土の器に入れた宝  2000/11/15

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(2コリント4:7)

弱く衰えている自分。それに対し、自分を通して人々が永遠のいのちの中に入っていく。この一見、矛盾したような出来事を、パウロは、「土の器の中に宝を持っている」と表現しています。土の器にダイヤモンドを入れているのは、なんとも不恰好です。宝には、それにふさわしい容器が必要なのですが、しかし、神は、あえて土の器にご自分の宝を入れることをなさいました。

それはなぜでしょうか。もし、容器がきらきらと輝くダイヤ付きの箱であればその輝きは箱にあるのか、それとも宝にあるのか、あまり区別がつきません。むしろ、器が質素なもの、目立たないものであればあるほど、輝きがただ宝から出ているものであると判別できます。そこで神は、あえて、弱い肉を持っている私たちの中で輝くことを選ばれたのです。

私たちは、しばしば自分の器をみがくという間違いを犯します。自分をいかに愛ある人としていくべきか、そのテクニックを学ぼうとします。クリスチャンなのだから、これこれをしなければならないという戒めを自分に課し、ありのままの自分を見つめようとしません。しかし、私たちは、一見矛盾する二つのことを受け入れなければいけないのです。それは、「弱いときにこそ、強い」というパウロの言葉です。弱くて、そして強いのです。私たちは何とかして強くなろうとします。けれども、弱いありのままの自分を、そのまま神にぶつけていかなければならないのです。弱さの中で、キリストの力が完全に働きます。


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