テモテへの手紙第一3章 「神の家」


アウトライン

1A 治める人の資格 1−13
   1B 監督 1−7
      1C 自制 1−3
      2C 家庭の世話 4−5
      3C 悪魔にすきのない人 6−7
   2B 執事 8−13
      1C 謹厳 8−9
      2C 良い地歩 10−13
2A 敬虔の奥義 14−16
   1B 真理の柱と土台 14−15
   2B 神の受肉 16


本文

 テモテへの手紙第一3章を開いてください。ここでのテーマは、「神の家」です。

 私たちは前回、教会における公の場において、秩序が必要であることを学びました。無益な論争をもちこむ者たちを避け、きよい良心をもって信仰の戦いをしなさいと命じられたテモテは、まず初めに祈りなさい、とパウロに勧められています。祈ること、とくに地位の高い人々、王のために祈ることは、秩序とは何か、権威とは何かを教えてくれます。そしてパウロは、女が男に従い、静かにしていることを教えました。女性は教会の中で多くの奉仕をすることはできますが、男を支配したり、教えたりするような位置、つまり牧師のような位置には付いてはいけないことを話しました。

 このようにパウロは、教会における公の場での秩序について語りましたが、3章においても同じ事を話しています。そして3章は、この秩序を保つための指導者、教会を治めるという重要な仕事について詳しく話しています。

1A 治める人の資格 1−13
1B 監督 1−7
1C 自制 1−3
 「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

 パウロは、「監督の職」について話します。教会における指導的な働きのための職として、この監督、長老、牧者、そして執事がいます。監督というのは文字通り「監督をする」という意味で、教会の運営の監督をします。長老は、霊的な権威が神から与えられている人たちのことです。人々の模範として振舞います。そして牧者は、集っている信徒たちを、羊を養うように、養い育てる働きをする人です。みことばを教えることによって養います。執事は、教会における庶務にたずさわります。

 そして、監督、長老、牧者について聖書を調べてみると、この三つは同じ人々であることが分かります。テトスへの手紙には、長老たちを任命することをパウロが話し、その長老たちが「監督」と呼ばれています(1:7)。そして、使徒行伝20章では、エペソの教会の長老たちが、ミレトに集まってきた場面があります。そこでパウロは、こう言いました。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(28節)」と言っています。ですから、同じ人々であることが分かるのですが、それがどのような働きの側面について話しているかで、使われる言葉が違うと思われます。牧者は、養い、世話をする働き、長老は人々の模範として生き、神の霊的権威をゆだねられている働き、そして監督は、教会全体を導く働きです。

 ちなみに、目に見える協会政治においては、主に、監督制、長老制、会衆制が存在しています。監督制は牧師に教会の意思決定が与えられている制度です。長老制は、牧師の他に長老がおり、この長老たちが教会の責任者となります。会衆制は、会衆に教会を導く権限が与えられています。民主制みたいなものです。

 パウロは、「人が監督の職につきたいと思うなら、すばらしい仕事を求めることである」と言っています。監督の職につく人は、その職につきたいという願いが、与えられています。他の人たちに、いくらあなたは牧師になるのにふさわしいとか言われても、また牧師の父親が息子を牧師にさせたいと願っても、自分本人が神にあって、この職につきたいと願っていることが大事です。そして、この職はすばらしい仕事、とパウロは言っていますが、それは以下の理由によってです。

 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、

 ここでパウロが強調していることは、外から見る資格です。「非難されるところがなく」とありますが、これはもちろん、罪を犯したことがないという意味ではありません。パウロがテモテに、自分のことを「罪人のかしら」であると話し、また、キリストが自分を忠実な者と「認めてくださった」と言っています(1:12)。つまり、完璧とは程遠いのです。神のあわれみによらなければ生きることができないことを知っている人こそ、この務めにあずかることができます。したがって、ここで語られている「非難されるところがなく」というのは、客観的に見て責められるところがない、ということです。これが、教会の群れの監督をする人にとって、まず必要なことであります。

 そこでパウロは、「ひとりの妻の夫であり」と言っています。これは監督が妻を持っていなければいけないという意味ではありません。当時は、一夫多妻制というか、妾を持っていることは当たり前でしたから、明確に一人でなければいけない、ということです。

 そしてパウロは、「自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり」と言っていますが、これが監督の積極的側面の資格です。「自分を制する」とは、感情面の安定を話しています。教会にはいろいろな不安定要因があります。分裂の危機があったり、教会の経済的側面が窮してきたり、家庭にさまざまなしわよせが来たりと、さまざまな精神的プレッシャーを受けます。けれども、そのような時でも自暴自棄にならず、主にあって心の安寧をいただき、極端に走らず、常にバランスを持っていることが必要であります。

 「慎み深く」とは、知性における明晰さであります。教会を運営するのですから、さまざまな事柄を総合的に考えて、長期的な視野に立ち、主から知恵をいただきつつ判断と決断をしていかなければいけません。自分の気分や、そのときの思いで動くような人は監督になることはできません。そして「品位があり」というのは、行動面のことです。思いの中だけでなく、行動力もある人でなければいけません。さらに、「よくもてなし」とあります。活動的な人でなければいけません。つまり、人々と会うことを喜びとして、愛を示して、よくもてなす人です。それから、「教える能力」のある人でなければいけません。みことばの真理をまっすぐに説き明かすことができる人でなければ、監督の職につくことはできません。

 そして、「酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で」と言っていますが、これは、典型的な問題を持っていない人でなければいけません。酒、暴力、争い、金銭ですね。こうしたものから無縁の人であることが必要です。「酒飲み」とありますが、これには文化的背景があります。当時は、水がそれほどきれいにされていなかったので、殺菌作用としてぶどう酒を混入して飲んでいました。また、薬としても飲んでいました。パウロはテモテに、少量のぶどう酒を飲むように勧めている個所もあります。ここでいう酒飲みは、いわゆる酒を楽しむこと、酔うことを目的にしていることを話しています。監督は酒飲みであってはいけません。そして当然ながら暴力をふるう人は監督になれません。そして「温和」です。ことさらに主張しない人です。自分だけを押し出す人であってはいけません。人間の組織とは違いますね。ここは神の家ですから、人ではなく神が主役なのです。そして、「争い」ません。口論したがる人は監督の資格はありません。そして金儲けをしたいとか、そのような目的がある人は、まず監督になる資格はありません。

2C 家庭の世話 4−5
 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・

 家庭が教会において、大きな役割を占めることは、使徒たちの手紙を読むとよく分かります。テモテへの手紙においても、家族の一員として他の信徒たちに接することが命じられ、また、肉の家族を大事にしない人たちは、不信者よりも悪いとも言われています。まず家族あっての教会、つまり教会とは家族的要素が極めて多いということを必要があるでしょう。

 実はこの個所で、私は大きな間違いに気づき、悔い改めた経験があります。それは、教会の活動に忙しくなり、妻との時間を持つことを忘れていたことです。私は、教会に仕えることこそ、敬虔への道であると思っていました。しかし、私たちの場合は子どもはいませんが、妻を不幸せにして、なおかつ教会で仕えることは本末転倒だ、ということを知りました。その時から、教会での奉仕の量を大幅に減らし、妻との時間をふやし、夫婦の仲が良くなってきました。監督は、まず家族を治められている人でなければいけません。

3C 悪魔にすきのない人 6−7
 そして次にパウロは、「悪魔」という言葉を二回使って、監督の資格を説明しています。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

 初めは、「信者になったばかりの人であってはいけない」という条件です。さもないと高慢になってしまい、悪魔と同じさばきを受けるとあります。あのルシファーが陥った過ちは、高慢でした。「神のようになろう」という過ちです。信者になったばかりの人は、教会において治める働きをすることが、自分自身が霊的にも高められていると勘違いする可能性が大です。パウロが言っているように、主の知識が増えれば増えるほど、自らの足りなさ、神の恵みとあわれみの必要性を覚えます。このへりくだりの中で人々を導きます。信者にはこの経験が必要であって、これは主との歩みが長ければ長いほど、与えられるものです。信者になったばかりの人が監督になってはいけません。

 これはクリスチャンのマスコミ界をとおして起こることですが、世の中で活躍している人、また目立つような人がクリスチャンになり、まだその信仰が浅いのにも関わらず、証しにはもってこいとのことでその人たちにフォーカスを当てる傾向があります。すると、その人は罪を犯したり、信仰から離れてしまう可能性が大きくなります。本当に気をつけなければいけません。

 そして次に、「教会外の人々にも評判の良い人」とあります。さもないと、そしりを受ける、これは悪魔がすることです。神の教会をそしるのは、悪魔がもっとも喜ぶことです。これは家族を治めることにも関わることですが、教会というのは、この地から浮いたような存在ではなく、地にしっかりと足をおろした存在であります。落ち着きがあり、秩序があります。これは世と妥協するということではなく、すべての権威が神から来ていることを認めることです。したがって、教会外においても、良い評判があることによって、社会から乖離しない教会を持つことができます。

 これが監督の資格です。何か際立ったこともなく、落ち着きすぎて、地味で、義務的でという印象を持たれるかもしれません。けれども、だれがここで主役であるかを知れば、これこそ監督の役目であることがわかります。そうです、ここでは「神」ご自身が主役です。神の教会、神の家ですから、治める人は、このような落ち着きを持った人が適任なのです。

2B 執事 8−13
 次に「執事」の資格です。「執事」とは、先ほども話しましたように、教会の庶務を行なう人です。もともとは「給仕をする人」の意味です。使徒行伝6章において、ギリシヤ語を話すユダヤ人が、ヘブル語を話すユダヤ人に苦情を申し立てました。やもめの配給がなおざりにされているとのことでした。そこで使徒たちは、このような給仕を行なう者たちを立てましたが、彼らが「執事」であります。

1C 謹厳 8−9
 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。

 執事もまたこういう人でなければ、と書いてあります。「また」というのは、監督と同じような人ということです。「謹厳」であること、つまり人々の尊敬と信頼を得ることができる人ということで、監督と同じです。ちなみに、この謹厳とは、地上における義務と責任をきちんと果たしながら、神の国の義をも最大限に求める人のことです。

 「二枚舌を使わず」というのは、よく理解できますね。長老がいて、信者がいます。長老には、これこれのことを話して、信者には別のことを話すということをしてしまうことがない人、たとえ不都合なことを言わなければいけなくても、きちんと報告する人でなければいけません。「大酒飲み」ではない、というのも、監督と同じですね。監督のほうが「酒飲みではなく」とありましたので、基準が高いです。それは、監督は霊的な権威を持っており、人々の模範にならなければいけないからです。そして、「不正な利をむさぼらず」とありますが、執事は会計を取り扱います。ここで不正をしてはいけないです。

 さらに、「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人」とあります。ここはとても大事です。執事という職は、ともすると、教会で必要なことがあるから、それを埋めるために、だれでも良いからやってもらうという傾向を持ちます。だれがやっても、別に同じだからということで、その人の霊的素質をないがしろにしてしまいがちです。しかしパウロは、これは監督と同じように、立派な霊的奉仕であり、健全な教えをしっかりと保っており、またその中に生きている人でなければいけない、と言っています。

2C 良い地歩 10−13
 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。

 執事になるためには審査をする必要があります。以上の点で、資格からはずれることがなければ執事の職につかせます。

 婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

 ここの訳は、下の引照にあるように、「執事の妻」と訳したほうが良いです。むろん女執事も聖書には存在するので、その人にも当てはめてもよいですが。妻も執事と同じように威厳がなければいけません。そして、「悪口を言わず」とあります。おしゃべりをして、変なうわさ話を広めてはいけない、ということです。そして自分を制することは、監督の資格にもあったように、感情における安定です。そして、すべてに忠実でなければいけません。どんな小さなことにも、きちんと責任を果たしていかねばなりません。時間通りに来るとか、するべきノルマをしっかりと果たすとか、そのような小さなこともここでは数えられます。

 執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。

 執事は監督と同じ条件ですね。それは次の理由があるからです。

 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。

 執事は執事のままでいるわけではなく、「良い地歩」を占めます。つまり、執事の務めからさらに、霊的な務め、伝道者であったり、牧者であったり、より大きな務めへと主が引き上げてくださいます。執事から始まった人として、ピリポがいます。彼はサマリヤ地域における伝道者となりました。また、ステパノがいました。彼も聖霊に満たされた、非常に敬虔な人であり、初代教会の殉教者となりました。小さなことに忠実な者は、大きなことを任されます。

 また、キリストへの信仰について強い確信をもつことができる、つまり、執事という務めをとおして、ますます信仰とは何か、福音とは何かをもっと知っていくことができます。さらに大胆に福音を語ることができます。ですから、執事も、監督と同様、すばらしい働きです。

2A 敬虔の奥義 14−16
 そしてパウロは、教会を神の家と呼び、また真理の柱と土台と呼んでいます。

1B 真理の柱と土台 14−15
 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

 パウロはこれらのこと、監督と執事の資格を、テモテのところに行ったときに話そうと思っていました。けれども万が一、それが遅くなってしまっても大丈夫なように、初めに手紙を書き記しています。ここで彼は教会を「神の家」と呼んでいますが、そうです、教会は、神が住まわれるところであり、神がおられるところです。神がおられるということで、人々が集まる、そのようなところです。神を礼拝することを、もっとも大事とするところでなければいけません。そのために、治める人たちは、ただ落ち着きを持ち、主から注意をそらすような要素を持たず、― つまり、酒飲みでないとか、暴力をふるわないとか、また、品性があり、自分を制するとか、― 神の栄光を栄光として、そのまま人々に現わしていくことができるような、へりくだった態度が必要であります。

 そして、また神の教会は、真理の柱であり、土台です。これは建物になぞらえています。エペソの建物、またギリシヤの建物を思い浮かべていただければよいのですが、横に何本もの「柱」がありますね。つまり、これは私たちが、「真理のみことば」を公にして、人々に知らしめる、伝え教える必要があるということです。さらに「土台」も真理です。これは、決して真理からそれない、かたく真理を保っている、偽りの教えを拒むことなどです。

2B 神の受肉 16
 そしてその真理は何なのか?それが次に書かれています。

 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

 ここで語られているのは一言、「キリストの栄光」です。キリストがどのような方なのか、またどのような働きをされ、またキリストが宣べ伝えられていることなど、キリストのご栄光がその真理であり奥義です。

 初めに「キリストは肉において現われ」とあります。ここは、ギリシヤ語の他の写本では、「神は肉において現われ」とあります。受肉です。神であられる方が、処女マリヤから聖霊によってお生まれになった。肉を宿したという真理です。次に、「霊において義と宣言され」とありますが、これは主イエスが、バプテスマにおいて、また復活において、義なる方であることが宣言されました。そして、「御使いたちに見られ」とありますが、イエスさまのさまざまな場面で、御使いが現われていましたね。荒野で誘惑にあわれた後もそうだし、そしてよみがえられてからは、さまざまな御使いが現われました。そして、諸国民の間に宣べ伝えられ、というのは、イエスさまが異邦人にも宣べ伝えられていました。そして、世界中で信じられました。そして、栄光のうちに引き上げられ、というのは、主が昇天されました。これが真理の柱であり土台です。主イエス・キリストご自身の働きから離れてしまったら、それは偽りの教えであり、それから避けなさい、とパウロは4章にて話します。

 神の家は、このようにキリストが宣べ伝えられ、その真理が保たれているところです。これを監督する者は、落ち着いた地に足をついた人物でなければならず、執事も同じです。地味な働きでありますが、けれどもこの地味こそが、主の輝きを示していく素質であります。



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