コリント人への手紙第二13章 「主から授けられた権威」

アウトライン

1A キリストの弱さと強さを帯びた権威 1−6
2A 人を完全にするところの権威 7−10
3A 愛と平和の神に導く権威 11−13

本文

 コリント人への手紙第二13章をお開きください。私たちは、コリント書第二の学びの最後に来ました。ここでのテーマは、「主から授けられた権威」です。パウロが、自分に与えられた主からの権威がどのようなものであるかを、この手紙のしめくくりにコリント人たちに話しています。

 パウロは、12章において、自分がコリントの教会に三度目の訪問をすることを話し始めました。彼は、父が子を愛するようにコリントの人たちのことを愛していることを伝えました。そして、コリントの教会に、依然として、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、騒動があるのであれば、私がそちらに行ったとき、嘆くことになるのではありませんか、と言っています。また、不品行と好色の問題も依然とあったようです。そこで13章の1節にはいります。

1A キリストの弱さと強さを帯びた権威 1−6
 私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。

 パウロは、もう一度、自分がコリントの教会への訪問が三度目であることを強調しています。そして、申命記
1915節のみことばを引用しています。「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」というところです。パウロは、このみことばに基づいて、罪を犯している者たちに対して、今度は公に処罰します、と言っています。イエスさまが、申命記のことばを用いて、兄弟の罪を正すことについて教えられました。「兄弟が罪を犯したなら、二人だけのところでそれを責めなさい。それでも聞き入れなければ、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。それは、ふたりか三人の証人によって、すべての事実が確認されるからです。」と言われました。もしこれでも聞き入れない場合は、教会に告げて、教会がその兄弟の行ないを正します。教会の言うことも聞き入れない場合は、この兄弟を教会から追い出さなければいけません(マタイ18:15-17)。パウロは、二回目の滞在のときに、罪を犯している者たちを内々で戒めたものと思われます。けれども、それでも悔い改めていなければ、私は厳しい処罰を課します、と警告しているのです。

 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。

 ここでパウロは、コリントの教会にある、根本的な問題について語っています。それは、パウロに与えられた主からの権威に対して挑みかかる、という問題です。パウロが、罪を犯している者たちを戒めたのですが、彼らはそれを聞き入れようとはせず、かえって、パウロが真の使徒であるのか、という疑いをかけてきています。パウロたちに対して、「お前たちは、私たちの上に立って支配しようとするのか。だれがあなたにそのような権威を与えたのか。」と挑んでいます。そこで、パウロをとおしてキリストが語っておられるのであれば、その証拠を見せなさい、と求めているわけです。


 この反応に対して、パウロは、キリストについて語り始めます。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

 
キリストは、あなたがたの中で強い方である。たしかに十字架においては弱くされたが、神の大能の力によってよみがえられ、今も生きておられる。このキリストとともに私たちは生きている。したがって、私たちがあなたがたのところに行くときには、キリストがあなたがたの中でさばきを行なわれる、ということをパウロはここで言っています。


 使徒行伝にあった出来事のことを思い出してください。使徒行伝、あるいは使徒の働き、という題名の書物になっていますが、実際は、主の働きと呼んだほうがよいでしょう。使徒たちが、福音を宣べ伝えましたが、主が彼らとともに働かれて、大きなみわざを行ないました。マルコの福音書にも、「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(16:20」と書かれています。したがって、イエスさまは天に昇られたのですが、ご聖霊によって彼らの間で続けて働いておられたのです。そこで、主の御名をあなどるような行為に対して、さばきが下されている個所があります。アナニヤとサッピラの出来事です。彼らは、地所の代金の一部を残しておいたのに、使徒たちには、すべての代金を持ってきた、と言って偽りました。すると、アナニヤもサッピラも、使徒たちの前で、たちまち息が絶えて、倒れてしまいました。これは、使徒たちとともに主が生きて働かれているからなのです。

 パウロが言いたいことは、このことです。悔い改めずに、むしろ主がパウロに授けられた権威に挑みかかるのであれば、キリストご自身があなたがたをさばかれます、と警告しているのです。

 ここでパウロが、「キリストが弱さのゆえに十字架につけられた」と言っているところに注目してください。ここに、とても大事なイエス・キリストの権威について書かれています。イエスさまが十字架にかけられたとき、また、そのかけられる前に、イエスさまは、ご自分を十字架からお救いになることは、いとも簡単におできになりました。「彼が神の子であるなら、自分自身を救ってみるがよい。十字架から降りてくるがよい。」とののしったとき、イエスさまはそれがおできになるどころか、ののしる彼らを、たちまち火で焼き滅ぼすこともおできになったのです。しかし、イエスさまは、あえてご自分の力を用いずに、自分自身を弱くされました。しかし、この弱さが神の愛の現われであり、この愛にふれられた人々が、180度人生を変えられていくという、大きな影響力を持っています。したがって、イエスさまの生涯は、柔和さとへりくだりに特徴づけられていました。「わたしは、心優しくへりくだっているから」と言われています。イエスさまには、神の大能の力がおありです。それは、死者からのよみがえりによって証明されました。けれども、その力を行使せずに、あえて弱い姿を取られたのです。

 したがって、キリストのしもべである者は、キリストの柔和さとへりくだりを身に着けなければいけないわけです。パウロなど使徒たちは、優しさがその特徴でした。決して力を行使して、人々を支配するようなことをせずに、むしろ、弱まっている人のところに近づき、信仰によっていやしを行なったり、奇蹟を行なったりしたのでした。パウロは、若い牧会者であるテモテに対して、「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。(Uテモテ2:25」と教えています。反対する人たちに対しても、柔和な心で訓戒しなければいけません。

 ところが、人は、このような弱さを、本当に弱いと思うことがあります。柔和さやへりくだりを、その人が弱いからだと思って、それで反抗し、ついには、その権威をくつがえそうとします。しかし、それはとても危険なことです。なぜなら、そのキリストのしもべは、本当に弱いのではなく、生きているキリストがともにおられるからです。モーセのことを思い出してください。彼は地上でもっとも謙遜な者であった、と書かれています。そこでコラというレビ人が、モーセとアロンに逆らいました。「お前たちは、私たちを約束の地に導き入れるのに失敗したのに、まだ私たちの上に立とうとするのか。お前たちが神の民であれば、私たちもそうだ。あなたがたは分を越えている。」と責めました。そこで、みなさんもご存知のように、コラが立っている地面が裂けて、彼とその家族は、生きたまま地獄へと落とされたのです。キリストの弱さを身にまとったモーセですが、同時に、生きておられるキリストともにいたからなのです。

 私たちは、ほんとうの権威を知らなければいけません。それは、キリストの弱さに裏づけされた強さです。この世は、意志が強い人、主張する人、締め付けを行なう人々が、人々の上立つと教えます。そこで私たちも、キリスト教会の中で、意見の強い人、主張の強い人をリーダーとしてあがめ、そうでない人を見下す傾向にあります。しかし、本当の力は、キリストの柔和さと優しさの中に隠れています。へりくだりの中にこそ、教会の真の力があります。

 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。・・あなたがたがそれに不適格であれば別です。・・しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。

 
コリントにいる人々は、パウロが真の使徒であるかどうかを、丹念に調べ、試しました。しかし、それは、正しくない態度でした。パウロのことを試すのではなく、自分自身をためし、また吟味しなければなりませんでした。イエスさまは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われました。パウロも、この手紙で、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(Tコリント
11:31」と言っています。教会は、自分自身をさばく人たちがいるときに、強くなります。私たちが、よく自分自身を吟味して、さばいているときに、他人をさばく心がなくなってきます。自分をためし、さばくことを恐れないでください。これによって、信仰がさらに練り清められ、自分が本当に立つべき場所を見い出すことができるのです。

 パウロは、「信仰に立っているかどうか」と言っていますが、ここの「信仰」の前には定冠詞が付きます。英語ですと、”THE faith”となっています。つまり、これは、なにかを信じているというあやふやなものではなく、イエス・キリストの福音の中に信仰という特定の信仰のことを指しています。あなたが、この福音の中に信仰を置いているかどうかを確かめなさい、とパウロは言っているのです。以前、私は、神の前では、クリスチャンもそうでない人も、神の前に出るということに関しては、なんら区別はないことを話しました。そう言うと、「やめてくださいよ。私はもう信仰告白をして、洗礼を受けて、教会で奉仕もしているのですから、クリスチャンではないような言い方はしないでくださいよ。」という反応が返ってくるかもしれません。

 しかし、クリスチャンがクリスチャンであることの所以は、自分には何も善いものがなく、いやむしろさばかれるような存在であり、自分の奉仕も祈りも信心深さも何も役に立たないことを知っている人なのです。ただキリストのみが私を救ってくださる、という立場を保ち続けているからこそ、自分をクリスチャン、「キリストのうちにある者」と呼ぶことができます。もし、初めて福音を信じたときのように、神のあわれみを求めてキリストの十字架によりすがることがなければ、私たちは必ず、他のものを信じています。今まで行なってきた奉仕のわざであるとか、過去に信仰告白したことであるとか、洗礼を受けたことであるか、何らかの行ないに信仰を置いているのです。しかし、パウロは、「ザ・信仰に立っているかどうか、自分自身をためしなさい。」と命じています。自分の信仰が、キリストのみになっているかどうか、ためさなければいけません。


2A 人を完全にするところの権威 7−10
 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行ないをしてもらいたいためです。

 パウロは、コリントの人たちが、いま行なっている悪い行ないを捨てて、正しい行ないをしてくれるように祈っています。パウロたちは今、自分たちが偽物の使徒であるという中傷を受けています。したがって、彼がコリントにおいて、そこにいる悔い改めない者たちを、神の力によってさばけば、自分たちの信頼は回復されるのです。「こんなに大きな力が、パウロを通して現れたのだから、神がパウロとともにおられるのだ。」ということになります。しかし、パウロは、そのようなことは望まない、と言っています。「私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく」と言っています。むしろ、コリントの人たちがパウロたちが行くまえに回復して、悔い改めを行ない、それで自分たちへの疑いが残っても構わない、と言っているのです。


 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。

 
パウロの祈りは、コリントの人たちが完全な者になる、ということでした。完全な者になるとは、もちろん罪を全く犯さないような完璧な人になる、ということでは全くありません。そうではなく、成熟へ向かって走っている人になりなさい、と言いかえることができるでしょう。自分が抱えている問題を宙ぶらりんにすることなく、主の前に差し出して、主に取り扱っていただくこと。自分の失敗も成功も、すべてを主の前にさらけ出している人。心がすべて主に開かれている人、この人が完全な者と言うことができます。そして、あなたがたが完全な者になるのであれば、私たちが弱くなっていてもよいのです、とパウロは言っています。これは、パウロたちが不当に目立たないようにされている、その労苦に対して不公平な評価を受けている、ということも含まれるかもしれません。それでも良い。あなたがたが、霊的に強くされて、完全な者とされるのであれば、不適格な者であると思うやからがいてもよい、と言っています。


 その理由として、「私たちは、真理に逆らっては何もすることができず、真理のためなら、何でもできるのです。」と言っています。これはどういうことかと言いますと、自分たちが卑しめられたとしても、嘘をついてまで適格者と認められようと求めることはできない、ということです。また、真理のためなら、自分たちがどこまで卑しめられてもよい、ということです。彼らにとっては、真理がすべてであり、自分たちの立場や境遇は下に追いやられていました。次週から学ぶガラテヤ人への手紙に、このようなパウロの発言があります。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。(1:8」自分たちをも、のろわれるべきであると言っています。これが、真理に逆らっては何もできない、と言っている意味です。

 ここで「真理」とパウロが言っているその具体的なことは、コリントの人たちが完全な者となる、という神のみこころであります。キリストが彼らのうちにまた形造られること、これが神のみこころです。彼らが回復することが、神が望まれていることであり、この真理に対して私たちは逆らうことができない、と話しています。そこで次のように言っています。

 そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。


 築き上げるための権威であって、倒すための権威ではありません。主のみこころは常に、人が罪から救い出されて、キリストのものになること。そして、キリストにあって悪い行ないを捨てて、正しいことをすることであります。その真理のために、すべての賜物や権威が備えられています。パウロは、コリントの人たちがキリストにあって建て上げられるために、その権威を用いることが神のみこころであることをよく知っていたのです。


 ここから私たちは、主から授かる権威は、人を建て上げるもの、回復させるものであることを知ることができます。だれかが罪を犯しました。そして、その人の罪を明らかにして、罪を他の人々にも言い広めて、「私たちが、この人をさばきました。」と言うこともできるかもしれません。しかし、そのために私たちが自分たちの力を用いるべきでしょうか。そうではありません。人が罪の縄目から解放されて、立ち上げるようにしてあげること、これがキリスト者の役目なのです。悔い改めぬ兄弟を、さばかなければいけないときがあります。しかし、それは最後の最後の、やむを得ぬ手段であります。そしてその手段をたとえ取ったとしても、それはあくまで、受け入れるために一時期的に取っている手段です。主から授かる権威は、倒すためではなく、築き上げるためのものであります。

3A 愛と平和の神に導く権威 11−13
 そしてパウロは、最後のあいさつをします。終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

 パウロは、第一の勧めとして、「完全な者となりなさい。」と言っています。「喜びなさい」とありますが、これは「さようなら」とも訳せるところなので、実際の勧めは「完全な者となりなさい。」です。彼らが立ち直ること、これが第一歩です。完全な者となれば、彼らは次のステップを踏むことができます。次に、「慰めを受けなさい」とあります。キリストのうちに歩むことは、悲しみの道を歩むことです。キリストにあって弱くなり、苦しみを受ける道です。しかし、私たちはその痛みに絶えることができるほどの深い慰めを、主からいただくことができます。そして、パウロは、「一つ心になりなさい。」と言っています。私たちの思いが、判断が一つになるように、と祈っています。

 これは難しいことですが、しかし、これはアウグスチヌスのことばを借りて説明できるでしょう。彼は、次のようなことを言いました、「本質的なことにおいては一致を。二義的なことにおいては自由を。すべてにおいて愛を。」です。私たちが本質的なことからそれることなく、そこにおいて堅く一致を保たなければいけません。同意できないことがあるかもしれませんが、そこにはキリストにある自由があります。そして何よりも、互いに愛し合うという具体的な行ないが必要です。ですから、一つ心になります。そして「平和を保ちなさい。」という勧めです。私たちは、決して妥協できない部分を本質的なところにおいては持っていますが、しかしながら、すべてのことが平和に保たれるように努めなければいけません。


 そして、このような勧めに従うと、約束があります。「愛と平和の神が、あなたがたとともにいてくださいます。」がその約束です。むろん、私たちがこの勧めに従わなくとも、神が私たちとともにおられます。しかし、私たちが、この勧めに従わないと、神がともにおられることを楽しむことができなくなります。主にある立場と、主との交わりというのは異なるのです。主との交わりは、使徒ヨハネが言ったように、「神が光であられるように、光の中を歩むことによって」もたらされます。神との歩調を合わせることによって、交わりをすることができるのです。

 そしてこの神との交わりは、兄弟愛の中に現われます。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。

 
兄弟のあいさつは、とても大切です。聖なる者とされた私たちが、互いの愛をことばでもって示していくことはとても大切でしょう。私たち日本人は、ここがなかなか難しいところなのですが、けれども、私たちは私たちなりに、これが愛だ、と感じられる部分があります。そこにおいて、愛を表し続けたらよいでしょう。


 そして祝祷です。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 
三位一体の神が、あなたがたとともにおられますように、という祈りです。主イエス・キリストの恵みとは、もちろん、私たちの罪のために身代わりになって死んでくださったり、私たちが神の子どもとされるところの恵みです。そして神の愛というのは、この恵みを私たちに与えてくださったところの愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあみあす。そして、聖霊の交わりは、この神の愛と主イエス・キリストの恵みを私たちに直接伝えるところの交わりです。聖霊が私たちのうちに住まわれて、キリストの恵みと神の愛を注いでくださいます。


 こうして第二の手紙が終わります。パウロは、主から授けられたところの権威が、人々にとって疑われ、挑まれました。しかし、それは、キリストご自身が受けた苦しみでした。十字架のゆえにあえて弱くなられたキリストが、パウロのうちに生きておられるゆえ、彼も自分の弱さを誇ったのです。私たちも、この中に生きているでしょうか。キリストの弱さの中に生きること、それは本当に弱くなることではありません。それは人を回復させ、人々を建て上げるところの権威であり、本当の意味で人を変える力を持っています。いばりちらし、高慢になっていることが権威的であるというこの世ですが、キリストの権威を私たちは身にまとっています。その特徴は柔和さとへりくだりです。


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