コリント人への手紙第二12章 「霊的奉仕者の資質」

アウトライン

1A 弱さの中にある誇り 1−13
   1B 啓示 1−10
      1C 第三の天 1−6
      2C 肉体のとげ 7−10
   2B 奇蹟と不思議 11−13
2A 霊的な父としての愛 14−21
   1B 負担をかけない訪問 14−18
   2B 悔い改めない者についての懸念 19−21

本文

 コリント人への手紙第二12章を開いてください。ここでテーマは、「霊的奉仕者の資質」です。

 パウロが、この第二の手紙を書き出すきっかけとなったのは、にせ使徒たちがコリントの教会にいたことです。彼らがパウロの使徒職について疑いをかけ、彼の信用を傷つけました。パウロのことをよく知っていたコリントの人たちは、そのようなを自分たちで排除するべきだったのに、消極的な態度を取りました。このような中でパウロがこの手紙を書き始めたのです。ですから、この手紙はパウロの深い部分の感情が吐露されています。そして、彼は、愛するコリント人たちに続けて奉仕をしていくために、自分の使徒職の信憑性を擁護しなければならなくなりました。今日学ぶところは、この弁明の最後の部分になります。

1A 弱さの中にある誇り 1−13
1B 啓示 1−10
1C 第三の天 1−6
 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

 パウロは
11章において、自分を愚かにして、自慢話をしてみせますと言いました。彼は、自分がいかにすばらしい働きをしたかを誇ることは、あまりにも愚かであると思っていましたし、事実そうでした。しかし、コリントの教会の人たちが、名声や見た目の成功や、人脈などの肉的なことにおいて、だれが正統な使徒であるかを見定めしていたので、パウロは、自分のことを彼らの基準に従って推薦せざるを得なくなったのです。ですから、無益だと分かりつつ、自分のことを誇らなければなりませんでした。けれども、11章において、彼は意外なことを自慢しはじめました。それは、弱さを誇ることです。彼は、自分がとおった困難を列挙しました。目を見張るような成功談ではなく、いかに自分が弱かったのかを誇ってみせたのです。そして、12章に入っても、この弱さについて話していきます。けれども、その前に、自分が受けた幻と啓示について話します。

 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。

 
パウロは、自分が天国にまで引き上げられた話しを始めています。彼は自分のことを、「キリストにあるひとりの人」と言っています。私パウロが天に引き上げられた、とは言わずに、あえてだれであるかを隠しています。自分自身に人の注目が寄せられることを、このようにして避けているのです。そして、「キリストにある」と言って、キリストの御名に栄光をお帰ししています。自分には誇るべきものは何一つないが、キリストにはすべての栄光と誉れと尊厳がある、ということです。これが、私たちクリスチャンの立場であります。


 そしてパウロは、「14年前に」と言っています。これがパウロの宣教のどの時期に当てはまるか正確には分かりませんが、ある人は、ルステラにおける出来事ではないのか、と推測していました。ルステラにおいて、アンテオケとイコニオムからやって来たユダヤ人たちが、群集を抱き込んで、パウロを石打ちにしました。彼が死んだものと思って、彼らはパウロを町の外にひきずり出しました。そして弟子たちがパウロの周りを取り囲んでいると、彼は立ち上がって、「またルステラに戻って、福音を語ろう。」と言ったのです。これだけ見ると、パウロとは超人ではないのか、と思ってしまいますが、もしかしたら、この死んだようになっていたときに、第三の天にまで引き上げられていたかもしれません。

 「第三の天」とパウロは言っていますが、第三の天があるのであれば、第一と第二の天もあるはずです。聖書によると、第一の天は、私たちが見上げることのできる天であります。空とも言えるし、大気圏とも言えるでしょう。鳥が飛んでいるところの天です。第二の天は、「天体」と私たちが普通呼ぶところの天です。星があり宇宙があります。そして第三の天がパラダイスです。主なる神の御座があるところが、第三の天であり、私たちが「天国」と呼んでいるところです。パウロはそこに引き上げられました。

 私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

 パウロは、パラダイスにおいて、人が話してはいけない、言葉に言い表すことのできない言葉を話しました。ここを言いかえれば、パラダイスにあるものは、あまりにもすばらしいので、地上に存在する人間の言語によって表現すれば、それは犯罪になるほどのものである、ということです。生まれつき盲目の人に、桜の後ろにある富士山の姿を言葉で言い表すのは、ほとんど不可能であります。ピンク色の花びらをしたのがさくらで、その後ろにてっぺんが雪で帽子のように覆いかぶさった山がある、という言葉にしてしまったら、その美しさは半減どころか、百分の一、千分の一になってしまうことでしょう。同じように、私たちの世界において、天国のことをことばで言い表すことは不可能であるのです。


 パウロは、自分が受けている苦しみについて、「将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:17」と言っています。また、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(Uコリント4:12」と言いました。パウロが受けていた諸々の苦難が取るに足りないもの、軽いものになってしまほどの栄光が、天にはあるのです。

 この栄光を見ていることが、これがクリスチャンとしてまっすぐに生きていくための資質であるし、特にみことばを取り次ぐ霊的な奉仕にあずかっている人が持っていなければいけない資質であろうと思われます。例えば、モーセのことを考えてください。モーセは、顔と顔を合わせて、主と語り合っていました。イスラエルの民は、シナイ山における主の栄光を見ただけで、自分たちが殺されるのではないかと恐れたほどだったのに、モーセはその真ん中に入っていったのです。この栄光を見ているから、人々に霊的な事柄について語ることができるわけです。使徒ヨハネも、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。(ヨハネ1:14」と言っています。使徒ペテロも、高い山におけるイエスさまの変貌を見ています。「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。(Uペテロ1:16」と言っています。この栄光にもとづいて、彼らはキリストとともに歩むことができ、またみことばを教えていくことができました。もちろん、今の私たちはみな、彼らのような啓示を受けません。けれども、彼らが神の霊感によって書いた聖書のことばによって、ご聖霊がキリストの栄光を私たちに明らかにしてくださいます。したがって、パウロは、天における事柄をはっきりと見ていたので、このように人々にみことばを説き明かすことができました。

 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

 天に引き上げられたのは自分自身であるのにもかかわらず、このような人と言って、自分自身と切り離しています。

 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

 にせ使徒たちは、自分たちが行なっていること以上のことを語って、誇っていました。これは愚かなことですが、パウロは、本当のことを語っているのだから、愚かなことではありません。けれども、誇るのは控えましょう、と言っています。その理由は、自分を過大に評価しないため、と言っています。そうですね、これが、人間が持っている傾向です。神さまに用いられている人を、まるで自分とは異なる次元にいるように取り扱います。その人はとても神さまに近い人であり、自分は遠く離れている、という間違った考えを持っています。あるいは、自分はさほど神にとって重要ではないが、あの人はとても大切にされている、と思います。けれども、キリストの恵みは、すべての人を同じように神に近づけました。だれが神により近くて、だれが遠いかという世界は、恵みの神の中においてはまったくないのです。ただ、神がキリストによって行なわれた御業のみが、天においてはたたえられています。


2C 肉体のとげ 7−10
 このようにパウロは、自分が見た主の幻と啓示を話したあとに、サタンの使いから与えられた肉体のとげについて話します。

 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

 
肉体のとげです。これが一体何であるかについて、いくつもの解釈があります。多くの人は、これをパウロの身体的障害であると考えています。彼は、目が良く見えなかったようです。小アジヤにおける宣教において、マリラヤにかかり、その熱病のため、視力が弱まった、と言われています。そのためガリラヤ人への手紙では、「あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思っていたではありませんか。」と言い、さらに、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」と言っています。ですから、目がよく見えなくなってしまったことではないか、と言われています。けれども分かりません。


 身体的な障害に限らず、私たちは生活の中で、いろいろなとげを持っているでしょう。ある人にとっては、過去に犯してしまった罪であるかもしれません。そのために、自分が今、大きな不自由を強いられているとします。あるいは、「この人さえいなくなってくれれば…。」というような、自分が苦手とする人であるかもしれません。この人さえいなければ、私の人生の計画はすべてうまくいくのに…。私はいつも、ヤコブのことを思い出します。彼がエサウの怒りをかって、イサクの家から出て行ってから、肉体にとげを持ちながら生きていたのではないかと思います。彼の行く先にはラバンがいました。ラバンは、彼を何回もだましました。ヤコブの苦労は人知れず大きなものでしたが、主が彼の手を祝福してくださり、二人の妻と
12人の息子と、何人ものしもべと家畜を持つようになりました。そして、ついにラバンのところから出て行きました。神がラバンに語られて、ヤコブは殺されるのを免れました。そして今度は、エサウです。エサウが自分と家族の者を殺すのではないか、を恐れました。夜に、彼は神の御使いと格闘しました。そして、太ももの間接をはずされてしまい、彼はそれから一生、びっこを引いて歩いていたのです。私は、自分の生活にもヤコブに通じるところがあるよなあ、と思ってしまいます。みなさんはどうでしょうか。私たちには、それぞれの生活にこの肉体のとげがあるでしょう。

 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

 
パウロは、三度も、このとげを去らせてくださるように願いました。けれども、その願いは彼が望むようには聞き入れられませんでした。けれども、神さまの方法によって、その祈りは聞かれました。主が答えられています。

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


 これは、クリスチャンが試金石とすべき根本的な真理です。クリスチャンの力は、自分の弱さの中に現われるということです。私たちは絶えず、神によって、下へ下へと押し込まれる人生を歩むようにされます。聖書の中の「忍耐」という言葉には、背中に荷物を背負って、腰を曲げてじっとしているという意味があります。私たちの人生は、このように腰を曲げて下へと降りていくものであると考えてよいでしょう。私たちは自分の心の中で、一つのサクセス・ストーリーを考え出します。「これこれをしたら、神さまがこのように働いてくださって、そして、このような出来事が起こって、それで私は幸せになる。」というような、成功談をそれぞれの思いの中で抱いていると思います。妻の場合は、幸せな家庭生活を結婚するときに思い描いていたようです。私が一般企業でビジネスマン・クリスチャンとして働き、そして2人の間に子どもが生まれる、というストーリーです。けれども、それは起こりませんでした。神は、私たちの夢、野心、期待がそがれていき、これでもかと言わんばかりに、私たちを低くされます。


 そして、私たちが低くされたときに初めて、神は、「わたしの恵みは、あなたの十分である。」と語ってくださるのです。その弱さの中にあって、初めて見えてくる神の恵みがあります。他に苦しんでいる人をあわれみ、助け、慰めることができます。また、何よりも、私たちの主イエスさまのことを、深く、親密に知ることができます。イエスさまが歩まれた十字架への道を、私たちが低くされることによって初めて歩むことができるのです。神が最も願われているのは、私たちがキリストに結びつけられた者となることです。もちろん、イエスさまを心にお迎えしたときからすぐに、結びつけられたのですが、その後の人生は、結びつけられた自分に、死んでよみがえられたキリストが現われるようにされようとします。そのために、時に肉体のとげを与えられるのです。

 「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と主は言われました。完全に現われるのです!私たちは、自分が弱いと思っているところで、初めて力を尽くして主に拠り頼みます。それゆえ、主が私たちをとおして働くことができるようになるのです。しかし、自分がまだできると思っているところには、主はまず、私たちができなくなるのを待っておられなければいけません。バトンを私たちが主にお渡しするのを、主は待っておられるのです。私たちが降参して、この自分が強いと思っていた分野も、主にお任せしなければならないのだと思ったときに、初めて主が生きて働いてくださり、この「弱さのうちに完全に働く」という真理がそのとおりになります。

 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 
この言葉を、信仰をもって自分のものにしてください。自分がほんとうに弱くなっている、もうだめだ、と思っているとき、「この時こそ、私は強いのだ。」と言い聞かせてください。私たちの弱さの中に、キリストの力がおおわれます。


 こうしてパウロは、主の幻と啓示を見たのにも関わらず、自分の弱さを誇りました。彼は、この道が、自分が歩むべき理想であることを悟ることができたのです。すなわち、彼は神の栄光を見ることはできました。その栄光からへりくだる道を歩み出し、そしてキリストの死とよみがえりを経験することができます。主ご自身がまさにそうでした。父なる神のふところにおられる方が、人の姿を取られて、へりくだられました。ですから、私たちクリスチャンとしての素質は、イエス・キリストの栄光をはっきり見ることと、それに続いて、キリストの道を歩む決断ができていることです。

2B 奇蹟と不思議 11−13
 それでは11節をごらんください。私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。

 パウロはここで、自分を愚かにするのを終わりにしています。もうこれだけで十分でしょう。あなたがたが愚かな議論をしているので、私もその中に入ってきたのですよ、と言っています。パウロのことを最も知っているのは、他でもないコリントの人たちなのです。なのに、私に自己推薦させるようなことはやらせないでください、と言っています。

 たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。

 
パウロは、大使徒たち、つまりエルサレムの教会にいた
12使徒たちに劣ることはない、と言っています。事実、パウロの働きは、他の使徒たちをしのぐものでした。しかし、パウロは、こんなことを比べること事態、くだらないことだと思っています。彼は、「取るになりない者だ。」と言っています。事実、私たちクリスチャンの奉仕は、神の御前にあって、ただ感謝の表れとして行なっていることと、また、しもべとして、しなければいけないことを行なっているにすぎないことを知っています。神の恵みへの応答と、しもべとしての従順によって奉仕します。

 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。

 これが、使徒職の正統性を示すしるしでした。奇蹟と不思議と力あるわざです。昔、神の預言者たちは、この奇蹟と不思議と力あるわざによって、その人に神がともにおられることを示しました。同じように、使徒たちも、奇蹟を行なうことによって、その権威を示しました。

 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。


 彼はここで皮肉を言っています。にせ使徒たちは、コリントの人たちから金をまきあげていました。彼らこそ不正を行なっているのですが、批判の矛先はパウロに向けられていたのです。この矛盾した状態を、パウロは、「この不正については、どうか、赦してください。」と皮肉っているのです。


2A 霊的な父としての愛 14−21
 こうしてパウロは、自分の使徒職を弁明することを終えました。そして、パウロは、コリントの教会への訪問について言及します。

1B 負担をかけない訪問 14−18
 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。

 
パウロは、コリントの人たちに対して、親が子に対して抱くような愛を持っている、と言っています。コリントの教会は、パウロの手によって始まり、建て上げられました。ここでは、「私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身です。」というのが、大切なことばです。父が子がどのようなことを行なっていようと、自分の子であるということ自体が、もっとも嬉しいことであります。現代では、父が子に対して、自分の息子であることよりも、自分が息子を持っているというイメージのほうが先行する親子関係があります。息子を愛しているのではなく、息子を持っているという自分のイメージを愛しているのです。そうすると、息子の人格にひずみが出て来て、親には理解することのできないところに子どもはさまよい出てしまいます。これが、パウロがここで話している、「あなたがたの持ち物」ということです。「あなたがたのもの」と訳すこともできます。しかし、パウロが愛していたのは、彼らについてのものではなく、彼ら自身であったのです。


 もし、教会指導者が思い描く理想が、教会員の人数の増加、教会堂の建設、献金の増加、名声などであれば、どうなるでしょうか。その牧師は、信徒たちに親切にしたりしますが、それはあくまでも、自分が思い描いているイメージの中で愛しているに過ぎません。悪い言い方をすれば、使い物にならなければ捨て去っても良い、と考えます。しかし、それは、本来あるべき姿ではありません。人数が少なくてもかまわない。付き合っても得するわけでも構わない。あなたがいてくれることが私にとって大切なのだ、という姿勢が必要なのです。とどのつまり、キリスト教会とはキリストとの関係、また信者どおしの関係なのです。福音を伝えている中で、キリスト教会は、福音をセールスマンのように売って歩くようなことをしているのではないか、という問いかけをした人がいます。しかし、私たちが求めるものは、信仰告白をした人の人数ではなく、その人自身なのです。

 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。私はテトスにそちらに行くように勧め、また、あの兄弟を同行させました。テトスはあなたがたを欺くようなことをしたでしょうか。私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。

 パウロは、人から何も取っていなかったのに、だまし取ったという、根も葉もない中傷が飛び交っていたようです。そこでパウロは、そのよなことをしたことを、あなたがたは見つけることができますか、と問いただしています。テトスが、パウロに代わってコリントに行かせましたが、彼に何か欺くようなことはしましたか、と聞いています。


2B 悔い改めない者についての懸念 19−21
 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。

 
パウロが語っていることは、みな、彼が自分の良心に従い、主の御前で、キリストにあって語っていることでした。そこに、彼らに後ろめたさがあって、言い訳をしようなどという気持ちは毛頭ありません。後ろめたさは、何一つないからです。キリストにある単純さからそれないように、とパウロはコリントの人たちに言いましたが、パウロはキリストにあって単純に生きているのに対して、コリントの人たちは、肉によって誇り、単純なことを複雑にしてしまっています。そこで、パウロのことばも自己弁護にしか聞こえなかったのでしょう。


 愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。

 パウロは、コリントの人たちに会うときには、彼らを励まし、慰めることばを話したいと思っています。けれども、もし、問題が解決せずに、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶりがあるのであれば、パウロは、それに対して罰しなければいけません。けれども、パウロは神から与えられた権威を、罰するのではなく、築き上げるために用いたいのです。

 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。

 悔い改めない人たちがいたら、嘆かわしいことになるでしょう、と言っています。パウロは、このような肉の行ないを見て、他人事として片付けることはできませんでした。先ほど父のようにあなたがたを愛しているとパウロは言いましたが、父は子を訓練します。悪いことをしたら懲らしめなければいけません。しかし、父にとって、子を懲らしめることは、自分自身を痛めつけるように辛いことです。父も泣きながら、子を懲らしめるのです。パウロが感じているのは、このことです。こんなに誇りに思っているあなたがたなのに、ねたみや争い、また不品行や汚れがあったら、私が主の権威によって、懲らしめなければいけなくなりますよ、と嘆いているのです。教会の中における悪を、見逃すのでもなく、またさばいて切り捨てるのでもなく、嘆き悲しむことがきできる人が、本当の奉仕者なのでしょう。


 こうして12章を見てきました。私たちはすぐに、コリントの人たちのように高ぶってしまいます。自分がどこから来たのかを忘れてしまい、一角のものと思ってしまい、そして愚かな議論、争いや分派を作ってしまいます。そのようなときに、にせ教師の教えを受け入れてしまいます。しかし、私たちは自分の弱さを誇るべきです。私たちは、神によって肉のとげが与えられています。このとげのおかげで、私たちはクリスチャンになった目的、すなわち、キリストに結ばれた者、キリストの歩まれた道を歩む者となるのです。


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