モーセよりもすぐれた務め 2000/11/07

「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」(コリント第二3:7)

今週の聖書の学びは、コリント人への手紙第二4章でした。パウロは7節から、古い契約における務めについて説明しています。シナイ山において、モーセは神と顔と顔を合わせて語りました。二枚の石の板をたずさえて、シナイ山から降りていきました。けれども、モーセの顔は、主とともにずっと時間を過ごしていたので、神の栄光を放って輝いていました。そこでイスラエルの民は、モーセがあまりにも輝いてまぶしかったので、あなたに近づくことができないではないか、とモーセに伝えました。そこでモーセは、自分の顔におおいをかけて、それでイスラエルの民に律法を与えたのです。この出来事に現われているように、律法を与える務めは、栄光あるもの、すばらしいものでした。

事実、イスラエルの民は神の栄光を見ることができました。主がシナイ山に現われてくださったとき、黒雲と稲妻、角笛の音など、ものすごい姿で現われてくださいました。遠くにいて、無関心さを装うのではなく、彼らに近づいてくださいました。イスラエルは、このシナイ山に到着する前にも、エジプトにおける10の災い、分かれる紅海、そして荒野における天からのマナを食べ、岩からの水を飲むことができました。そして、主は幕屋を造ることを命じられ、いつも彼らの間に住まわれることをお決めになりました。

しかし、この契約には、一つの問題があったのです。それは、イスラエルの民が、主なる神と個人的に、人格的に交わったことがない、と言うことです。近くにいるけれども、交わっていない。これは大きな違いです。十戒が初めて与えられたとき、イスラエルの民はモーセに、「主が私たちにそのまま語りかけないようにしてください。」と訴えました。そして、「主の仰せられることはみな、行ないます。」と言ったのです。彼らに与えられた律法は、生ける神が語られることばとしてではなく、石の上の文字にしか過ぎなかったのです。心は神から離れたまま、その文字を行なおうとすることは、罪ある人間には決してできないことです。彼らは、モーセがシナイ山から降りてこようとしていたときには、すでに第一と第二の戒めを破り、金の子牛を造って、その周りで戯れていました。

けれども、モーセの律法が与えられてから700年以上たったときに、主は、預言者エレミヤを通して、新しい契約の約束を語りました。「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。…彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。…わたしはわたしの律法を彼らの中におき、彼らの心にこれを書きしるす。(エレミヤ31:32-33)」律法が、もはや石の板の上ではなく、一人一人の心の中に書き記されます。言いかえれば、生ける神が、個人的に人格的に、私たちに語り聞かせてくださる、ということです。これは、御霊が私たちのうちに住まわれることによって可能となり、神はただ近しい方だけではなく、事実、友のように交わってくださる方になったのです。

ですから、この時点で、書かれた文字を守り行なうという作業は終わりました。聖書はあるのですが、御霊の油注ぎを受けているので、これを信じることだけでよくなったのです。神が語られて、自分はそれを信じます。人格的、個人的に語られるので、その信仰はそのまま行ないとして現われ、私たちはすでに、自分たちで神のおきてを達成するところから自由にされました。


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