テサロニケ人への手紙第二2章1−12節 「反キリストの出現」

アウトライン

1A 主の日 1−4
   1B 携挙 1−2
   2B 背教 3−4
2A 引き止める者 5−8
   1B 不法の秘密 5−7
   2B 主の御口 8
3A 欺きの力 9−12
   1B サタンの働き 9−10
   2B 真理を信じない者 11−12

本文

 テサロニケ人へ手紙第二2章を学びます。今日は、前半部分1節から12節までを学びます。ここでのテーマは、「反キリストの出現」です。

 テサロニケ人への第二の手紙は、主が、テサロニケの人たちを苦しめる者たちに報いをする、報復がそのテーマとなっています。テサロニケの人たちはひどい迫害の中にいましたが、その中で忍耐することはできたのは、神はいつか正しいさばきをしてくださるという慰めです。パウロは、苦しめる者だけではなく、神を知らない者、福音に従わない者たちも、主イエスが地上に再臨されるときに、さばかれ、永遠の滅びへと定められていることを話しました。その一方で、信者にとっては、主イエスが地上に戻って来られることは、すべての不義を滅ぼしてしまい、確かにイエス・キリストが王の王、主の主であることが明らかにされるときであります。ですから栄光に輝く日であります。そして、2章に入ります。

1A 主の日 1−4
1B 携挙 1−2
 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。

 パウロはここで、教会の携挙について話しています。主イエス・キリストが再び来られるのですが、それはキリスト者が主のみもとに集められる再臨、つまり空中再臨のことです。

 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

 私たちは第一の手紙で、キリスト者は、主の日である神の御怒りから救われることを学びました。それは、イエス・キリストが天から戻って来てくださり、私たちが空中に引き上げられることによって、救われます。ところが、テサロニケの人たちがまだこの地上にいるのに、主の日、あるいは大患難がすでに来たかのように話している者たちがいたようです。ある者が、御霊が告げられたと話し、ある者は、預言のことばでそのように話していたのかもしれません。そして、パウロの手紙であるとして、主の日が来たという手紙が出回っていたかもしれません。そこで、テサロニケの人たちは、主の日がいかに恐ろしいものであるかを知っていたので、落ち着きを失ったり、心を騒がせていたのでしょう。

 テサロニケの人たちは、困難の中にいました。けれども、その苦難はこの世から来るものであり、また悪魔がその発端となっています。キリストを信じる信仰のゆえに受ける苦しみです。しかし、主の日、あるいは大患難は、この世と悪魔をさばくところの、神の怒りの現われです。同じ「患難」という言葉を書きますが、その性質は正反対のものです。一つは、イエスさまが言われたように、「あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)」という、キリスト者が受ける苦しみです。もう一つは、「不義な者どもを懲罰のもとに置くため(2ペテロ2:9)」の神が与える苦しみです。主の日がすでに来たと言うことは、テサロニケの人たちが神の怒りにあっていると言っているのと同じことでした。これは偽りの教えです。そこでパウロは、この教えに対して、正しい教えをもって対処します。

2B 背教 3−4
 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 パウロはここから、不法の人、あるいは反キリストの現われについて語っていきます。主の日が来るのは、不法の人が現われることによってであり、不法の人によってこの世が荒廃へと至り、ついにキリストの来臨によって、反キリストともども、不義を行なう者どもがさばかれることが、聖書には預言されています。

 不法の人、あるいは異本では「罪の人」と言われる者が現われるのは、人間が犯している罪と不義が究極のかたちで現わし、それに対して神が滅びへと至らせることによって、すべての人の不義をさばくためです。神の総精算と言いますか、悪を究極の形にまで現わすようにされ、それを究極のかたちで処罰することによって、悪を一掃されます。

 その典型的な例が、イスカリオテのユダでした。光であられるイエスがおられるところには、暗やみの力が究極的なかたちで現われます。イエスとともに過越の食事をしているときに、もっとも近しい関係の中に、サタンがユダに入り込み、イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡させました。それゆえユダは、「滅びの子(ヨハネ17:12)」と呼ばれました。反キリストの名前と同じです。しかし、このユダの暗やみのわざによって、神は全人類に対する救いのご計画を立てておられ、十字架と復活のみわざによって、永遠の贖いを成し遂げられました。

 同じように、神が、ご自分の御子によって、地上にご自分の国を立てる時が近づいています。近づけば近づくほど、暗やみのわざは露になり、そして罪の人、また滅びの子がこの世界に現われるようになります。使徒ヨハネは、「今は終わりの時です。あなたがたが反キリストが来ることを聞いていた・・・(1ヨハネ2:18)」と言っています。

 この反キリストが現われなければ、主の日は来ないとパウロは言っています。そして、この反キリストの現われとともに、「背教」があることをパウロは話しています。福音の真理から離れ、意図的に反対することが背教ですが、この背教についてパウロは、テモテへの手紙の中で書いています。テモテ第一の4章の1節に、「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とあります。またテモテ第二の3章1節から、背教についてこう書いています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1-5

 見えるところは敬虔であっても、その実を否定するというところが大切です。背教とは、教会に来なくなって、世俗的なことにどっぷり漬かっているようなことを言っているのではありません。そうではなく、教会という装いをして、いかにも良さそうなことを話し、行なっていたりするのですが、イエス・キリストの福音を台無しにすることが背教であります。実に宗教的な姿をもって、信仰から離れるのです。黙示録には、大患難時代における、そのような背教した教会の姿を描いている個所があります。17章です。それは、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」と呼ばれています(5節)。そしてこの大淫婦は、後で説明しますが「獣」とも呼ばれる反キリストの上に乗っています。背教は、この罪の人とともにやってくることが分かります。

 ゆえに、私たちは、見えるところは敬虔であっても、その実を否定するようなものを、このみことばのゆえに警戒しなければならないのです。見た目に良いものです。それは、伝道という名目で現われるかもしれません。愛とか一致という言葉で現われるでしょう。平和という言葉では必ず現われます。テサロニケ第一にも、人々が「平和だ。安全だ。」と言っているようなときに、突如として滅びが襲いかかるとありますから。

 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 反キリストは、だれの目でも分かるようなかたちで、その正体を現わします。それは、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに反抗して、自らを神とし、黙示録によると、他の者たちにも神として拝むように要求します。この預言は、ダニエル書の中にあります。7章8節には、「よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。」とあります。大きなこと、尊大なことを語ります。同じく7章の11節にも、「私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。」とあります。後で学びますが、この獣は主イエスご自身によって殺され、ゲヘナに投げ込まれます。そして、11章36節には、こう書いてあります。「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。」パウロは、このダニエル書の預言について語っているのです。

 そしてパウロは、「神の宮に座をもうけ」と言っていますが、これはユダヤ人が神を礼拝する神殿のことです。このことについても、ダニエル書に書いています。「彼の軍隊は立ち上がり、聖所を汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。(11:31)」これは、ギリシヤのセレウコス朝のアンティオコス・エピファネスについての預言ですが、しかし、ダニエル書は終わりの時にもアンティオコス・エピファネスを原型とした反キリストの存在を示しています。彼は、9章27節によると、イスラエルの多くの者に固い契約を結ばせますが、半週つまり三年半後にその契約をくつがえし、いけにえとささげ物をやめさせます。

 イエスは、オリーブ山において、弟子たちにこう言われました。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。(マタイ24:15-16」このイエスさまが、ダニエル書のことばを確認されたものをパウロはテサロニケの人たちに話しました。そしてパウロが語ったとき以来、ユダヤ人の神殿でこのようなことを行なった者はまだひとりもいません。そして、今は神殿すらありません。神殿の丘にはあの、イスラム教の岩のドームがあるだけです。しかし、つい最近も、神殿の丘に何とかして神殿の土台石を置こうとするユダヤ人団体がいます。Temple Institute(神殿協会)という、第三の神殿の建設を目指している団体に、私が99年にイスラエル旅行に行ったときに訪問しました。反キリストは、この神殿における神宣言によって、その正体を現わします。この反キリストの活動については、黙示録の6章の「白い馬」から始まる大患難を読めば詳しく出ています。

2A 引き止める者 5−8
 けれどもパウロは、反キリストはまだ現われておらず、彼が現われるには、引き止めるものが取り除かれなければいけない、と言っています。

1B 不法の秘密 5−7
 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。

 パウロは、キリストを信じたばかりのテサロニケの人たちに、この罪の人、滅びの子について、また神の宮の座に着いて自分を神とすることについて、すでに話していました。このことから、私たちは、聖書の預言は、一部の聖書に興味がある人の話題ではなく、新しい信者も知らなければならない、基本的な教えであることが分かります。

  あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 パウロは、「不法の秘密」はすでに働いている、と言っています。使徒ヨハネも、「今や、多くの反キリストが現われています。(1ヨハネ1:18)」と言いました。反キリストは必ず、一人の人物として現われますが、秘密としては、あるいは霊としてはすでに働いています。ヨハネはまた、「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。(1ヨハネ4:3)」とも言いましたが、イエス・キリストではない代替物はみな、反キリストの霊が働いています。私は個人的に、日本では天皇制に反キリストの霊が働いていると感じています。君が代の歌詞を読んでも、現人神という呼称にも、キリストの御国を摩り替える制度と精神構造があります。共産主義も反キリストでしょう。神の国に代わるユートピアを目指しました。今では、イスラム教にも反キリストの霊が働いています。キリストが神の御子であることを否定し、キリストが十字架につけられて死なれたことを否定し、イエスをムスリムとします。

 しかし、この不法の秘密が完全な姿で現われていません。それを引き止めているものがあるのです。反キリストの霊を引き止めるのは、唯一キリストの御霊のみです。私たちのうちにおられるキリスト、またご聖霊が、この引き止める方であります。クリスチャンは、世の光として、地の塩として召されています。このキリストを証しする教会が引き上げられると、反キリストは自分の姿を完全に現わすことができます。

2B 主の御口 8
 しかし、パウロが先ほどから説明しているように、反キリストが現われるのは、滅びるために現われるようなものです。その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

 反キリストは、イスラエルと固い契約を結びます。ダニエルの第七十週ですが、7年間の契約です。けれども、その半分の期間が経ったときに、暴れまくります。そして、彼の行動が引き金となって、全世界の軍隊がイスラエルに集まってきますが、このハルマゲドンとも言われる世界大戦が行なわれているときに、主が地上に戻ってこられます。そして黙示録19章19節から、反キリストの行き先について、次のように書かれています。「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。(獣とは反キリストのことです。馬に乗った方がイエスキリストです。)すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(19:19-20)」反キリストは、主の御口をもって滅ぼされ、ゲヘナに投げ込まれます。

3A 欺きの力 9−12
 そしてパウロは次に、1章から話していた話題に戻ります。つまり、神を知らない者、福音に従わない者たちが、どのようにして主の来臨によって刑罰を受けるのか、です。これは、やがて滅ぶべき反キリストに追従することによってもたらされます。

1B サタンの働き 9−10
 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。

 イスカリオテのユダが、イエスを裏切るときにサタンが彼にはいったように、不法の人にはサタンが入ってきます。このことは、黙示録13章に書いています。「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、『だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。』と言った。(13:3-4」そして、13、14節には、この獣の権威をもって、大きなしるしを行なう他の獣の存在を明かしています。

 なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 滅びる人たち、つまり福音の真理を受け入れない人たちは、悪魔の欺きに一気に晒されることになります。主の来臨が近づけば近づくほど、悪魔は猛威をふるい、悪の欺きがはびこります。したがって、福音の真理を愛さないもの、真理を求めず、自分の考えていること感じていることを優先する者は、自分を不法の人の欺きに自ら従わせていくようになるのです。

 終わりの時の霊の戦いとは、実は、偽りとの戦いです。もっともらしい、正しいことが、世界に蔓延します。この虚偽に対して、私たちは霊の武器をもって識別し、分別し、その偽りを明らかにします。そして、自分はイエス・キリストのみが真理であることを証しするのです。ですから、私たちはすでに、激しい戦争状態にいることを知らなければいけません。物理的に大変なことが起こるよりも、目に見えないところで、真実ではない偽りを信じさせるようにする力が勢いよく働いているからです。

2B 真理を信じない者 11−12
 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 神は、偽りを信じさせ、惑わす力を与えることによって、ご自分のさばきを行なわれます。これは神が偽りを持っていることではなく、偽りの父である悪魔が、彼らを支配するのを完全に許されるということです。

 私たちを取り囲む世界には、真理の御霊と、偽りの霊のどちらかしか働いていません。真理の御霊に従わなければ、偽りの霊に自分を従わせることになります。そして、福音の真理を受け入れない人は、自分を神から自由にするのではなく、偽りの奴隷にします。パウロは次から、パウロたちが教えたことに堅く立つように勧めていますが、私たちクリスチャンの特徴は、堅く立つことになります。堅く立つことを好まない人たちは、私たちのことを頑強で、独善的で、愛がなく、争いを引き起こすものとして毛嫌いするでしょう。クリスチャンがあたかも、すべての元凶であるかのように話すでしょう。しかし、私たちの戦いは、もう一度くり返しますが、福音の真理と偽りとの戦いなのです。ここにしっかりと立つ時に、私たちはたしかに、引き止める方であられる聖霊をいただいている者として、この終わりの時に、主の証しを立てていく者とされるでしょう。


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