが完成します。ペテロは手紙の中で、終わりがあり、主イエス・キリストの現われがあり、それが接近していることを前提にして、この手紙を書いています。主の現われを思いながら、日々を生きていくように促しています。

2C 信仰の試練 (現在) 6−9
 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。間もなく、主が戻ってこられて、救いが現われて、天にある資産を受け継ぎます。このことを思えば、大いに喜びます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 信仰の試練です。私たちには、本当に神がおられるのかと疑いたくなるような、悪いことが自分の身に起こります。その試練や苦しみに対して、ペテロは処方箋を与えています。一つに、それは、「しばらくの間」だけだ、ということです。黙示録2章のスミルナの教会の人々にも、牢屋に入れられる期間が10日であると主が言われて、試練が長く続かないこと、終わりがあることを告げられました。しばらくの間だけです。

 そしてもう一つの処方箋は、試練によって、私たちの信仰にまとわりついている、不純物が取り除かれることです。「火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって」とペテロは言っています。金が火に通されるときに、金粕が出てきます。同じように、私たちのうちや回りにこびりついている不純物が、試練によってきれいに取り除かれるのです。ヤコブの手紙では、「試練にあうときは、大いに喜びなさい。」と勧められました。そして、その精錬された信仰によって、主が現われてくださったときに、大いなる栄光と光栄を受け取ることになります。

 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 

そうですね、私たちはイエス・キリストを見てみないのに、愛しています。また見ていないのに、信じています。そして、言葉に言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれます。もし、そうでなければ、少し救いについて、自己点検しなければいけませんが。主がよみがえられたこと、今も生きておられること、そしてまた現われてくださることについて、それを信じているのであれば、結果として、大いなる喜びに満たされます。

3C 預言者による啓示 (過去) 10−12
 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

 これまでペテロが説明した、生ける望みについては、過去に旧約時代の預言者たちに啓示されていたものでした。彼らのうちにキリストの御霊がおられたとありますが、旧約聖書には、キリストについての預言がたくさん、書かれています。けれども、預言者たち自身は、自分が語っていたことについて、それが本当にはどのような意味なのか、理解できないままでいました。例えば、ダニエルは、御使いたちから幻が与えられていましたが、「幾日かの間、病気になったままでいた。起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。(ダニエル8:27)」とあります。

 「キリストの苦難とそれに続く栄光」とありますが、旧約預言には、キリストが苦しみを受けられることについて、多くの預言があります。けれども、全世界を治められる栄光の主とは異なっているので、どのようにしてこのような預言が成就するのかを理解することができませんでした。けれども、今、イエスさまが、十字架にかけられて、そしてよみがえり、天に昇られて、神の右に座しておられることを知っている私たちは、預言者たちが語ったことばを、理解することができるのです。

 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。

 イエスさまが弟子たちに言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16−17)」使徒たちが聖霊によって啓示を受けて、その福音を私たちは聞き、そして信じています。これは、旧約の時代に預言者たちが見たいと切に願っていたものだったのです。私たちは特別な時代に生きています。

 それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

 御使いは、天において神に奉仕している霊ですが、非常に大きな関心を持っていたことでしょう。自分たちがいるところに、これら罪を犯して、堕落している人間が、どのようにして贖われるのか。どのようにして、神の恵みが働くのかについて、興味深々だったことでしょう。旧約時代には、人々はパラダイスの中に、第三の天の中に入ることができませんでした。贖いが完全に行なわれたわけではなかったからです。けれども今、神の恵みが明らかにされて、人はキリストによって、そのまま天国に入ることができます。

2A 聖なる生活 13−25
1B 恐れかしこむ生活 13−21
1C 聖なる方 13−16
 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 ここから、聖い生き方をペテロが奨励しています。イエス・キリストが現われて、私たちは天に引き上げられるという、大いなる恵みをいただくのですが、それを大いに喜んで、期待して待ち望みます。と同時に、私たちは、「心を引き締め、身を慎み」ます。心を引き締めるとは、自分の意思をしっかりと持っていて、生活のあらゆる領域で、神が願われている聖い生活を選び取っていく用意です。能動的であって、受動的であってはいけない、ということです。自分が、肉の欲望や、世の誘惑について、なんとなくふわっとした気分でいるのではなく、いつも心を見張り、御霊に導かれる意思を持ちます。

 従順な子どもとなり、

 従順な子どもは、親が言うことに、自分がしたくないという気持ちを持っていても、聞き従います。同じように、神の言われることに対して、従順な子どものようでいます。

 以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

 「無知であったときの」とありますが、神に出会うまでは、私は、聖く生きることについて、まったく無頓着でした。クリスチャンになって、これまで当たり前のようにやっていたことが、当たり前ではないことに気づき始めましたが、それは以前は無知であったからです。

 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

 先ほど、私たちは選ばれた人々と呼ばれていましたが、その私たちを選ばれて、召してくださった方は、罪や汚れから隔絶したところにおられる、聖なる方です。この方にならって生きるので、生活のあらゆる領域において、聖さを選び取っていきます。

 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

 これはレビ記からの引用です。レビ記を私たちは土曜日に学びましたが、そのテーマは、「聖(ホーリネス)」でした。

2C キリストの血による贖い 17−21
 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

 主が戻って来られて、また、父なる神が千年王国の後に、白い大きな御座において、ひとりひとりにさばきを行なわれるとき、そのさばきは、公平なものです。神に取り入ることはできません。これを、今流行の言葉を使うと、「アカンタビリティー(accountability)」です。自分が行なっていることには、説明をする責任が生じる、ということです。自分が行なったことのその一つ一つが、後で責任と問われます。このようなことを思うときに、私たちは、父なる神を恐れかしこんで生きることになります。

 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 私たちは、神によって贖われたこの命を、無駄にしてはいけません。それは、非常に尊い代価が、その贖いで支払われているからです。金や銀よりも尊い、キリストの血がその代価でした。キリストは、「傷もなく汚れもない子羊」のようなものであるとペテロは言っていますが、これは旧約聖書に出てくる、いけにえのための子羊の条件です。神に受け入れられる、動物のいけにえは、しみや傷、また欠陥があってはいけませんでした。「」というのは、生まれたときから存在している障害です。「汚れ」あるいは「欠陥」は、生まれた後で受けた外傷です。そのどちらもあってはいけませんでした。イエスさまは、聖霊によってお生まれになったので、罪を宿しておられなかったし、また、その生涯、一度も罪を犯したことがありませんでした。この尊い方のいのちが注がれ、血が流されました。

 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。

 神は、この世の始まる前から、人間が罪を犯して、全世界に罪と死が入りこむことを知っておられました。そこでキリストにある贖いを、世の始まる前から考えておられました。

 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

 キリストの復活も、また神の右の座に着かれるまでの栄化もみな、父なる神が行なってくださいました。ですから、私たちの信仰と希望は、この神にかかっています。

2B 熱い兄弟愛 22−25
 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

 真理のことばに従って、私たちは新たに生まれました。その結果、私たちには、たましいの清めが与えられます。新たに生まれる、というとき、それは私たちの霊にキリストのいのちが結ばれることを意味しますが、私たちの思い、あるいはたましいは、霊にしたがって、新しくされる必要があります。

 私たちは、兄弟に対して、たといその人が、自分が大嫌いな性格の人でも、愛することができます。それは新たに生まれた、新しい神の性質が与えられているからです。私たちは、兄弟に対して悪い思いや、ねたみ、憎しみを抱いているのであれば、それを退けて、兄弟愛で愛さなければいけません。それは自分の努力ではなく、主の御霊に従うことによってできます。

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 私たちは、神のみことばによって新たに生まれました。イエスさまが、四種類の土のたとえを話されましたが、良い土地に落ちた種が、数十倍の実を結びます。キリストについてのことばを聞いて、私たちは信じ、救われました。

 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

 神のことばは生きていて、永遠にかたく立ちます。人の栄光は、ここに書かれているように過ぎ去っていきます。ですから、神のことばを乳飲み子のように慕い求めなければいけないと、ペテロは2章から話しています。

 けれども、このように、神のみことばによって、私たちのたましいが清められ、そして品性が練られます。みことばに従うことが必要です。信仰の試練によって、信仰がさらに精錬されるように、神のことばへの従順によって、私たちの品性が練られます。

 こうして、生ける希望について、私たちに約束されている大いなる約束と、また残された日々とどのように過ごさなければいけないか、その両方を見てきました。


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