コリント人への手紙第二9章 「惜しみなく与える贈り物」

アウトライン

1A 前々からの準備 1−5
2A 神の絶大な恵み 6−15
   1B 必要の満たし 6−9
   2B 感謝と賛美の実 10−15

本文

 コリント人への手紙第二9章を開いてください。ここでのテーマは、「惜しみなく与える贈り物」です。私たちが何かを人に分け与えるときに、惜しみなく与えることが大切であることをこの章から学びます。

1A 前々からの準備 1−5
 聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。

 聖徒たちのためのこの奉仕、というのは、エルサレムにいる貧しいクリスチャンたちを援助する奉仕のことです。8章からこの献金についてパウロは話していますが、このことについて説明する文書をわざわざ書き送る必要はない、と言っています。その理由は次に書かれています。

 私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。

 聖徒たちのための奉仕は、実はコリントの教会の人たちから始まった動きだったからです。コリントの教会の人たちが、自ら進んでパウロに自分たちが献金をします、そのために今から貯蓄します、と約束していました。ですから、この奉仕について彼らには何の説明も必要なかったのです。パウロは、マケドニヤ地方の人々に、コリントの教会の人たちが昨年から献金の準備をしていることを話しました。そこでマケドニヤの人たちの心が奮い立ちました。彼らは、極度の貧しさの中にいたのにも関わらず、力に応じて、いや力以上にささげて、この聖徒たちとの交わりの恵みにあずかりたいと強く願ったのです。


 私が兄弟たちを送ることにしたのは、このばあい、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。

 
パウロは今、すぐにコリントへ行こうとしていません。自分が行く前に兄弟たちを送って、コリントの人たちが献金の準備ができるように時間を取らせるためです。パウロがコリントに来たときには、ただお金の受け渡しのみで済ませるようにしたかったようです。そして、準備をしてもらいたい理由として、パウロがコリント人について誇ったことがむだにならず、また恥をかくことがないようにするため、と言っています。「コリントの人たちは、こんなにも惜しみなく自分自身をささげ、また聖徒たちのための奉仕にあずかったのです。」とパウロは話していました。けれども、行ってみたら、ごく少額の献金しか用意されていなかったら、コリント人をほめたパウロも恥ずかしい思いをするでしょうし、コリントの人たちはもっと恥ずかしい思いをするでしょう。だから、前もって用意してください、と言っています。


 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。

 ここでの「惜しみながら」と訳されているところは、「貪欲のように」と訳すことができ、また、「好意に満ちた」とは、「祝福をもって」と訳すことができます。自分のものは自分のものにしておきたいという貪欲な思いは捨てて、聖徒たちを祝福してください、とパウロはお願いしています。


 コリントの教会の人たちは、最初は人々を祝福したいという思いがいっぱいありました。イエス・キリストの福音を聞き、それを信じて以来、神の恵みの豊かさの中に生きていました。そこで、兄弟の中で困っている人たちがいることを知ると、自分たちから喜んで、助けてあげたいと願うようになっていたのです。けれども、偽教師などの諸々の問題が起こり、彼らの熱意は冷めてしまい、その献金プログラムも途絶えてしまいました。そこでパウロは、この中途半端になっているプロジェクトを再開させて、自分が来るときまでには完了させてほしいと願ったのです。私たちクリスチャンも、コリントの人たちのようになってしまうことがあります。まず、私たちは、キリストにある神の絶大なる恵みにふれるとき、自分をささげようとします。私たちが、神の恵みにふれたとき、私たちの魂はそのまま無感動のままでいることはできません。心は揺り動かされ、ぜひ自分自身を主におささげしたいと願うようになります。教会の中で必要があれば、それを満たしたいと願うようになります。他の兄弟姉妹が困っていれば、助けてあげたいと願うようになります。

 そして、そのような願いを持ち続けているクリスチャンを「熱心なクリスチャン」と言いますね。私たちは神の恵みにふれるだけではなく、心の中の炎を保ち続けていなければいけません。パウロは、8章と9章の中で繰り返し「熱心」とか「熱意」という言葉を使っています。忠実に、誠意をもって奉仕することが必要です。けれども、私たちは燃え尽きてしまうことがあります。燃え尽きるときに、主におささげすることよりも、自分のために自分のものを使いたいと願うようになります。かつての熱意はなくなってしまいます。そこでパウロのように、激励するクリスチャンが私たちに必要です。キリストの初めの愛を思い出させてくれるようなクリスチャン。「あなたは、ここまで走り続けたのですよ。」と励ましてくれるクリスチャン。「行なって来たことをまた初めて、それを完成させてください。」と後押しするクリスチャンが必要です。このような勧める人、励ます人がいることによって、私たちは立ち上がって、また信仰の旅を続けることができます。

2A 神の絶大な恵み 6−15
1B 必要の満たし 6−9
 そこで、パウロは言いました。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

 一定の面積の畑の中に、まばらに蒔くこともできるし、たくさん蒔くこともできます。まばらに蒔けば、秋には、まばらに穂が出てくるのを見るし、また、豊かに蒔けば穂が豊かに成っているのを見ることができるでしょう。これが、霊の法則として働いています。与えれば与えられるという法則です。箴言3章9節には、「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」と書いてあります。また、イエスさまご自身もこう言われました。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ
6:38」これとは逆に、惜しむ者は乏しくなるということもあります。箴言1124節には、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」とあります。また、ハガイ書には、主の宮を再建するのをやめて、自分たちの家を建てはじめたイスラエル人ちが、いかに乏しくなっているかを示しておられる主のみことばがあります。このように、与えれば与えられる、という霊の法則が働いているのです。私たちは、どうしてもその逆が真であると考えてしまいます。与えれば乏しくなり、与えないで自分のところに蓄えれば豊かになる、と考えます。そこで貪欲という肉の欲が働き、分け与えることをひどく惜しむようになるのです。しかし、私たちは、豊かに蒔く者は豊かに刈り取るという真理を信仰によって受け取らなければいけません。

 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

 
この聖書個所は、聖書全体につながるとても大切な真理が明らかにされています。ささげることは、自発的でなければいけないという真理です。私たちは旧約聖書の学びで、ささげものが自ら進んで行なわれる性質のものであることを学びました。これは大前提であり、神は何か事欠いた方であるかのように、私たちがささげなければいけない義務は何一つないのです。神はおひとりで存在することができる方であり、私たちのささげものを必要とされません。しかし、私たちのために、神はささげものをお受け取りになるのです。私たちが自分のものを自ら進んで神にささげることによって、初めて神への愛を示すことができます。こうして、神と私たちとの間に、強いられた関係ではなく愛の関係を結ぶことができるのです。しかし、私たちには古くからの奴隷根性があります。とくにこの日本では、オカミの言うことに逆らわないという考え、また義理人情という文化が根深くあるため、自発的にささげるという概念をなかなか身に付けることができません。見返りがあるから、ささげよう。牧師がささげなさい、と言っているからささげよう、と、あえて強制されることを選び取ります。そして、「献金は自由です。」と言えば、何もささげなくなってしまいます。何も奉仕しなくなります。


 しかし、私たちはここで、神の恵みについて、もう一度深く理解しなければいけません。パウロが、私たちが信じている神について紹介しています。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

 
神の恵みです。私たちが何も見返りをすることができないのを知りながら、すべてのものをキリストによって施してくださった神の恵みです。神からの好意を得るために、私たちは何の努力もする必要はありません。ただ、贈り物として受け取ることしかできません。神を喜ばせるために、私たちは何一つ自分たちの良い行ないを付け加えることはできないのです。この絶大なる神の恵みにふれるときに初めて、私たちはただ神に感謝して、自分自身を神におささげしようと願うのです。


 ところでパウロがここで、神がいかに無尽蔵にその富を持っておられるかをよく表現しています。神はあなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です、と言っています。私たちが、この神概念を、しっかり心に焼きつける必要があるのです。私たちの奴隷根性は、偶像礼拝から来ています。パウロがアテネで語ったように、偶像は、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要があるような存在です(使徒17:25)。しかし、天と地を造られたまことの神は、私たちを常にすべてのことに満ちたせることができます。それは私たちが私腹を肥やすためではなく、すべての良いわざにあふれるようにするためです。そして、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えてくださる方なのです。ですから、私たちは臆せず、惜しみなく分け与えることができるのです。

 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

 
これは詩篇
112篇からの引用ですが、貧しい人たちに分け与えることによって、霊的な富を天に蓄えることができることを、ここから知ることができます。その義は永遠にとどまる、と書いてあります。

2B 感謝と賛美の実 10−15
 そこでパウロは、与えることに伴う霊的側面について話し始めます。与えることによって物質的に与えられるだけなく、霊的祝福をもたらします。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

 イエスさまは、「天に宝をたくわえなさい。」と言われましたが、分け与えることによって義の実をまし加えることになります。


 そして、分け与えることは神への感謝を生み出すとパウロは言っています。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

 コリントの人たちがささげることによって、パウロを初めとする教会の使者たちに、神への感謝が心に芽生えます。それだけではなく、エルサレムにいる聖徒たちが、神に感謝をささげることになるでしょう。この感謝が、物質的な金銭にもまして、尊い霊的財産なのです。パウロも、ピリピ人への手紙で同じことを話しています。「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。(ピリピ
4:15-17」献金や献品そのものよりも、このささげものをとおして、さまざまな霊的祝福が、与える側にも受け取る側にも注がれます。この霊的祝福のために私たちは惜しみなく与えることが奨励されているのです。

 コリントの人たちがささげる献金は、もう一つ大きな役目を果たすことになります。このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。

 
コリントという異邦人の町にある教会から、このような献金が送られてきたことを知って、エルサレムにいる聖徒たちは、「キリストの福音が、このようにして異邦人にも伝えられたのだ。」と言って喜ぶはずです。貪欲な、知り私欲に走る異邦人ではなく、自分に死に、貧しい者たちに施そうとするまで心を変えてくださったキリストに、栄光を帰すのです。この愛の行為によって、エルサレムにいるクリスチャンと、ヨーロッパのクリスチャンとの間に壁が壊されます。キリストの愛の帯で結ばれて、ユダヤ人とギリシヤ人が一つとなることができます。このようなすばらしい霊的祝福を、この献金によってもたらすことができるのです。私たちが、キリスト者の一致について考えるときに、それはとかく、自分たちの信じている教理が一致しており、伝道方法、教会運営の方法が同じであるときに一致している、と考えががちです。また、組織的な一致を求めてエキュメニカル運動に走る人たちもいます。しかし、私たちの心を本当に一つに結びつけるのは何でしょうか。愛なのです。それも言葉だけの中身のないものではなく、困った人に施すようような具体的な愛の現われなのです。この愛によって、与える方も受け取る方も、キリストを見ることができ、キリストによって一つ思いになることができます。


 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。

 彼らは神をあがめるだけではなく、彼らのための祈り、また彼らを慕うようになるでしょう、とパウロは言っています。形だけではなく、実質的にキリストのからだとしてユダヤ人とギリシヤ人が一つとされるのです。そして、ここでパウロが、「絶大な神の恵み」と言っていることに気づいてください。実に、このように表現します。

 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

 ことばに表せないほどの賜物、と彼は呼んでいます。私たちの施し、ささげもののすべての動機付けは、これです。絶大なる神の恵み、ことばに表せないほどの神の賜物です。これを一言で言えば永遠のいのちでしょう。あるいはキリストご自身でも良いでしょう。クリスマスの最大のプレゼントは、イエスさまです、と私たちは言いますが、キリストにすべての富が隠されています。


 私たちは、もっともっと、キリストにある神の霊的祝福に気づく必要があるようです。パウロが、突発的に、「ああ、あなたの恵みと賜物は、ことばに言い尽くすことができません。」と言ったように、神の恵みの絶大さを御霊に示していただきましょう。この恵みによって、私たちは、いやいやながらではく、強いられてでもなく、喜んでささげる者になります。私たちが自分自身でささげようとするのであれば、必ず惜しむようになります。「これだけささげたのに、…」と後で不満が残ります。それは、神の恵みから出たものではないからです。しかし、神は、私たちはあらゆる良いわざにあふれるようになるために、神のあらゆる恵みにあふれるようにさせてくださいます。この神を見上げてください。この神がいかに大らかな方であるかを知ってください。そして、今まで抱いていた奴隷根性を捨ててください。私たちの神は、私たちに惜しみなく与えてくださいましたし、今も与えようとされています。神は取られる方ではなく、与える方なのです。そして、この恵みの中に生きるときに、私たちも人々に恵み深くなることができます。見返りを期待せず、惜しみなくささげることができます。


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