使徒行伝14章 「神が行なってくださったこと」

アウトライン

1A そそのかし 1−7
   1B 御恵みのことばの証明 1−3
   2B 続く宣教旅行 4−7
2A 崇拝 8−18
   1B 奇跡の賜物 8−10
   2B 人間宣言
      1C ささげもの 11−13
      2C 神の賜物 14−18
3A 石打ち 19−28
   1B 立ち上がり 19−20
   2B 勧め 21−24
   3B 報告 25−28

本文

 使徒行伝14章をお開きください。ここでのメッセージ題は、「神が行なってくださったこと」です。パウロとバルナバが、ガラテヤの地域における宣教旅行からアンテオケの教会に戻って、成し遂げられた神のみわざについて報告します。

1A そそのかし 1−7
1B 御恵みのことばの証明 1−3
 イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰にはいった。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。

 私たちは、前回、彼らがアンテオケの教会から遣わされて、キプロス島に渡り、それからトルコのガラテヤという地域で宣教を行なっていた個所を読みました。ピシデヤのアンテオケというところで、福音を語り多くの人々が救いに導かれましたが、ユダヤ人たちの反対と扇動によって、その町を離れなければならなくなりました。そして、彼らはさらに内陸に入り、イコニオムというところで福音宣教をしています。今、読みましたように、大ぜいのユダヤ人とギリシヤ人が信仰に入りました。信じないユダヤ人が、異邦人たちにそそのかして、すでに信仰をもった人々に悪意を抱かせようとしましたが、パウロとバルナバはさらに大胆に福音を語り、不思議としるしが行なわれるようにまでなりました。

 彼らが語っていたメッセージは、3節によると、「御恵みのことば」となっています。私たちは前回、パウロの説教の内容を読むことができました。それは、救い主イエスのことについてでした。このイエスの御名によって、あなたがたの罪は赦されます。また、信じることによって、正しい者と認められます、という内容でした。これが神の恵みであり、パウロはこのことをイコニオムでも語っていたはずです。ところが、信じない人たちは、激しくパウロとバルナバに反対しています。この反対は、さらに激しくなり、後にパウロが石打ちにあって、死んだようになってしまったほどになりました。なぜ、ここまでユダヤ人が、またそそのかされた異邦人が、パウロたちのことをねたみ、そそのかしたいと思ったのでしょうか。それは、神の恵みは、信じる者には最上の喜びと幸せを与える反面、受け入れない者には、自分のすべてを否定される、恐ろしいメッセージだからです。

 聖書において、神の恵みが体系的に、論理的に述べられている個所は、ローマ人への手紙です。そこで、私たちはただ信仰によって、神の恵みによって義と認められることについて述べられています。けれども、その最初の部分は、人間がいかに罪深い者であるかが提示され、私たちは神の前に有罪判決を受けるのです、という結論が書かれています。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10−12)」けれども、神ご自身が、ひとり子をこの世に遣わすことによって、その有罪判決を赦免し、無罪にしてくださいます。そこには、人間が何か出きる余裕は一つも残されていません。ただそれを信じることのみです。神が一方的に無罪にしてくださるメッセージを、ただ受け入れることによって、私たちは正しい者、神の前でまったく罪を犯さなかった者として認められるのです。

 ですから、「自分はたしかに、罪人である。的外れな、自分中心の人生を歩んできた。」と思っている人には、とてつもない喜びなのです。ダビデが、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇321-2」と言った言葉を、自分のものとすることができます。ところが、自分には何か良いことができる、と思っている人、価値ある生き方をそれなりにしてきたと思っている人は、このメッセージが、自分自身をすべて否定するものとなっているのです。今までに行なった、自分が良いと思ってしてきたこと、自分が「これこそ生きがいだ。」と思ってしてきたこともみな、神の前には無意味なものとされます。それは、数キロメートルある壁を自分でよじ登れ、と言っているようなものなのです。そのため、信じないユダヤ人は、何とかしてパウロとバルナバの働きをやめさせようとしました。

 しかし、とても興味深いのは、3節の初めの言葉なのです。日本語の翻訳では、「それでも」となっていますが、これは正確ではありません。ギリシヤ語では、「したがって」という言葉が使われているのです。「信じようとしないユダヤ人たちが、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに悪意を抱かせた。したがって、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。」となっています。反対が出てきたので、さらに大胆に語ったというのです。パウロやバルナバは、このような反対が出てくることは、恵みの福音が伝わっていることであることを確認することができたのです。恵みの福音は、人間の存在そのものに触れてくる、核心的なメッセージであることをふたりはよく知っていました。さらに、ここには、「主が、しるしや不思議を行なわせてくださり、御恵みのことばの証明をされた。」とあります。このような反対の中にあって、彼らはひとりではなかったのです。主が、しるしと不思議をもって、彼らのメッセージが確かなものであることを人々にお示しになったのです。

2B 続く宣教旅行 4−7
 ところが、彼らがイコニオムを去らなければならないときが来ます。ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けた。彼らが去らなければならなかったのは、石打ちにあうかもしれなかったからです。これは、迫害を免れようとしたからではなく、まだなすべき任務が残されているからです。聖書は、「機会を十分に生かして用いなさい。(エペソ5:16)」と教えています。そして、彼らは別の地域で福音を宣べ伝えました。彼らの反対運動は、パウロたちの宣教を止めることはできませんでした。

2A 崇拝 8−18
 命の危険は取りとめましたが、次にパウロとバルナバは、ある意味で、もっと大きな危機に立たされます。

1B 奇跡の賜物 8−10
 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。

 
ルステラでありますが、ここは、さらに内陸に入った地であります。ローマ帝国の支配がそれほど行き届いていない地域です。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

 パウロはここで、3種類の聖霊の賜物を用いています。一つは、見分ける賜物です。この男の人にいやされる信仰があるのを見分けました。そして二つ目は、信仰の賜物です。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言いましたが、これには大きな信仰を要しますよね。そして、彼が飛び上がって歩きました。奇蹟の賜物です。このように、神のみわざが彼らをとおして現われました。

2B 人間宣言 11−18
1C ささげもの 11−13

 ところが、ルカオニアの人々はとんでもない行動に出ました。パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

 
ゼウスとヘルメスは、神話の中の人物です。二人がルカオニヤに人間のかたちをして現われたとき、ピレモンとその妻以外の人々は、二人が神々であることに気づかずに、彼らを卑しめました。そこで、ゼウスとヘルメスは、その町をのろった、という神話です。ヘルメスが、ゼウスの代弁人だったので、よく話すパウロがヘルメス、そして、バルナバがゼウスとなりました。

 この時点において、パウロとバルナバは何が起こっているのか把握できていません。なぜなら、彼らがギリシヤ語ではなく、現地のルカオニヤ語で話していたからです。けれども、次の出来事でようやく分かりました。すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。

 二人は、自分たちが神々として拝まれようとしていることに気づいたのです。そして、これが、二人にとっての大きな危機でした。ここで彼らは、「とりあえず、拝ませておいたら、私たちが語る福音も聞いてくれるだろう。」と思うこともできました。けれども、これはとても恐ろしいことです。足なえを直されたのは主ご自身であり、パウロではありません。それなのに、その栄光を自分たちのものとして奪ってしまうからです。使徒行伝12章で、ヘロデが神に栄光を帰さなかったので、天使によって打たれてしまったのをご存知でしょう。それほど、恐ろしいことなのです。

 人間は、とくに多神教の文化を持つ人々は、神に用いられる器をあがめて、それを拝んでしまう傾向を持っています。使徒の働き10章において、コルネリオがペテロの前にひれ伏してしまいましたが、そのように、神に用いられる人を引き上げてしまうのです。この日本においてもそうですね。私は、ある牧師が、お中元の時期になると、教会員たちからのお中元が自分の家に山になるという話しを聞いたことがあります。その人を用いてくださった神に感謝するのではなく、用いられた器に感謝してしまうのです。この点については、ユダヤ教もキリスト教も明確な線が引かれています。人と神との間には、何も連続しているものはありません。人は人であり、神は神なのです。神は、人の世界を超絶した、絶大なるお方です。そのため、イエスが、「父とわたしは一つです。」と言われたとき、ユダヤ人がイエスに石を投げつけようとした理由が分かります。ですから、神に用いられる人をあがめてはいけないし、また、用いられる人は、その賛辞を受け入れてはいけないのです。

2C 神の賜物 14−18
 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」

 
衣を裂いて、胸を見せて、自分たちも同じ肉体を持っている人間であることを示しました。ここで、神が、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった方」として説明されていますね。これは、覚えておくとよいでしょう。使徒たちが、ペテロとヨハネが脅しを受けたことを聞いて祈ったときも、「天と地と海とその中にあるそべてのものをお造りになった神よ。」と呼びかけました。

 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」


 ここでも、神が恵み深いお方であることが紹介されています。恵みとは、受けるに値しないものを受けることを言います。自分たちの働きかけはまったくなしで、神が一方的に私たちに行なってくださったことを言います。ここでは、雨が降ること、実りの季節を与えることは、人間には決してできないことです。偶像は、私たちに恵みを与えることはできません。必ず、私たちに仕えることを要求し、私たちの行ないを要求します。「これだけお経を唱えたら、これだけの益が出て来ます。」「お供え物をしなければ、罰が当たる。」けれども、私たちの神は、一方的に私たちに恵んでくださる方であり、私たちはその恵みを受けることによって、自発的に、喜んで、神に自分自身をささげるようになります。

 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。

 
こうして、ようやくふたりは、危機を脱することができました。

3A 石打ち 19−28

 そして、再びパウロは、大きな反対に出会います。今度は致命的と思われるような反対です。

1B 立ち上がり 19−20

 ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。

 
パウロは、不意をついた石打ちを免れることはできませんでした。ここで、「群集」とは誰だかご存知ですか。先ほど、パウロとバルナバを神々に担ぎ上げようとした連中です。神々にしようとしている者たちが、今度は石打ちに加わっています。おそらく、彼らが神々ではない、単なる人間であることに多少がっくりして、それで、ユダヤ人がふたたびそそのかして、逆に、とんでもない悪人であると決めつけたのでしょう。けれども、これが大衆の姿です。また、多神教を信じている人々の姿です。自分たちの神が自分の言うとおりにならないと、それを打っても、こわしても、殺しても構わないと思います。自分が中心なのです。自分の欲望を満たすための道具にしか過ぎなく、偶像を拝むことは、結局は自分を拝んでいるのです。

 ところで、パウロは死んだようになってしまいました。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

 
これはすごいことですね。けれども、クリスチャンは、この復活の力を日々、経験して生活するのです。パウロは言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(コリント第二
4:8-10」コリント人への第二の手紙は、この出来事の14年後に書かれたものと考えられています。12章で、パウロは、自分がパラダイスに行った経験を語っています。「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(コリント第二12:2-4」したがって、パウロは石に打たれたとき、実は、第三の天に引き上げられたという可能性があります。このように、神は、石打ちで殺されるような目にあっても、パウロを守ってくださり、そればかりかすばらしい啓示を与えてくださったことが分かります。私たちも同じです。人生のなかで、キリストにあって苦しまなければいけないときがあっても、それにまさる神の慰めをいただくことができます。

2B 勧め 21−24
 彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。

 パウロとバルナバは、デルベというところでは、とくに迫害を受けなかったようです。このデルベにおいて、後に出てくるテモテが信仰を持ちます。そして、なんと、パウロは今までの道を引き返しています。また迫害されるかもしれません。けれども、その危険を冒してまで引き返しているのは、パウロの心が信じた人たちにあったからです。彼らのところに行き、彼ら自身も経験したいやがやせや、迫害を耐えるように勧め、励ましました。私たちには、いつもこの励ましが必要です。勧めが必要です。私たち独りでは、決してクリスチャン生活を歩むことができません。他のクリスチャンがいて、その人を、祈りとみことばで励まし、勇気を与え、主とともに歩むことを促します。

 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

 
信じる者たちが出てきたら、すぐに教会形成を行ないました。信者は必ず教会が必要です。また、指導者である長老が必要です。

3B 報告 25−28
 ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。

 
彼らは、自分たちを遣わしたアンテオケの教会に戻ってきましたが、「神の恵みにゆだねられて」とありますね。彼らは恵みの福音を語りましたが、彼らの宣教そのものも神の恵みでした。

 そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。

 
報告をしています。これはとても大切なことですね。私たちは前回、教会が私たちにとって家であり、ここから外に出ていくのだ、遣わされるのだ、と言うことを話しました。そして、教会に戻ってくるときは、この「報告」が必要になります。神が自分ともに行なって下さったことを、他の人たちに分かち合うのです。このメッセージが終わって報告の時間がありますが、それは大切なときです。また、四方山話も良いですが、やはり、自分が神さまから何を教えられたか、励ましを受けたか、神さまが何をしてくださったかなどの、神がしてくださったことを分かち合って下さい。これが、アンテオケの教会が行なっていたことであり、私たちが模範とすべきことです。

 パウロとバルナバの宣教旅行と見ていると、それは迫害と苦しみの連続のように思われます。ですから、彼らに報告するときに、「私たちは、こんなひどい目にあったのだ。苦しかったのだ。」と言うことができたはずです。けれども、神がしてくださったことを語ることができました。私は、彼らが無理してこんなことを言ったのではないと思います。「私はクリスチャンだから、辛いことがたくさんあったけれども、明るくしていなければならない。元気でいなければならない。」とか、思わなかったでしょう。ほんとうに、神がこんなにもすばらしいことをしてくださった、異邦人を大ぜい救ってくださった、と思っていたのです。これが、私は、神の恵みの力ではないかと思います。私たちが神のために行なうことよりも、神が私たちのためにしてくださったこと、また、してくださっていることがキリスト教の中心です。聖書のテーマです。ですから、私たちの生活も、神が自分のためにしてくださったことに目を留めなければいけません。そのときに、さまざなな苦労があるかもしれません。パウロやバルナバのように、妨げがあるかもしれません。けれども、神の恵みは、そのような否定的要素を乗り越える祝福と喜びを提供してくれます。そして、事実、神のみわざが、あらゆる反対にあっても、確実に実現されていくのです。

 そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。

 長い宣教旅行を終え、彼らは良い意味で疲れたでしょう。彼らは、霊的にも肉体的にも休養を取りました。これも必要ですね。私たちは、主にあって一生懸命からだを動かすときもありますが、からだを休ませて、主をあおぎみるときも必要です。

 次週は、外側からの反対ではなく、内側から、つまり教会内の妨げの出来事を読んでいきます。


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