「ミニストリーの基本」 − 祭司の務め 1ペテロ2:4−10

アウトライン

1A 選び
2A 聖別と礼拝
3A 奉仕
4A 賜物
5A 人の弱さ
6A 恵みと祝福

本文

 今回は、「ミニストリーの基本」をペテロ第一24-10節の聖書箇所を基本にして、いろいろな箇所から聖書にあるミニストリーを学んでみたいと思います。
 

4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

 ペテロの第一の手紙は、迫害下にあるキリスト者に書かれている手紙で、主にユダヤ人信者を意識しているものです。そこで極めて旧約聖書にある祭司制度を意識した書き方をしています。ここでは祭司の務めについて書いていますが、それがキリストにあって信者すべてが祭司であるという真理を教えています。

 9節にある「あなたがたは・・・王である祭司」という言葉から、かつてカトリックの司祭階級制度に抗議した宗教改革者ルターは、「万人祭司」という考えが聖書の真理であると主張しました。その時に取り上げられたのがここの聖書箇所です。当時は、効果的に祈ることも、罪の赦しを得ることも、神父あるいは司祭と呼ばれる職分にいる者だけが行なうことのできる働きであり、彼らを通してでなければ、神とキリストに近づくことはできないと教えていました。けれども聖書は、仲介者は唯一イエス・キリストのみであり、この方によってそのまま、父なる神に近づくことができると教えています。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5

 ところが近年のキリスト者には、極めて変な動きがあります。それは、「自分はイエス・キリストによって直接、神につながることができるのであるから、牧師は要らないし、教会制度も必要ない。信者らが集まれば十分だし、いやキリストがおられればそれで十分だから自分独りで神に礼拝を捧げることができる。」というものです。この考えは何と例えたらよいでしょうか、「現代文化にキリストの名を取ってくっつけただけ」と言ったらよいでしょう。数メートル先にいる相手に対しても携帯メールでしか対話することのできないような、極めて孤立した社会に埋没している自分がいることを示しているにしか過ぎません。

 「万人祭司」というのは、個人が神に直接つながることができる、という考えではありません。旧約時代において、祭司が幕屋に入って、血による贖いによって神に近づくというのは当然の奉仕でありました。それが祭司の働きの目的ではなく、そこで受けた神の恵みをイスラエルの民に分かち合っていくことが目的なのです。神に仕え、そして神から受けたものを人々に分かち合っていくことがその主な任務であり、自分自身だけが神に近づくことではないのです。

 したがって「万人祭司」とは、いやペテロがここでキリスト者らを「祭司」と呼んでいるのは、旧約時代の祭司の務めを、キリスト者全員が、一人一人が責任を持って果たしていくということであります。「教会は牧師が行なっていくもの」であるとか、「教会は一部の献身している人々が行なっていくもの」という考えとはほど遠い、自分がまさに共同体の当事者であり、また「キリストの体」とも言われているのです。各部分が体の器官として機能しているのであり、キリストと自分だけでなく、キリストを信じる他者との結びつきが絶対的に必要なところであります。

 「ミニストリー」という言葉を教会に通い始めると聞くようになる外来語があります。私自身も、1997年に「ロゴス・ミニストリー」という、聖書を教える働きを立ち上げたのですが、そもそも「ミニストリー」とはどんな意味なのでしょうか?日本語聖書には、さまざまな翻訳があてがわれています。これは、今お話しましたように旧約聖書の祭司制度で使われていた言葉です。神の栄光がとどまる幕屋また神殿において、祭司が聖所の中に入って神に仕えることを、「神に対してミニストリーをする」と言います。そして、これが一つの任務あるいは職分として行っていたので、「務め」と訳されているところが数多くあります。これは新約聖書においても同じであり、使徒たちの福音宣教の「働き」をミニストリーと呼びます。「務め」と訳されることが多いです。また、教える奉仕が「教えるミニストリー」とも呼ばれます。教会のために物質的な面で奉仕することも「ミニストリー」と呼ばれています。

 総じて言うと、ミニストリーとは基本的に「仕える」ことです。そして、単に奉仕するだけでなく、神から与えられた責務として行っていく「任務」あるいは「務め」であります。責任が伴うものであり、管理するという面もあります。ですから、自分の都合の良いときだけ、気が向いたときだけ何かを手伝うことはミニストリーではありません。また、自分のやりたいという漠然とした気持ちではなく、せずにはおられないという使命感の伴ったものであります。その反面、人に言われているから機械的に行なっているというのも、決して奉仕ではありません。

 これは、祭司が聖所の中に入って、主の栄光にまみえることができる、光栄に満ちたものです。そしてその恵みを人々に分かち合っていくという喜びがあります。自分がまさに、キリストと他の人々との仲介になることです。神から与えられた賜物を用いていくことによって、人々がキリストのすばらしさと恵みにあずかっていくという、祝福に満ちた働きです。もちろん、一人一人がキリストによって神にそのまま近づくことができます。けれども、その恵みのすばらしさが、他の信者に与えられた賜物による奉仕によって、ますますはっきりと見えてくるのです。

1A 選び
 出エジプト記28章を開いてください。「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。(出エジプト28:1」旧約時代における祭司職は、厳密にレビ族のアロン家系に定められていました。他の者がその務めを行なうことはできませんでした。ヘブル書51節には、「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。」とあります。

 初めに、ミニストリーを行なう者には「神の選び」が必要です。「神の召し」と呼んでもよいでしょう。自分が適当に選んで行なうものではなく、神から「これを行ないなさい」と呼ばれて行なうものであります。イエス様も弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、・・・(ヨハネ15:16」このように話すと、必ず来る質問があります。私自身も抱いていた疑問でした。「どのようにして、自分が選ばれたことが分かりますか?どのようにして召しを知ることができますか。」というものです。

 そのことをお答えする前に、「どのようにして救われたことが分かりますか?」とお聞きしたいと思います。「その救いの確信を、分かりやすいように説明してください。」と尋ねるとします。極めて難しい返答になると思います。なぜなら、それは確信であって、神の救いの真理に対して、「そのとおりです、アーメン」としか答えることのできないものだからです。救いそのものが、聖書では「神の選びと召し」によるものであることを教えています。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8:30」確かに自分がイエス・キリストの救いの道を選び取ったのかもしれません。けれども、神のみこころによって救いへと招き入れられたのでなければ、自分は決して選び取っていなかったのです。

 救いへの召しと、何かの働きをする時の神の召しは似ています。神の召しは、すでに自分の願いと志の中に存在しています。ピリピ213節にはこうあります。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13」主との交わりの中で自分の願っていること、自分が志していることが、実はすでに神が与えてくださったものであることが多いです。

 私がロゴス・ミニストリーを始めたきっかけをお話しますと、大学生時代にイエス様を信じました。そのときから当たり前のように、自分の信仰のよりどころである聖書を知りたいと思っていました。それはキリスト者として当たり前だと思っていました。そしてカルバリーチャペルに出会いました。チャック・スミス牧師が創世記から黙示録まで教える働きをしておられ、そのテープを聞きました。けれどもチャック・スミス牧師だけでなく、他の多くの聖書教師による資料が英語には豊富にありました。それを、拙いかもしれないけれども、とりあえず他の人々にも分かち合ってみようか、と思ったのかきっかけです。ペテロがイエス様に「網を下ろしなさい」と命じられて、とりあえずやって見た、という類のものでした。

 そして、どこに行っても何をしようとしても、結局、聖書の教える奉仕をしていました。自分が計画したわけでもなく、とにかく「聖書のこの箇所には何が書いてあるのか」というのがいつも心の中にあります。その情熱が神から来たものであり、主が与えておられたものだからです。

 そして、自分の使命感の中にも神の召しは存在します。「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16」自分が一つの奉仕をしても、「こんなにやったのに、どうして報われないのか?」という疑問が起こりません。当然、これは行なうべきものだという意識があります。けれども、周りの人々はそれを行なっていません。実は、この切実感は神が自分に対して与えられたものであり、神の召しであることを知るのです。

 預言者エレミヤは、神から御言葉を語りなさいと命じられました。けれども、聞き入る者はおらず、むしろ彼に反対し、迫害する者ばかりでした。けれども彼は語り続けたのですが、その思いをこう表現しています。「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20:9」このような切実な思いが神の召しによって与えられています。

 ですから、神が恵みによって与えておられる信仰を調べてみてください。何でこんなことを思っているのだろう?どうして情熱を自分は抱いているのだろう?自分ではなく、神の恵みによって与えられた願い、志、また使命や重荷が存在するのです。

2A 礼拝
 そして祭司の務めというのは、礼拝そのものでした。幕屋の中、また神殿の中に入って主に礼拝をささげることそのものが、彼らの職務でした。初めの奉仕をするのに任命式があります。出エジプト記291節をご覧ください。「あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。」「聖別」という言葉が使われていますね。彼らは初めに、幕屋の入り口のところで、水で全身を洗います。それから装束を身につけます。そして、今読みましたように、雄牛のいけにえを捧げます。それは罪のためのいけにえです。それから雄羊のいけにえを捧げます。それは、全焼のいけにえです。つまり、自分の罪の告白をして、また自分自身を主に明け渡すという決意をするのです。

 それからもう一頭の雄羊をほふります。その血を、右の耳たぶと右手の親指と、右足の親指につけます。それは自分の聞くもの、自分の行うこと、自分の進むところすべてが、血によって清められるためです。自分が、主からの声を聞き分けることができるように。また自分の行なうことが、自分の思いではなく、主の思いからのものであるように、そして自分の行くところが主が願われている道であるように、いけにえの血によって聖め別ってもらうのです。そしてその雄牛の胸肉は煮て、食べます。他にもパンを添えて主に捧げますが、それも食べます。

 その後、祭司が行なうことは、もっぱらイスラエルの携えてきたいけにえの動物をほふり、その一部の肉やパンを食べることです。聖なる所でパンを食べるのです。レビ記6章には、それはもっとも聖なることであると書いてあります(1617節)。つまり、主への礼拝と奉仕は切り離すことのできないものでした

 つまり、祭司の務め、ミニストリーを行うことは、私たち自身が流された犠牲の血によって清められたこと、それによって専ら神の所有のものとなったことを知っている必要があります。自分の行うことすべてに、自分の罪のために流してくださったイエスの血があるという意識がなければいけません。奉仕の務めを行なっている中で、ますます主への献身が深まり、主のすばらしさとその恵みを知ることになるのであれば、それは真のミニストリーです。もし、主への思いが奉仕をすることによって薄まり、礼拝の妨げになっているのであれば、それはもはやミニストリーではありません。「奉仕」が「礼拝」と切っても切り離せないものなのです。

 パウロは、自分の働きがますます認められるようになったときに、彼は自分が優れているとうぬぼれることはありませんでした。むしろ、神の恵みと憐れみの深さを知るようになりました。彼はそれで「罪人のかしら」と呼んでいます(1テモテ1:1215)。

 そして出エジプト記281節には、「彼らを祭司としてわたしに仕える」とありました。ミニストリーの対象相手は、究極的に主ご自身であります。パウロとバルナバが宣教旅行に行くことを示されたときに、「彼らが主を礼拝し、(使徒13:2」とあります。そこは言い換えれば、「彼らが主に対してミニストリーを行ない」と言い換えることができます。私たちが仕える相手を人間にすれば、必ず私たちは落胆します。相手は、自分の期待するようには反応してくれないからです。自分が主に仕えている、主の前でこの奉仕を行っているということを忘れてはいけません。

3A 奉仕
 そしてミニストリーは、仕えることであり、奉仕である、ということも忘れてはいけません。主から命じられたことをことごとく行なっていくのです。自分の好きなこと、自分の願っていることを選んで行なっていくのではなく、あくまでも忠実であることが求められます。レビ記には、会見の天幕における祭司の奉仕が詳しく書かれています。そこには人が行なったことや、人の物語がほとんどありません。そうではなく、主が行ないなさいと命じられたことだけが書かれています。

 その中に、人間が神の働きの中に立ち入っている異様な場面があります。10章です。「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。(10:1-2」自分がこれで良かれと思ったこと、自分の判断で行なうところには、神は働かれません。いや、この「異なる火」の事件では、神の恵みの栄光の火が彼らを裁く栄光に変わってしまったのです。

 私が最近、苦しみについての説教を行いました。その後で、「12歳の少女で、強姦された後、殺されたという事件があったが、その子はイエス様を信じてはいなかっただろう。そのような時に、人からその子はどうなったのか聞かれたとき、どうすればよいのか。」と尋ねられました。すると、あるクリスチャンがこう答えました。「そのような場合には、彼女は天国に行っているでしょう。」私はその後ですぐに答えました。「福音の務めを担っている者として、彼女が天国に行ったという判断をすることは決してできません。神であられるイエス様でさえ、生まれつきの盲人がどうしてそうなったのかその判断をなされなかったのです。」主の御言葉で言っていないところに立ち入れば、それがいかに私たちの思いや気持ちに合致していたとしても、福音の真理の中にある神の栄光を奪い取ってしまうのです。しもべに徹しなければいけません。

 祭司の務めのすばらしさは、その黙々と働くところにあります。「主が命じられたとおりにした」という言い回しが何度も出て来ます。その結果、主ご自身の栄光が人々に現れて、みなが主の前にひれ伏すのです。この異なる火の事件の直前にはこう書いてあります。「ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。(9:23-24」私たちが何を行ったかなど、まったく意味がないのです。主に対して忠実であることだけが求められます。

4A 賜物
 そして神への奉仕においては、必ず神ご自身がそれを行うための能力を授けてくださいます。出エジプト記31章を開いてください。「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。(2-5節)」幕屋の設計には、極めて細かい加工が必要ですが、神の御霊が二人にその知恵と知識を授けてくださる、ということです。

 キリストが同じように、教会に賜物を授けてくださいます。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、(エペソ4:11-12」これは教会の指導者に与えられる賜物です。キリストのからだを建て上げるために、聖徒たちが奉仕の働きをするのと手助けします。そして、ローマ12章には教会の機能的な働きをするための賜物が列挙されています(68節)。そしてコリント第一12章には、もっと超自然的に働く御霊の賜物が記されています(1コリント12:810)。これらの賜物を熱心に求めなければなりません。なぜなら、主のからだが賜物によって建て上げられていくからです。熱心に主に仕えるには、聖霊の賜物が必要です。

5A 人の弱さ
 そしてミニストリーにおいて、極めて大切な要素があります。それは、「人の弱さに仕えていく働きである」ということであります。ヘブル人への手紙の中に大祭司になる要件が書かれています。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。(ヘブル5:2」祭司は、人々の弱さを担いながら主の前に出て行きます。自分自身も弱いので、自分自身の罪のためのいけにえを携え、またイスラエルの民のいけにえの血も携えていきます。

 同じように、奉仕の務めにあずかる人は、まず自分自身にそれを行なう力がないこと、自分自身には資格がないという意識が必要です。それから、自分の働きは、弱い人、迷っている人、心が小さくなっている人を柔和な心で助けることにあることを知らなければいけません。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(ローマ15:1-2

 私たちは以前、英語を子供たちに教えていたことがあります。また外国人に日本語を教えていたことがあります。その中でなかなか学習できない子が必ずいます。けれども、このように互いに自戒して言い合っていました。「できない子がいることを嘆いていては、教師の務めを放棄したことになる。できないからこそ、教師なのだ。できない子ができるように助けるのが教師の務めだ。」同じように、人の弱さに私たちは仕えるのです。そして自分自身も弱いのでそれを思いやりながら仕えるのです。

6A 恵みと祝福
 そして最後に、祭司の務めは神の民に神の恵みと祝福を分かち合う働きです。祭司アロンは、イスラエルの民に祝祷をするように命じられました。民数記62327節です。「「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」」神に与えられた自分の働きによって、その人に神の御顔が輝くのです。その顔は怒った顔ではなく、微笑んでおられる顔です。その人を受け入れている顔です。神の祝福が残り、神の恵みが残り、そして神の平安が残ります。

 最後にペテロ第一14章を開いてください。先ほど2章で、私たちキリスト者が祭司であることを読みました。その延長でペテロはこう書いています。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。(1ペテ4:10-11」分りますか、奉仕というのは神の恵みの管理者であります。賜物を用いて神に仕えるときに、人々には神の恵みがとどまるのです。

 もし、私たちの奉仕によって私たち自身がキリストの恵みを忘れるのであれば、それは聖書的な奉仕と異質なものになります。そして私たちが働きをしていて、人々が疲れ果て、あるいは怒り、あるいは落胆するのであれば、その働きはもはや神からのものではありません。キリストの名があがめられるには、そこには恵みと平安、そして神の祝福に満ちたものになっているのです。

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