1ペテロ1章1-9節 「言葉に尽くすことのできない喜び」"Joy Unspeakable"

アウトライン

1A 血の注ぎかけ 1−2
2A キリストのよみがえり 3
3A 天にある資産 4−5
4A 終わりの日の栄光 6−7
5A 信仰の結果 8−9

本文

 私たち人間には、いつもお祝いが必要です。そしてお祝いの中で、歌をうたうことが多いですね。新しい年を迎えるにあたって、例えば日本では紅白歌合戦がおおみそかにあります。キリスト教会では、私たちは実に毎週、お祝いをしています。日曜日、教会で礼拝をささげるときは、そこには歌があります。それは、私たちの心のうちに湧き上がるような大きな喜びがあるからです。ペテロの手紙第一1章1−9節をお読みしたいと思います。

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 8節に、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とありました。私たちは、イエス様を肉眼で見ていないにも関わらず、まるで目の前で見ているかのように愛しています。歌謡曲では、自分の愛する人がいなくなったことを悲しんでいる歌が多いですね。キリスト者には、そのようなことがないのです。目で見ていなくても愛して、喜んでいます。そして、その喜びは「ことばに尽くすことのできない」喜びなのです。「栄えに満ちた喜び」ともあります。爆発的な喜び、ちょうど、野球やサッカーなどで、自分の応援するチームが最後に点数を入れた時の喜びです。なぜ、そのように喜びに満ちたお祝いをすることができるのでしょうか?その理由を一つずつ見てみたいと思います。

1A 血の注ぎかけ 1−2
 一つは、「キリストの流された血」があります。2節にこう書いてあります。「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」血の注ぎかけを受けるように選ばれた、とあります。

 私たち人間に喜びをなくしていくものは、私たちのうちにある罪です。オリンピックで金メダルを獲得した選手が、後で賞を剥奪されるときがありますね。薬物を使ったことによって失格になります。せっかく厳しい大学受験を受けた学生が、合格してから不正は発覚して、大学に入れなくなります。せっかくの喜びが、たった一つの過ちによってなくなってしまいます。聖書には、私たちの人生そのものに罪があるために、喜びではなく悲しみが、命ではなく死があることを教えています。

 罪に対しては、私たちは対価が必要です。罪に対してきちんとした処罰が必要です。日本語には、過ちに対して「水に流す」という言い回しがありますが、私たちは本当にそのようなことができるのでしょうか?なぜ、多くの人が凶悪な事件に対して死刑を求めるのでしょうか?その罪が処罰されることなくして、私たちの心にある正義への叫びが消えることはないからです。聖書にははっきりと、「罪を犯した者は死ななければならない」とあります。血を流すというのは、つまり死ななければならない、ということです。

 けれども神は、なんとかして赦したいと願っておられます。その罪を取り除きたいと願っておられます。けれども、罪は裁かれなければいけません。それで、神は身代わりになるものを備えてくださいました。

 それは動物でした。牛や羊などの家畜が選ばれて、それを屠りました。「注ぎかけ」という言葉を聞けば、私たちは手に少しだけ血をつけて、それをかけるように感じます。けれども、当時のイスラエルはそんなことをしません。牛や羊の喉をかき裂きます。血がバケツにいっぱいになるぐらいたくさん出てきます。それを、祭司が祭壇の側面に一気に注ぎかけるのです。そしてその動物は、その祭壇の上で火で焼きます。

 ここでイスラエル人は、自分の罪が完全に赦されたことを知るのです。自分が牛や羊のように、血を流して死ななければいけなかった。そして祭壇の上で焼かれるように、自分も神の裁きをうけなければいけなかった。けれども、神はこの犠牲をもって自分の罪を赦してくださったのを深く知るのです。

 ダビデという王は、姦淫の罪と殺人の罪を犯しました。それをずっと隠していましたが、ついに罪を告白しました。その時に神から赦されたことを聞きました。それで彼は心の中にある平安を語りました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32:12

 みなさんが今、心に良心の咎めがあるならば、神はそれをいっさいきれいにしてくださいます。神はついに、動物ではなく、ご自分の独り子によって罪の赦しを与えてくださいました。イエス様が流された血は、ものすごいものでした。血が、むち打たれた体中から、また釘打たれた手と足から出てきました。十字架というむごい死によって死んだのです。その血を見る時に、私たちはこれまで犯してきた罪がそこですべて洗われたことを知るのです。

 十字架は根本治療です。私たち日本人は、体を水で清くして自分の悪いことをきれいにするという習慣はありますが、それはまるで癌にかかったのに、痛み止めの薬を飲むようなものです。血がほとばしり出るキリストを見る時に、私たちはこれまでのどうすることもできなかった罪が洗い清められたことを知るのです。

2A キリストのよみがえり 3
 そして私たちが、喜んで歌っている二つ目の理由を見たいと思います。それは、「キリストのよみがえり」です。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

 私たちキリスト者がなぜ、キリストを肉眼で見てもいないのに、そんなに愛していられるのでしょうか?「なぜずっと前に死んでしまった人を、まるで今、生きているかのように愛して、歌っているのですか。」と思うかもしれません。いいえ、「まるで今、生きているかのように」ではなく、事実、今、イエス・キリストが生きているから、これだけ喜んでいられるのです。

 イエス・キリストは墓から出てきました。これは歴史的な事実です。イエス・キリストが、何か人が造り出した神話であるかのように多くの人が思います。おもしろいですね、私はそう話す人にこう尋ねます。「あなたは豊臣秀吉がいたことを信じますか?」そうすると、「当たり前じゃないですか」と答えるでしょう。そして私は聞きます。「どうして豊臣秀吉が生きていたことを信じられるのですか。見てもいないのに。」そうすると、「そりゃあ、教科書に書いてあるから。」教科書に書いてあることは、みんな事実なんでしょうか?もちろん、豊臣秀吉が生きていたことは、数多くの文献、そして大阪城などの遺跡があるからです。イエス・キリストについての文献は、おそらく豊臣秀吉についての文献に匹敵、いやそれ以上あるでしょう。そしてイスラエルに行けば、イエス・キリストについての遺跡は至るところにあります。イエスの墓もあります。可能性のあるのは二つありますが、一つにはその中に入ることもできます。中には遺骨はあります。そして看板にこう書いてあります。「イエスはここにはいません。よみがえられたのです。」

 イエスが生き返ったという証言の文献が確かに存在します。そして、それを殺される脅しを受けても決して否定しなかった多くの信者がいます。なぜ、創作した話のために人は死ぬことができるでしょうか?そして、数多くのキリスト者が単なる心休めではなく、事実、自分が変えられたという証言を持っています。私は、鬱で高校生の時に苦しみました。けれども、大学に入って、イエス様を自分の心に受け入れて、それがなくなりました。沖縄から最近、東京を訪問したクリスチャンは、二百万円近い借金を賭け事によって作ってしまいました。けれどもイエス様を心に受け入れて、自分の手で働いてそれをすべて返済しました。アメリカでであったクリスチャンは、その多くが麻薬中毒者でした。ある人は牢屋に何年もいた犯罪者でした。ところがイエス様を信じて、完全に直ったのです。どうして、自分の心の中で作りあげたものであれば、単なる気休めであれば、そんな力を持っているのでしょうか?イエス様が確かに、信じる者たちのうちに生きておられるからです。

3A 天にある資産 4−5
 そして私たちが喜んでいる三つ目の理由は、「天に資産が蓄えられている」ということです。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

 私たち日本人は貯蓄することが好きですね。実に、日本人が貯蓄してばかりいるので、お金が流通することがなく、日本の経済がだめになっているとも言われています。最近のテレビの傾向を見ますと、どのように節約するのかという話が多くなっています。お金だけでなく、健康もそうでしょう。テレビ番組食べ物の話ばかりですが、また健康についての話がたくさんあります。けれども、私たちがどんなに健康になっても、どんどん衰えていって、いつか死ぬのです。日本は世界一の長寿国ですが、その分、二人に一人が癌にかかっている癌大国でもあります。

 いろいろなものを貯めるのが好きなのです。けれども、それは朽ちてなくなっていくものです。イエス様がこう言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:1921」天に貯めるものは、朽ちることも、傷になることも、また盗まれることもありません。

 だから、私たちは最も大切なことに投資することができます。東北の津波の被災地で働いている奉仕者の一割以上がキリスト教会関係者だと言われています。その多くが外国人の人たちです。どうして、そんなに時間とお金をかけることができるのでしょうか?原発事故が起こった後は、クリスチャンではない人は成田空港から逃げて帰り、クリスチャンの人は成田空港に到着して、東北に向かったと言われています。なぜそんな違いが出てくるのでしょうか?それは、苦しんでいる人々を助けるということで、事実、天に宝を積んでいることを知っているからです。地上でどんなに豪華な家を建てても、高級車に乗っても、それらはなくなってしまうものだと知っているからです。けれどもキリストの愛を東北の人々に示していくのは、永遠に天に残ることを知っているからです。だから私たちには喜びがあります。いやいやながらではなく、喜んで自分の時間と労力を費やすことができるのです。

4A 終わりの日の栄光 6−7
 そして私たちが喜んでいられる四つ目の理由は、「終わりの日に、イエス・キリストが地上にまた戻って来る」ということです。5節から7節に書いてあります。「5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 聖書は終わりの日が来ることを教えています。終わりの日に近づくにつれて、世の中がどんどん悪くなることを教えています。数多くの戦争、地震、疫病、飢えなどは、すでにイエス様がこれらのことは世の終わりの前兆に過ぎないと言われました。今、世界ではこれまでの歴史で見ない大きな試練にあっています。それにしたがって、人生において悲しみを持つ人々が増えてきました。津波での被災者もそうでしょう。経済危機によって、今の生活に困っている人々も多いです。社会がどんどん閉鎖的になって、それで肉体的、精神的な病にかかる人も増えてきました。犯罪が多くなり、その被害もふえています。

 しかしこれらの中にあってなおも喜んでいられる、試金石のような力を持つことができることを聖書は教えています。「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊い。」と教えています。人は苦しみによって、悲しみと絶望を増やすこともできますが、その反対に、はじめて人間性を取り戻すことができる機会ともなります。物が豊かにある時には埋もれて隠されていた、人間の生きる意味が試練によって掘り起こされるのです。

 聖書には、ヨブという人物がでてきます。彼は、莫大な財産をもっている人でした。けれども、それ以上に神を敬っている人でした。ところがその彼に、一気に家畜や奪われ、そして自分の息子と娘が死ぬという災難にあいました。そして最後は、重い皮膚病にかかり、体中がかゆくてたまらない状態になりました。けれども、彼はそのことを通して最後に、生きている神がおられること、神にしかすべて起こっていることがわからないことを、神の前で告白しました。そうしたら神は彼を癒してくださいました。そして、彼には以前にもまして数多くの家畜とまた子たくさんに恵まれました。

 このヨブの物語を読んで、過酷な人生を乗り越え、多くの人に励ましを与えている人がいます。北朝鮮に自分の娘が拉致された、横田めぐみさんの母親、横田早紀江さんです。彼女は娘がいなくなってからしばらくして、知り合いのクリスチャンにヨブ記を読んでみてと誘われて、次のことばを読んだのです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21」与えられることだけなく、取られるという経験も、神はご自分の計画に入れておられる、ということを悟ったのです。ゆえに彼女は、とてつもない苦しみの中にいても、私たち日本人に希望を与える言葉を残すことができるのです。

 一番、悲しい出来事は何と言っても人の死でしょう。明治時代に、内村鑑三という人が生きていました。彼は自分の娘ルツを18歳にして亡くしました。けれども彼はキリスト者で、娘さんも信仰を持っていました。彼は彼女の棺桶の前でこう発表しました。「今日は、ルツの葬式ではありません。キリストとの結婚の日であります。」そして、彼女を送り出す時に彼はなんと、こう叫んだのです。「万歳!」彼の爆発するような喜びが、そこにはありました。彼女が死んでもまた生き返るという希望があったからです。人生の試練の時に、キリストにはなおも大きな希望を与える力があるのです。

 イエス・キリストは、この悪くなった世を刷新するために戻って来られます。そして、すべての悪を取り除いて、正義と平和の世界を造ってくださいます。試練の中にあっても、なおのことその信仰が練り清めれた者たちには、最後の日に光栄と栄誉と称賛を受けるように約束されています。ゆえに、キリスト者は試練の中にあっても、むしろ真の喜びと平安を手に入れることができるのです。

5A 信仰の結果 8−9
 こうした四つの理由、キリストが血を流された、キリストがよみがえられた、天に資産が蓄えられている、そしてキリストが戻って来られる、という理由をもって、8節にある次の喜びを持つことができるのです。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」なぜカラオケ・ボックスに行かずとも喜んで歌っていられることができるのか、お分かりになったかと思います。なぜ、毎週日曜日に、そして今こうやって喜んで歌っているのかがお分かりになったかと思います。

 そして、この喜びはすべての人に提供されています。心からイエス様を、自分の人生の主として受け入れるならば、この方が事実自分の罪のために死なれ、そしてよみがえられたことを心から受け入れるならば、この言葉に尽くすことのできない喜びが心の中から湧き上がります。

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