テモテへの手紙第一5章 「敬うべき人」

アウトライン

1A 本当のやもめ 1−16
   1B 身寄りのない人 1−8
      1C 神の家族 1−2
      2C 親族による世話 3−8
   2B 良いわざに励む人 9−16
2A 長老 17−25
   1B 訴え 17−21
   2B 按手 22−25 

本文

 テモテへの手紙第一5章を開いてください。ここでのテーマは、「敬うべき人」です。前回、私たちは、パウロがテモテに対して、教える務めに専念することを命じている個所を学びました。パウロは続けて、テモテが行なうべきことを教えています。彼はまだ若いです。そして彼は、問題のある教会の中で働いています。こうした特定の状況の中で、パウロが具体的にテモテにアドバイスを与えています。

1A 本当のやもめ 1−16
1B 身寄りのない人 1−8
1C 神の家族 1−2
 年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。

 テモテは牧者であるので、教えをして、勧めをする務めをになっています。この前お話しましたように、この務めはあくまでも職務であり、彼が若いからとか経験がないからで図られるべきではありません。パウロは、「軽んじられてはいけません」と言いました。けれども、勧めをする中で、不要な軋轢を作ってしまっては逆効果です。また、若いテモテにとって、勧めをするときに陥ってしまうかもしれない過ちのことも考えながら、パウロは具体的にアドバイスをしています。初めに、年上の人に対しては、父親のように勧めなさい、と言っています。若者から、自分の罪や過ちを責められたり、戒められたりするのは、それだけでも年取った人には辛いことです。ましてや、若いために正義感に燃え、思わず叱りつけてしまうかもしれません。けれどもパウロは「父親のように敬いつつ、それで勧めなさい」と言っています。

 若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。

 同じように若い人に対しては兄弟に対するように親しみを持ちつつ勧めをします。高圧的になってはいけません。年上の婦人に対しても、年取った男性に対するのと同じように、親のように勧めをします。そして若い女性に対してですが、パウロは「真に混じりけのない心で姉妹に対するように接しなさい」と言っています。若いゆえに情欲が燃え上がってしまうその弱さを考えて、パウロは、純粋な心で姉妹に対するように、と付け加えているのです。 

 こうして、女性と男性、また年齢層に合わせた勧め方があるのですが、すべて家族のメンバーのようにして勧めることが命じられています。そうです、教会は神の家族です。3章において、パウロは教会のことを「神の家」と呼びました。父なる神がおり、私たちが兄弟姉妹なのですが、これは名称だけではなく、実践においても家族のように考えていく必要があるのです。

2C 親族による世話 3−8
 そしてパウロは次から、やもめ、すなわち未亡人についてテモテにアドバイスを与えます。やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。しかし、もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。

 やもめを敬いなさい、という命令です。これは具体的に、金銭的な援助を与える、生活費を教会が出すということです。旧約聖書、とくに申命記には、在留異国人とともに、その権利が守られなければいけないという命令があります。昔、現在の近代的な福祉制度があったわけではありません。ですから、夫を失うことは同時に生活の支えをなくすことになります。ですから、そうした困った人に対して、教会が助けなければならない、というのが聖書の教えです。

 けれども、どのような人にも、物質的に支援することを聖書は教えていません。むしろ、それぞれが自分たちで食べていくことができるのであれば、そうしなければいけないとも教えています。現代的なことばを使うなら、人の自立を助けるために助けるべきであり、人を教会や人に依存させるために助けるべきではない、というのが教えになっています。やもめの場合、まず助けるべきなのは近親の人々です。神は、教会だけではなく、家族という制度を作られています。この家族がきちんと機能していることは、神が喜ばれることです。本来家族が担うべき役目を、教会が担うべきではありません。

 ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。彼女たちがそしりを受けることのないように、これらのことを命じなさい。

 やもめを敬い、助けるのは、彼女がただ可愛そうだからではありません。彼女は、物がないために、主にすべての必要を拠り頼み、祈りをささげています。このような霊的実質があって初めて、教会の人たちが彼女をうやまって、そこで教会で重んじられ、敬われるようにするのです。もし、そうではない人が教会から助けを受けたら、家族が助けられるのに、その機会をうばって教会が彼女にお金を与えてしまうことになります。彼女には霊的な側面がなくなってしまい、自堕落な生活をしてしまいます。もしそのようになってしまうなら、他のほんとうに主を愛しているやもめたちが、「結局、やもめって、教会で世話されて、こんな自堕落な生活をしているのよね。」というそしりを受けてしまいます。ですから、やもめはその貧しい状況のゆえに、信仰深く敬虔になるのであり、この敬虔さのゆえに、教会から尊敬され、支えられるべきなのです。

 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

 家族は、教会とともに神がお立てになった制度です。これを顧みないことは、神を喜ばせないことであり、実に「信仰を捨てている」ことであると言っています。教会で奉仕することが、いかにも霊的であるかのような雰囲気があります。キリストのためにすべてを捨てて、という題目によって、家族を顧みずにいることまでが信仰的であると考えられることがあります。けれども、ここの個所からそれは断じてそうではないことが分かります。

2B 良いわざに励む人 9−16
 やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。

 教会の中には、「やもめ」という項目というか、一つの教会の役割があてがわれているようです。ですから、先ほど言いましたように、やもめというのは、ただ可愛そうだから助けるというのではなく、むしろそのような状況にいるからこそできる、教会の奉仕があります。教会から金銭を受け取って生活するというのは、実は、教会において積極的に奉仕するために受け取ると言っても過言ではありません。彼女は子どもを良く育てたので、子の教育のことを知っています。旅人をもてなし、聖徒に仕え、困っている人を助けます。もちろん、年取ってくるごとに、体が動かなくなるでしょうが、それでも祈りの奉仕をその人は絶やすことがないでしょう。このように良いわざに励む人が、「やもめ」という務めを、教会の中で果たすのです。

 若いやもめは断わりなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。

 若いやもめ、つまり若くして夫を失った女の人は、教会の中でやもめとしては登録されません。なぜならば、初めの誓いを捨てるから、だとあります。おそらくこれは、教会において「やもめ」と登録される人が、残る生涯をやもめとして生きることを誓うのだと思います。年老いたやもめなら、再婚をする誘惑はなくなりますが、若いやもめは好きな男の人ができたりして、その誓いを簡単に破ってしまいます。

 そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。

 先ほど「家族」という単位が、神によって立てられたものであるから、家族を大切にすることが神を喜ばせることであると学びました。ここでは、「結婚」が神から与えられた制度として語られています。女が結婚し、子を産み、子を育てて家庭を治めるのは、神の目的に沿ったことであり、神を喜ばせることです。ですから、そのような事柄に従事していることによって、彼女も誘惑や罪を犯さないようになります。そのような時に教会が彼女に金銭を与えてしまうと、結婚と子育てという分野で主にお仕えする機会を奪ってしまい、それゆえ彼女は、家々を遊び歩くことを覚え、うわさ話やおせっかいをするようになります。「教会」と並んで、家族と結婚が非常に重視されていることを、私たちは知らなければいけません。

 というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。

 当時、このような怠惰で、罪を犯している人たちがいたようです。テモテへの第二の手紙には、反対に、家々に入り込んで、愚かな女たちをたぶらかしている者がいることが書かれています。

 もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。

 パウロは、非常に現実的なことを話しています。教会がやもめを助けるのは、そのやもめが信仰深く、良い行ないに励んでいるという霊的評価があるから助けるのですが、ただそれだけでなく、教会がすべての人の必要を満たすことができないという現実を話しています。そうですね、教会は福祉施設ではないのですから、すべての人を助けるようには召されていません。その予算は限られています。ですから、よく考えて、ほんとうのやもめのためにそのお金をとっておく知恵が必要なのです。

 ところで現在、福音派の教会で流行っていることの中に、社会的弱者に対して助けを差し伸べることが語られています。身体障害者と知的障害者、老人など福祉関係に分野で教会が関心を高めることを大きく掲げています。精神病の人に対しても、そうしたケアがなされなければいけないという声も聞きます。そしてこれは聖書的に正しいです。弱い者、困っている人を助けるようにパウロは、テサロニケの人たちに勧めました。しかし、同時に、パウロは、こうした聖徒たちの良い行ないを悪用して、教会で自分が神であるかのようにふるまう者たちが出てくることも、きちんと戒めています。テサロニケ人への手紙第二では、そのような者は交わりから引き離すようにと命じてさえいます。私たち教会も、パウロが「ほんとうのやもめ」と言っているように、ほんとうに助けるべきなのか、そうでないかを見分ける必要があります。

2A 長老 17−25
 パウロは次に、長老についてテモテに話します。

1B 訴え 17−21
 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。

 「長老」という言葉の意味は、3章で監督の職について学んだときに取り扱いました。霊的権威が神から与えられている立場です。長老と監督と牧者はしばしば、同じ人物に対して使われます。

 パウロは、長老が二重の尊敬を受けるにふさわしいと言っています。「二重」というのは、ただ態度や行動で敬うだけではなく、金銭的に支えることによっても敬いなさい、ということです。次の節に、聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。と書いてあります。穀物をこなしている牛は旧約から、働き手が報酬を受けるのは当然である、というのは主イエスさまご自身のことばです。ですから、主のために労している人を金銭的に支えるのは、選択ではなく信者の義務であります。パウロは何回も、霊的指導者が物質的な報酬を受け取ることがその権利であることを話しています。霊的な養いを受けているのにも関わらず、その養なう人のことを考えず、金銭的に支えようと考えないことは、神が言われていることに反したことを行なっていると言えます。

 そしてパウロは、長老でもみことばと教えのためにほねおっている人は特にそうであると言っています。4章において、教える務めがいかに大切かをパウロはテモテに語りましたが、これは今日の教会でも同じです。みことばを教えることが教会の中で柱となっていなければいけません。伝道ももちろんしなければいけません。奉仕もあります。しかし、みことばを教えて、養いを受けていることは、教会の中での大きな活動の一つでなければいけないのです。それだけ、教会がいのちを持つためには必要なことです。

 長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。

 パウロはここから、長老が罪を犯す場合についての対処について書いています。長老は、これほど尊敬を受け、教会から金銭的にも支えられるべき存在であるので、彼が罪を犯したなら重大なことです。それゆえ、その時の対処はかなり厳しいものとなりますが、けれども、それだけ慎重に取り扱わなければいけません。パウロは、「ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません」と言っています。これは申命記にも、また主ご自身もお語りになった方法ですが、とくに長老に対しては、ただ一人の訴えによって受理されてはいけません。

 長老あるいは教会指導者に対する悪いうわさは、ほんとうに大きなダメージを与えます。たとえその訴えが間違いであったことが分かっても、うわさが立つところにはそれなりの理由がある、と多くの人が勘ぐります。それゆえ、長老に対する尊敬がうすれて来て、長老に与えられた神の権威が引き下げられることになります。ですから、ほんとうに慎重でなければいけません。

 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。

 もし罪を犯していることが判明すれば、それは公にしなければいけません。長老が犯した罪を内密にしておくことは、今読んだ聖書個所から神のみむねに反したことになります。それだけ、霊的に権威が与えられている立場は、重い責任が与えられているのです。

 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。

 パウロは、ものすごく重々しい口調で話しています。実際に重々しいのですが、三つの霊的権威を前にして、「おごそかに命じます」と言っています。父なる神と、キリスト・イエスと、そして選ばれた御使いです。そこまでおごそかに言っている命令は、公正を保ちなさい、偏り見ず、えこひいきをしてはいけない、ということです。

 テモテは今、とても重大な位置にいます。エペソの教会において、長老たちから曲がった教えをしている者たちがいたからです。そこで、彼は、いろいろな圧力や圧迫を受けていたことでしょう。しかし、見かけではなく、客観的な判断をし、人をそれぞれ公平に見て、さばかなければいけません。私たちも、人をさばかなければいけないとき、例えば交わりからはずさなければいけないようなときに、その判断材料に、その人が能力があるからとか、金持ちだからとか、地位の良い人だとか、そのような要素がいっさい入ってはいけません。これは、神とキリストと御使いからのおごそかな命令です。

2B 按手 22−25
 また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。

 人が長老などの地位に着くときに、按手をします。手を置いて、神がこの人に霊的権威を与えられたことを認め、受け入れます。この按手を安易に行なってはいけないとパウロは戒めています。なぜなら、この人がもし罪を犯したら、それは彼だけの問題ではなく、按手をした人たちにもそれ相当の責任があるからです。また、パウロは、「他人の罪にかかわりを持ってはいけない」と言っています。自分が罪を犯していなくとも、罪を犯している人に知らずに協力していたりすることはあります。そのようなことがないように重々気をつけるように、ということです。

 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。

 なぜここに、このようなパウロの言葉があるのかが、私は良く分からないのですが、おそらく、パウロはテモテのことをよく知っていたから、信仰による父親として子供のように心配してあげているのでしょう。テモテはおくびょうな性格であり、からだも強くなかったようです。そこで、少量のぶどう酒を飲んで、健康管理もしっかりしなさいと命じています。

 この個所はもちろん、お酒を飲むことを許している個所ではありません。監督の職についている人は「酒飲みではなく」という資格がありました。あくまでも薬用としてのぶどう酒です。

 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。

 パウロは、教会にある罪に対処しなければいけないときに、まだ明らかにされていないものもあることを認めています。テモテがすべての罪を見つけることはできないだろうが、それはあとで明らかになる、と言っています。また、同じように、判断をするときに、良い行ないも加味しなければいけないのですが、それもすべてが見えているわけではありません。けれども、それらも隠れたままになっていることはありません。ヘブル書には、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(4:13」とあります。

 こうして、パウロはテモテに具体的なアドバイスをしました。やもめの場合と、長老の場合ですが、どちらも、金銭で支えることによって敬うべき存在として認められています。その尊敬の要素は、やもめの場合は、祈り深く、良い行ないに励んでいることであり、長老の場合は骨折って教えに専念してることです。これらを私たちも、教会の中でもっとも大切なものとしなければいけません。自分たちが何にお金を使うのか。もちろん、すべて神にささげるのですが、そのお金を神に喜ばれるように使うためにはどうすべきなのかを考えなければいけません。教会は、言葉だけでなく財産をもって具体的に行動を起こす場でもあるのです。


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