ヨハネの手紙第二 「真理のうちに」

アウトライン

1A 喜び 1−6
   1B 真理と愛 1−3
   2B 御父の命令 4−6
2A キリストの教え 7−13
   1B 人を惑わす者 7−11
   2B 顔を合わせての語らい 12−13


本文

 ヨハネの手紙第二を開いてください。第二の手紙は一章分しかありません。ここでのテーマは、「真理のうちに」です。私たちはこれまで、第一の手紙を学びましたが、第二の手紙と第三の手紙は、第一の手紙で語られていたことを、具体的な例で、教会の中で起こっていることに適用されている内容となっています。

1A 喜び 1−6
1B 真理と愛 1−3
 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。

 「長老」というのは、ヨハネのことです。「選ばれた夫人」は誰であるか分かりません。これはある教会を象徴的に言っているのだ、という解釈をする人もいます。私は、ある特定の人物であり、神に、また人に選ばれたところの指導者であると考えます。

 ヨハネが自分を「長老」と呼んでいるのは、もちろん霊的に教会の指導者でありますが、同時に、この手紙を書いているとき、彼が90歳以上の年寄りだからです。自分の晩年に、残された人々に伝えたい大切なことを、この手紙に託しています。

 私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。

 ほんとうに愛しています」というのは、「真理のうちに愛しています」と訳すことができます。英語ですと、”We love you in truth.”です。真理のうちにあって、真理を知っている人々がみな抱いている愛です。教会は、仲良しサークルでも、井戸端会議をする場でも、政治的結社でもありません。自分が真理のうちにとどまっていて、同じように真理のうちにいる人たちと共に分かち合い、愛し合う共同体です。

 このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。

 真理を知るだけでなく、真理を自分たちのうちに「宿している」ことが大事です。私たちは、教理については知的によく理解しています。けれども、それを自分のうちに宿している、あるいは生活の中で生かされている必要があります。

 そして、「真理はいつまでも私たちとともにある」ということですが、永遠に真理は変わることはありません。初代教会時代に生きている人々であっても、宗教改革時代に生きる人々であっても、現代に生きる人々であっても、その真理はまったく変わらないのです。この真理があるからこそ、古今東西、クリスチャンたちは、あらゆる障壁を乗り越えて、互いの交わりを保つことができるのです。ある世代はこの真理であり、次の世代にはあの真理、ではありません。いつまでも変わらないものを、私たちは宿しています。

 真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。

 「真理のうちに」だけでなく、「真理と愛のうちに」とヨハネが書いているところが味噌です。真理のうちにとどまって、その中で互いに愛し合う関係が大切になります。エペソの手紙4章には、「愛をもって真理を語り」とあります。

 御父と御父の御子」とありますが、他の使徒たちの手紙では、「父なる神と主イエス・キリスト」という言葉がよく手紙の冒頭のあいさつ文で使われています。イエスが神の御子であり、御父のふところに永遠からおられる、独り子としての神という真理が、ここには示されています。

 そして、「恵みとあわれみと平安」とありますが、使徒の手紙では、「恵みと平安がありますように」というのが通例でした。パウロは、ヨハネと同じように、テモテやテトスに手紙を書いたとき、「あわれみ」をその間に挟んでいます。「選ばれた夫人」に対して送っている手紙ですから、パウロがそうしたように、主の奉仕者が神のあわれみが必要であることを知ります。恵みだけでは、この重大な責務を担うことはできません。本当は神のさばきを受けるべき存在であるが、あわれみによって今ここにいる、という意識が、主の奉仕者には必要です。そうでなければ、このような大きな責任ある立場に着くことはできません。

2B 御父の命令 4−6
 あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。

 「真理のうちを歩んでいる」人たちです。「歩んでいる」というのは、生活スタイルそのものです。単なる知識ではなく、その中を生きているということです。ヨハネは、選ばれた夫人が、キリストに導いた人々が、真理のうちを歩んでいるのを知って、非常に喜んでいます。

 牧者の心は、これに尽きると言っても良いでしょう。牧師がもっとも願っているのは、自分に信者が付いてくることではなく、自分のことを良く言ってくれる人ではなく、真理そのものであるキリストを愛し、また真理の神のみことばを愛して、真実を尽くす人々が現われることです。私はつい最近、ある方と交わりをしました。私たちと一緒に、聖書の学びを積極的にされている方ですが、その学びを通して、「何よりも、この学びで、自分で考えることができるようになりました。」との感想を話してくださいました。私は、「このことを、私はアメリカで学んできました。それを伝えることができて、とてもうれしいです。」と答えました。自分のことなんか、どうでも良いのです。自分が話していることで、ほめてもらいたいなど、全然願いません。けれども、本当に神のみことばを伝えることができ、主イエスさまのことでわくわくしている人を見ることができるとき、自分が行なっていることの目的を感じることができます。

 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。

 ヨハネは、命令するのではなく、お願いしています。霊的権威があるにも関わらず、懇願する姿勢を取っています。真の霊的指導者の謙虚な姿です。

 それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

 ヨハネは、福音書と、また第一の手紙にて、この戒めを何度となく書いてきました。ヨハネの福音書にて、過越の食事でユダが席を離れた後に、イエスさまが残された弟子たちにこう話されました。「今こそ人の子は栄光を受けました。また神は人の子によって栄光をお受けになりました。・・・子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:31、33−34)」真理の中にとどまっている弟子たちに対して残された、大切な教えです。

 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

 私たちクリスチャンはしばしば、「愛」という言葉を使います。けれども、「愛」という言葉だけが遊離して、その意味が不明確になることがあります。ヨハネはここで、「愛は、御父の命令を守ることである」と明言しています。主が言われることに従順になること、命令を守るところに、神への愛が示されています。私たちがどこまで、神の命令が自分の生活の中で明確にされているかが課題です。

 そして、命令とは、「愛のうちを歩むことです」とあります。私たちと神との関係が、愛に根ざしているか、それとも律法的なものになっているかをよく吟味しないといけません。また人に対する関係は、義務的なもの、形式的なものになっていないか、教会の中にいる人々に対してはどうでしょうか?愛のうちを歩むことが、神の命令です。

2A キリストの教え 7−13
1B 人を惑わす者 7−11
 そこでヨハネは、この手紙の本題に入ります。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。

 この箇所では、当時の教会活動の背景を知る必要があります。礼拝は家において行なわれており、そこに巡回伝道者や巡回預言者が訪れていました。そのときに、その奉仕者を受け入れて、信者の交わりの真ん中に来ていただき、神のみことばを語っていただくことを行なっていました。家におけるもてなしが非常に重要になっていました。

 そのような巡回者たちの中に、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者がたくさん現われていたのです。第一の手紙で説明しましたが、イエス・キリストが人として来られた、というのは神の受肉のことです。人間の肉体をもってイエスが誕生され、イエスは神であり、100%人間であったことを物語っています。しかし、イエスは肉体を持っていなかった、仮現であったと主張する者たちがいたのです。この教えを、ヨハネは、「反キリスト」と呼んでいます。「イエス・キリスト」という言葉は使っているのですが、使徒たちが宣べ伝えているイエス・キリストとは異なっていたのです。

 私たちはとかく、「イエス」という名が使われているから、彼らは大丈夫だという誤った安心感を持ってしまいます。先日、ある教会にて、初めてその教会に訪問したという二人の男女がいましたが、彼らが去った後に、その人たちのことを聞いてみると、異端視されている某団体の人々であることが分かりました。もちろん、その人たちは「イエス・キリスト」を信じているか、と言われれば信じている、というでしょう。私の友人の宣教師は、モルモン教会の葬儀に参加したことがあるようなのですが、「末日聖徒」という言葉を使うこと以外は、キリスト教会の葬儀とほとんど変わりなかったと言っています。けれども、イエス・キリストについての核心的なところを間違った教えをしているのであれば、それは偽りであり、本物のイエス・キリストととは似ても似つかぬものとなるのです。

 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。

 よく気をつけて」とヨハネは勧めています。私たちは警戒心を強くして、疑い深くなる必要は決してありませんが、すべてを安易に受け入れるようなことも間違っています。何が良いことかを見分け、神から来たものなのかどうかを、自分で判断する作業が必要です。

 「労苦の実」とは、使徒たちが労苦して教えた、イエス・キリストの御名による救いです。これが無駄になってはいけない。そして、「豊かな報い」とありますが、ヘブル人への手紙にも、初めの確信を最後まで保っていれば、報われるということが書かれています。初めに信じるだけでなく、それを最後まで保つことに、大きな意義があります。

 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。

 「行き過ぎ」とは、まさに「境界線がある領域から出て行く」という意味があります。それは、「キリストの教え」という境界線です。キリストがどのような方なのか、その本性についての教えは、私たちが御父と御子を持っているのか、つまり永遠のいのちを持っているのか、そうでないかの分かれ目となっています。

 「教え」あるいは「教理」とも訳せますが、私たちはこれを軽視しがちです。もう分かっていることだ。神さまとの出会いと体験が大事で、聖書を体系的に知的に理解するのは、信仰を死なせる、という意見もあります。けれども、キリストについての教理は、知的ではなく、霊的なのです。この教えのうちにとどまっていれば、御父と御子を持っている、つまり交わりがある、ということです。

 私はかつて、一ヶ月ほど、ある異端の教会に通ってしまいました。普通の教会と思っていたのですが、彼らの教えの中で、三位一体を否定するものがありました。神は、三つの位格において一人であるという理解ではなく、イエスが他の預言者と同じように、神の霊を受けた人物のように解釈されていました。それからの私の霊的状態は、まさにホーラー映画のようなものです。死ぬことより恐ろしい世界を感じました。まさに、「自分」というものを否定された状態になり、すべてが無となり、生きていることの意味が完全に失われた感覚を経験しました。その時に、三位一体、あるいはイエスが神であり、人となられた方であるという、いつも聞いていた「教理」が、生きた神との交わりを決定するものであるとの、教訓を得たのです。人が神との交わりを持っているかどうかは、このように、キリストの教えにとどまっているかどうかにかかっています。

 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。

 先ほど説明しましたように、当時は、家において礼拝がありました。信者たちが集まっているところに、キリストの教えを持っていない者が、私が教師であり預言者であると言って、入り込んで来たのです。したがって、「家に受け入れてはいけません」というのは、信者の交わりの中に入れては決していけない、あいさつの言葉もかけてはいけない、ということになります。

 これは、新しく信者になった人には特に必要なことでしょう。エホバの証人やモルモン教の宣教師が訪問して来たときに、「結構です」と一言いって、断るのが懸命です。伝道すること、証しをすることは、もちろん示されたらで良いのですが、相手は自分とは完全に異質な存在である、という深い認識がなければ伝道することはできません。もし伝道するなら、一番良いのは、個人的な救いの体験を語ることです。彼らは、「この宗教活動に従事するのに、生きがいを感じる。」という意識は持っていますが、救いの体験はないからです。

2B 顔を合わせての語らい 12−13
 あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。

 第一の手紙で、ヨハネが、「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(1:3)」と言ったことを思い出せるでしょうか?そしてこの箇所の次に、「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(4節)」とあります。真理を共有していない、惑わす者に対しては、あいさつをしてもいけない、と警告しましたが、真理を共有している者同士では、紙と墨だけでなく、顔を顔を合わせた交わりがあります。

 私はこのように、紙面にてメッセージ原稿を書き、またインターネット上にも原稿をアップしており、これを読まれる方が霊的養いを受けているのを知り、励まされます。けれども、生の声がはいったテープのほうが、もちろん伝えやすいし、実際に聖書の学びに来る方とは、真の主にある交わりをすることができます。

 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。

 姉妹教会というか、他の姉妹の指導者がいる教会が挨拶をしています。

 このように、真理のうちを歩む中にある交わりがあります。それは、真理を知っていくこと、イエス・キリストを知っていくことに他なりません。「イエス」という名は使われても、その実体が異なるものを教えていることが、実に多くなる、とヨハネは指摘しています。真理にあって愛していく、このような関係が私たちの間にも形成されていきましょう。


「聖書の学び 新約」に戻る
HOME