コリント人への手紙第二1章 「奉仕者の心」

アウトライン

1A 苦しみにあずかる者 1−11
   1B 慰めの神 1−7
      1C みこころによる奉仕 1−2
      2C 人々への慰め 3−7
   2B 救い出す神 8−11
2A 誠実な行動 12−24
   1B 神の恵み 12−22
      1C 純真 12−14
      2C 「しかり」 15−20
   2B 神の証人 21−24
      1C 油注ぎ 21−22
      2C 協力者 23−24

本文

 コリント人への手紙第二、1章をお開きください。今週から、コリント人への手紙第二に入ります。ここでのテーマは、「奉仕者の心」です。パウロは、コリント人に対して、奉仕者としてまた牧会者として、自分の心をコリント人たちに明らかにしています。彼は、コリント人への手紙第一の最後で、「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにありますように。」と言いました。パウロの彼らに対する愛を、これから私たちは読み、学んでいくことができます。

 コリント人への手紙第ニは、もちろんコリント人への手紙第一の続きです。パウロはエペソにいるとき、クロエの家の者から、コリントにある教会に数々の問題が生じていることを聞きました。そこでパウロは、彼らの過ちを正して、叱りました。その手紙をテモテがコリントに持っていったようですが、問題は解決しなかったようです。パウロはもともと、エペソを出発してマケドニヤを通って、コリントに向かうつもりでした。けれども、そのまま船でコリントに向かったようです。そこで、問題になっていることについて、彼自身が厳しい処置を取りました。そしてエペソに戻りました。それからしばらくして、あのアルテミス神殿の模型を作る銀細工人たちを発端とした暴動がエペソに起こりました。そのため、パウロはエペソを離れるのを余儀なくされて、マケドニヤへ向かったのです。

 パウロは、エペソにおける暴動、またコリントにおける混乱と分裂によって、身も心もぼろぼろになっていたようです。パウロは肉体的にも精神的にも疲弊していました。彼は、テトスを先にコリントの教会に遣わしました。コリントの人たちが、彼が前に送った手紙によって彼らがどう受けとめるか、とても気になっていました。また、訪問したときに取った厳しい処置についても、きがきでなりませんでした。彼らが、自分が意図しているように、誤解しないで受けとめてくれたかなど心配だったのです。こうしてテトスをトロアスで待っていたのですが、彼はとうとう来ませんでした。そこですっかりがっくりしてしまいました。彼はマケドニヤに向かいました。

 けれども、マケドニヤでテトスに会うことができました。パウロはとても慰められたばかりか、コリントにいる人々の多くが、罪のゆえに悲しんで、悔い改めて、心を新たにして喜んでいる話しを聞いて、大いに慰められたのです。けれども、まだ一部に偽教師たちがコリントの教会にいました。この偽教師たちは、パウロが始めた宣教の地に行って、パウロがいかに間違っているかを言いふらしていたのです。彼は、自称使徒である。エルサレムの教会で按手を受けていない。また、彼は高圧的で、愛がない。手紙では威勢のよいことを書いているが、実際に会うとかなり弱々しい。彼の動きは実に不透明だ、どこで何をしているのか分からない。事実、マケドニヤを通ってコリントに行くと言ったのに、まっすぐコリントにやって来たではないか。このように、パウロの発言や行動に難癖をつけて、彼の評判を引き落としました。彼らは自分たちが認められるために、パウロの信用を傷つけたのです。

 これは、ミニストリーをしていると、とかく起こることです。ミニストリーを行なっている人のことを深く詮索し、批判し、神とその人との間に介入してきて責め立てる人がいます。自分自身のことが受け入れられたいために、奉仕者の信用を傷つけます。そのとき、奉仕者の心はもちろん傷つきますが、奉仕者としては、自分自身のことを語ることは気が引けるのです。自分は何か良いことを行なってきたかもしてないが、それは自分ではなく神の恵みであることを知っています。また、自分は、自分自身のことを語るのではなく、イエス・キリストを宣べ伝えるために召されています。だから、自分のことについて責められても、弁明することはためらいます。しかし、自分が奉仕者になったのは、自分が選んだことではなく神なのです。自分をお立てになったのは神であるから、神の御名のゆえに、弁明しなければいけないと気づきます。そこでパウロは語り始めるのです。コリントの人たちに、自分の心の痛みを分かち合い、自分のすべてを打ち明けます。教会に残っている偽教師たちを意識しながら、教会全体に弁明しているのです。これがコリント人への第二の手紙です。

本文

1A 苦しみにあずかる者 1−11
 それでは、この手紙の冒頭の言葉に注目してください。

1B 慰めの神 1−7
1C みこころによる奉仕 1−2
 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。

 
パウロは、自分をキリスト・イエスの使徒となったのは自分の意思ではなく、神のみこころであるとの確信を持っていました。それゆえ、彼は今までのような宣教と奉仕を行なって来ました。主はパウロについてアナニヤに、「
あの人は、わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒9:15」と言われました。パウロが選んだのではなく、主がお選びになったのです。奉仕者は、この弁明から始めることができることができます。自分がここにいるのは、また、自分が今行なっているのは、主がそのように召しておられるからだ、という確信です。パウロはこのことから言い始めました。

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。


 他の手紙にも見ることのできる、パウロのあいさつです。恵みと平安です。自分が何かを行なって祝福されるではなく、神の恵みによって今の自分がいます。神の恵みの中にいると、自分の心には神の平安があります。この平安が、自分が召されているところにいるかどうかのものさしになるでしょう。


2C 人々への慰め 3−7

 そしてパウロは、神に感謝をささげます。私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

 他の手紙でもパウロは、神への感謝からはじめますが、ここでは神が慈愛の父、すべての慰めの神として紹介されています。パウロは、どのようにして神が慈愛に富み、慰めの源であることを知ることができたのでしょうか。次をご覧ください。

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

 自分自身が受けた苦しみによって、神から慰めを受けたのです。パウロは、聖書に通じ、イエス・キリストから啓示を受けて福音を知りました。しかし、その頭だけではなく、自分の経験によっても、神がどのようなご性質を持っているのかを知ったのです。パウロはさまざまな苦しみにあいました。人は苦しみにあっているときに、なぜこのような苦しみを受けるのか、悩んでしまいます。「なぜ?」という問いが、自分の頭の中を何回もよぎります。そして周囲にいる人々も、ヨブの友人のように、その苦しみの原因を探ろうとします。このような苦しみを受けているのは、その人が何か間違っていることをしているからに違いない。何か欠けたものがあるからだ、と思います。しかし、それは間違いです。人が受ける苦しみには大きな目的があり、それは、私たちが神を知るためなのです。神の慈愛の豊かさと慰めを知るためなのです。詩篇の著者もこう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(
119:71」神のおきてを学ぶ、神ご自身を知るようになります。

 けれども、苦しみは神の慰めを知ることだけが目的ではありません。次をご覧ください。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 神の慰めによって、他の苦しみの中にいる人々を慰めるためなのです。人は、いや神でさえも、苦しみにあうことなしに、他の人を慰めることはできません。慰めというのは、そういうものなのです。自分が似たような経験をして、始めてその人の苦しみを共有することができます。慰めがないとき、私たちは苦しんでいる人に、その原因を探ろうとします。しかし、慰めがあるとき、私たちは苦しんでいる人に、目的を探ろうとします。その人に希望と将来の神のご計画を教えようとするのです。そして、それは、同じ苦しみを知っている者にしか指し示すことができません。それゆえ、苦しみはとても尊いものなのです。

 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 
キリストが苦しみを受けられたので、キリストに結びつけられた私たちも、キリストの御名のゆえに苦しみを受けます。しかし、キリストはそれゆえに慰めることを知っておられるので、私たちを慰めることがおできになるのです。パウロが、エルサレムにおいて、仲間のユダヤ人に福音を伝えることができず、むしろ騒ぎが起こってしまいました。多くの人が聖霊によって、パウロがエルサレムに行かないように示されていたのにも関わらず、パウロは行きました。同胞のユダヤ人に福音を伝えることができるのは、自分しかいないと思っていました。けれども、失敗したのです。牢屋の中で、彼は相当落ち込んでいたでしょう。その夜、パウロのそばにイエスさまが立っておられました。そして、「ほら、みなさい。あなたが言い張るから、このようなことが起こったのですよ。」ということは言われませんでした。そうではなく、「
勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかししなければならない。(使徒23:11」と言われました。キリストの慰めです。これは、キリストご自身が苦しみを通られたからなのです。

 そしてパウロは、この苦しみによって、自分がはじめてコリント人に対して、効果的な奉仕者になることができる、と話しています。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

 
パウロは、数々の苦しみを受けていましたが、そのために自分が奉仕しているコリントにいる人々に慰めを与えることができます。もし苦しまなかったら、どのように慰めと励ましを与え、どのように希望を与えることができるかを知らなかったでしょう。けれども苦しんだのです。したがって、今苦しんでいる人がそれに耐えることができるような慰めと励ましのことばをかけることができるのです。パウロは、自分が受けた苦しみについて、その多くを語りたがりません。そうです、彼にはキリストにある神の恵みのほうが、自分を圧倒しているからです。しかし今、パウロの信用を失墜するような、人々がコリントの教会に存在します。それゆえ、自分のことを語らねばらなないのですが、その弁明の中でも、パウロは自分の経験の中で知ることができた神について、彼らに分かち合っているのです。

 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

 
慰めたり励ましたりすることだけではなく、慰めをともにする共有している、ともパウロは言っています。教会の役目は、慰めることや励ますことだけではありません。ともに痛み、ともに苦しむということも教会の奉仕の一つなのです。教えることばかりが、私たちの間で先行してしまいます。しかし、ただともにいること、いっしょにいることが教会における奉仕の一つになるのです。


2B 救い出す神 8−11
 パウロは苦しみによって、慰めの神を知っただけではありません。自分を救い出す神を知りました。兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。

 パウロがどこで受けた圧迫を指しているのかは、分かりません。おそらく、エペソにおける暴動のことを指しているかもしれません。エペソの劇場に銀細工人たちがなだれこみ、町中が大騒ぎになりました。パウロがその中に入っていこうとしましたが、弟子たちがそうさせなかった、とあります。入っていったら、文字通りパウロはバラバラに引き裂かれていたかもしれません。このエペソにおける暴動であったかもしれないし、パウロは死の危険をいくつも味わっているので、他の出来事であったかもしれません。パウロはそのときに、自分は死ぬことを覚悟しました。


 これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

 
ここがとても大事です。自分が死を覚悟したとき、自分はもはやどうしようもできないと認めたとき、そのときに神は私たちを助けることができます。私たちが窮地に立たされたときに、神が働いてくださる機会があります。イエスさまがこう言われました。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ
8:35」自分を生かそうと思うのではなく、自分を死なせることによって、神が代わりに生きてくださるのです。私たちは苦しみの中にいると、しだいに自分自身の力に拠り頼まなくなります。もう自分は無力であることに気づきはじめます。けれども、私たちは、どうしても自分で自分を救い出そうとします。しかし力尽きて、「自分はもうこのままでよい。自分がどうなろうとどうでもよい。主の栄光が現われればよいのだ。」と決意します。その自分への死の決意をすることができると、主がそこで救い出してくださいます。そして、パウロは、この自分の経験から、次のような神の働きに確信を持つことができるようになります。

 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

 
いつ何時も、神は自分を救い出してくださる、という確信です。この確信を、苦しみを通ることによって抱くことができました。


 そしてパウロはふたたび、この経験を奉仕者としての働きに結びつけています。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

 
パウロが苦しみにあうことによって、コリントの教会の人々がパウロのために祈りをささげるようになります。その祈りを神が聞いてくださることによって、主の恵みのわざを知ることができるようになります。そうすると感謝をささげることができるようになり、教会全体の徳が高められるようになるのです。祈りは大切です。ヤコブは、苦しんでいるときは祈りなさい、と勧めました。また、パウロも、「一部が苦しめは他も苦しむ。」と言いました。この苦しみの中で神が救い出してくださり、その恵みのみわざを見ていくことができるのです。


2A 誠実な行動 12−24
 こうしてパウロは、苦しみの中で自分が効果的に奉仕の働きをすることができるようになったことを話しました。次にパウロは、自分が誠実な行動を取っていることを弁明しはじめます。

1B 神の恵み 12−22
1C 純真 12−14
 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。

 パウロは今、自分がマケドニヤを通ってコリントに行かなかったことについて弁明しています。そこで、コリントにいる人たちの中に、パウロの行動はおかしい、自分の都合で計画をころころ変える奴だ、という批判をする者たちがいたのです。けれども、パウロは、私は、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵ではなく神の恵みによって行動している、私たちの良心がそれをあかししている、と弁明しています。これはどういうことでしょうか。確かに、パウロが旅程を変えたことは、厳密に言えば、自分が言ったことを変更する無責任な行動ということになります。あるいは、何か裏に思惑があって、そのようなフェイントをかわしたのだ、と言うことになります。しかし、彼が律儀になって、すべてのことにおいて正確であり、きちんとしていたとしたら、どうなるでしょうか。ここでパウロが言っているように、神の恵みがなくなってしまいます。パウロは、マケドニヤを通ると言ったとき、「主がお許しになるなら」と言いました。主の導きによって、旅程を変更することをパウロは選んだのであって、自分の人間的な思惑によって変更したり、「こっちがよいか、あっちがよいか」など優柔不断になったのではありません。


 これが、パウロが話している、聖さと神から来る誠実さであります。「聖さ」というのは純真と訳すこともできることばです。英語ですと、simplicityであり「単純」とも訳すことができます。パウロは、主によって示されたことを単純に行なっているのであり、主に導きを受けたときに単純に従ったのであり、主に命じられたときに単純に聞き従ったのであり、とにかく主と自分との関係において、主と自分との交わりにおいて決断したことなのです。マケドニヤを通ると行ったときのパウロは、本当にそう思っていただろうし、そしてその旅程を変更するときも主に何らかのかたちで示されて変更したのです。純真であり、また誠実なのです。これを批判する人は、その裏にある動機を探ろうとして疑いをかけます。そして、奉仕者のごく単純な行動について、大きな理論や理念をふりかざし、その奉仕者の行動は間違っていると糾弾します。パウロは、こうした批判によって心を痛めているのです。

 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。

 コリント人への第一の手紙において、パウロは、その意図しているところをそのまま曲げずに、書いていたことを話しています。「行間にパウロが意味しているものがある。」とか、「隠された意図はこのようなものである。」とか、その手紙を読み込む必要はない。書かれてあるところをそのまま受けとめればよいのです。

 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。

 奉仕者と世話になった人々の間には、このような信頼関係があります。奉仕者にとって、心変えられ、キリストにあって成長した人々は、主イエスが再び来られる日に誇りとなります。「主よ、見てください。こんなに、すばらしく成長しました。」とほめたくなるのです。また、その奉仕を受けた人も、「あの人がいてくれたおかげで、私は今の私になっています。」と奉仕者を主の前でほめることができるのです。これが信頼関係です。もし信頼関係がなかったら、パウロを批判している人のように、パウロのすること言うことに難癖をつけるようになってしまいます。しかし、奉仕者と信者との間には、このような信頼が必要なのです。


2C 「しかり」 15−20
 この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。これがパウロの最初に予定した旅です。そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては、「しかり、しかり。」は同時に、「否、否。」なのでしょうか。しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり。」と言って、同時に「否。」と言うようなものではありません。

 私は、マケドニヤに行くという予定を立てたときに、同時にマケドニヤには行かない、という計画を立てたのでしょうか?ということです。「しかり、しかり」と同時に、「否、否」ではないのです。


 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。

 パウロは、自分がしかりであること、つまり純真さと誠実さを持って行動していることは、自分たちの主イエス・キリストがそのような方であるからと言っています。イエスさまが語られたことばは、その裏に秘められた意味が隠されているのではなく、むしろ人々に理解できるように語られました。

 神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。


 イエス・キリストは真理です。この方が語られたことには最終的な権威があり、それを受け入れるか拒むかのどちらかでしかありません。イエスさまには、「はい、そのとおりです。」と受け答えるしかありません。「このイエスという者は、こうこうこういう人物であって、だからこのようなことを言ったのであり、行なったのである。」という批評を加えることはできないのです。すべての律法と預言はイエスさまにおいて成就しました。イエスさまが神の栄光な完全な現われであり、この方に対して、私たちはアーメンと言うのです。


2B 神の証人 21−24
 そしてパウロは、自分がこのように弁明しているのは、自分のためではなく、神の御名のゆえであることを話しています。

1C 油注ぎ 21−22
 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

 キリストのうちに堅く保っていてくださるのは神であるし、また油を注がれたのも神です。自称クリスチャンでもなければ、自称使徒でもないことをパウロは弁明しています。神が自分をキリストに結びつけるように選ばれて、また神が使徒の働きをするように任命してくださったのです。彼は自分自身の福音を展開させている、また彼は、エルサレムで使徒たちからの按手を受けていないなど、いろいろな批判があったかもしれません。けれども、パウロは任命するのは神である、と言っています。

 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

 
神に任命されたことを確認するには、御霊を心の中に与えてくださったことによって知ることができます。贖いの約束の保証として、あるいは頭金として、御霊を与えてくださいました。将来における贖いを自分のものとすることができるという保証を、その前味を楽しませることによって与えてくださっているのです。エペソ書1章には、こう書かれています。「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(
1:13-14」御霊による喜び、愛、平安が私たちの保証です。神の御国においては、この何千倍もの何万倍もの祝福を受け取ることができます。

2C 協力者 23−24
 そこて、パウロは自分を弁明し始めます。私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。

 
神を証人にお呼びして言います、とパウロは言っています。神の御名のゆえに、今、弁明しているのです。弁明というと自分を守るためであると考えられます。しかし、神が自分をお立てになったのだ、神がこの弁明をすることを願われているのだ、と言うことなのです。パウロは今、マケドニヤのどこかにいると思います。コリントへ向かう途中なのですが、ゆっくりと進んでいるようです。それは、コリントにいる人々が悔い改めて、心の備えをして、喜びに満たされる時間を設けさせるためであります。この思いやりがあって、まだコリントへ行っていません。


 そして最後に、とても大事なパウロの言葉があります。私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。

 
信仰を支配しようとするのではなく、彼らの喜びのために働く協力者であると言っています。それができるのは、彼らが堅く信仰に立っているからであるとしています。奉仕者あるいは教会の指導者は、信者に対していろいろな指導をします。その指導によって、人はときに、自分の信仰が干渉を受けている、支配されていると感じるようになります。指導者の支配の下にいるのではないか、と感じるときがあります。しかし、それは違うのですね。そうではなく、信仰の結実である喜びをもたらすために、手助けをしている人なのです。これが可能になるのは、一人一人が信仰に堅く立っていることです。パウロは、コリントにいる人々に、強力な指導をしました。もしコリントにいる人々が、信仰に堅く立っていなければ、たしかにパウロはその指導によって彼らを支配することになるでしょう。しかし、信仰に堅く立っていれば、それを支配されるとは感じないで、自分たちの信仰の歩みの手助けであると理解することができるのです。信仰において成熟している人たちにほど、奉仕者は具体的に勧めをすることができます。反対に、信仰において未熟であれば、その人の気持ちを受けとめることはできても、勧めることはできません。勧めれば、その人を支配してしまうことになるからです。奉仕者は、自分がしっかりと信仰に立っていることを前提にして、自分を助けてくれる人であるのです。


 パウロの弁明は続きます。パウロは少しずつ、その痛む心を開きつつ、牧会者としての彼らへの愛を表明しています。パウロが受けた苦しみによって、彼は人を慰めることができるようになりました。またその苦しみによって、救い出す神について知ることができました。また、誠実と純真さをもって、彼は神の恵みによって行動していました。私たちはどうでしょうか?奉仕の働きの備えはできているでしょうか。苦しみによって、それを神との交わり、また人々に慰めを与えるものとして備えられているでしょうか。また神の恵みによって、誠実さと純真さをもって行動しているでしょうか。自分自分により頼まず、神に拠り頼むものとされているでしょうか?


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