ペテロの手紙第一3章 「義のための苦しみ」


アウトライン

1A 無言のふるまい 1−7
   1B 妻の従順 1−6
   2B 夫の生活 7
2A 幸いなこと 8−22
   1B 祝福の召命 8−12
   2B 弁明の用意 13−17
   3B キリストの身代わり 18−22

本文

 ペテロの手紙第一3章を学びます。ここでのテーマは、「義のための苦しみ」です。私たちはペテロの第一の手紙で、「生ける望み」があるので、今の苦しみをも忍耐することができることを学びました。その中で私たちが身につけなければいけない姿勢として、「服従」がありました。人間の制度に従うこと。また主人に従うことがありました。その主人が横暴であっても、神の前での良心のためにこらえるなら、とても良いことであるとペテロは言っています。私は、自分がクリスチャンであるからと言って、不当な仕打ちを受けたときは、とてもいやな思いをします。けれどもペテロは、「喜びなさい。これは良いことであり、主に喜ばれることなのです。」と励ましています。

1A 無言のふるまい 1−7
 そして3章に入ります。ここでは、続けて服従について語られています。妻が夫に服従することについてです。

1B 妻の従順 1−6
 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

 パウロが手紙の中で、妻が夫に従うことについて話しましたが、ペテロも同じことを話しています。ただここでペテロは、「みことばに従わない夫」に焦点を当てています。未信者の夫であったり、また、信仰的に後退している人でもあるでしょう。そのような夫であっても、妻は服従しなさい、とペテロは言っています。横暴な主人であっても、しもべは従順に仕えなさいと言ったのと同じですね。

 なぜ従わなければいけないのでしょうか?「無言のふるまいによって、夫が神のものとされる」ためです。

 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

 妻がクリスチャンで、夫がクリスチャンでない場合は、とても多いです。その時に起こってしまうことは、クリスチャンである妻が、未信者の夫を、口で伝道することです。部屋の至るところにみことばを貼ったり、車の助手席で夫に証しをしたりします。面白いことを聞いたことがありますが、実際に初めにクリスチャンになった奥さんが、車を運転している旦那さんに証しをしていたら、横に顔をそむけながら、でも目は前方を向いて運転したとのことです。そして妻は、熱心に教会に通います。夫は一人家に取り残されたままです。こんな光景は、初めに妻がクリスチャンになったときに、よく出てくる場面です。

 けれどもペテロは、神を恐れかしこみ、とにかく良いことを行ない、妻としての義務をしっかりと果たし、そのような無言のふるまいによって、夫を獲得することができると勧めています。前回、異邦人の間でりっぱにふるまえば、自分がクリスチャンであることを馬鹿にするような人も、その実直さを見て、後で神を求めるようになることを話しました。同じように、妻も夫への服従、また良い行ないをすることによって、夫を神へと導くことができます。

 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

 女性が求めるものは、もちろん「美」です。自分が美しいことを求めます。ですから、化粧をしたり、ブランドもので身を包んだり、本屋で売られている女性雑誌は、ダイエット、エステ、流行の服など、外面の美しさを求めるものばかりです。けれどもペテロは、女性の本当の美は、内面にあるのだよ、と教えています。「柔和で穏やかな霊」がそれであり、心の中の隠れた人がらによって、自分を飾りなさいと勧めています。

 僕は、大学生になってからクリスチャンになりましたが、その時からしばしば感じていたことがあります。それは、「クリスチャンの女の人は、きれいだ。」ということです。ケバケバした化粧と、肌をたくさん出している服装の女の子たちが、キャンパスを歩いています。確かに、それは刺激的で、男の目を引きつけます。けれども、疲れます。心が疲れるのです。けれども、昼休みのクリスチャンの集まりのとき、祈りの時間に来るクリスチャンたちは、薄化粧で、身なりも慎ましいものでした。おそらく、ペテロがここで言っている、「柔和で穏やかな霊」を見たからだと思います。それは、神の権威に服し、また他の人々にも仕えるような、従うところから出てきている霊です。

 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。

 サラがアブラハムとともに、ウルの町を離れ、カナン人の土地で天幕生活をして、それから、ともに子が与えられるための約束を待ちました。その中でもちろん、ハガルをアブラハムに与えたりするという失敗もしましたが、けれども、このような信仰の旅路をするアブラハムに、生涯従っていったのです。

 あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。

 聖書の中で出てくる「子」は、ここに書かれているように、必ずしも血縁の子ではなく、「ならう者」とか「服従する者」と言い換えることがでいます。子が親の権威にしたがって、親を模範にするように、サラの例にならって生きれば、その人はサラの子になります。私たちは、信仰によってアブラハムの子孫と呼ばれているのですが、もしアブラハムがたどった信仰の歩みを模範としていなければ、本当の意味ではアブラハムの子孫ではないのです。女の人は、サラの夫にしたがう姿になれえば、サラの子と呼ばれます。

2B 夫の生活 7
 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

 聖書は、妻が夫に従いなさい、という命令だけで終わりません。必ず夫が妻を愛しなさい、という命令がいっしょになります。この二つがあって初めて夫婦生活は成り立つのであり、夫が棍棒を振りかざして、妻に従わせるような強権的な姿は、聖書には存在しません。

 夫は、第一に、「妻が、自分よりも弱い器」であることをわきまえなければいけません。自分よりも、肉体的に弱いのです。男はこのことをよく忘れます。しばしば、僕は夜更かししてしまうのですが、妻は途中で起こされると、後であまり眠れなくなってしまいます。こういうことを顧みなければいけません。そして第二に、「妻とともに生活」します。このことも、私は新婚当時、非常に悩みました。独身生活の中でいろいろしたかったことが、結婚するとできなくなったからです。けれども、もし妻とともに生活しなければ、何をもって結婚と言うのでしょうか?妻は妻の自分だけの楽しみを見つけて、その中で生き、夫は夫だけの世界があり、・・・では結婚ではありません。

 そして第三に、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」です。つまり、妻は、主にある姉妹でもあるということです。ともに永遠のいのちを受け継ぐ人なのです。ある牧師が、教会の中にいる、妊娠している女性には気づかって、いろいろ思いやることができたのに、妻が妊娠しているときは、同じような気づかいがなぜできなかったのか、という罪の告白をしているのを読んだことがありますが、夫がいつの間にか忘れてしまう点です。

 そして約束が、「祈りが妨げられない」とあります。これは、僕はよく理解できます。妻とともに生活していないと、彼女を尊敬していないと、彼女を弱い器だとおもっていたわっていないと、必ず、話し合い、あるいは議論、もっと悪くなると口論が起こります。当然です。僕が軌道修正しなければいけないのですが、そのために、祈りの時間が少なくなります。話し合いの時間で費やされて、祈る時間が少なくなるのです。ですから、祈りのためにも、妻とともに生活することを覚えなければいけません。

2A 幸いなこと 8−22
 こうして、具体的に、王に対して、主人に対して、また夫に対して従うことを勧めた後で、ペテロは、「幸いな道」について教えます。どのようにしたら、良い生活ができるのか、幸福な生活を営むことができるのかを教えています。

1B 祝福の召命 8−12
 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。

 心を一つにしなさい、という勧めです。一致というのは、全体のまとまりが一つになるように体裁を整えることではなく、ここに書かれているように、「同情」「兄弟愛」「あわれみ」「謙遜」に基づいています。相手を同情するときに、私たちは心をその人と一つにできます。兄弟として愛するときも、そうですね。何か悪いことをしていても、怒って、赦さないのではなく、あわれみをもって接するときに、人の心は一つにされます。そして自分がどのような存在なのかを認識し、高ぶらずに、謙遜でいるときに、心は一つにされます。

 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

 ペテロの手紙はずっと、「悪いことをされたらどうするのか」というテーマが貫かれていますが、ここでも、「悪には悪で報いず、侮辱には侮辱をもって報いず」とあります。そして、「祝福を受け継ぐために召された」とあります。これは面白いです。私たちは、自分がどのような召しがあるのか、悩むと思います。自分が教会の中でどのような働きがあるのかを考えるでしょう。けれども、そのような求めはとかく、自己実現のような、自分自身の可能性を求めるものになっています。けれども、聖書は、何のために私たちを召してくださっているのかを、はっきりと書いています。前回は、私たちは苦しむため、しかも不当な苦しみを受けるために召されたと書かれていました。ここでは、「祝福するために」私たちを召してくださっている、とあります。自分が人をどのように祝福しているでしょうか?神さまから呼びかけられているのは、「ほら、あそこにいる人を、ここにいる人を、祝福しなさい。」という言葉なのです。そこから私たちの召しが分かります。

 次にペテロは、詩篇34篇を引用します。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、

 幸いな日々を過ごしたいならば、悪口や偽りを語りません。ヤコブの手紙にもあった教えです。

 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。

 平和を求めます。争いやねたみの生活ではなく、平和を求めます。これもヤコブの手紙にありました。

 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。

 祈りについての大切な教えがここにあります。祈りをするときに、私たちが悪を企んでいたら、その祈りを神は聞いてくださりません。私たちの祈りは、主の御霊によって祈るものです。罪があるなら、まず罪の告白と、悔い改めから祈ります。そして主によって、思いを清めていただき、それから罪の責めがない状態で祈ることが必要です。

2B 弁明の用意 13−17
 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

 ここから再びペテロは、クリスチャンが、迫害を受けて苦しむかもしれない、またすでに苦しんでいることを念頭に入れて、語っています。人々が、自分がクリスチャンであることで、またキリストの証しをしたことで、からかわれたり、いやがらせを受けたとしても、自分が善に熱心であれば、その人たちは見直してくれるときが来ます。昔、戦時中の日本にて、思想犯として牢獄に入っている共産主義者やキリスト者がいましたが、看守たちは、面会に来るキリスト者、例えば牧師夫人の丁重な挨拶などを見て、ののしり返したりする共産主義者との違いに驚いたという記録があります。今でも同じです。からかったり、あざけたりする人がいても、本当に善に熱心であれば、非難すべきことがなくなるのです。

 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。

 たとえ迫害者が、善を行ない続けているのに迫害の手をゆるめないときも、その時は幸いだと思いなさいと言っています。ペテロ自身、迫害を受けたときに、それを幸いだと思いました。使徒行伝において、救いのみわざがエルサレムにて力強く前進していたときに、ねたみにかられた大祭司やサドカイ派の者たちが、使徒たちを捕らえました。使徒たちが留置所にいたときに、天使によって牢の戸が開き、「行って、宮の中で、いのちのことばをことごとく語りなさい。」と言われました。そして大祭司らは、再び使徒たちを捕らえて、「イエスの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。」と問いただしました。しかし、ペテロと他の使徒たちは、「人に従うより、神に従うべきです。(5:29)」と答えました。その後に、彼らはむちで打たれた後に釈放されましたが、次にこう書いてあります。「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(使徒5:41−42)」使徒たちは、はずかしめを受けたことを喜んだのです。

 彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

 使徒たちのように脅かしを受けたり、危害を加えられたら、私たちは心を動揺してしまいます。私も、かつて、ロゴス・ミニストリーのホームページの掲示板で、イスラエル軍によるジェニン虐殺疑惑のとき、親パレスチナの者による連続投稿の荒らしを受けたとき、「なるほど、これが脅しというものだ」と分かりました。また、最近も、今の金正日体制と昔の天皇制が同じであるようなことを発言したら、「おまえは日本人か!」と怒鳴るような返答がありました。たぶん、このような脅かしが、クリスチャンであることで起こるのでしょう。けれども、心を動揺させてはいけません。

 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。

 人から脅かしを受けているときに、何もいえないときがあります。ただ我慢するときがあります。その時に大事なのは、心の中でキリストを主としてあがめていることです。心の中を、もやもやとしているのではなく、キリストが主であることをしっかりと保っていることが大切です。

 そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

 福音宣教は、相手が求めるか求めないかに関わらず、神のみことばを宣言することですが、弁明は、相手から説明を求められたときに行なうものです。ギリシヤ語では、「アポロジア」であり、そこから英語のapologeticsが来ています。キリストについての護教論です。ここの、「あなたがたのうちにある希望」とは、1章で教えられた、生ける望みのことです。イエス・キリストがよみがえられたこと。それによって、私たちが新しく生まれたこと。そして天にある、朽ちない資産がたくわえられていること。主イエスが戻ってきてくださり、救いを完成してくださることなどです。福音の希望を説明します。

 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

 説明しているのに、攻撃的な反応をしていては、証しになりません。優しく、慎み恐れて、また正しい良心でもって弁明します。そうすれば、ののしる人たちが恥じ入ることになります。

 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。

 これがペテロの手紙のテーマです。善を行なうことによる苦しみです。クリスチャンの信仰告白によって受ける苦しみ。正しく歩むことによる苦しみです。これを受けているときに、私たちは幸いであり、神を喜ばせているのだよ、とペテロは教えています。

3B キリストの身代わり 18−22
 そしてペテロは、2章と同じように、不当な苦しみを受けられ、私たちの模範となられたキリストについて話します。

 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

 キリストは正しい方であったのに、悪者のために死なれました。善による死を遂げられたのです。そしてイエスさまは、肉体において死なれましたが、霊、あるいは御霊によっては生きておられました。主はよみがえられて、天に上げられました。このことによって私たちは、神のみことに行くことができます。

 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

 この個所はいろいろな解釈がある個所です。主に二つの解釈があります。一つは、キリストの御霊が、ノアを通して、その時代の人々に、神のことばを宣べられた、というものです。ノアは、箱舟を造っている間、人々に、これから洪水が起こって、滅ぼされてしまうから、悔い改めて神に立ち返り、箱舟に入ろうではないか、というようなことを話したもの思われます。そのときにノアを語らせたのは、キリストの御霊であるという解釈です。

 もう一つは、旧約時代の聖徒たちが、キリストが十字架につけられるまでは、ハデスの中で閉じ込められていたという解釈です。旧約時代は、贖いが完成されていませんでした。動物の血は、人の罪をおおうことそれ、取り除くことはありませんでした。そのため旧約の聖徒たちは、天の中に入ることができず、「アブラハムのふところ」の中にいました。アブラハムに与えられたメシヤの約束によって慰められるためです。しかし、キリストが十字架につけられ、死なれてから、キリストがハデスまで下りて来られて、贖いが完成したことを宣言されました。そこでハデスに捕われていた聖徒たちが、キリストとともに天に引き上げられた、という解釈です。

 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。

 ノアの箱舟が、水のバプテスマを示す型です。水の中を通ることによって、古い人がキリストとともに死に、キリストとともによみがえります。ノアの箱舟によって、古い地球はさばかれて、新しく箱舟に乗っていた人々が地上で歩み始めます。

 バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

 バプテスマによる新生を教える人々がいますが、それが間違っていることをここは示しています。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではありません。むしろ正しい良心への神の誓いであり、キリストとともによみがえることであります。

 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

 キリストは、よみがえられてから天に昇られて、御使いたちを従え、今は神の右の座におられます。

 足早に見てきましたが、私たちが正しい良心を保つこと、キリストを心の中で主とあがめること、善に熱心であること、祝福を受け継ぐこと、夫に服従することなど、すべてが、「善のために働く」ことにつながっています。私たちがクリスチャンであるということによって受ける苦しみに対する答えは、「善を行なうのに専念しなさい。」です。


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