テサロニケ人への手紙第一5章 「主の日」

アウトライン

1A 昼間の子ども 1−11
   1B 突如の滅び 1−3
   2B 救いの望み 4−11
      C 慎み深さ 4−8
      C 神の定め 9−11
2A 平和 12−28
   1B 勧め 12−24
      C 兄弟たちの間において 12−22
      C 神との間において 23−24
   B 最後のあいさつ 25−28

 本文

 テサロニケ人への手紙第一、5章を開いてください。ここでのテーマは、「主の日」です。

1A 昼間の子ども 1−11
1B 突如の滅び 1−3
 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。

 私たちは、前回、4章の学びで、キリスト者たちが、死者も、また生き残っている者も、一挙に引き上げられて、主にお会いすることについて学びました。そして、5章に入るのですが、ここで、「それらがいつなのか、またどういう時か」と書いています。けれども、ここは、「それら」という言葉はありません。「いつとか、どんなときとか」という言葉になっています。そして次の節に続きます。

 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 「主の日」という言葉が出てきました。私たちクリスチャンは、日曜日に礼拝をささげる日を「主日」と言いますが、それは必ずしも適切な用い方ではありません。なぜなら、「主の日」という言葉が使われているとき、それは、神がこの地上をさばかれる時として用いられているからです。

 神は、地上にご自分の怒りを下される時を定めておられることが、旧約聖書から新約聖書に至るまで書かれています。イザヤ13章6節には、「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」とあります。13章9節には、「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。」とあります。エレミヤ46章10節には、「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。」とあります。エゼキエル30章3節。「その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。」そして、ヨエル書です。1章15節。「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」3章14節。「さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。」次はアモス書5章18節です。「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。」オバデヤ書1章15節。「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」ゼパニヤ1章14節。「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。」そして、ゼカリヤ14章1節。「見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。

 旧約聖書だけではなく、新約聖書でも同じ使われ方をしています。コリント人への手紙第一5章5節。「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」そして、テサロニケ人への手紙にあり、ペテロの手紙第二の3章10節には、「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあります。主日礼拝として使われる聖書個所、黙示録1章10節「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」ですが、これを日曜日と考えるのが無理があり、黙示録の多くの個所は、神の怒りの現われである大患難時代を描いています。したがって、主の日とは、神の激しい怒りが下るときだということです。

 このように、聖書全体に渡って啓示されている「主の日」を私たちは、どれほど意識していたでしょうか?ノアが生きていたときには、地上は水によってさばきを受けました。そして、ソドムとゴモラは、火と硫黄によってさばきを受けました。このように、地上に下る神のさばきがあり、それが今にでも下るという認識を、当時のユダヤ人たちは抱いていたし、また、クリスチャンたちも抱いていたのです。

 今日、キリスト教会の中で、宣教なり、伝道活動なりが語られるとき、またクリスチャンの間で交わりを深めるときに、今後の行き先が良くなるという展望をもって行動しているのであれば、主のみこころからはずれてしまっています。主の日が来るという神からの啓示を持って、その切実感の中で生きていくときに、その信仰が本物となるのです。

 パウロは、この主の日が「夜中の盗人のように来る」と言っています。これは、イエスさまがお語りになったことばです。「家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24:43-44」そして、どのように暗やみの中で、盗人のように来られるかが、次に書かれています。

 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

 暗やみというのは、人々の目が見えなくされて、盲目状態になっている状態であります。平和ではないのに、「平和」だと言い、「安全」ではないのに安全であると言います。これは、預言者エレミヤが、イスラエルの民に対して叫んだ言葉です。「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。(エレミヤ6:13-14

 自分たちは安全である、と思っている時にこそ、一番気をつけなければいけないのです。私たちの周囲の世界を見まわしたときに、いつ何時、悪魔が猛威を奮い、私たちの安全を脅かすかもしれないのです。事実、私たちの周りでは、すでに終わりの時の前兆を至るところで見ます。前世紀に起こった二つの世界大戦、歴史上前例を見ない地震と飢饉、さらに、クリスチャンの殉教数は、初代教会以降の教会史を見ても、もっとも多いと聞いたことがあります。そして、キリスト教会が、真理が真理として語られず、その他の事が語られている、信仰とは関係のないことが語られています。このような状態になっているのにも関わらず、私たちは「平和で安全である」となぜ言えるのでしょうか?私たちは大丈夫だ、と思っているときこそが、もっとも危険なのです。

2B 救いの望み 4−11
 このように、「主の日」が定められており、これはとてつもなく恐ろしい日です。しかし、パウロは、次に励ましのことばを与えます。それは、キリスト者は、この主の日を通らなくてもよい、という確証です。

C 慎み深さ 4−8
 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。

 私たちは、暗やみにいるのではなく、光の中にいます。イエスさまが言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12」光というのは、きよさや正しさを表しています。私たちはイエス・キリストのうちにいることで、きよさと正しさの中にいるのです。このような人たちは、主の日が襲ってきません。つまり、そこから救い出されるのです。

 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。

 私たちは光の中にいるからといって、何をしても安全ということでは決してありません。光の中にいるのだから、その光を自分のものとして生きなければいけません。そこでパウロはここで、「眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」と言っています。(ここの「慎み深く」は、「しらふ」とも訳せます。だから、次の説で、「酔う者は夜酔うからです。」と続いています。)イエスさまは、ゲッセマネの園で祈られているとき、弟子たちに、「誘惑に陥らないで、目をさまして、祈っていなさい。」と言われました。それは、これからイエスさまが捕えられ、裁判にかけられ、なぐられ、むち打たれ、そして釘を打たれて十字架刑に処せられるという事実に耐え得ることができるためでした。しかし、弟子たちは、眠り扱けてしまいました。実際に眠っていただけではなく、霊的にも眠っていたのです。そのために、実際の場面に出会った時、何をすればよいか分からずに、結局、イエスさまを見捨てて逃げてしまいました。そしてペテロは、「イエスなど、知らない。」と三度も毒づいて、大きな罪を犯したのです。眠っているとは、こういうことです。自分の周りで起こるかもしれない、いろいろな状況を考えることをしないで、自分のことだけを考えていること、これが眠っている状態です。そうすると、何か困難が訪れたときに、私たちは容易に罪を犯してしまうのです。ですから、「目をさまして、慎み深く」していなければいけません。こういうことが起こるなら、自分はどのようにすべきなのか、このような事態に陥ったら自分はキリストにどのようにして従うのか、そのようなことを予期しながら、盗人がはいらないように家の番をするのです。

 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

 パウロは再び、私たちが昼の者であると繰り返しています。私たちは、そのような者なのです。そして、これを自分のものとするためには、信仰と愛、そして救いの望みが必要です。これが、エペソ6章の霊の戦いのときの、神の武具と同じようにたとえられていることに気づいてください。兵士の胸当てに、信仰と愛を着けます。かぶとは救いの望みです。私たちが、光の中にいることを信仰によって保ち、またキリストの愛の中に根ざし、建て上げられ、そして、救いの望みを持っていること、それそのものが戦いなのです。まず、信仰を捨ててしまいたくなるような、試練や困難が訪れます。愛が冷えるような、辛い出来事が起こります。そして、本当にこの世に救いはあるのか、と思わざるを得ない、暗やみを見てしまいます。けれども、悪魔に対抗するには、これらの誘惑に対抗して、しっかりと信仰と愛の中に、そして救いの希望の中に生きていかねばならないのです。

C 神の定め 9−11
 そして次に、すばらしい約束が書かれています。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

 私たちは、主の日、あるいは神の御怒りに会うことは、決してないという約束です。主イエス・キリストにあって救いを得るように定められています。この救いとは、地獄からの救いではなく、地上に下るところの大患難からの救いです。

 4章において、私たちは、主イエスが天から来られるときに一挙に引き上げられることを習いました。そして5章に続いているのですが、つまり、私たちは携挙という出来事によって、大患難を免れるわけです。したがって、教会、いや、新生した、真にキリストのからだの一部とされた人々は、大患難を通らずして、天に引き上げられるのです。

 これは、とても大事な教えです。なぜなら、教会は大患難を通ると教えていると人たちもいるからです。その人たちが教えているのを聞くと、大体、自分が御霊に導かれて歩んでいないと、たちまち誘惑に負けて、神にさばかれるとかいうものであり、行ないによらなければ救われない、というニュアンスを持たせているところです。ここが致命的な間違いであり、それゆえ、私は教会が大患難を通るという教えは信じていません。

 なぜそのような間違いが起こるかと言いますと、それは、神が独特に働きかけている、イスラエルのことを度外視しているからです。大患難時代において、「聖徒」とか「選びの民」とか出てくる個所を読むと、そこは、クリスチャンではなくイスラエル人であることが分かります。神は、イスラエルを最後に大きな懲らしめの中に置き、彼らが悔い改めて、メシヤを求めるようにさせます。その時に、イエスさまが戻って来られるので、彼らはイエスさまこそが、待望のメシヤであることを知るのですが、このようにイスラエルに対する神さまの独特の計らいがあるのです。教会は、これと違って、神の恵みが働き、御霊がうちに住まわれる奥義としての有機体です。イスラエルとは異なる、神の計らいの中にいます。ですから、イスラエルと教会を混同させることによって、恵みではなく行ないに傾いた教えをしてしまうのです。

 ということで、私たちクリスチャンは、決して神の御怒りを受けることはないのです。あの恐ろしい主の日を通らなくてもすみます。けれども、目をさまして、慎み深くしていなければいけないのです。そして、この日が来るのを思って、主を畏れかしこんで生きていきます。

 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

 ここでの「眠っていても」というのは、4章に出てくる、「キリストにある死者」のことです。ですから、私たちがこの地上で生きているときも、また死んでしまっても、主はともにおられることになります。先日、ある方から、私たちが死んだとき、どのような状態になるのかという質問を受けました。眠っているということは、無意識状態になるのか、という質問です。けれども、この個所から、そんなことはないと断言できます。私たちは、死んだあとも意識は続いており、主のご臨在の中に入ることになるのです。

 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

 こうした救いの望みをもって、互いに励まし合って、徳を高め合いなさい、と書いています。つまり、主の日という恐ろしい日が、暗やみの盗人のように訪れることを思い、けれども、光の武具を身に付けていれば、必ずやイエスさまが救い出してくださること思い起こさせて、励まし合ったり、徳を高め合ったりします。

 私たちの回りに見えるものは、どんどん暗くなります。そして、それは耐えられないもののように見えます。いや、暗くなっている、耐えられないものになっていることさえ気づかない人たちが、たくさんいます。しかし、まず、主の日があることを、聖書からしっかりと認識していなければなりません。そして、この耐えがたい苦難が訪れるけれども、主が救い出してくださる、といううめくような希望を持っていなければならぬのです。これが、携挙を思うときの姿勢であるし、私たちの励ましの基であるのです。

 今回は、5章の後半部分の勧めは、次回に回したいと思います。


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