テサロニケ人への手紙第二1章 「神の報復」

アウトライン

1A 迫害における忍耐 1−5
   1B 神にある者 1−2
   2B 結ばれる実 3−5
2A 苦しめる者への苦しみ 6−12
   1B 主の再臨 6−10
   2B 召しにふさわしい歩み 11−12

 テサロニケ人への手紙第二1章を開いてください。ここでのテーマは、「神の報復」です。

 私たちはテサロニケ人への手紙第一を学びましたが、そこでの背景は、パウロたちが、テサロニケの町でみことばを宣べ伝え、人々が主を信じましたが、それに激しく反対し、町じゅうを扇動して騒ぎに至らせた人々がいたので、パウロたちがその町を離れなければいけなくなったことがあります。まだ信じたばかりで、これから養い育てなければいけない人々を残して、パウロはそこを去らなければならなかったのです。けれども、パウロがアテネにいるとき、テモテをテサロニケに遣わして、その後の経過を調べたところ、彼らがしっかりと主にとどまって、信仰の働きと愛の労苦の中にいることを知ったのでした。そのことを喜び、神に感謝しているのが、この第一の手紙と第二の手紙の特色となっています。

 けれども、もちろん、新しく信じたばかりの人たちですから、これから正していかねばいけない問題がありました。一つは性的な問題でした。テサロニケの町は性的に乱れていたので、当たり前のように行なっていることは、実は避けなければいけないことを教えました。そして、もう一つ、みことばの教えについて、誤解がありました。彼らは、主が再び戻って来てくださるという望みでいっぱいになっていましたが、主が戻られる前に死んでしまった人々は、その救いにあずかることはできなくなってしまった、という誤解です。パウロは、これらの死者は、主が来られるときには復活し、生き残っている自分たちとともに、引き上げられるという、主イエスご自身のことばを伝えました。

 また、パウロは、第一の手紙において、「主の日」について教えました。主の日、というのは、聖書の中で、これまで積み上げられてきた人の不義に対して、神が激しい怒りをもって報復される、定められた期間です。パウロは、テサロニケの人たちは、その信仰によって、この怒りから救い出されることを確認させました。

 そして、この手紙をだれかが携えて、テサロニケに行きましたが、おそらく、この人が続けて、テサロニケにある教会の状況を、パウロに伝えたようです。彼らの信仰はめざましく成長し、相互の愛も増し加わっていたのですが、再び、誤った教えが彼らの間に広まっていたことを知りました。それは、すでに「主の日」が来ている、というものです。パウロは先の手紙で、キリストのうちにある者は、大患難から救い出されることを言っていましたが、そうではなく、大患難を通ると教えが入り込んでいたようです。テサロニケの人たちは、激しい迫害と患難の中にいましたから、彼らが主の日、すなわち大患難時代にいると教えられても、それを信じてしまいそうな状況であったに違いありません。パウロは、この教えの誤謬を正すために、この第二の手紙を書いています。また、主の再臨にかまけて、何も仕事をしなくても良いと考える者がいたようで、しっかりと仕事をしなさいと戒めてもいます。

 したがって、第一の手紙では、パウロは、主の日から救い出されるという希望を語りましたが、第二の手紙では、主の日がどのように不信者たちに襲いかかるのか、そのさばきについて語っています。そして、1章では、この報復が、いま苦しみを受けている信者にとって、安息のことばであることを示しています。

1A 迫害における忍耐 1−5
 それでは本文を読みましょう。

1B 神にある者 1−2
 パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 パウロとシラスとテモテからのあいさつです。このあいさつの中にも、テサロニケの人たちが、苦しみの中で耐え忍ぶことができた、その秘訣が書かれています。一つは、彼らの信仰の立場です。「父なる神および主イエス・キリストにある」とあります。神とキリストのうちにいる、という信仰の立場です。クリスチャンのもっとも大きなプロジェクトは、自分自身が神とイエス・キリストのうちにいるという霊的真理を、確認しつづけることです。クリスチャンがクリスチャンでいること、自分のアイデンティティーが、他の何物でもなく、ただキリストのうちに置かれていること。これが全生活の100パーセントになっていなければいけません。伝道のプロジェクト、奉仕のプロジェクト、他の何かを自分の拠り所とするならば、困難や迫害の中で、決して耐え抜くことはできません。必ず、ふるいにかけられて、ふるい落とされてしまいます。ですから、父なる神と主イエス・キリストのうちにいるということが、すべての決め手になります。

 もう一つは、忍耐力の源です。「父なる神と主イエス・キリストからの、恵みと平安」であります。私たちの行為ではなく、神がキリストにあって行なってくださった、神の行為が私たちを支えてくれます。キリストが私たちの罪のために死んでくださった。罪を赦し、義と認められ、また神の子どもとしてくださった。キリストの相続人にしてくださり、また、今も、キリストが自分のうちに生きておられ、自分はキリストとともに十字架につけられてしまった。新しく造られて、古きものは過ぎ去った。こうした、神が一方的に、私たちのために行なってくださったことが恵みです。この恵みこそが、私たちの力の源泉であり、困難の中にいても私たちを支えていてくれます。そして、神の恵みがあるときに、神の平安があります。調子良いときに神との関係が良好になり、調子悪いときには、神との関係が悪くなるような関係ではなく、いつも神に愛された、安定した関係です。この関係にいるときに、私たちは神の平安を持つことができます。

2B 結ばれる実 3−5

 3節です。兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。

 先ほど話しましたように、パウロは、テサロニケの人々の信仰が成長し、相互の愛が増し加わっているという報告を受けました。そのことで、パウロは神に感謝の祈りをささげています。けれども、なぜそこまで、信仰と愛を保つことができているのか、その背景が次に書かれています。

 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。

 迫害と患難の中にいて、その中で耐えながら従順と信仰を保っていました。「迫害と患難」が、彼らの信仰を成長させて、相互の愛を増し加えるようになったのです。

 人間的には、迫害と患難と、信仰と愛というのは相反するものであると考えられます。迫害があれば、信仰はなくなり、愛も冷えるのではないか。神に良くしてもらえるから、信仰は増し、人々も愛していくことができるのではないか、と考えます。ところが、霊的には、その反対が真なのです。迫害が加えられればられるほど、信仰は衰えるどころか成長し、互いの愛も増し加わるのです。これは、世界の各地においてその通りになっています。近所では中国ですが、共産主義国家の中で激しい迫害にあいながら、彼らの信仰と愛は激しく燃え広がっています。

 ところが、戦時中、日本の教会では逆のことが起こりました。国による迫害の手が広がるにつれて、人々は迫害を受けないように、いろいろ人間的な工夫をしました。いやがらせを受け、貧しくなっているクリスチャンの家族に、自分が助けの手を伸ばしたら、自分もいやがらせを受けると思って、その手を引いてしまったりしました。また、かたくなに神社参拝拒否をしている少数のクリスチャンに対して、私たちは彼らの仲間ではないという態度を取り、無視しました。あるときは、批判をして、彼らを逆に追い込みました。そして敗戦を迎えましたが、その後たくさんの宣教師がアメリカから来て、一種のキリスト教ブームが起こりましたが、それはすぐに止んでしまい、洗礼を受けた人々の多くが、信仰を捨て、教会から離れました。

 この違いは何なのでしょうか。それは、彼らが口にしていた「信仰」とか「愛」とかが、聖書で書かれている信仰や愛とは異なっていたからです。神から出たものではなく、人間の考える信仰であったし、愛だったのです。信仰も愛も、すべて神の真理に基づくものです。神の真理を歪めたところには、いくら信仰と愛を語ってもそれはすぐにすたれ、本当に真理にかたく立っている者たちの間にだけ、イエスさまご自身から信仰と愛を降り注がれるのです。

 私たちの身の周りに、困難や試練が起こったときに、それをうざったいもの、面倒くさいものと思わずに、自分の信仰が純化される過程であることを思って、喜んでそのことに取り組まなければいけません。それには痛みがともなうでしょう。自分が正しいと思っていたことも、捨てなければいけない決断にも迫られます。けれども、御霊がその試練に応じて、神の豊かなあわれみと愛を注いでくださり、本当の意味で、人を愛することを知ることができるようになるのです。

 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

 ここからパウロは、人々が抱く根本的な問いに対する、答えを提供します。それは、なぜこの世には悪があるのか、という問いです。神が正義の神であるなら、不義や不正に対して、どうして正しいさばきを行なわれないのか、という疑問です。世の中、あまりにも不条理なことがたくさん起きます。その不条理への反応として、人々は神への信仰を持てない、あるいは信仰を捨ててしまう人さえいます。テサロニケの人も、そのような疑問を例外なく、感じていたに違いありません。

2A 苦しめる者への苦しみ 6−12
 そこでパウロは次から、この問いに対する究極の解決を教えます。

1B 主の再臨 6−10
 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。

 神が報復してくださる、という真理です。苦しめる者には、それにかなう苦しみを神が与えられるという教えです。ローマ12章19節には、こう書いてあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」ヘブル書10章29節からも、こう書いています。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(10:29-31

 私たちが、あるクリスチャンと交わっていたときに、妻が、中国でしょうか、あるお后の残虐行為について話しました。その人が、ある女に対して嫉妬しました。そこでその女を殺すのですが、ただ殺すのでは、その憎しみは晴れないとのことで、むごたらしい死なせ方をしました。まず、その女の片腕を切り落とさせました。けれども、止血をさせ、生かしておきました。その次に、もう片方の腕も切り落とさせました。両腕がない状態です。しばらくしてから、今度は片方の脚を切り取らせました。これも止血して生かしておきました。そして、最後の片足を切り落とし、ついに両腕、両足がない状態にさせました。そして、最後に、この胴体しかない女を、肥溜めの中に投げ込み死なせた、という話です。このむごたらしい話を聞いたときに、聞くに耐えない顔をしながら、けれども、そのクリスチャンの彼はこう言いました。「神は、この苦しみを与えた人に、同じ苦しみをもって報いられる。これで、すべては解決だ。」と。私も、この言葉を聞いたときに、心の中に深い安息が訪れました。そうだ、これが神の正しいさばきなのだと。苦しみを与える者には、その同じ苦しみをもって神が報いてくださるのだと分かったのです。

 ゆえに、私たちは、この報復の真理をもって、どのような悪に対しても対処することができるのです。苦しみが与えられても、そこで自分の中で我慢するのではなく、復讐の神にその怒りを心の奥底でお任せすることができるのです。主に自分のたましいをゆだねた人の心ほど、安息が保たれていることはありません。この安息の中で、人は、悪に対して悪で報いることなく、かえって善をもって報いることができるのです。ですから、人を赦すということも、不条理を受け入れることではなく、神にさばきをお任せするところから可能となります。

 そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。

 神の報復は、主が再臨されるときに行なわれます。ここで気をつけなければならないのは、ここの主の再臨は、教会の携挙ではないということです。テサロニケ人への手紙第一4章16節において、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」とあります。このことによって、キリストにある死者が復活し、生き残っている私たちも引き上げられるのですが、このときの主の来臨と、主が、炎の中に、力ある御使いたちを従えて、天から現われる出来事とは異なります。

 というのは、この手紙の2章から、「主の日」について語られているからです。第一の手紙の5章で学びましたように、主の日とは、神の怒りの現われの時であり、光の中にいるクリスチャンは、主が戻って来られて、彼らを引き上げてくださることによって、その怒りから免れることができます。しかし、ここでの主の来臨は、まさにこの怒りが究極のかたちで現われる、神の憤りの完全な現われとして襲いかかります。この来臨は、主イエスさまが、すでに携挙によって引き上げられている聖徒たちとともに、地上に戻って来られるときの再臨の出来事です。

 この出来事は、旧約聖書の預言にたくさん出てきますが、新約聖書では、黙示録に写実的に記されています。読んでみましょう。黙示録19章11節からです。「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実。』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」衣が真っ赤になっているとありますが、これは、イエスさまの十字架による血ではありません。イエスさまが、集まってきた諸国の軍隊に対して戦われたことによって流された、敵の血です(イザヤ63:1−3)。「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。(19:11-16」このように、イエスさまが、神の報復のために地上に戻ってこられます。

 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

 私が、いつでしょうか、日本の行く末について考えていたとき、日本人が神を認めず、主イエスの福音を聞き入れないことを考え、また天皇制のことを考え、主のことを思い巡らしていました。そのときに、とてつもない、もだえ苦しむような激しいうめきの祈りに変りました。それは、私を愛される主イエス・キリストご自身が、神に敵対している日本に対して、激しい怒りの中で踏みつぶされる感覚を持ったからです。そして、その幻というか、感覚は神から来たものであることを、後で確認することができました。それは、今読んでいる聖書個所などからです。

 クリスチャンの声は、預言者の声でなければいけません。自分たちの政治行動によって、日本を変えようという生半可なものではなく、神とキリストを認めない日本が、激しい御怒りの酒ふねの中にいるという理解から出てくる、雄叫びのような声です。最近、キリスト教界で、日本人に合わせた、日本人の心をつかむ宣教をという動きが大きくなっています。このようなことをするのが、愛国心であり、日本を愛していることになると思っています。大間違いです!日本を愛するというのは、真理を伝えることであります。まっすぐに、涙を流しながら神の真理を語り告げることが、真の愛国心です。

 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

 聖書は明らかに、福音に従わない人々に対する、永遠の滅びの刑罰について語っています。死んだ後に救いがあるとか、福音を受け入れなかった人にも救いが用意されているとか、そのようなあいまいなものではありません。神を知らない者、福音に従わない者は、永遠の滅びの刑罰を受けます。

 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。

 主イエスが地上に再臨されるのは、神を知らない人にとっては恐怖のさばきですが、信じる者にとっては、栄光に輝いた、感嘆の出来事であります。私たちを愛して、血を流してくださったイエスさま。この愛し慕うイエスさまが、王の王として、主の主として、全世界に栄光の輝きをもって現われてくださいます。そして、これまで行なわれたあらゆる悪に対して、十二分にさばきを行なわれます。このときに、私たちは、自分たちが信じていたことは、はたして真実であったことを知るようになり、そして主の栄光を仰ぎ見、みなで感嘆の声をあげるのです。

 終末のシナリオの中では、ここでの信者は、大患難時代にイエスさまを受け入れた人々であります。教会はすでに、携挙されて、今はイエスさまとともに、天から地上に来ています。ですからここで、「ご自分の聖徒たちによって栄光を受け」とありますね。この聖徒が、携挙されたクリスチャンたちです。

2B 召しにふさわしい歩み 11−12
 この神の報復に基づいて、パウロは、次の祈りをします。そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。

 神が、テサロニケの人々を召しにふさわしい者としてくださいますように、と祈っています。この召しとは、今出てきた、「聖徒」の召しであり、もっと具体的には、主が戻って来られるときに、天に引き上げられるところの召しであります。

 イエスさまは、オリーブ山で、弟子たちに、世の終わりに起こることを話されたとき、最後にこう言われました。「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36」やがて起ころうとしていることとは、まさに「主の日」のこと、やがて来る大患難のことです。黙示録6章から18章までに書かれていることです。これらのことからのがれて、イエスさまの前に立つことができるように、油断せずに祈っていなさい、という命令です。私たちはテサロニケ人への第一の手紙で、キリストのうちにいる者は、神の怒りから免れて、救い出されることを学びました。けれども、そのことによって、私たちが何もしなくてもよい、自分のしたいことをすればよい、ということでは決してありません。主が来られるの用意しなくても良い、ということでは決してありません。これらの神の怒りをのがれるのにふわさしい、光の子どもとして歩まなければいけないのです。ですから、神が私たちを、召しにふわたしい者にしてくださるように、パウロは祈っています。

 そして、「御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」とありますが、苦しめる者たちがいても、悪に対して悪で報いることなく、いつまでも善によって応答していくように、という祈りをしています。

 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。

 私たちの間で、主の御名があがめられるようでなければいけません。けれども、このように生きるのは、「私たちの神である主であるイエス・キリストの恵み」によるのです。私たちの頑張りではなく、主の恵みによって、主の御名をあがめるような証しを立てることができます。そして、私たちも主が来られたときに、栄光の姿に変えられ、「主にあって栄光を受ける」ようになります。

 こうして、「神の報復」について学びました。神が苦しめる者に対して同じような程度の苦しみを与えるという真理は、私たちを安息に導き、苦しみの中でも自暴自棄にならず、忍耐することができる力が与えられます。そして何よりも、父なる神と、主イエス・キリストのうちにいること、神の恵みの中に生きることがもっとも大事です。

 次回2章は、主の日がどのように襲うのか、主の日が来るときに必ず現われる反キリストのことについて学びます。

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