テサロニケ人への第一の手紙5章2 「主の来臨にそなえて」


アウトライン

1A 平和に生きる 12−24
   1B 兄弟たちとの間で 12−15
      1C 指導者 12−13
      2C 弱い者 14−15
   2B 神との間で 16−22
   3B 約束の中に 23−24
2A 祈りとみことば 25−28


本文

 テサロニケ人への手紙5章を開いてください。今日は、5章の12節から最後までを学びます。ここでのテーマは、「主の来臨に備えて」です。

 私たちは前回、テサロニケ人への手紙において、とても大切な個所を学びました。それは、「主の日」についてです。これは、旧約聖書に預言されている、神が御怒りを地上に下す、定められた期間です。このことを、パウロは、テサロニケのクリスチャンたちに教えていました。ですから、私たちクリスチャンも今、主の日が定められていることを心に留めなければいけません。キリスト教会では、さほど語られていません。けれども、このように、聖書において大きなテーマとなっています。

 パウロは、主の日を語るときに、テサロニケのクリスチャンたちが、このさばきを受けないと安心させました。あなたがたは昼間の子なので、主の日が盗人のように襲うことはない。主イエス・キリストは、神の御怒りから救い出されるように、あなたがたのために来てくださる、と保証しました。このように、私たちクリスチャンは、恐ろしい神の怒りを見ることなく、天に引き上げられる約束が与えられているのですが、それまでの間、この地上において、どのような生き方をしていけばよいのかを、パウロは12節から書いています。

1A 平和に生きる 12−24
 12節と13節を読みます。兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。

 ここに、「お互いの間に平和を保ちなさい」とあります。そして23節には、「平和の神ご自身が」と書いてあります。12節から、いろいろな勧めが書かれていますが、その特徴は「平和」です。主の日が襲うことを念頭において、私たちが生きていくときに必要なのは「平和」なのです。

 聖書の中における「平和」は、私たちが考える平和とは異なります。5章3節にもありましたように、人々が「平和だ。安全だ。」と言っているときに、突如として滅びが襲いかかります。人間が考える平和は、自分の暮らし向きでしょう。コリント人への手紙第一の15章では、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。(32節)」とありますが、その場かぎりの平穏を人間は平和だと思います。しかし、聖書が与える平和はそのようなものではありません。

 イザヤ書9章6節には、有名なイエスさまの処女降誕の預言があります。そこにイエスさまが、平和の君と呼ばれていますが、そこの部分を読んでみます。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ書9:6-7)イエスさまは、平和の君としてこの世界を君臨されます。その平和とは、「さばきと正義」によって堅く立てられています。黙示録には、「この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。(19:15)」とあります。つまり、平和とは秩序のことであり、正義にもとづき、悪者をさばくところの秩序です。

 ローマ人への手紙5章1節には、「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とありますが、私たちと神との関係は、以前、戦争状態でした。私たちが、全権者であられる神に対して反逆し、神はご自分の正義の御手によって、私たちに制裁を加えようとされていたのです。けれども、イエス・キリストによって、和解が成立し、いまや神は私たちに敵対していないどころか、味方になっておられるというのが、ここでの意味です。ちょうど、今、アメリカがアルカイダのテロ集団を攻撃しているのを想像したらよいかと思います。彼らがしていることが正しいか間違っているかは別として、あのような戦争状態から、和平がもたらされたのが、平和なのです。つまり、平和とは、言い換えると秩序なのです。

1B 兄弟たちとの間で 12−15
1C 指導者 12−13
 このようなことをふまえながら、12節と13節をごらんください。指導者と信者たちとの関係について語られています。パウロはまず、「兄弟たちよ」と語りかけています。イエスさまを信じた人は、御霊によって、神の家族に入れられています。そこには、ギリシヤ人もユダヤ人もなく、キリストにあって一つであり、上下関係は一切ありません。ですから、パウロも、他の手紙でもそうですが、権威をふりかざして命令したり強制するのではなく、「あなたがたにお願いします。」と懇願しているのです。

 そして、パウロは、指導している人を「認めなさい」また、「尊敬を払いなさい」と言っています。兄弟たちが、指導者たちを認めて、尊敬することによって、平和がもたらされます。牧師などの教会の指導者に対する健全な尊敬は、教会の秩序にとって、また平和にとって欠かすことができないものです。

 私は、アメリカにいたときに、教会の人から、牧師について悪口を聞いたことが一度もありませんでした。彼らは、別に牧師がこわくて、批判をしたり、さばいたりしなかったのではなく、ただ愛着があり、みことばを取り次ぐという務めのゆえに、自然に尊敬していました。日本の教会では、平気で牧師の悪口を言ったりすることがあると聞きます。しかし、そのような牧師に対する過剰な期待、そしてそれが裏切られたことにともなう牧師への嫌悪感は、キリストにある平和を崩してしまうことになります。平和がないとき、私たちはそこにいて、安心することができません。ゆえに、御霊ではなく、肉に反応する機会がたくさんふえます。個人的な霊的歩みも大切ですが、教会の中に秩序があるかないかの環境も、一人一人の霊的歩みに欠かすことができないものです。

 そして、この指導者の役割が、「訓戒するために労苦している」ことに注目してください。訓戒というのは、そのまま訓戒、あるいは警告と言ってもよいでしょう。みことばを取り次ぐ人は、人がどこまでできたかをほめるのではなく、まだ欠けている部分を指摘して、成熟に向かって進むよう励ますために、みことばを語ります。

 私がクリスチャンになったばかりのとき、聖書、とくにパウロの手紙を読んで、パウロはなんと、人のあら捜しをしている人だなあと思いました。信者たちのことを愛しているなら、その人たちのことをほめるだけにすればよいのに、わざわざ、聞きざわりの良くない、彼らが欠けたところを語るのか、と思いました。例えばこのテサロニケ人への手紙でも、聖さを保ちなさいというメッセージを彼らに語っています。しかし、実はこれが指導者の務めであり、彼らは訓戒するために労苦しているのです。

 みことばを語ると分かるのですが、聞いている人たちのことを考えると、どうしても訓戒になってしまいます。聞きざわりの悪いことばに、どうしてもなってしまいます。でも、こんなことは面倒くさいし、人から嫌われたくないし、などの思いが働くと、言わなければいけないと思っていることも言わないという選択もあります。ではどちらが、聞いている人たちを愛しているのかと言いますと、聞きざわりの良くない、訓戒のことばを語るほうが愛していることに気づきます。子供たちに、聖書と英語を教えているときも、わざわざ子供たち、あ母さんたちに、忠告したり訓戒を与えたりするのは、疲れることです。面倒なことです。自分を愛したら、彼らをほっておくほうが良いです。けれども、あえて厳しい先生役を演じなければいけない、と思うのは、主にあってその人たちを愛しているからです。

 このようなことが分かると、兄弟たちが、指導者たちを敬わなければならないことが理解できます。自分にとって都合の悪いことを聞かされて、気分のよいものではありません。では、そこで反抗したりすれば、平和をくずします。ヘブル書12章では、苦い根とありますが、苦みによって、他の人たちも汚してしまいます。ですから、指導者たちの務めがどのような性質のものであるかを知っておくことは、とても大切なことです。

 けれども、これは強制ではありません。パウロは、「愛をもって深い尊敬を払いなさい」とあります。愛しているから尊敬するのです。愛着をもっており、親近感を持っているから尊敬を払うことができます。その人のみことばの語りかけによって、主との歩みを確かなものにすることができるから、尊敬できます。牧師という肩書きや地位があるから尊敬するのではなく、愛によって尊敬するのです。

2C 弱い者 14−15
 こうした訓戒は、指導者が信者にするだけではなく、兄弟たちの間でもすることです。兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

 「気ままな者」というのは、もともと、身勝手に行動する兵士に使われていました。兵隊が行進しているのに、勝手に立ち止まって休んでみたり、どこか別のところに行ってしまったりしたら、大変なことになりますね。これが「気ままな者」です。最近、教会の中で、ホームレスとか元暴力団が教会に来て、勝手気ままな行動をしているのを、それを愛しましょう、神の恵みだからという理由で、許してしまうことが起こる、というような話を聞いたことがあります。けれども、それは愛ではありません。やはり、しっかりと戒めて、教会に平和と秩序を保たせることが、その人のためにも、また全体のためにもなることなのです。

 「小心な者」というのは、ヘブル書12章12節に出てくるような人です。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。」弱くなって、もう何もできない人のことです。いや、主に拠り頼まなければいけないのに、自分で何とかしようとして、とことん神によって弱められた人と言ったら良いでしょうか。自分の力が無になることによって、初めて私たちはいやされ、立ち上げることができます。このような人を、励ましなさいということです。

 そして、「弱い人」というのは、文字通り、体が弱い人でもあるし、苦境の中にいる人でもあるでしょう。具体的に助けてあげましょうということです。そして「すべての人に寛容でありなさい」というのは、その人のしていること、言っていることを許容するということでは決してありません。忍耐強く接していく、と言い換えたら良いでしょう。勝手気ままにさせておくのが、私たちは一番楽なのです。けれども、主にあって訓戒を与え、戒め、励ますことは忍耐が必要であり、その忍耐によって形作られる親切が本物の寛容です。

 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

 これは、クリスチャンの原則ですね。悪に対しては善をもって報いる。仕返しをしない、ということです。けれどもこれは、訴訟をしてはならない、ということではありません。ましてや、だれかが自分を襲おうとしたときに、自衛してはいけないということではありません。正しいものは正しいとし、筋を通すことが、悪に報いることでは決してありません。むしろ、このようなことをしても、恨みをもたないでいる、心の平安を保っていることが大切です。心にある平安があるときに、その人が自分に何をしたかどうかに関わらず、善を行なうことができるのです。

2B 神との間で 16−22
 こうして兄弟たちの間での関係における平和について見ました。次は、神との間における関係です。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 有名な聖句ですね。喜び、祈り、そして感謝することですが、これが神が望んでおられることとあります。神さまとの関係が書かれています。

 「喜んでいなさい」とありますが、これは神さまが、イエスさまにあって私たちにしてくださったことを思い、また神ご自身のすばらしさを思うときに与えられます。喜ぶということは、幸せとは異なります。幸せは、自分の周りの状況が良ければ存在しますが、状況が悪ければなくなります。けれども、喜びは、たとえ愛する者が世を去っても、残っている深い確信です。ですから、悲しみながら喜んでいることができます。辛苦をなめながら、なおかつ喜ぶことができます。私たちが求めなければいけないのは、気分の上での喜びではなく、霊の深みにおける喜びです。 

 「祈りなさい」というのは、もちろん、祈祷院に行って24時間祈っているということではありません。神をいつも意識して、必要であれば心の中で祈り、人と語っているときにも祈ることです。そして「感謝する」ことは、自分の身の周りに起こっていることが、神の許しがあって起こっていることであり、何か目的があると知って感謝することです。

 この三つの勧めには、「いつも」とか「絶えず」「すべての事について」という言葉が付いていることに注目してください。これは、私たちが意識して行なう行為というよりも、私たちの状態といえます。スピリットと言っても良いでしょうか、自分の霊的状態が、喜びと祈りと感謝に特徴づけられていることを表しています。喜んでいないのに、「喜びなさい」という言葉があるから、教会でにやっと笑ったり、というものではありません。自分の実質が、喜んでいて、祈っていて、感謝しているようなものであるときに、私たちは、ここでのパウロの勧めにしたがっていることになります。

 御霊を消してはなりません。

 御霊は、聖書では「火」にたとえられています。火は消すことができますが、同じように、御霊の火を私たちは打ち消すことができます。私たちは、信仰を保ち、キリストにある自分を意識しはじめると、次に御霊の導きを感じることができるようになります。これは、言葉で上手に言い表わすことはできませんが、信仰が成長してくるにしたがって、導きが鮮やかに見えるようになってきます。そのときに、あえて自分のほうで、その導きをあしらいつづけたり、ないがしろにするならば、御霊は無理に私たちにその道を歩むようにはされません。このときに御霊を消してしまうのです。けれども、私たちは御霊が導かれていると思ったときには、信仰をもって前に進まなければいけないのです。

 預言をないがしろにしてはいけません。

 預言というのは、聖書そのものでもありますし、また、個人的に与えられる神さまからの語りかけでもあります。これは、ある人の状況や状態を、そのままずばり語っている言葉です。自分の状態を、ずばりと具体的に言われるときほど、痛いことはありません。言われたくないものに、触れられてしまったという感じです。けれども、コリント人への手紙第一14章にあるように、悔い改めに導かれることもできます。また、ここに書いてあるように、ないがしろにすることもできます。聞くのも聞かないのも、私たちの選択です。

 
すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

 聖書には、「見分ける」とか「試す」という勧めがしばしば書かれています。例えば、ヨハネの手紙第一4章1節には、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」とあります。私たちが見分けるとき、試すときに、それをさばいていると勘違いする人たちが多くいます。「だれだれ先生が話していることだから、それにけちをつけるなんて、さばいてはいけません。」という言い回しを聞くことがありますね。けれども、本当にそうでしょうか。私たちは、従順に聞く態度が是非必要であると同時に、何か語られていることはおかしい、という分別が大事にされなければいけません。「おかしいな」と感じることは、決してやましいことではないのです。

 悪はどんな悪でも避けなさい。

 ここでパウロが語っていることは、自分が行なっていることが必ずしも悪ではなくとも、悪に導かれそうな誘惑となるものであれば、何でも避けなさい、ということです。私は、家の中などの密室では、決して女性と二人だけで話しないようにしています。それだけでなく、喫茶店などで二人だけで会うことも避けています。ちょっと前に母親とお台場などに行ってデートはしましたが、そうやって自分を守らなければいけません。別にそういう気持ちはさらさらないのだから、ではなく、あらゆる誘惑になるような機会をつくらないように、気をつけるということです。

3B 約束の中に 23−24
 そして、神の平和を私たちが享受できることを約束する言葉が書かれています。

 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

 私たちに傷があったり、汚れがあれば、主イエスさまが現われたときに、その関係は平和ではなくなります。けれども、パウロは、テサロニケの人たちが全く聖なる者となるように祈っています。テサロニケ人への手紙は、イエス・キリストの再臨が主題となっていますが、副題として「聖め」があります。性的に乱れていたテサロニケの町で、新しく信者になったばかりの人たちが、聞かなければいけないことばでした。聖めを保つ必要があります。

 そして、これは、テサロニケの人たちだけではなく、クリスチャンすべてに当てはまるでしょう。主の日が近いことを思うとき、私たちは眠っていないで、目をさまし、聖潔の中で生きるように促されます。今までなんとなく、ぼーっと過ごしてきた人たちも、ここで引き締めて、主に固く立つように導かれます。キリストが再び戻って来られることに望みを置くものは、「キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3:3)」と約束されています。

 そして、その聖めは、からだだけではなく、霊とたましいも聖めが保たれるように、とパウロは祈っています。私たちのからだは、からだと霊とたましいの三つの部分でできています。たましいは、私たちの知・情・意と言われる部分で、精神と言い換えることができます。これよりもさらに深い、本質的な部分が霊です。

 そこで、私たちは、自分のたましいもきよめられなければいけません。たましいには、コロサイ人の手紙に書かれていた、だましごとの哲学、むなしい伝統、飲むな食べるなという禁欲主義など、いかにも霊的であるかのような教えが、入り込んでいます。私たちは、徹底的に聖書に書かれてあることに忠実になり、たましい、あるいは思いに形成されている汚れも、主によってきよめていただかなければいけません。

 こうしてパウロは、聖められることを祈りとしましたが、これは神の約束でもあります。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

 神は真実な方ですから、私たちをキリストにお会いするときには、まったく聖なる者、傷のない者として立たせてくださいます。


2A 祈りとみことば 25−28
 これで、パウロの勧めは終わり、手紙のしめくくりに入ります。

 兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。

 パウロが祈りをしてくれるように頼んでいます。大事なことです。主の再臨を待ち望むとき、このような互いの祈りが必要です。

 すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。

 これは、もちろん文化的なことがありますが、兄弟愛ですね。私たちは絶えず、互いに愛していることを表現していかねばいけません。終わりの時にはぜひ必要なことです。

 この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。

 すべての兄弟が読まねばなりませんね。私たちも読まねばいけません。このように、すべてのクリスチャンが、終わりの時のことを思い、また、みことばに目を留める必要があります。終わりの時について語るときに、すぐにセンセーショナルになるのですが、大事なのはみことばをしっかりと聞くこと、学ぶことです。

 私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。

 主にある恵みです。主の再臨にあずかれるのは、みな恵みです。私たちが何かを行なったから、携挙されるのではなく、神の恵みによって、信仰によって引き上げられます。

 こうしてテサロニケ人への手紙第一を読み終えました。次回は第二の手紙ですが、これまた楽しみです。第一の手紙では、苦難の中における希望、神の怒りからの救いについて語られていましたが、今度は、苦しめる者たちへのさばきについて書かれています。

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