神の恵みと赦し 2001/01/01

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(2コリント9:7-8)

主イエスさまにあって、明けましておめでとうございます。

昨日の日曜朝の聖書の学びが、コリント人への手紙第二9章でした。有名な聖書個所ですが、聖書には、「ささげることの自発性」という大きな霊的原則が貫かれていることを強調しました。レビ記には、さまざまないえにけやささげものの教えが与えられていますが、「自ら進んで(free will)」という言い回しがたくさん出てきます(日本語訳には、きちんと表れていませんが)。神は、私たちのいけにえを必要となさるような不自由な方ではありません。神は、ご自分だけで存在することのできる方であり、すべての富に満ち満ちた方ですから、私たちに仕えられる必要はありません。ですから、私たちがささげるときは、あくまでも神の恵みのみわざに感動して、感謝して喜んでささげる供え物が、神の御前に喜ばれるものなのです。

このことを話させていただいた後に、ある兄弟は、自分の家に二年ぐらい、毎金曜日にやって来て食事を取り、寝泊りした独身の兄弟の話しをしてくれました。その人の悩みやさまざまな話しを聞いてあげて、奥さんがその人のためにも食事を用意し、そのような世話をしつづけましたが、ある時、その独身の兄弟が二人のことを人に悪く言っている言葉でショックを受けたそうです。今まで、話しを聞いてあげたりして、交わっていたのは、一体何だったのか…というショックを受けて、それから信者たちの交わりに、少なからず警戒心を抱いたそうです。

それを聞いた私の妻は、多かれ少なかれ、私たちクリスチャンは、奉仕にたずさわっている人なら、このような経験をしたことがあると思う、と答えました。私は、相手がクリスチャンであると私たちはどうしても、「クリスチャンのくせに…」という期待を持ってしまう。だから、見返りを期待しない「神の恵みによる奉仕」と、過去の事を過ぎ去らせる「赦し」が必要だ、と言うことを話しました。これは、とても難しいことですが、これしか解決法はありませんし、主が可能にしてくださいます。

「聖書の学び 新約」に戻る
HOME