テモテへの手紙第一1章 「福音をゆだねられた者」

アウトライン

1A 神のあわれみを受ける 1−17
   1B あいさつ 1−2
   2B 無益な論議 3−11
      1C きよい心から出る愛 3−7
      2C 律法の用い方 8−11
   3B 罪人の救い 12−17

2A 信仰の戦いを全うする 18−20


本文

 テモテへの手紙第一1章を開いてください。ここでのテーマは、「福音をゆだねられた者」です。

 私たちは前回までテサロニケ人への手紙を学びました。そこに、「堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。(2テサロニケ2:15)」というパウロの言葉がありました。テサロニケの人たちは、パウロたちが教えていた神のみことばをそのまま受け入れ、また新たに教えなければいけないもの、正さなければいけない事柄は比較的少なかったのです。そこで、これまで教えたところに、堅く立って、そして彼らの言い伝えを守りなさい、という勧めになったのです。

 ところで、聖書というのは、とても面白く編纂されています。使徒パウロの手紙だけ見ても、彼らが宣べ伝えていた福音が、順序良く説き明かされています。人が救われていることについて教えるローマ人への手紙から始まりました。そしてコリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙も、救いについて書かれていました。この教えの後に、エペソ人への手紙からは教会について語られていました。キリストのからだ、キリストが私たちのうちにおられる奥義について語っています。それがピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙でも同じです。人は救いについて初めに知らなければならず、そして救われた者が置かれている立場、つまり教会について語られているという順番です。そしてテサロニケ人への手紙では、キリストの再臨について語られていました。救いについても、教会についても知っている者は、キリスト・イエスがご自分の教会のために戻って来られるのを待ち望みます。

 テサロニケの人たちが、教えられた言い伝えをしっかりと守るようにと勧められていますが、そうです、パウロによって、信者たちに教えなければいけない啓示は、その多くがすでに語られているからです。

 そしてテモテへの手紙に入ります。ここでは、この堅く守らなければいけない教えを、さらに死守して、偽りの教えに対して信仰の戦いを勇敢に戦わなければいけない、という勧めに入っています。テモテだけでなく、次の手紙テトスに対しても同じ勧めであり、またピレモンも教会では長老的な輪役割を果たしていたようなので、ピレモンに対しても基本的にパウロは同じ勧めをしています。このテモテへの手紙、テトスへの手紙、そしてピレモンへの手紙は、しばしば「牧会書簡」と呼ばれています。パウロのこれまでの手紙は、教会の信徒たちへの手紙であったのに対して、ここは牧者たちへの手紙になっているからです。


1A 神のあわれみを受ける 1−17
1B あいさつ 1−2
 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。

 パウロは手紙の書き出しに、父なる神を「救い主」と呼んでいます。これは面白いです。私たちはとかく、父なる神は正義の神であり、私たちの罪に対して怒り、罰せられることを想像します。そして、御子イエス・キリストがその怒りをなだめる働きをされたと考えがちですが、父なる神ご自身が私たちを救いたいと願われているのです。ヨハネ3章17節には、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためでなく、御子によって世が救われるためである。」と書かれています。

 パウロが父なる神を救い主と書いているのには理由があります。それは、この1章において、パウロが福音を宣べ伝えることができているのは、ただ神のあわれみによるという深い感慨に由来しているからです。彼は到底、神の前では一瞬たりとも生きていくことはできない罪人であり、神のあわれみと救いなしには、この自分の存在さえ危うい、という意識があります。

 そして次にイエス・キリストのことを「私たちの望み」と言っています。この望みはむろん、主イエスが再び戻って来られるという望みです。福音をゆだねられ、みことばを教える者は、いつも落胆と恐れが付きまといます。みことばを教えても、その通りに受け入れられないということがたくさん起こります。パウロは、「夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来た」とエペソの長老たちに話したことがあります(使徒20:31)。そこで、はたして自分がしていることは益なのだろうか、と考え込み、落ち込むことが多いのです。しかし、その中にあってもみことばを教える者を支えるのは、自分が心から愛し、また自分の働きに正しく報いてくださる主イエスご自身です。この方を待ち望むことこそが、主の奉仕者を支えることになります。

 そして、パウロは、いつものように「イエス・キリスト」と呼ばず、「キリスト・イエス」と呼んでいます。これは、キリストのところをメシヤと言い換えれば、その順番を変えている意味が少し分かると思います。イエス・メシヤというときは、イエスが、約束のメシヤでありキリストであるというニュアンスになるでしょう。「イエス」に重点が置かれています。けれども、ここでは「メシヤなるイエス」とメシヤに重点が置かれています。メシヤの働きは、暗やみの中で幽閉されている人々に対して光となられ、彼らを解放することがあります。パウロがこの1章で強調している、神のあわれみとその救いと同じ流れの中にある言い回しです。

 そして、パウロが使徒となったのは、キリスト・イエスの「命令による」と書かれています。他の手紙では、「みこころによる」という言葉が使われていましたが、ここでは命令です。テモテへの手紙には、命令をゆだねる、という言葉がたくさん使われています。これは兵隊が上官の司令と受けるという意味です。事実、テモテ第二の2章には、キリストにある奉仕者が、兵士としてたとえられています。パウロ自身が、隊長であられるイエス・キリストから司令を受け、この命令を部下であるテモテに託しています。そして、テモテ自身も、この命令をさらに他の奉仕者たちにゆだねていかねばいけません。

 この権威系統は、教会運営やミニストリーの運営には必要です。すでにキリストにある励ましと力を受け、その中で生きている者たちが、他の多くの人々に霊的な奉仕をしていくために、勧めではなく、具体的な指示と命令をしていく必要があります。1章でも、偽りの教えを言い広めている者たちを、パウロは実名で取り上げています。これを「さばいている」とか「厳しい」とか受け止める人は、教会が人々に霊的援助を与えるための運営と、その援助そのものを混同しているからです。奉仕者たちは、主からの命令の下にいる兵士であるという認識が必要です。

 そしてパウロはテモテのことを、「信仰による真実のわが子」と呼んでいます。テモテは、おそらくパウロの宣教の働きで救われた人であり、またパウロの宣教旅行の同行者、かつ同労者であり、そしてパウロは、ピリピ人への手紙において、彼のことを「私と同じ心になって」いると言っています(2:20)。霊的に、パウロはテモテにとっての父親のような存在でした。

 テモテは、小アジヤのルステラという町に住んでいました。彼はギリシヤ人の父を持っていましたが、母はユダヤ人であり、祖母もそうでした。祖母は聖書を母によく教え、また母もテモテに聖書をよく教えました。幼いことから聖書に親しんできたと、テモテへの手紙第二には書いてあります。パウロが第一回目の宣教旅行においてルステラに来たときに、祖母も母も信仰を持ち、またテモテも信仰を持ったと考えられます。そして、パウロが第二回目の宣教旅行にルステラに来たときには、彼はその地域で評判の良い信者となっていました。パウロとシラスは、テモテを加えて、宣教旅行を続けます。そして、パウロがローマにて第二回目に、皇帝の前の法廷に立つ前に手紙を書く時にも、テモテはずっとパウロとともにいました。彼は、パウロの手紙の中で、受取人ではなく差出人として連名で出て来ていました。

 そして、父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、「恵みとあわれみと平安とがありますように。」とパウロは書いています。他の教会宛ての手紙では、「恵みと平安とがありますように」というあいさつでしたが、ここでは、その間に「あわれみ」があります。あわれみとは、受けるに値する者を、受けないで済むようになっている状態です。神のさばきを受けなければいけないのに、受けないでいる。これが「あわれみ」です。パウロは、自分自身が福音宣教者として、使徒として生きていくために、もっとも必要に感じていたのはこの「あわれみ」だったのです。神の深いあわれみが、主の奉仕者を奉仕者として立たせてくれる源泉があります。

2B 無益な論議 3−11
 3節から、この手紙の主な内容に入ります。
1C きよい心から出る愛 3−7
 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。

 パウロが「マケドニアに出発するとき」に、テモテに、エペソにとどまっているようにと命じています。パウロは、第三回目の宣教旅行で、エペソに長期間滞在しました。その後、エルサレムにある教会が経済的に窮していたので、醵金のためマケドニヤとアカヤの地域を回りました。その時に、パウロが、テモテに頼んで、エペソにとどまっているように教えたのかもしれません。あるいは、パウロは囚人として、ローマ皇帝の前に立ちましたが、一回目の審問では彼は無罪にされたようです。その後、パウロは比較的自由に動くことができました。エペソにも戻って、その後、マケドニヤに行き、そしてテモテをそこにとどまらせたのかもしれません。

 テモテをそこに置いたのは、ある者たちがパウロが教えていることと「違った教えを説い」ていたからだ、と言っています。パウロは、エルサレムに行く途中に、港町ミレトにて、エペソにいる長老たちをミレトに呼び寄せたことがあります。エルサレムへと急いでいたので、自分がエペソに行かずに、彼らを自分のところに呼び寄せたのです。そして、パウロは、自分が出発した後に、凶暴な狼があなたがたの中にはいり込み、群れを荒らし回ることを予告しました。また、長老たち自身からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分たちのほうに引き寄せる者たちが起こるとまで言っています(使徒20章)。はたして、その通りになったようです。テモテは、この違った教えを説く者たちに、どのように対処すればよいか苦慮していたのです。

 彼らが教えていたものとは、「果てしのない空想話」とありますが、これは律法の教えに関わることのようです。4章には、「ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。(2−3節)」と書いてあります。他のパウロの手紙にも、これと類似する教えについて言及しているので、パウロがいた当時、この種の律法主義が教会の中ではびこっていたことが想像できます。また、「系図」とありますが、聖書の系図を利用して、変てこな教えを広げていたようです。

 これは現在のキリスト教会でも、私たちが耳を傾けなければいけない命令です。私はかつて、エホバの証人や統一協会のような組織的異端でなければ、基本的に正統派であり、無碍に警戒してはいけない、と思っていました。けれども、いわゆる正統と呼ばれている教会の中で、健全な教えから逸脱した新しい教えが、結構影響力をもって流行ることが多いです。しかし、それは間違いです。初代教会で起こっていたことは、どの時代の教会でも起こることであり、真剣に謙虚になって、このパウロの命令を受け止めなければいけません。

 そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

 これは大切なアドバイスです。キリスト教会の中では、さまざまな神学的、教理的議論が起こります。その時に気をつけなければいけないのは、その議論が、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」ものであるかを気をつけなければならない、ということです。例えば、予定論について、多くの人が議論します。これは、神の選びの計画について取り扱っている教えであり、信者であれば、一度真剣に考えなければいけない問題です。しかし、その議論の中で、議論のための議論、ただ論議を引き起こすためだけのものに発展しかねません。そこには、争いと分裂の発祥となり、信仰による神の救いのご計画の実現という目的からそれたものとなるのです。

 議論のための議論なのか、それとも、神の救いのご計画の実現をもたらすものであるかの見極めは、ここに書いてあるとおり、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」を目標としているかどうかです。相手を打ち負かすことが目的になっているようでは、ダメです。自分の心と相談して、この愛から出ているものなのか、信仰による正しい良心から出てくるものなのかを吟味しなければいけません。

 ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。

 律法を取り扱い、律法を大切にしていると言っている者たち自身が、律法のことを分かっていないとパウロは言っています。パウロは次に、律法の正しい使い方について教えます。

2C 律法の用い方 8−11
 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。

 パウロは先ほどから、「神のあわれみ」について言及していましたが、それは、神の律法の正しい理解によって把握できます。それは、律法が神の聖を現わしているものであり、律法の光に照らされた自分は、罪と死に定められることを知っているからです。律法を使って、自分たちがいかに正しいかを競い合っているようでは、その人は本当に律法のこと、神のことを知らないのです。律法を本当に理解しているならは、自分は途方もなく救いようのない存在であり、暗やみの中に投げ込まれ、火と硫黄の中でもだえ苦しみながら永遠を費やすことを、本当に実感するはずです。また、「まだ、自分はまだこれこれのことができていない。」とか、自分のしているところに焦点を当てているのは、まだ律法のことを理解していません。本当に理解していれば、そのような自分の可能性、できていないかできているかという可能性さえも放棄しているはずだからです。

 しかし、この神の律法による罪定めを知った者は、ただ神の一方的なあわれみによる救いを知ることになります。自分がいまここにいるのは、ただ神のあわれみによることを知り、自分ではなく、ただただ神がなさったことをほめたたえざるを得なくなるのです。パウロがここに言っている、「祝福に満ちた神の、栄光の福音」とはそのことです。

3B 罪人の救い 12−17
 そしてパウロは、自分自身のことを話し始めます。いかにして、神から福音宣教の務めがゆだねられているかを語ります。

 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

 パウロは、自分がこの務めを果たしているのは、「私を強くしてくださる」イエス・キリストであると言っています。これは、謙遜になっているのではなく、パウロの心からの実感でしょう。自分が行なっていること一つ一つに、主キリスト・イエスの支える力を感じています。

 そしてパウロは、キリストが自分を「忠実な者と認めてくださった」、と言っています。自分が忠実な者になったのではなく、忠実な者と認められている、みなされている、ということです。これはちょうど、信仰によって義とみなされるとか、認められるというのと同じことです。自分は忠実な者と呼ばれるのとは、かけ離れた者なのに、それでも主が忠実な者と認めてくださっているのです。なんという恵みでしょうか。テモテへの手紙第二2章13節には、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」と書いてあります。主の奉仕者に要求されることは、そのダイナミックなミニストリーではなく、ゆだねられたものを果たすその忠実さですが、その忠実ささえもが、主によって与えられているのです。

 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

 パウロは、キリスト教会迫害の先駆者でした。けれども、信じていないとき、つまり、自分が神に敵対しているなどと知らなかったときにしたことなので、あわれみを受けたと言っています。彼は、先ほどの律法の解釈を、自分自身に当てはめています。神をけがし、迫害し、暴力をふるうことは、律法に反することであり、彼はアナテマ、呪いを受けるにふさわしい者であることを深く実感しているのです。けれども、今自分がここにいるのは、ただ神のあわれみによります。

 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

 パウロは、神のあわれみを受けただけでなく、主の「恵み」を受けました。恵みとは、自分が受けるに値しないものを、受けることです。自分は神の祝福にあずかるに価しないのに、祝福を受けていることを言います。パウロは、その後の生涯において、限りない霊的祝福を受けました。これが恵みだというのです。

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 パウロは、「その罪人のかしら」です、とまで言い切れています。これはすごいことです。自分が犯した罪を思うとき、人はその過去から目をそらしたくなります。そして、自分を正当化して、過去に犯した自分と切り離そうとします。主の働き人であれば、その基準はとても高いので、自分が失敗したことは、汚名につながることで葬っておきたいのです。しかし、彼は罪人のかしら、と言ってはばかりません。

 ここに、私たちが主にお仕えするときの正しい理解が求められます。多くの人は、人の献身の証しを聞き、その人がいかにすぐれた品性を持っていて、いかに大きな働きをしたかなどの、その人の正しさを判断基準にしようとします。しかし、人が失敗したのであれば、その人は牧師などの資格を得ることはできないと考えます。それは間違いです。それでは、神の恵みの奉仕者となることはできません。このパウロの、「私は罪人のかしらです」と言える人こそ、奉仕者にふさわしい人なのです。言い換えれば、悔い改めることを知っている人です。律法主義に陥り、誤った教えをしている者たちは、この悔い改めについて知りません。自分が罪人であるという認識が薄いのです。献身者とは、正しい人ではなく悔い改める人です。

 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

 これは、分かりますね、パウロは「このような罪人が救われるのだから、私も神の救いからもれていない。」と自信が持てるようになる、ということです。神の寛容さを示すために、神はパウロを初めに選ばれたのだ、と言っています。

 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

 この神の一方的なあわれみと恵みを思うときに、ただただ神をほめたたえざるを得ないのです。これが、栄光の福音です。福音は、人のすばらしさを伝えるのではなく、主のすばらしさを伝えます。

2A 信仰の戦いを全うする 18−20
 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。

 テモテは、以前、長老たちが手を置いて祈っているときに、預言が与えられて、牧会の務めに任じられていることを宣言されました。パウロはこのことを思い起こさせています。なぜなら、テモテは、若い奉仕者であり、一見弱々しそうで、実際におくびょうな性格の持ち主であることが、他の個所を読むと分かります。そこでパウロは、偽りの教えを教会に吹き込んでいる者たちに、対決的な姿勢を取ることを命じているのです。

 ここに「正しい良心」とありますが、これは大事な要素です。信仰によって、私たちには良心が与えられています。これが真理であり、あれは偽物であるという判断が与えられています。しかし、その偽りの教えが幅を利かせ、しかも、影響力のある人物がそのようなことをしているのであれば、その勢力を恐れて、無言になったり、妥協してしまうことがあります。しかし、この良心を大切にしなければならない、とパウロは言っています。私たちも一人一人、この正しい良心を保って、信仰の戦いを勇敢に戦い抜く必要があります。

 ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。

 先ほど話しましたように、パウロは、偽りの教えを教えている者たちを名指しにすることを、はばかりませんでした。彼らは元々、健全な教えを持っていた者たち、エペソにある教会にて長老であった者たちであるかもしれません。ですから、人間関係もあったはずです。けれども、パウロは、信仰から離れているのであれば、はっきりと破船していると告げているのです。そして、彼は、「彼らをサタンに引き渡しました」と言っています。サタンに引き渡す権威が、使徒としてパウロには与えられていました。現代であれば、教会における交わりから、いっさい関わりを持たせない処置であります。これは、その人たちが、自分の行なっている結果を自分で刈り取らせて、もしかしたら悔い改めるかもしれない機会を与えるためのものです。

 こうして、福音がゆだねられた者がしなければならないことを学びました。一つは神のあわれみを知っていることです。そしてもう一つは、正しい良心によって信仰の戦いをすることです。



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