使徒の働き1章前半 「聖霊の働き」パート1

アウトライン

はじめに 1−2
1A 聖霊の約束 3−14
   1B 命令 「待っていなさい」 3−8
   2B 完成 「またおいでになります」 9−11
   3B 従順 「祈りに専念していた」 12−14
2A 人間の働き 15−26
   1B 神のみことば 15−22
   2B 祈り 23−26

本文

 それでは、使徒行伝1章をお開きください。ここでのテーマは、「聖霊の働き」です。それでは、さっそく1節と2節をご覧ください。

はじめに 1−2
 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。

 使徒行伝の著者は、ルカです。この書き出しを見ると、この使徒行伝がルカの福音書の続きである事が分かります。ルカの福音書1章の、書き出しの部分にはこう書かれています。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(1:1-3」この福音書が書かれている相手はテオピロという人物であり、そしてこの使徒行伝1章1−2節でも、テオピロになっています。そしてここでルカは、「前の書で」と言っていますが、それがルカの福音書であり、使徒行伝はその続きの書、あるいは後の書になっています。

 そして面白いのは前の書においては、「イエスが行ない始め、教え始められたすべてことについて書」いた、と言っているところです。行ない始め、教え始められたのであって、まだ終わっていないのです。イエスの宣教の働きは、天に上げられた後も聖霊によって続いています。ですから、この書物の題名が、「使徒行伝」とか「使徒の働き」となっていますが、本質的には、「イエス・キリストの働き」となります。イエスさまが、聖霊によって、使徒たちの中で働いておられるのです。そして、私たちの中でも働かれます。使徒行伝は、イエスさまが生きて働かれたのが福音書の時代だけではなく、むしろ、聖霊によってさらに大きく、今の信徒たちにも生きて働いてくださることを示しているのです。そして、どのようにすれば、このすばらしいみわざの中に入っていくことができるのかを、私たちは使徒行伝の中で学びたいのです。イエスさまが今も生き生きと働いておられる中に自分たちもいるのには、どうすればよいかを学びます。

1A 聖霊の約束 3−14
 この前書きが終わって、ルカは本文に書き記しますが、3節から14節までは、ルカの福音書の最後の部分と重なります。イエスさまが、聖霊の約束を与えられて天に昇られる箇所は、ルカの福音書の最後のところにも書かれていました。

1B 命令 「待っていなさい」 3−8
 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

 イエス様は、復活したあとに「四十日間」この地上におられました。復活の日はレビ記23章によりますと、初穂の祭りです。過越の祭りが金曜日で初穂の祭りは三日目の日曜日です。その日から七週間を起算して、その五十日目が五旬節、ペンテコステです。したがって、イエス様が昇天されてから十日目に2章に書き記されている聖霊降臨が起こったものと思われます。

 そしてイエス様は、「数多くの確かな証拠をもって」ご自分が生きていることを表されました。復活こそが、福音の確かな証拠であり、二人、三人の証人ではなく、数多くの証人をもって、この方が確かに生き返ったことをイエス様は示されたのです。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(1コリント15:3-8

 そのときにお語りになっていた話題は「神の国」です。これはイエス様が十字架につけられる前から語られていた主題の一つでありました。これには、いろいろな側面があります。一つは、神が万物を支配されているという意味での御国です。この意味では、今でも神はあらゆるものを、悪でさえ支配されていますから神の国です。

 けれどもアダムが罪を犯してからは、悪魔がこの世の支配者となりました。この状態をイエス・キリストが流された血の対価によって贖い、その国が神のものとなる時に「神の国」と呼びます。地上に不正は取り除かれ、キリストが事実エルサレムから王の王、主の主として統治され、神の民もキリストとともに統べ治める世界です。このことについての預言が旧約聖書に数多くあるので、弟子たちが願っていたのはこの世界でした。黙示録では、これが千年の間続くことを教えています。

 けれども、イエス様は私たちの心に支配され、事実、イエスが支配されている状態も「神の国」と言われました。パウロはこれを、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:16」と呼びました。地上に神の国が到来する前に、まず私たち自身の心に神の国が訪れなければいけないのです。それを可能にするのが、御霊による新生であり、心の王座を自分が退き、キリストが王となられるのです。

 弟子たちは、先に話した地上における神の国を待ち望んでいました。イエス様が、「わたしは十字架につけられるが、三日目によみがえる。」と言われた言葉を理解することができず、むしろ、これから主がエルサレムに行かれて、ローマの支配者を打ち倒して、ユダヤ人を中心とした神の国を打ち立てられると願い、だれがイエスの右の座、左の座に着くことができるかを議論していたのです!けれども、十字架にイエス様がつけられたことによって、もろくもその期待は打ち砕かれました。

 ところが三日目によみがえられたのです!それで彼らはイスラエルをイエス様が再興してくださるのか、と6節で聞いています。

 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 「わたしから聞いた父の約束」とは、聖霊のバプテスマを受ける約束であり、旧約聖書では、ヨエル書2章にある約束です。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(2:28-29」この約束がまず実現するから、あなたがたは待っていなさい、と命じておられます。

 ヨエルの預言の大きな特徴は、神の御霊が「すべての人に」注がれるということです。それを強調するために、主は、息子や娘までが預言し、年寄りも夢を見て、若い男は幻を見ると約束されました。旧約時代には、神が選ばれた人のみに聖霊が注がれました。

 イスラエルの民が、「肉が食べたい」と不平を鳴らした時にモーセはその重荷が負いきれなくなって主に、そのことを告げました。すると主は、長老七十人にモーセに与えられていた御霊を分け与えることを告げられました。それで、七十人が恍惚状態になって預言しました。モーセのしもべヨシュアは、そのことをねたみましたが、モーセはこう言ったのです。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(民数11:29」そのモーセの願いが、ヨエルの預言の中で神がかなえてくださることを約束されているのです。

 ところで、この「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」が区別されて出てきます、ここにははっきりとした違いがあります。バプテスマとは「浸される」という意味があります。水に満たされて、全身水だらけになれば、「水のバプテスマ」です。そして、聖霊に浸される。自分がみな聖霊のものとなってしまう、そのような状態を「聖霊のバプテスマ」と言います。バプテスマのヨハネ自身がこう叫びました。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3:11

 ヨハネのバプテスマの時は、バプテスマを授ける人はヨハネでした。そしてバプテスマの媒体はもちろん「水」です。そしてその内容は「悔い改め」でした。彼は、ユダヤの民が罪から離れて神に立ち返るべく、その悔い改めの中に入ることを表明するために、バプテスマを授けました。

 聖霊のバプテスマは、バプテスマを授ける人はあくまでも主イエスご自身です。主が、私たちにバプテスマを授けられます。そして媒体はご聖霊です。水のバプテスマの時にように、ご聖霊に浸されるのです。そして内容は8節に出てきますが、「イエス・キリストの証人」になることです。またガラテヤ書5章には御霊の実は「愛」だと言っていますが、キリストの愛の中に自分が入ることを意味します。

 実はもう一つ、似たようなバプテスマがあります。「御霊によるバプテスマ」がコリント第一12章に書いてあります。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12:13」ここでは、バプテスマを授ける方が御霊ご自身です。そして媒体が「キリストのからだ」であります。そして内容は「一致」であります。同じ神の家族の中に入ることを意味して、これはイエス・キリストを信じた時に与えられるバプテスマです。

 教会によっては、このバプテスマを聖霊のバプテスマと混同して教えます。イエス様を信じたら、それで聖霊のバプテスマを受けたと教えるのです。けれども、そうではありません。聖霊のバプテスマについて、主がさらに8節でお語りになります。

 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

 イエス様が聖霊のバプテスマについて語られている時に、彼らがその話からそれて質問しています。先ほど話したように、彼らが期待していた神の国の到来は今なのか?と尋ねています。

 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」

 主は、世の終わりについて語られた時に、「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っています。(マタイ24:36」と言われました。しかし、イスラエルが再興することについては否定されませんでした。むしろ、それは必ず起こることを示唆しておられます。そして、主は聖霊が弟子たちに臨まれることを語られるのです。

 そして聖霊の働きが進み、弟子たちは福音を世界に伝えました。使徒たちの手紙の中には、「この働きの中で、主が来られる」ということを信じている文面が数多くあります。つまり使徒たちは、イエス様の言葉を「神の国の到来はないのだ」とか、「それは強調すべきではない」などと受け取らなかったのです。むしろ、教会の働きは神が挿入的に聖霊を降り注がれることによって与えられたものであり、教会がこの地上から引き取られる時が来るという理解でした。

 したがって私たちも、「神の国はすぐに来る。」という信仰を持ちながら、「聖霊の力によって、世界に福音を伝える」という使命を持つのが教会の使命なのです。

 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 この節は、使徒行伝全体のテーマになっているし、またアウトラインにもなっています。テーマは聖霊の御業です。私たちではなくて、「聖霊があなたがたの上に臨まれる」となっており、聖霊が主役となっております。

 そして、ご聖霊の私たちへの関わり方ですが、「あなたがたの上に」となっています。聖霊の内側における働きではなく、外側からの働きです。私たちはイエス・キリストを自分の救い主また主として信じるとき、御霊によって新たに生まれます。私たちに内に宿ってくださり、そして私たちを教え、導き、励まし、みことばを理解させ、みことばを思い出させて下さいます。また、この聖霊の働きによって、主のかたちへと変えられていきます。すばらしい働きです。

 ヨハネ1416-17節を読みます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」もうひとりの助け主とは、ご聖霊のことです。イエス様が地上からいなくなっても、ご聖霊によって主が続けて弟子たちを助けてくださる、ということです。

 そして、助け主が「ともにおられる」という約束があります。ギリシヤ語では「パラ」と言いますが、これは実は信仰を持つ前から主が人に与えられている関係です。私たちが、十字架につけられたイエスが実に、自分の罪のためであり、この方がよみがえられたことを信じるのは、聖霊によらなければ悟ることができません。だれでも聖霊によらなければ、イエスは主と言うことはできないのです。ですから、聖霊が共におられます。

 そして、もう一つは「うちにおられる」という約束です。共におられるだけでなく、内に住んでくださるのです!ギリシヤ語では「エン」と言います。内側における聖霊の働きによって、私たち自身がイエスを深く知り、イエスを愛し、イエスがどのようにすぐれた方なのかを知っていくことができます。私たちをキリストの愛と喜び、平安で満たされます。そして、キリストの似姿に私たちを変えてくださいます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18

 イエス様は弟子たちに対してはこのことを、復活の後にしてださいました。「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。(ヨハネ20:21-22」この時に彼らは、聖霊を受けました。聖霊が彼らの中に住んでくださいました。そして今、聖霊が上から臨むという約束を受けたのです。

 このように、内に住まわれる聖霊の働きと、ここでの約束は違います。「あなたがたの上に」というのは、ギリシヤ語で「エピ」であり、聖霊の内側における働きではなく、私たちの外側から与えられる働きです。単にご聖霊に満たされるだけでなく、ご聖霊の働きが自分からあふれ出て、周りにその影響を与えていく働きです。ヨハネ7章を開いてください。37節から読みます。

37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 ここの「流れ出る」という言葉は、砂漠地帯の涸れ川に雨が降り、鉄砲水となって流れ出る姿を表しています。ちょろちょろ流れるのではありません。これをイエス様は「聖霊のバプテスマ」と呼ばれているのです。この体験を私たちはイエス様から与えられることを知らなければいけません。またこの体験をすることを願わなければいけません。

 内なる聖霊の働きと、外からのご聖霊の働きの違いを、自動車で例えてみましょう。自動車で、自分の知らない道を走っていると想定しましょう。そして、友だちが車を前に走らせて、道案内をしてくれています。自動車にはハンドルがあるし、ブレーキがあるし、ギアがあります。これらを使って車を走らせるわけですが、自分の前を走ってくれるナビゲーターとしての車に付いていかなければいけません。もちろん、ナビゲーターの車に、「こっち行って。あっち行って。」と言うことはできず、ただただ、ナビゲートしてくれている前の車のいいなりになって、進んで行かなければいけません。

 これが外側からの聖霊の働きです。自分ではなく、聖霊が私たちを導いている働きです。そして、自分が運転する車は内側における聖霊の働きであり、聖霊がガソリンのように自分たちを動かす原動力をなってくださり、私たちがみことばを読んだり、祈ったりするときに、私たちを助けてくださいます。けれども、外側からのご聖霊の働きは、私たちの理解や判断を超えたところの、主権的で力強い働きです。私たちの思いでは反対方向に行ったほうが良いのではと思っても、ただ主が行われることだからと信じて進んでいくという、ご聖霊が主導権を握っておられる状態です。

 これを使徒の働き全体の中で見ていきます。使徒たちの思惑に反して、ご聖霊が強く臨まれ、働かれる姿を見ます。イザヤが預言した次の言葉が実現します。「「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ書55:8-9

 そして、聖霊が上に臨まれた結果、彼らは「イエスの証人」となります。私たちを通して、周りの人々がイエスを知るようになり、イエスを愛し、イエスに従うようにさせます。ですから、聖霊のバプテスマは、イエスの宣教命令を守るためには、絶対に必要な関係なのです。聖霊とのこのような関係があって始めて、私たちだけではなく、他の人々がイエスを知るようになります。

 ここで「わたしの証人になる」とあり、「わたしの証言をする」となっていないことに気を付けてください。つまり、単に言葉で証言するのではなく、自分の存在そのものが証言となっていく、ということです。言葉だけでなく生活も、イエス・キリストを現したものとなるということです。

 これは大きな挑戦です。私たちが最も苦労するのは、家族に対する伝道です。こちらが変わりましたと言っても、その性格をよく知っているのは家族だからです。だから、家族にさえ見ることのできる変化が必要になります。これは私たちには難しいことです。いや実は不可能なことなのです。ですから、ご聖霊が上から臨まれるという体験が絶対に必要です。自分が変えられたことを、周囲の人々にも確認することのできるような奇蹟が必要であります。

 そして多くの人が、新しいことを知るとそれを他の人々に伝え、伝えるだけでなく、説得しようとします。そしてその新しく得た知識を知らない人々を見下すことさえします。けれども、その時に自分自身を吟味してください。「その話していることが、どれだけ自分の生活を変えていますか。」ということです。自分の生活の中で、自分の信じている事が確かに現れている時に、信じている事が確かにキリストに似姿に近づかせている時に、周りの人が「どうして、そんな困難の中にいるのに喜びと平安に満たされているのですか?」と尋ねます。これが、ご聖霊の働きであり、私たちが願わなければいけないことです。

 イエス様は、黙示録で「忠実で、真実な証人(3:14」と呼ばれました。それは、父なる神を忠実に、真実に証しされた方という意味です。イエス様は弟子たちに、「わたしを見た者は父を見たのです。(ヨハネ14:9」と言われました。それだけ忠実に証言しておられたのです。そして私たちは今、「イエス・キリストの証人」となる召しを受けています。これは大変なことです、いや不可能なことです。けれども、だからこそご聖霊の力が必要なのです。

 後の学びで取り扱いますが、使徒行伝3章でペテロとヨハネが、足なえの男にこう言います。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。(3:6」ペテロとヨハネは、自分たちにイエス・キリストの名の力を持っていることを、確信をもって言うことができたのです。私たちはしばしば、「私を見ないでください、つまずきます。イエス・キリストを見てください。」と言ってしまいます。けれども、「私を見てください、それでイエス・キリストにならう者になってください。」というところまで引き上げられる必要があります。これができるのは、ご聖霊の力なのです。

 そして、どのようにイエスの証人になっていくかについても、イエスが語っておられます。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果て」にまで及びます。エルサレムは、今彼らがいるところですね。そして、イエスが十字架につけられたところであり、イエスを憎むユダヤ人たちもたくさんいるところです。彼らは、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めて部屋の中にいました。なのに、まずエルサレムからイエスの証人となるというのです。

 さらに、「ユダヤとサマリヤ」ですが、サマリヤはユダヤ人が通りもしなかったところであり、彼らが嫌っていたサマリヤ人のいるところであります。そして、「地の果て」ですが、ここに実は異邦人も含まれることが後でわかってくるようになります。イエスは、「あらゆる国々の人々を弟子としなさい。」と言われましたが、異邦人に対してもイエスの証人になるわけであり、ユダヤ人にとって、異邦人に救いを伝えるなど考えもしないことでした。

 こうして見ると、彼らが願ってもいないこと、考えてもいないことを神が幻として与えておられます。このように、私たちの思いをはるかに超えて、大きな使命を与えられるのがイエス様であり、そしてご聖霊がそれを可能にしてくださるのです。

 そして使徒の働きを読み進めますと、エルサレムでは迫害にも関わらず、大胆にイエスの名を伝える使徒の姿を見ることができます。そして、エルサレムからユダヤとサマリヤに福音を伝えるきっかけは、ステパノの殉教でした。迫害を恐れて、彼らはエルサレムから逃げたのです。ところが、それを機会として捕え、サマリヤ人にも福音を伝えたのです。

 そして地の果てに福音を伝えるきっかけは、教会を激しく迫害していたパウロよるものでした。エルサレムにいる兄弟たちは、パウロが回心したことが信じられなくて、彼を迎え入れなかったほどでした。自分たちには到底、異邦人には言い伝えることのできないと思っていたところが、ギリシヤ人の世界に生きていた、律法に熱心なユダヤ人パウロを神が捕えてくださったのです。

 ですから私たちは、神からの幻を受け取る時に、自分の理解の中に閉じこもってはいけません。そして自分の能力の中に範囲を狭めてはいけません。主がなされようとしていることは、はるかに大きく、はるかに広く、はるかに深いのです。

 そして最後に、使徒行伝のアウトラインですが、3つに分ける事もできるし、2つに分けることもできます。3つに分けるときは、1つ目がエルサレム、2つ目がユダヤ・サマリヤ、そして3つ目が、地の果てです。エルサレムにおける活動が2章から7章までであり、ユダヤ・サマリヤ地方における福音伝道が8章から12章までであり、地の果てにいたる宣教は13章から最後までです。2つに分けるときは、エルサレムとユダヤ・サマリヤにおける活動を一つにします。ここでは主にペテロが中心となって活動しています。ペテロは、ユダヤ人に福音を伝える使徒です。そして、13章以降は、パウロが中心になっており、彼は異邦人に福音を伝える使徒であります。

 そしてこれは、私たちの宣教の働きにも当てはめることができます。エルサレムは、今、私たちがいるところです。そこから始まり、自分の周囲の人々に、さらにその周辺にいる人々に、そして最後には国を飛び越えて、他の国々の人々にも福音を伝えます。

2B 完成 「またおいでになります」 9−11
 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 「雲」は、単に物理的な雲に限らず、神の栄光を現しています。幕屋、神殿に満ちた雲であり、またイエス様が再臨される時に乗って来られる雲でもあります。

 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 ここにいるふたりの人、おそらく御使いでしょうが、彼らはイエスが再び来られる約束をなさいました。まったく同じ有様でおいでになります。ある人々は、イエス・キリストの再臨は心の中の問題だ、また、神の国は地上では実現しない。天国だけのものだと言いますが、どちらも間違いです。イエスは、目に見える形で、同じ有様で天から来られます。

 イエス様は、十字架につけられる数日前に、同じくオリーブ山にて弟子たちにこう警告しておられます。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。(マタイ24:23-27

 そして、ここオリーブ山に再び立つことになるのです。ゼカリヤ14章4節には、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」とあります。

 ですから、まとめますと、イエスは、弟子たちに神の国のことを語られました。それは、弟子たちが働きかけて実現するのではなく、イエスさまが再び来られることによって実現します。けれども、再臨の前に、聖霊の働きがあります。福音を全世界に伝えるという働きがあり、その聖霊の働きが終わったら、イエスは天から地上に来られ、神の国を立てられるのです。だから、私たちクリスチャンは、この二つの真理をいつも心に留めていなければなりません。一つは、聖霊に満たされることです。自分ではなく聖霊が主役となって、福音が伝えられます。もう一つは、神の国を待ち望むことです。イエスが、すぐに来られることを待ち焦がれて、神の国に希望を置きます。

後半に続く)

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
HOME