テモテへの手紙第二2章 「恥じることのない働き人」

アウトライン

1A 苦しみをともにする 1−13
   1B キリスト・イエスのりっぱな兵士 1−7
    1C ゆだねられた人 1−2
    2C 決められた行程 3−7
   2B イエス・キリストの福音 8−13
2A 不義から離れる 14−26
   1B 真理のみことばの説き明かし 14−18
   2B 主の御名を呼ぶ者 19−26
      1C きよめられた尊い器 19−21
      2C 義と信仰と愛と平和 22−26


本文

 テモテへの手紙第二2章を開いてください。ここでのテーマは、「恥じることのない働き人」です。15節に、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」とあります。

 前回の1章で学んだことを思い出しましょう。パウロは今、ローマの牢の中にいます。皇帝ネロの前で弁明をしましたが、それは失敗に終わりました。二回目の弁明のとき、彼は死刑に定められることになっていました。ところが、パウロとともに労していた働き人たちのほとんどが、パウロから離れてしまいました。パウロが建て上げた教会では、違った教え、偽りの教えが入り込んでいました。実に、パウロとともに働いていた人たちの中からも、偽りの教えをする者がいました。そのような暗やみの中にパウロがいたことが、この手紙の背景となっています。パウロは、自分が死刑の処せられる前に、テモテをエペソから呼んで、最後の時を彼とともに過ごしたいと思っています。

 このように、教会が、背教の状態にいます。教会の中に一部、違った教えをしている者がいたというのではなく、教会全体が、キリスト・イエスに対する信仰から離れていくという状況が出来上がっていました。聖書では、終わりの時には背教が起こり、また困難な時代になることが預言されています。その中で、信仰を保っていくことは戦いであり、牧者であるテモテも、恐れや、疲れなどによって、気弱になっていたと考えられます。パウロは、こうしたテモテに激励のことばをかけて、彼が、再び神の賜物を奮い立たせて、神の力によって、福音を語るように促しています。

1A 苦しみをともにする 1−13
 そして2章に入ります。パウロは続けてテモテを力づけるべく、いろいろな言葉をかけています。

1B キリスト・イエスのりっぱな兵士 1−7
1C ゆだねられた人 1−2
 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

 私たちが1章において、終わりの時の困難があるとき、自分を支えるのは自分たちの行ないではなく、神の恵みによる選びであることを学びました。永遠の昔から、神は私たちを救い、聖なる招きをもって召してくださいました。この恵みをもって、強くなりなさい、とパウロは命じています。私たちを強くするのは、神の恵みのみです。私たちが弱まっているときに、もっと祈らなければいけないとか、もっと伝道しなければならないとか、私たちの行ないが強調されるのではなく、神がキリストにあって行なってくださった、神の恵みが強調されなければいけません。神の前で恥ずかしくない働き人として立つことができるのも、この「恵み」によってであります。

 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

 パウロは1章において、「あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」(14節)と言いましたが、主人がしもべに、自分の財産の管理を任せて、しもべにその財産を守らせるように、テモテは、パウロから、福音の真理をゆだねられていました。そして、今、今度はテモテがその良いものを、他の教える力のある忠実な人たちにゆだねていかなければいけません。これは、今日の私たちも同じです。私たち、とくに牧者であり教師である者は、自分が自分が悟った何か新しいことをメッセージにして語るのではなく、聖書そのものを語り告げなければいけません。聖書に何が書かれているかを真摯に求め、そして理解したことを聞いている人たちに分かち合うのです。そして、その聞いている人たちが今度は、自分で聖書を理解する力を身につけて、今度は他の人たちに聖書を教える者となっていかなければいけません。受け継がれた者をさらに、他の人たちに継承していくのです。

2C 決められた行程 3−7
 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

 パウロは、自分が福音によって牢につながれていることを、1章においてテモテに話しました。そして、パウロが主の囚人であることを恥とせず、福音のために彼と苦しみをともにするようにお願いしました(8節)。パウロはこのことを、「キリスト・イエスのりっぱな兵士」というたとえで、苦しみをともにすることをテモテに語ります。

 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

 日本には徴兵制がないので、この兵役についての意味があまり理解できませんが、韓国人の友人や、また兵役についたアメリカ人の友人から、この兵役について聞く機会が何度となくありました。そこでは、「自分」という主張は、完全に抹殺されます。すべて上から命令により動き、一切自分のしたいことは考慮されません。キリスト・イエスにある兵士というのも、これと同じであり、キリスト・イエスからゆだねられたことをこなしていくことが、自分のすべてとなっていなければならず、自分の好きなことや、願っていることを行なっていく余地はないのです。

 こういうことを話すと何の自由もない、窮屈な生活であるように聞こえてしまいますが、主にお仕えすることは喜びであります。いろいろな労苦があっても、主にあって行なったことにともなう充足感があり、決して義務的にいやいやながらこなしていかねればいけないものではありません。主に導かれて、主が示してくださったことをはっきりとつかんでいる者は、しなければいけないことがはっきりとしており、その他の事柄で時間を無駄に過ごすことがなくなっていきます。「何をすればいいかな、どうしようかなあ」という迷いはなくなり、主が命じておられることを、はっきりとわきまえていることができるのです。

 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

 次にパウロは、オリンピック競技などのスポーツ選手のたとえを用いています。オリンピックにおいて金メダルを獲得した人も、後でドーピング検査に引っかかったのであれば、その人の金メダルは剥奪されます。パウロが生きていた当時のオリンピックにおいても、そうでした。同じように、主に対する奉仕も、主によって定められたルールがあります。主にあって行なうべきことが明らかにされているときに、何が主にあって行なっていることなのか、また何が自分勝手なことをしているのかが分別できるようになります。パウロは、使徒行伝にてこう言ったことがあります。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(20:24)」走るべき行程があり、そこからはずれてはいけない。自分にゆだねられた任務があり、それを全うしなければいけない、ということです。

 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。 

 農夫が汗水流して耕した結果、もたらされる収穫は、もちろんその農夫がその収穫の分け前に初めにあずかることができます。これは自ずと明らかなことです。聖書には、終わりの時に、私たちが、主から報いを受けることが約束されています。その時に、その報いにあずかるべき初めの人は、働きの中にてもっとも労苦した人に与えられます。パウロがここで言いたいのは、主の奉仕者は、労苦なくして奉仕することはできない、ということです。パウロは使徒行伝や、手紙の中で数多く、自分たちが労していることを語りました。マルチン・ルターは、「祈りと、みことばの学びと、苦しみ。この三つがあって、初めて人は牧者となる。」と言ったそうです。労苦や苦しみは、牧会の務めの一部であるというのが、パウロがテモテに教えていることです。

 私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。

 パウロがテモテに、この三つのたとえを理解することができるから、よく考えてみなさい、と言っています。私も初め、どのような意味をこのたとえが持っているか考えましたが、自分が理解したのは、以上話したようなことでした。

2B イエス・キリストの福音 8−13
 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。

 パウロは、福音のために苦しみを受け、牢の中に入っていると言っていますが、その福音とは、「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリスト」のことであります。この福音を宣べ伝えると、パウロのように苦しみの中を通らなければなりません。それには理由があります。イエス・キリストが、第一に、「ダビデの子孫」であると書かれています。これは、マタイによる福音書の書き出し、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」とあるとおりですが、これは、ナザレから出てきたイエスが、あらかじめ預言者たちによって預言された、ただ唯一の救い主であることを証言しているものです。救いへの道が、預言によって一人のメシヤという人物に絞られており、この方がこの世に現われたとするのが、「ダビデの子孫」という言葉に含まれている意味です。ですから、イエスをダビデの子孫であるということは、イエスの御名以外に、救われるべき名が、この天下にはないことを教えているのです。ですから、福音を伝えることは、他のあらゆる救いの可能性を排除するものとなります。したがって、人は福音を拒んで、福音を宣べ伝える人々に苦しみを与えるのです。

 第二に、「死者の中からよみがえった」ことであります。これが使徒たちが宣べ伝えていた福音の中心でありました。イエスが語られたこと、行なわれたことは、もしこの方が死んでしまえば、自分たちの生活の中に必ずしも影響を与えなければいけないものではなくなります。良い教えとして自己向上のために受け入れてもよいかもしれませんが、必ずしも、自分を規定するものではありません。しかし、この方がよみがえられました。したがって、人は、自分のすべてのあり方を捨てて、自分を死んだものとみなし、生きておられるイエスを自分の生活に迎え入れなければいけないという必然性が生じるのです。自分を殺して、イエスを生かすか、あるいはイエスを殺して、自分を生かし続けるのかの選択に迫られるのです。この福音も、人が聞いたら、拒む人は本当に拒むでしょう。そして福音を伝える人をも憎み、苦しみを与えるのです。このように福音は、人々から苦しみを受けるメッセージをその中に含んでいるのです。

 私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

 自分ではなく、神ご自身が、そのみことばによってご自分の働きをされるということです。パウロが、ミレトでエペソの教会の長老たちに、これから狼が教会を荒らして、またあなた方の中からも曲がったことを語るようになると予告しましたが、こう言っています。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(20:32)」私が、聖書のことばを教え、訓戒することに専念し、自分の意見を言わないようにしている理由は、このためです。私の意見や言葉は、人の心を一寸でも動かすことができれば大したものです。けれども、多くの場合は、的のはずれた忠告をして、かえって混乱させるときがあります。しかし、聖霊がみことばによって、人々の心を取り扱い、その人が自ら進んで、自分のあり方を捨てて、キリストの道を選び取るのであれば、それが神の力であります。

 ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

 パウロは救いにあずかって、栄光の姿に変えられるその人たちを、「選ばれた人たち」と呼んでいます。彼がコリントにいるときに、主イエスが彼のかたわらに立たれて、こう言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。・・・この町にはわたしの民がたくさんいるから。(使徒18:10)」私たちが行なうべきことは、人を救うことではなく、神が救いに選ばれている人々が救いにあずかることができるように、忠実にみことばを語ることのみです。救いの働きは、主が行なってくださいます。

 次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

 主は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8:35)と言われました。キリストが十字架への死の道を歩まれたように、キリストに結びつけられた私たちも、この死を自分の身にまとうことになります。もちろん、殉教するというだけの意味ではなく、自分のあり方を捨てて、キリストのあり方が自分を通して見えてくる生き方です。自分に死ぬときに、キリストが自分のうちで生きてくださいます。

 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。

 ローマ8章17節には、「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とあります。私たちがキリストとともに苦しむとき、キリストにある栄光もともにします。

 もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

 苦しみを免れようとして、福音を恥と思い、キリストを否むのであれば、キリストも私たちを否まれます。主は、「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:33)」と言われました。

 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

 私たちが真実を尽くすことができなくても、それで主が真実を尽くさないことはありません。これはすばらしいことです。私たちはとかく、自分たちのことについて深刻に考えすぎてしまいます。けれども、大事なのは私たちではなく、主ご自身であります。ハドソン・テーラーは、「私たちが忠実であろうとするのではなく、つねに真実であられる方から目を離さないことである。」と言いました。

 これらパウロが、「信頼すべきことば」を読むと、いかに私たちクリスチャンが、一種の「逆説」の中に生きているかが分かります。死んだ者が生き、耐え忍ぶ者が治めるのです。これは、主ご自身の説教でもそうでしたね。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」(ルカ6:20−21)そして、主のためにはずかしめを受け、憎まれるとき、おどり上がって喜びなさい、なぜなら、天での報いは大きいからです、と主は言われました。これは、すべての者が主の前において同じところに立ち、すべての者が神をあがめることができるようにするためです。人が、この世のものを頼るのではなく、天にあるものを求めるようにさせ、主のみに拠り頼むようにさせるためであります。

2A 不義から離れる 14−26
 こうしてパウロは、テモテが自分とともに苦しみをともにするように、強く勧めましたが、次に、第一の手紙でも取り扱われた、「ことばについての論争」について戒めを与えています。

1B 真理のみことばの説き明かし 14−18
 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。

 ことばについての論争は、クリスチャンの間で頻繁に行なわれています。今日、インターネットの掲示板があり、読んでいる人を信仰へと導くのではなく、信仰から引き離してしまうような発言がたくさん出てきます。しかし、パウロは、こうした論争をしないようにと、神の御前できびしく命じています。

 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

 ことばについての議論を避けて、主の奉仕者がしなければいけないのは、「真理のみことばをまっすぐに説き明かす」ことです。この新改訳の翻訳からは、そのニュアンスがうまく出てこないのですが、新共同訳や英語の新欽定訳など参考にして、次のように言い直してみます。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、すなわち、真理のことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、努め励みなさい。」これは、家具なり家屋なりを建てる大工職人を思い浮かべれば良いかと思います。そのできばえによって、彼が適格者であるかどうかが認められます。もし、しっかりと設計図どおりに製作できていなければ、職人として大変恥ずかしいことですが、設計図どおりにきちんと仕上げていれば、適格者として認められます。大工はそのことのために、自分の腕を磨き、練磨します。

 同じように、主の働きに従事している者は、神の真理のみことばを、まっすぐに説き明かすという務めを担っています。大工が鉋をかけてまっすぐな柱を仕上げるように、みことばを教える者は、神の真理を正しく教えなければいけません。自分が言いたいことを聖書から話すのではなく、聖書そのものを教えるのです。聖書から教えるというのと、聖書を教えるのは大きな違いがあります。牧者は聖書そのものを説き明かし、人々は聖書そのもののメッセージを聞くのです。

 俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

 ことばによる論争は癌細胞のように転移します。ヒメナオという人が、テモテへの第一の手紙でも現われていましたが、彼は他の者とともに復活がすでに起こったと教えていました。これは、死者の復活がすでに起こっているという意味なのか、それとも御霊による新生が「復活」であると解釈しているのかどうか分かりません。いずれにしても、聖書の基本的な教えから逸脱しているため、癌のように広がっていきます。

2B 主の御名を呼ぶ者 19−26
1C きよめられた尊い器 19−21
 それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

 俗悪なむだ話が癌のように広がっている中でも、神の不動の礎は堅く置かれています。先ほど、パウロが、「私たちが真実でなくても、主は真実であられる。」と書かれているとおりです。私たちの回りで、偽りの教えがはびこっていても、それによって主が動じるということは、決してありません。むしろ、偽りの教えを広める者たちが、主の御前で不適格者とされ、無益な者になっていくというのが真理なのです。そこで、パウロは、「主の御名を呼ぶ者は、不義を離れよ」と言っています。

 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

 家の中には、料理に使われる器もありますし、またゴミ箱に使われる器もあります。けれども、家の者の好きなように、これらの器は用いられていきます。私たちも同じです。尊い器であろうと、卑しい器であろうと、主はご自分の栄光のためにそれを用いていかれます。けれども、主にとって有益なのは尊い器であり、私たちが尊い器でいるためには、自分をきよめ、不義から離れなければいけないのです。

2C 義と信仰と愛と平和 22−26
 それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

 若者は性欲が強いですから、テモテも例外ではありません。けれども、これらの情欲を避けなければいけません。良い模範が、エジプトにいたヨセフです。主人の妻に言い寄られたときは、彼は逃げました。そして、避けるだけではなく、仲間を持つことが大事です。きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めます。こうした仲間がいれば、自ずと自分が情欲から引き離していることができます。

 愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。

 ことばの言い争いに対抗するために、私たちがそれを避け、まっすぐに真理のみことばを説き明かすだけではなく、柔和な心で訓戒していくことができます。言い争うのではなく、優しさを持ち、よく教え、よく忍びます。

 もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

 悔い改めを与えるのは、自分ではなく神であることを知ることが大事でしょう。私たちが説得しても、その人は言い争いをするために話しているのですから、所詮説得されません。しかし、神にはそれがおできになります。

 それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。 

 これは泥酔して、駅のベンチで眠りこけている人を、どうにかして目ざめさせる駅員さんに似ているかもしれません。起きるかどうか分からないが、柔和な心で訓戒していれば、もしかしたら目ざめるかもしれないのです。

 こうして、「恥じることのない働き人」として必要なことを学びました。一つは、苦しみをともにすること。もう一つは、不義から離れることです。


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